虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第10回 日常としての異世界・中二病 『AURA  魔竜院光牙最後の闘い』と『中二病でも恋がしたい!』(2)

About the Author: 古谷利裕

ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
Published On: 2016/10/26By

 
 

内的現実としての恋愛(性欲)

三つ目の恋愛(性欲)は、上記の二つとはまた異なる、いわば「内的な現実」と言えるでしょう。実家にいることがいたたまれなくなった六花は、サークルのメンバーを残して一人で帰宅しますが、彼女を心配した勇太がそれに付き合います。しかし六花は部屋の鍵を持って帰るのを忘れ、仕方なく勇太の家で勇太と一晩を過ごします。そこで、六花のなかの何かが目覚めてしまうのです。

それ以来、六花は勇太を目の前にすると「毛穴から血が噴き出す」ような感情に襲われ、冷静ではいられなくなります。それまでの六花は子供であり、勇太は同級生ですが、いわば優しいお兄さんに遊んでもらっているようなものだったと言えます。六花は、勇太が眠っていても平気で勇太の部屋に入り込んでいました(ロープで降りてくる)。しかし、もう、そのような関係には戻ることができません。六花は勇太を遠ざけるようになり、二人の関係はぎくしゃくします。誰にでも経験のあるありふれた事態ですが、避けがたい事態であり、リアルであり、深刻でもあります。

問題なのは、六花の六花による六花のための虚構世界の設定には、恋愛も性欲も書き込まれていないということです。彼女の独自ルールではこの事態に対応できないのです。そこで六花は、独自ルールの独自解釈を行い、勇太が管理局の本部(実家)を訪れた時に、敵によって、勇太の体に「邪極特異点」が埋め込まれたために「空間背離」が起り、自分の体がそれに反応してしまうのだ、と考えます。そして、早苗と協力し合って、勇太の体から「邪極特異点」を切り離そうと試みますが、当然、失敗します。六花にはもう、成す術がありません。恋愛(性欲)という現実は、六花自身の内部から湧き出て、六花による独自ルールを歪ませ、無効化してしまうのです。『中二病でも恋がしたい!』における「恋」とは、恋に恋する恋愛物語としての恋ではなく、ルール、あるいは設定を歪ませ、内側から破綻させるほどの、リアルな強い衝動のことだと言えるでしょう。

この事態を解決し、勇太との関係を回復するには、現実的に勇太とカップルになるしかありません。そして、このような場合には、公式ルールの人でもあるリア充の森夏の介入が有効であると期待されます。森夏は六花の症状を正しく「恋愛」であると診断し、六花に公式ルールにおける恋愛マニュアルを処方します。しかし、そのような付け焼刃の公式ルールは六花においては上手く作動しないでしょう。

(とはいえ、森夏による「診断」がなければ、六花はますます迷走したと考えられるので、公式ルールからの声が届くことは重要です。公式ルールは多くの人に共有され、歴史もあるので、独自ルールより広い知見が含まれていることが期待できます。)

この内的な現実に対して、この物語が与えた解決は、動物的なものであり、ありふれたものであるとも言えますが、おそらくそれが正解なのでしょう。屋根から落下しそうになる六花を勇太が下で受け止めるようにして助け、その流れで二人は抱きしめ合います。それによって二人は、互いに相手に対する感情(恋愛-性欲)を受け入れます。ヒロインが再度、上から降ってきたことになります。

では、ここでは独自ルールとしての虚構は無力なのでしょうか。しかし、互いに気持ちを受け入れあっただけではカップルとは言えず、カップル成立と存続のためにはいくつもの段取りが必要です。元中二病と現中二病のカップルには、この段取りの部分において独自ルールが運用されるでしょう。そして今後の二人の関係も、独自ルールを媒介として築かれると思われます。あるいは、勇太と六花との関係によって、独自ルールが書き換えられてゆくのでしょう。それは、公式ルールの恋愛マニュアルからみればかなり奇異なものになるはずです。

結び

人と人との関係が否応なく強いる力、世界の理としての死、そして、内側から湧き上がってくる感情や衝動、これらの事柄は「現実」として人に降りかかってきて、虚構の防御によって、これらを完全に避けることはできないでしょう。しかし、六花が、自分の独自ルールの体系には存在しない「内的な現実としての恋愛(性欲)」を受け入れることが可能だったのは、独自ルールが、独自(孤独)であるままに相互作用することができる、学校という遊戯的な空間の存在があったからであり、その空間に生まれたサークルのツギハギ的な関係性の作用があったからだと言えるでしょう。

遊戯それ自体は虚構であるとしても、それは現実的に作用するのです。だからこそ、孤独なルールが孤独なままでも存在し得る「遊戯が可能の場」が、現実として必要とされるのだと考えます。
 
 
この項、了。次回11月16日(水)更新予定。
 

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ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
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