虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第16回 「社会を変える」というフィクション/『逆襲のシャア』『ガンダムUC(ユニコーン)』『ガッチャマンクラウズ』(2)

About the Author: 古谷利裕

ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
Published On: 2017/3/1By

 
 

もう、ぼくらだけじゃどうしようもないっすよ

かつてのルイは、社会を良いものにするために、意識の高い人に限ってクラウズの使用を認めました。しかしこれは、彼が否定するヒーローとあまり変わりがありません。ベルク・カッツェが、世界を破壊するために特にヤバい人だけを選んでクラウズを使用させようとしたことの「逆」でしかありません。

クラウズは、ガンダムがそうであったのと同様に、それ自体では良いものでも悪いものでもありません。ただ、それを使う人の能動性を増加させるものです。『ガッチャマン クラウズ』は、ガンダムから希少性を剥奪するのです。すべての人に無条件でクラウズの使用を許可するということは、誰でもがガッチャマンにもなれるし、ベルク・カッツェにもなれるということです。もちろん、何もしないことも可能です。そして、クラウズのスペックはどれも等しいので、すべての人に等しい能動性が与えられるということになります。体が弱かろうと、どこに住んでいようと、何歳であろうと、関係ありません。匿名的な装置なので、浮世のしがらみからも自由です。

(もちろん、個別的で固定的で顕名的な、本来の生活――顔も名前も、職業もしがらみもある「わたし」――が一方にあった上で、それとは別のもう一つの社会的な能動性として、匿名的で均質なクラウズがあるわけです。)

選ばれた誰かではなく、すべての人の能動性を等しく増強することで、破壊は抑制され、悪意は相殺され、混乱は収束する。このような筋立てや終幕はあまりに楽天的すぎるし、性善説に傾きすぎているのかもしれません(実際、『ガッチャマン クラウズ』にはツッコミどころが多く存在するでしょう)。しかし、立川の混乱のなかで思想家であるはじめは言います。「もう、ぼくらだけじゃどうしようもないっすよ」、と。群れとして起こる祭りや、群れとして起こる破壊の連鎖に抗することができるのは、特別な力をもったヒーロー(リーダー)ではなく、群れのなかから生じるそれとは別の力しかないのではないか、ということです。だからもう「みんな」に預けるしかない。クラウズは、固定化された関係性や一部に集中する権力をいったんキャンセルして、能動力を等しく分配し直す装置と言えます。

(ここでも、一方に、政府や警察、自衛隊やガッチャマンという、安定的で固定した制度――一種の安全装置――があった上で、もう一方に群れとしての流動性が解放されるクラウズの可能性がある、ということです。固定的、安定的、顕名的、中枢的、階層的な国家的制度と、流動的、匿名的、分散的、均質的なネットワーク的能動性との並立が、『ガッチャマン クラウズ』の示すビジョンの新しさの一つでしょう。国家的制度とネットワーク的能動性の間には、主従関係や優劣があるのではなく、その都度、その都度での、両者のアレンジメントがあるということです。これは、一方でヒーローを否定しつつ、他方でハンドレッドを組織するルイの現実主義的な二枚舌とは異なり、二重性がすべての人々に対して可視化されています。)

ここでは、統制するのではなく、クラウズの無条件配布によって能動性を再分配し、群れとしての流動性を高めることで、群れとしての「みんな」の判断――「群れ」という計算機――は、そんなに悪くはない方向の解を導き出すようになるのではないか、と、信じることは可能なのか、という問いが問われているのです。ここには、サイコフレームの発光よりは幾分かは具体化された形で「別の可能性」が示されているのではないでしょうか。

(これは、事前にいくつかの選択肢や理念や立場があった上での「投票」や「多数決」「動員争い」のような、従来からある単純に加算的なシステムではありません。バナージが、地球対ジオンという既成の構図から「別のゲーム」を引き出したように、それぞれの個が実践する能動力たちが、どのように相互作用を起こし、組み合わせられたり分岐したり、共鳴を起こしたり反発を生んだり、伝播したりしなかったりするのかという過程や、そのなかからどんなものが生まれてくるのかは、単純な計算のようには予測可能なことではないでしょう。)

ここでも、「みんな」に託すことが良いことだと言い切る根拠はありません。しかし、「ぼくらだけ」ではどうしようもなくなってしまったとしたら、託すことができるのは、あとは「みんな」くらいしかないのではないでしょうか。物語の最後で、はじめは、ベルク・カッツェを取り込んでカッツェと一体化します。これは、カッツェのような存在まで含めた「みんな」に未来を託すのだということでしょう。「みんな」に託しても駄目だった場合は、人間は駄目だったということになります。思想家、革命家であるはじめやルイの仕事は、「みんな」の力をもっともよく引き出すための仕組み(プロトコル)を見出すことになるのではないでしょうか。このビジョンが示されたからこそ、「クラウズよりももっと良いアプリがあり得るのではないか」と考えることができるのです。人や社会が変わり得るかどうかは、その仕組みの創造(発見)の如何にかかっているように思われます。
 
この項、了。次回3月22日(水)更新予定。

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ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
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