現実は変えられないという「現実主義」に抗するためにフィクションは意味をもち得るか、SFアニメで考える骨太フィクション論。
科学、技術の急速な発展をうけて、現実主義者は、フィクションは意味がないしくだらない、あるいは、無責任で害悪でさえあるという。それに対し、そのような態度こそがわたしたちの現実を堅く貧しくしているのだと反論することはできるのだろうか。名作SFアニメを題材に、フィクション、現実、技術について、深く検討する。本連載を大幅修正加筆し、2018年12月末刊行。
【ネット書店で見る】
古谷利裕 著
『虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察』
四六版判上製・304頁 本体価格2600円(税込2808円)
ISBN:978-4-326-85196-6 →[書誌情報]
フル・フロンタルの構想
『ガンダムUC』は、社会を変えるための根拠となり力となり得る「ラプラスの箱」が、バナージとフル・フロンタルのどちらに託されるのかを問う物語だと言えます。物語は当初、ラプラスの箱を隠匿して現体制を維持しようとする地球連邦政府と、ラプラスの箱を盾に地球の一元的支配から脱しようとするネオ・ジオン残党(フル・フロンタル)という対立する二つの陣営が、箱への「鍵」であるガンダムとバナージを取り合うという形で進行します。バナージ自身には思想もビジョンもなく、彼の行動の動機はただ、たまたま出会ったミネバというお姫様を助けたいということだけでした。そしてミネバにもまた、戦争を回避したいという以外の具体的なビジョンがあるわけではないのです。そして、ミネバの望みは叶わず戦争は勃発してしまい、彼女は地球側の人質になります。
しかし、もう一方のフル・フロンタルには明確な思想があり、ビジョンがあります。そしてそれは、『逆襲のシャア』のシャアのような、極端で受け入れ難いものでしはありません。それは充分に現実的であり、正当性もあると言えるものです。政治的にも経済的にも、多数のスペースコロニーを従属的に一元支配する地球に対して、スペースコロニー間で地球を締め出した形で緊密な経済協定を結ぶことで、地球から中心としての意味をなくし、主従逆転を起こしてしまおうというのです。そして、シャアの再来といわれるフル・フロンタルには、それを実現するのに十分な政治的力量やカリスマがあると言えるでしょう。自分は万人の総意の「器」でしかないという彼ならば、ザビ家のような独裁政権をつくる危険も低いでしょう。
常識的に考えれば、「地球側の利益」以外にフル・フロンタルに反対する理由はみつかりません。しかし、元々フル・フロンタルの側にいるはずのミネバは、彼の構想に対して、「聞いてしまえばつまらぬ話だ」とにべもありません。ミネバ自身にこれといった具体的ビジョンがないことを考えれば、この言い方はあまりに一方的だと思われます。ここでミネバがフル・フロンタルの構想に冷淡なのは、その構想が「人類の革新を夢みたジオン・ダイクンの理想」からも、「地球環境を破壊してまで人類を宇宙に上げようとしたシャアの狂気」からも遠いものだという理由からです。つまり「人間は変わらない」「社会は変わらない」ということを前提とした主従逆転でしかないからです。しかし、ジオンの理想も、シャアの狂気も、現実的には叶わなかったからこそ、その結果を受けてフル・フロンタルの構想があるのではないでしょうか。このまま硬直した体制がつづくよりも、彼の構想は少なくとも虐げられた側にとっては生きる希望となり得るものではないでしょうか。
人間は変わり得る、社会は変わり得る、という希望の側に立つミネバに対して、フル・フロンタルは「全人類を生かしつづけるため」にはそうするしかないのだと応えます。良い悪いではなく、そうでしかないからそうなのだ、と。バナージが、自分が見たサイコフレームが発する光(ガンダム・シリーズにおける可能性の象徴のようなもの)を根拠に可能性を信じたいと主張するのに対し、フル・フロンタルは、自分はそれよりもっと大きな光を見たことがあると言い、しかし、それだけ巨大な可能性を見せられても人は変わらなかったと言います。経験の量や質という意味でも、若いミネバやバナージはフル・フロンタルに遠く及ばないのです。
「人間は変わらない」という前提を認めた上で、変わらないままでも可能である形で平和と安定を模索するしかない、変わり得るという「可能性」は大きな争いを引き起こす毒にもなり得るのだと、フル・フロンタルは言います。フル・フロンタルは、現時点では反体制の側にいますが、彼の思想は前回にみた体制内アウトローと同型のものだと言えます。いや、体制内革命家と言った方がいいかもしれません。彼の革命は、現体制を変える構造の変化ではなく、現体制で可能な大規模改革(反転)だと考えられます。そして、冷静に考えれば、おそらく彼は正しいのです。バナージとミネバは彼の正しさに対し、「それでも……」と言うしかありません。そしてこの「それでも……」には根拠がありません。
ニュータイプ=新しい世代
『ガンダムUC』では、最終的にラプラスの箱はバナージとミネバに託されることになります。彼らの「それでも……」に根拠があるとしたら、物語のなかで彼らがニュータイプであると設定されているからという点しかないでしょう。ニュータイプとは進化した人間ですが、具体的に何がどう新しいのかは充分に規定されていません。しかし、「新しさ」というのは、今ここにはないものが次の時間に存在するようになるということです。ならば、今ここの時点で、何がどう新しいのかを言うことはできないのも仕方がないとも言えます。フル・フロンタルの構想は、現状で考える限り最善であるかもしれません。しかし、もし、この世界に根本的に新しい何かが生まれたとしたら、その限りではないかもしれません。実際、バナージは、それを目指していたわけではないにもかかわらず、地球対ネオ・ジオンという構図ではない「別のゲーム」を、別の状況を新たに作り出しました。彼に事前のビジョンはなく、迷いながらただ「それでも……」と言い続けていただけなのに、それは生まれたのです。
つまり、ニュータイプとは新しい世代のことだと考えていいかもしれません。フル・フロンタルは、経験も実力もビジョンも、あらゆる点でバナージとミネバよりも優れています。しかしそれは、現状においてそうだ、ということです。フル・フロンタルは、シャアの再来であり、シャアのシミュレーションである、シャアから継続する何者かです。つまり彼は、既に現状を形作るもの、体制を形作るものの一部であると言えます。彼は既得権をもつ者であり、そうである限り体制内革命家であるしかないでしょう。現状を知り尽くしているからこそ、そうであるしかないのです。しかし、バナージとミネバは、未だ何者でもありません。バナージは、自らの意思ではなく状況に巻込まれた、未だに状況さえ充分には呑み込めていない者です。しかしそれは、状況の側からみても、彼が状況にどのような影響を与えるのか未知数である何かだということを意味します。新参者であるからこそ、状況に加えられた新しいピースであるからこそ、状況を変える新しい何かであり得るということです。
このことは、もし仮に「新しい可能性」があるとしたら、それはフル・フロンタルにではなく、バナージとミネバの方にあるだろう、ということを示すだけで、新しい可能性がバナージとミネバにあるということではありません。新しい可能性が本当にあるのかどうかは誰にも分かりません。それでも、この物語はバナージとミネバに託す方に賭けるのです。