虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 連載・読み物

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第17回 フィクションのなかの現実/『マイマイ新子と千年の魔法』『この世界の片隅に』(1)

3月 22日, 2017 古谷利裕

 

【単行本のご案内~本連載が単行本になりました~】

 
現実は変えられないという「現実主義」に抗するためにフィクションは意味をもち得るか、SFアニメで考える骨太フィクション論。
 
科学、技術の急速な発展をうけて、現実主義者は、フィクションは意味がないしくだらない、あるいは、無責任で害悪でさえあるという。それに対し、そのような態度こそがわたしたちの現実を堅く貧しくしているのだと反論することはできるのだろうか。名作SFアニメを題材に、フィクション、現実、技術について、深く検討する。本連載を大幅修正加筆し、2018年12月末刊行。
 

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 古谷利裕 著
 『虚構世界はなぜ必要か?
 SFアニメ「超」考察』

 四六版判上製・304頁 本体価格2600円(税込2808円)
 ISBN:978-4-326-85196-6 →[書誌情報]

 
 

徹底した再現へのこだわりと、フィクションであること

今回は、SFから少し離れたところからフィクションについて考えたいと思います。片渕須直監督による『この世界の片隅に』は、細部にわたって徹底的に資料を調べ、史実に忠実につくられていることが知られています。一つ例を挙げてみましょう。広島市の江波にある実家から呉市の上長ノ木にある周作の家へと嫁いだその日の夜、海を見下ろせる庭に出た主人公のすずが、夜の海を明るく照らすサーチライトの光を見てその美しさに魅了されるという場面があります。そしてその後、鎧戸を閉める時、海上に二隻の小さな船を見ます。ほとんど気づく人がいないくらいの短い描写ですが、この船について監督の片渕須直は、細馬宏通とのトークセッションで次のように語っています。
 
《あれは大阪汽船のこがね丸とに志き丸という船があって……》《それを海軍が徴用してて、あの日は呉鎮守府の司令長官が乗って大竹に行ってるんですよ。で、あれは司令長官、中将座乗の船なんですね》《……そのためにこがね丸の本を買うわけですよ(笑)。要するにあれは軍艦にあんまり見えないような船がグレーに塗られて奥に走ってるんですね。》(「この世界の片隅に」の、そのまた片隅に 後編)
 
物語の流れにはほぼ無関係な、ほんの短い時間、画面の片隅を通過するだけの小さな船でさえ、資料にあたって調べられた、実際にその時、その場所を通った船の再現である、と。この逸話は、この作品における当時の再現へのこだわりが、史実に忠実というレベルをはるかに逸脱したものであることをよく表していると思います。しかし、『この世界の片隅に』という作品は、ドキュメンタリーでも実話でもなく、まぎれもなくフィクションです。もし、完全に当時を再現したいのなら、そこに主人公のすずは存在してはいけないはずです。フィクションであるということはつまり、再現された背景のなかに、その背景によって、すずという実在していなかった人物がたちあがっているということです。

同じトークセッションから、片渕監督の発言をもう一つ引用してみます。物語も終盤に差し掛かる頃、すずと、義姉の娘である晴美の二人が、義父のお見舞いのために訪れた海軍病院の近くで帰りに空襲にあいます。そこで、海軍病院から坂を登ったところにある宮原という地区の防空壕へ避難します。
 
《ただ、あそこへ登っていく道が当時はないんですよね。下の青山の海軍病院とか軍法会議所から宮原へ登る道。今はあるんですけど当時はなくて。だからそこだけはしかたなくウソついてるんですよ。》
 
そもそもフィクションであるはずの『この世界の片隅に』という作品について、《しかたなくウソをついてる》という言い方をすることの不思議さを噛み締めましょう。海軍病院のある呉市の青山から、高台である宮原へと登ってゆく道が、今はあるが、当時はなかった。このことは、すずがもし実在の人物であれば、宮原四丁目の防空壕へは入らなかった、ということを意味するでしょう。すずが宮原四丁目にある防空壕に避難するという出来事は、この物語(フィクション)が、あるいはすずという人物が、宮原へと登っていく道がつくられた後につくられたものであることによって可能になるのです。言い換えれば、「昭和20年に宮原へと登っていく道が存在する」という《ウソ》が、物語が語られる現在と、物語によって再現される昭和20年当時という、異なる二つの時間を繋いでいるということでもあります。

この作品がしていることは何なのでしょうか。フィクションを生き生きと立ち上げるために、出来る限りの史実が参照される必要がある、ということなのでしょうか、それとも、史実を生き生きと再現するための媒介として、フィクションという形式が必要である、ということなのでしょうか。
 

空想される千年前の少女

片渕監督の前作である『マイマイ新子と千年の魔法』の主人公の新子は、空想好きの少女として描かれています。学校に遅刻しそうになって急いでいる時など、春になると野山を駆け回るようになるという(新子が考えた)架空の「緑の小次郎」を思い浮かべ、それと競争していると考えることで、走ることの苦を和らげたりします。彼女のまわりには見えない存在がたくさんいるようです。

時代は戦後10年、新子が住むのは、律令制による国府(地方行政機関)が置かれていた山口県防府市の周防国衙跡の付近です。どこまでも広がる麦畑のなかにある、きちんと区画整理された道や直角に曲がる小川は、千年前のここに都(国府)があったことの証しだと祖父から聞かされている新子は、いま、目の前にひろがっている風景に、千年前の都の情景を重ね合わせて想像します。また、一面の麦畑を「海」と見立てて、麦畑のなかにぽつんとある自分の家を、海をすすんでゆく船として想像したりします。この想像は、防府に国府があった千年前には、国府域のすぐ南方に瀬戸内海の海岸線があったという事実と対応してもいます。新子はこのことも祖父から聞いて知っているのでしょう。

このような一連の空想のなかで、新子は自分と同じくらいの年齢の、千年前の一人の少女のことを思います。彼女は京の都から、父が周防の国の守に就任することによって周防にやってきたようです(知らない土地に連れてこられる女性というモチーフは、『この世界の片隅に』にも受け継がれています)。しかし、彼女の遊び相手になると想定されていた同じ年頃の豪族の娘は、彼女が到着するより前に何かしらの原因で亡くなってしまっていたらしく、彼女は知らない土地で遊び相手もなく、屋敷のなかで一人ぼっちです。このような空想は、東京からやってきた垢抜けた転校生、貴伊子の存在と、彼女がクラスになかなか溶け込めないという事実を多分に反映しているようにもみえます。千年前の空想の姫は、土塀や駕籠の上を花で飾るなど、みやびなものを周防の都にもたらしますが、これも、貴伊子がもたらす、香水の香りや26色もあるきれいな色鉛筆、ガス式冷蔵庫などの、新しく都会的なものの反映だとも言えます。

このように、新子の空想は史実や事実を土台とし、それを足掛かりとしてひろがってゆきます。しかしこの作品は、それを新子の頭のなかにだけあるたんなる空想として描くのではなく、新子が実際に空想した範囲を超えた広がりと、子供の空想とは思えない詳細な細部をもつ、確固とした一つの世界として提示しています。千年前の世界は、新子の空想によってつくり出されたというより、自律して実在していて、頭のなかに生じた何らかの通路によって、新子が千年前の世界を直接見ているとでもいうかのように描かれます。転校生である貴伊子の存在が新子の空想を刺激して、千年前の空想の姫がつくりだされたというより、貴伊子の境遇と千年前の姫の境遇とが、周防という共通の土地においてシンクロすることが、新子の頭のなかに二つの世界の通路を作り出させた、とでもいう感じでしょうか。

実際、この通路は、新子の頭のなかにだけに開かれるのではなく、作品の終盤には貴伊子にも開かれ、貴伊子は夢のなかで千年前の姫と入れ替わって、姫の住む世界を直接経験することになります。

(この作品の千年前の少女は、父である元輔の周防守赴任に際し同行した幼い日の清少納言がモデルになっています。しかし、その世界を空想する新子は、清少納言や彼女にまつわる史実を知ってはいません。新子は、清少納言について空想しているのではなく、彼女の空想する――というか、ほとんど幻視と言えますが――千年前の少女が、なぜか清少納言にまつわる史実とぴったり一致してしまうのです。だから、この少女を清少納言だと言ってしまってよいとは思えません。新子が、「清少納言とぴったり一致してしまう少女」を空想しているともとれるし、新子が、清少納言のことを、清少納言と知らないで幻視している、ととることもできます。どちらにしても、新子にとって少女は千年前の姫であって、清少納言と意識されてはいません。なので、ここではこれ以降、清少納言という固有名は用いません。)
 

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