虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第11回 量子論的な多宇宙感覚/『涼宮ハルヒの消失』『ゼーガペイン』『シュタインズゲート』(1)

About the Author: 古谷利裕

ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
Published On: 2016/11/16By

 
 

観測問題を解決する三つの道

観測問題の解決として、おおよそ3種類のものが考えられるといいます。(1)量子力学が、実在に関する理論として不十分であると認めること。(2)シュレーディンガー方程式によって得られる波動関数(量子の状態)は、「観測する」ことによって古典的な固有状態に収縮するのだ、という規則を(量子力学の体系の外から)一つ付け加える。(3)波動関数は決して収縮せず――つまり量子力学は完璧であり――収縮したように感じられる我々の経験(信念)の方が間違っている、と考える。

(もう一つ、デコヒーレンスによって観測問題は解決されたという見方もあるのですが、デコヒーレンスは、ただ干渉が急激に失われるだけで、純粋状態から混合状態への移行は説明できても、そこから固有状態への移行は説明できないとする意見が優勢であるようです。)

(1)については、例えばアインシュタインが、二人の物理学者と共著で1935年に発表した「EPR論証」と呼ばれる論文で、量子力学の不完全さを指摘しました。しかし残念なことにここでも、アインシュタインの方が間違っていたことが証明されています(ベルの不等式の破れ)。

(2)は、多くの物理学者によって受け入れられている最も一般的な解決だと言われます。実際、これを受け入れることで様々な事柄がうまく運ぶようです。しかし「観測による波束の収縮」は、量子力学そのものに根拠をもつものではなく、実践的な要請によって理論の外から、いわば恣意的に加えられた規則であることは忘れてはならないでしょう。

またここでは、「観測」という語の定義が曖昧です。観測とは、人がその意味を読み取ることなのか、機械が計測することなのか、または、ネズミが見ても波束は収縮するのか、などの問題が生じます。

量子力学の数学的な基礎づけを完成させたフォン・ノイマン自身も、観測対象、観測装置、観測者の境界の設定が恣意的であることを指摘しています。例えば水銀の温度を計測するという時、水銀が対象で、温度計が観測装置で、それを見る人が観測者だというのが常識的な区分です。しかしそれを、水銀と温度計までが対象で、光と網膜が観測装置で、網膜から先の人の認知過程を観測者とすることも可能です。さらには、水銀から網膜までを対象とし、脳を観測装置とし、その背後にいる抽象的な自我(コギト?)を観測者とすることも可能だというのです。もっと言えば、この宇宙全体が対象+観測装置で、その外にいる抽象的自我こそが観測者だという独我論さえも可能になるとまで言っています。

西川アサキは、この三つの区分に対し、「対象」のみを力学(つまり世界)の領域とし、「装置+観測者」を観測の側の領域とみなすか、あるいは「対象+観測装置」を力学(世界)とし、「観測」のみを観測の側とみなすかという二つの立場があり得ると指摘した上で、ある「脳の状態」こそが観測の対象であり、宇宙全体が脳を観測するための装置となって、それを抽象的な自我が観測しているという、反転的な独我論の立場もあり得ることを示唆しています。

このように、一見常識外れに思えるような、無茶な(面白い)境界の設定でも原理的には矛盾なく成り立つくらいに、観測対象、観測装置、観測者の区別は恣意的なものだといえるのです。
 

量子論的な多世界解釈

そして(3)です。量子力学は完璧であり、シュレーディンガー方程式は量子の状態変化を正確に予測するのですが、それが収縮したように感じている私たちの経験(信念)の方が間違っているのだ、と。これは、どういうことなのでしょうか。

ここから導かれるのが「多世界解釈」と呼ばれるものです。シュレーディンガーの猫でたとえると、生きているとも死んでいるともいえない状態から、観測によって、生きている、あるいは死んでいる、というどちらかの固有状態へと収縮するのではなく、観測を行った途端に、私が生きている猫を見る宇宙と、私が死んでいる猫を見る宇宙とが分岐するので、二つの宇宙の並立を考えれば、波動関数は収縮などしていないという主張です。つまり、たった一つの観測結果が得られる(たった一つの現実が存在する)という、私たちの信念が間違っていることになるのです。

エヴェレットは、観測の対象となる系だけでなく、観測装置や観測者まで含めた状態を考え、それらがすべて収縮せずに重なり合っているのではないかと考えたのでした。先に出てきた電子の状態で考えます。
 
  U : (1/√2|↑>+1/√2|↓>)|ready> ↦ 1/√2|↑>|up>+1/√2|↓>|down>
 
 まさにこの式をそのまま忠実に解釈して、宇宙は「|↑>|up>」が観測される宇宙と、「|↓>|down>」が観測される宇宙とに分岐し、二つの宇宙が重なり合っていると考えるのです。

しかし、量子の世界では、重ね合わせだけでなく、干渉という効果(|φ₁|*×|φ₂|+|φ₂|*×|φ₁|によって表現されるもの)があるはずですが、二つの宇宙の干渉はどうなっているのでしょう。ここで、先ほどちらっと触れたデコヒーレンスの理論が効いてきます。

デコヒーレンスとは、量子的な状態(純粋状態)から、環境との相互作用によって「干渉」が急激に失われることをいいます。干渉が失われることで、量子的な状態が古典的な状態(混合状態)に移行します。しかしここで失われるのは干渉のみで、重ね合わせは残っています。つまり、スピンが「|↑>|up>」になるのか「|↓>|down>」になるのかはデコヒーレンスによっては決定できません。なので、デコヒーレンスによって観測問題は解決されないのですが、そのことはかえって、多世界解釈に有利に働きます。多世界解釈ではまさに、干渉だけが失われて、重ね合わせは残ると主張されているのですから。

物理学者が「波動関数の収縮」を観測する度に、宇宙が分岐してゆく。この宇宙の出来事すべては量子的な過程とも言えるので、それはつまり、物理法則が許す限りで起こり得る可能性のすべてが、並行宇宙として実際に存在しているということになるのです。このような仮定はあまりに常識外れで現実味がないようにも思われます。実際、この考えは多くの物理学者に受け容れられているとはいえないのが現状のようです。エヴェレットの多世界解釈は、発表当時もまったく受け入れられませんでしたが、後にドウィットという研究者によってひろく知られるようになります。ドウィットは、ある日エヴェレットに「この理論で展開されている数学は好きだけど、自分が並行バージョンの自分に分裂しつづけているようには、直観として感じられない」と言ったそうです。するとエヴェレットは、「あなたは自分が太陽のまわりを秒速30キロメートルでまわっていると直感で感じられますか」と答えたといいます。アインシュタインが、自分の信念として受け入れられなかったブラックホールの存在を認めないわけにはいかないのと同様、私たちも多宇宙の存在を認めざるを得なくなるのでしょうか。

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ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
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