虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第13回 量子論的な多宇宙感覚/『涼宮ハルヒの消失』『ゼーガペイン』『シュタインズゲート』(3)

About the Author: 古谷利裕

ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
Published On: 2016/12/28By

 

【単行本のご案内~本連載が単行本になりました~】

 
現実は変えられないという「現実主義」に抗するためにフィクションは意味をもち得るか、SFアニメで考える骨太フィクション論。
 
科学、技術の急速な発展をうけて、現実主義者は、フィクションは意味がないしくだらない、あるいは、無責任で害悪でさえあるという。それに対し、そのような態度こそがわたしたちの現実を堅く貧しくしているのだと反論することはできるのだろうか。名作SFアニメを題材に、フィクション、現実、技術について、深く検討する。本連載を大幅修正加筆し、2018年12月末刊行。
 

【ネット書店で見る】
 
 

 古谷利裕 著
 『虚構世界はなぜ必要か?
 SFアニメ「超」考察』

 四六版判上製・304頁 本体価格2600円(税込2808円)
 ISBN:978-4-326-85196-6 →[書誌情報]

 
 

『ゼーガペイン』

『涼宮ハルヒの消失』は、世界Aと世界Bのどちらを「現実」として選択するのかを決断せよ、という物語でした。しかしその時、決断するということが一体どういうことなのかよくわからなくなります。物事の因果的な連鎖に対して、何かしらの意志をもってそれを変更しようとしたとします。しかしそもそも、何かを変えようとする意志そのものの発生が、変えようのない因果によって既に決まっていたとも考えられるのです。3年後に誤った判断(誤作動)をしてしまうと事前に知っている長門有紀は、それを知っていても、やはり3年後には誤った判断を下すのです。世界が、あらゆる物事の単線的な因果の連鎖であるならば「わたしの意志」だけがそれから自由だといえる根拠はありません。

『ゼーガペイン』でスクールカウンセラーのミズサワは、胡蝶の夢を例に挙げて、わたしが蝶になった夢をみているのでも、蝶がわたしになった夢をみているのでも、どちらでも好きな方を現実とすればよいのだと言います(第5話)。ただし、どちらか一方が現実ならば他方は必ず夢なのだ、と。ここでもまた、現実は一つであり、どちらかを選択しろという話が始まるのでしょうか。しかし『ゼーガペイン』はそのような物語ではありません。主人公のソゴルキョウには選択の余地が(ほとんど)ないのです。

『ゼーガペイン』は、主人公のキョウにとって、世界の底が何度も抜けるという物語です。何かを決断し、それに基づいて行動するという能動性を発揮するための基盤となる、あるいは、日々の暮らしを成立させ、そこで生起する感覚や感情や愛情に実質を与えるための基盤となるはずの、世界の枠組みそのものが、何度も崩れてしまうのです。その度に、世界観が崩壊し、実が虚になり、世界への信が失われます。何が現実で何がそうでないのか、何が本当で何か嘘なのかは、キョウの選択によってではなく、世界の枠組みの崩れにより虚実の軸が移動することで決定します。そしてそれは、一度だけではなく、何度も起こるのです。

(たとえばアインシュタインにおいて、彼の理論――一般相対性理論によってブラックホールの存在が予測される――と、彼のもつ宇宙への信念――ブラックホールなど存在するはずがない――という排他的な二者択一があったとして、どちらが「現実」であるのかを決めるのは天才であるアインシュタインでも、時の権力者でも政治でもなく、この宇宙自身であり、その観測結果でしょう。そしてその結果として、アインシュタインの現実への信念=世界観は崩れたのでした。)
 

世界の底の崩れ

物語は日常的な高校生活からはじまります。水泳部員であるキョウは、中学時代のある事件により仲間たちとは険悪な関係になっており、そのため部員は彼一人だけで、水泳部は存亡の危機にあります。キョウは、水泳部を復活させるために必死で活動するのと同時に、幼なじみのカミナギリョーコの作る映画に協力したりもしています。そんな学園生活のなかで謎の美少女シズノと出会い、彼女に導かれて、廃墟となった地球を舞台にロボットに乗って戦うMORPGのような非常にリアルなシミュレーションゲームの世界に入り込むのです。

そしてここで、最初の世界の足下の崩れが起こります。まずは単純な虚実反転ですが、リアルだと思っていた高校生活こそがシミュレートされた世界で、廃墟となった地球と戦争の方こそがリアルだったのです。しかし事はそれだけでは済みません。人類は既に絶滅していて、生きているように見えているのは自分も含めてすべて量子コンピュータに保存されている人間のデータに過ぎないというのです。ここでは虚と実だけでなく、生と死も反転してしまいます。生きていると思っていたのに実はみんな幽霊だったのです。「実はわたしは既に死んでいた」と知る、というのはどういう気持ちでしょうか。ここで、今まで現実と思っていた世界だけでなく、痛みを感じ、血を流すこのわたしの身体も幻だった、ということになります。そして人類は、滅亡して幽霊になった後もまだ戦争をつづけているのです。

しかし、データでありシミュレーションであるとはいえ、一方には平和な日常が確保されているのだし、そこでは人が生きていると言えます。データであったとしても、一人ひとりは、感情もあり、痛みも喜びも感じている人間にしか見えません。そうであれば、このシミュレーション世界こそが、実質的には人々が生きている現実だと見なすことも可能ではないかという一応の納得を、キョウが得ることもできるでしょう。

ところがここにもまた崩れがやってきます。彼らを保存し、そのデータをシミュレーション世界とともに走らせている量子コンピュータの記憶容量や計算量は無限ではないため、シミュレーション世界の時間的な進展には限りがあるというのです。このシミュレーション世界では、4月から8月までという同じ5ヶ月が延々と何度もループされています。8月31日が終わると、人々の記憶はリセットされ、4月1日に戻るのです。ただ、リアル世界で戦争をしている「目覚めた者」たちは記憶がリセットされないので、彼らは日常世界ではまったく同じ5ヶ月を何度も経験しつづけることになります。

そこには空間的な限定もあって、シミュレーション世界の住人は市外へと出ることもできません。登場人物の一人であるシズノは、将来は映画監督になりたいというリョーコに、「世界には今とここしかない」と言います。キョウは、中学時代の事件(シミュレーション世界には4月以前の過去もないので、それは人類絶滅前の出来事の記憶でしょう)で険悪になってしまった友人たちと、5ヶ月かけて少しずつ関係を修復し、8月31日に元通りの仲に戻り、水泳部の存続が決まるのですが、その次の日は来ないので、また最初からやり直しです。担任教師のクラシゲは、カウンセラーのミズサワと仲良くなり、結婚の約束にまでこぎ着けますが、それもまたやり直しです。

やり直しといっても、別の結果がでることは望めません。キョウと友人たちとの仲が険悪なままでいることや、クラシゲとミズサワが結婚の約束をしないことは、可能ではありません。シミュレーション世界の人々は、細かい違いはあるとしても、基本的にあらかじめ決まっている出来事のなかで、あらかじめ決まっている感情や実感を繰り返し発生させるのです。シミュレーション世界では歴史が積み重なることもなく未来もなく、今とここしかないのですが、それだけでなく、別である可能性がそもそもないのです。このような空虚な上演であっても、それをもって「生きている」と言えるでしょうか。

(唯一可能な「別である」可能性は目覚めること――現実の軸足を移動させること――ですが、目覚めた後には荒廃と戦争という現実がやってきます。)
 

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About the Author: 古谷利裕

ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
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