「このわたし」の崩れ
この物語では、世界の底の崩れは、間を置いて何度もやってきます。ある世界観が崩れて別の世界が「現実」として現れることでキョウはショックを受けます。そして、ショックからようやく立ち直りかけると、次の崩れがやってくるのです。客観的な世界が崩れ(高校生活が崩れて、廃墟となった世界と戦争が取って代わり)、世界と触れ合う「このわたしの身体」が崩れ(物理的な生身の身体が崩れて、幻=データの身体が取って代わり)、未来と可能性が崩れ(水泳部の友人たちとの未来や可能性が崩れ、戦争による未来と可能性が取って代わり)、というふうに、現実の位置が次々にずれていくのです。
とはいえ、世界の底が次々と崩れたとしても、その崩れを受け止めている、ソゴルキョウの「わたし」は一貫しています。そもそも「わたし」が不連続であれば(世界が崩れる度にあらたな「わたし」が立ち上がるのであれば)、現実の位置が移動したことのギャップに悩む必要がなくなります。しかし、その「わたし」という基盤にも内側から崩れがやってきます。
実はキョウは、既に一度戦士として目覚めており、リアル世界で戦闘を行っていたという過去があるのですが、負傷によってデータが破損し、その時の記憶を失っていたのです。そしてキョウは、データ破損の影響で少なからず性格も変わっているようです。つまりキョウは、前のキョウとは別のキョウとして新たに生まれ、別のキョウとして(リアル世界の)仲間たちと関係し直し、別のキョウとして戦闘を経験し直し、前のキョウとは別の戦士になっているのです。ここで、前のキョウがより(人類滅亡前の)オリジナルに近いデータであったとすれば、データ破損による新たな性格は、オリジナルから遠くなった劣化バージョンとも言えてしまいます。
つまりキョウにとっては「このわたし」さえも本当のわたしではなくなり、「オリジナルのわたし」の位置を、以前の(既に失われた)自分に譲らなくてはならなくなるのです。キョウの「わたし」は、あらかじめ偽物として生まれた「わたし」なのです。
(「現実」に関しては、あらたに現れる世界が上位になるのですが、「わたし」に関しては、古い方が上位ということになるでしょう。)
準-多重化される世界
カウンセラーのミズサワが言うとおり、現実は排他的であり、常に一つです。荒廃した地球が現実として現れた以上、学園生活は現実ではあり得なくなり、データとしての身体が現実として現れた以上、生身の身体(をもっているという感覚)は現実ではあり得なくなります。その世界に住む人物には、そのどちらが現実であるのかを選択する権利はありません。かつて現実であったものがとつぜん崩れて、その割れた底から現れた別の世界が現実となるのです。これを拒否することはできません。この「現実という地位の移行」という出来事こそを「現実」と呼ぶべきでしょうか。
しかし、学園生活が現実ではなくなるのは、荒廃した世界が現れた後であって、それ以前は学園生活こそが現実でした。事後から振り返れば、そこには「現実ではないという徴」があったと指摘できます。たとえば『ゼーガペイン』を二度目以降に観る観客は、市街地にやけに人が少なく、がらんとしていることがあるという印象をもち、その理由を量子サーバの容量のためだと考えるでしょう。この不自然さは、物語の先でキョウが受けることになるショックの徴候として、作品世界に不穏さを漂わせもします。しかし、そこを現実(現在)として生きる人にとってそれは徴候ではなく「今日はやけに人が少ない」というただの事実です。
荒廃した地球での戦闘を経験し、それを現実と知ったキョウには、学園生活をそれ以前のようにリアルに感じることはできないでしょう。まして、あらたなキョウとして再び目覚め直した彼にとっては、そこは同じ5ヶ月の繰り返しの場になるので、なおさらでしょう。しかし記憶の連続性――データ破損前のキョウとの連続性ではなく、人類滅亡前との連続性――があるので、そこを「かつて現実として生きた場所」として認めるでしょう。既にそうではないとしても、かつてはそここそがリアルだった。そしてそこには、かつての自分同様に、そここそをリアルとして生きている友人たちが今もいる。そうであれば、自分にとってはリアルでなくなってしまったとしても、そこを、人格データ保存のために空虚な上演が繰り返されるだけの仮想空間、と割り切ることもできないのではないでしょうか。
荒廃した、戦争が行われている地球を、より優先的で強い現実だとすると、学園生活はたんなる仮想(虚)ではなく、それに対して劣位にある、より弱い二次的な現実だ、というくらいのことは言えるのではないでしょうか。学園生活が行われている世界は、一次的な現実世界のなかに量子コンピュータが存在し、それが正常に稼働しているという条件に依存する二次的なものですが、それは『涼宮ハルヒの消失』で、世界が回復されることで消えてしまう改変世界とは異なり、一次的な現実と並行して(存在しているとは言えないとしても、少なくとも)現象している二次的な現実とは言えるのではないでしょうか。
『ゼーガペイン』という物語において、「現実という地位」の崩壊と移行こそが最も強い「現実」だと言えますが、その「現実」は、あらたに現実として現れた世界と、現実の地位を失ったかつて現実だった世界とに、世界を切り分け、多層化してゆくという作用をもつと言えます。そして同時に、現時点で一次的な現実とされる基盤もまた、場合によっては崩れ、別の現実に取って代わられて二次化することがあり得るという、一次的現実の相対化をも生じさせるでしょう。つまり、現実は排他的で常に一つであるという条件と、その現実の地位が別の層へと移動し得るという条件が二つ合わさることによって、現実が一つであるままに世界が多重化(準-多重化)するのです。
ここで準-多重化された世界は、他の二次的世界より包括的である唯一の一次的現実(と、現時点ではされているもの)を基底とすることでつながっているので、『涼宮ハルヒの消失』の世界(改変前の世界)と『長門有紀ちゃんの消失』の世界(改変世界)が、それぞれ自律的に閉じている(隔絶している)のとは違って、互いに行き来が可能になります。