筒井 ありがとうございました。お一人目の隠岐さや香さんから、お話をうかがってまいります。お願いします。
隠岐さや香 ご紹介いただきました、名古屋大学の隠岐さや香と申します。先ほど藤田さんのほうから、特定の人は今日のような「性」を扱う会合には来ないという問題についてお話があったんですけれども、それは、苦手という感覚だけじゃなくて、ちょっと軽視の問題もあるのではないか。そのことに対し私はどっちかというとやや怒りもあるんですけれども、それも含めて、いろいろ調べたことをまず話したいと思います。
私は専門が科学技術史の研究者でして、特に、初期近代、18世紀のフランスを専門に、科学者という職業の由来について研究しているんですが、副業で、これも20年ぐらいですかね、ちょうど大学改革の時代に人格形成をしたという不幸な事情もあり、いわゆる大学改革問題についてものを書いたり発言したりしていました。最近だと文系・理系の問題、特に人文社会系の縮小の問題も扱いました。
また、ダイバーシティの問題にも関わっています。それと最近ちょっと野生のクィア・アニメ論研究者ということで、アニメについて話すこともありました。今日はその関連もあって声をかけていただいたのかなと思っています(笑)。
[研究環境におけるダイバーシティ]
隠岐 それで、最初に、私がダイバーシティの問題を扱っていたことから話を始めたいと思います。
さっきの、「ちょっとばかにされているんじゃないか感」についてなんですけれども、実際に調査をしています。仕事の上で公表をちゃんとできていないものなのですけれども、研究環境におけるダイバーシティ、多様性ですね、女性と男性だけじゃなくて、今回は、大学院生とか、若手研究者を中心に、障害があるとか、性的少数者であるとか、あと、女性であるという、この3項目に絞って、何か困っていることはないかという形で9人くらいのチームを組んで調査をやっています。
例えばセクシュアル・ハラスメントを受けるとかということがある。これは、単に女性であるだけじゃない方でも、例えば性的少数者で、体は男性に生まれたけれども振る舞いが男性的でなく、しかし女性の性自認があるわけでもないという方の場合でも、年配の教員が、結婚しないことについて私生活にあれこれ言うという話があったりする。つまり、男性的じゃない人、男性じゃない人が、なんか共通して困り事を持っているというのがあった。
前置きが長くなりましたが、きょうの本題につながる話はその調査の中で、学問領域に自体に関する軽視や差別の問題が指摘されたということです。ある特定の属性の人が、研究テーマを選ぶとき、研究関心を周囲に言うことができなくて、あきらめて別の主題を選んだ、という記述が出てくるんですね。それは、例えば性的少数者の方であるとか、女性の方、あるいは障害のある方でも。例えばフェミニズム関連のことをやりたいんだけど、教員が、親切心かまたは別の気持ちかわからないですけれども、やめておいたほうがいいと。就職が難しいとか、いろいろ言われたという話があったりする。または単純に差別が怖いという場合もある。
そして、明らかに侮蔑的なことを言われることもあるらしいんですね。例えば、これは任期つきの、分野を言ってしまうとクィア・スタディーズの方がご回答くださったんですけれども、その分野について非常に理解のないコメントをもらったことがあった。具体的なことは書いてなかったんですが、「単に自分のことだから気になるだけで、社会的な意義に乏しい研究である」と批判されたと。
で、私はこの「社会的意義」という言葉がちょっと引っかかりました。たとえば少し前に文科省の通達があって、国立大学の人文社会科学系学部に対し、やはり「社会的意義」がある分野に転換しろ、改革を進めろ、と求めたことがありました(注:「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」2015年6月)。そのことをふと思い出したんですね。
そして、こうした記述が――まあ、クィア・スタディーズというのは確かに、あまりまだ世間に知られていないところもあるかもしれないので――クィア・スタディーズだけかと思ったらそうじゃなくて、例えば女性の方であるとか、あと、さすがに障害学の方はなかったと思うんですけれども、フェミニズム系の研究の人もそういうことをやっぱり書かれるんですね。
[学問の間の序列化――その分野は有用なのか]
隠岐 で、ちょっと抽象的なテーマではありますけれども、特定領域に関する、その「社会的意義に乏しい」という侮蔑的な発言の背景に何があるのか、私なりに考えてみたいと思いました。どういう歴史があってこういう発言になっているのか。
私は、「有用性」という概念についてずっと研究してきたんですけれども、まず1ついえるのは、その有用とか無用とかというものに関して、学問の間に序列化がなされているという現実があるということ。それは、おおっぴらに決まった形であるわけではないんですけれども、暗黙のうちであったり、ある種の直感的なものだったりという形で存在する。
まず、ジェンダー・スタディーズとかフェミニズムの方なら、もうよくご存じのことですけれども、例えばいわゆる人文系のテクストを読んでも――今ちょっと社会思想史という授業をやっているから、古代から、アリストテレスとかプラトンから目を通して改めて思うんですけれども――いわゆる思想、学問の言語というのは、相当後の時代まで語り手は男性しかでてこない、しかも、支配層というか、公職につくようなタイプの男性が主人公として想定されている感じなんですね。
それは洋の東西を問わずそう。さらにおもしろいのは、男性でも特定の職業の人、とくに商人などは差別されており扱いが悪くて、基本的に主役ではないんですよ。例えば商人は都市に入れるな、もし入れたとしても都市の中で支配層になってはいけない、など中世のトマス・アクィナスも書いています(『君主の統治について――謹んでキプロス王に捧げる』)。思想の言語においては、一部の支配層となれる境遇の男性が主人公で、それ以外は「他者」だったんですね。そして、テキストをたどっていくと、その他者の領域はだんだん狭まってきている。例えば商人、資本家など経済活動に従事する人々は産業革命を経た19世紀になると主役の地位に上ってきますし、女性も、今は地位が大分上がってきているわけです。ただ、その古代からの連続性の中で、常に、例えばある分野が無用であるかとか、有用であるかという議論は、ときどき、繰り返し現れているんですね。
ちなみに、有用性、UtilityとかUtilitasというのは、西洋古代の修辞学においては割と大事なトピックになっていて、何かが有用だとか、公職のためにこれは必要だとかを演説する習慣がありました
例えば、古代においては、法や哲学、数学などに対して詩の無用性論というのがあった。プラトンも「詩人を追放せよ」と『国家』に書いていました。ただ、プラトンが言っていることって非常に解釈が難しいので、単純に、彼が詩をばかにしたとかという話ではないです。ただ、彼には、ある種の堅いハードな知識と、そうでない詩のような想像力に訴えるもの、感情的なものとを区別して、「国家」を担う若者(主に男性)のために後者を遠ざけたいという気持ちがあったのです。近代ですとロックも、息子が詩に耽溺しないようにすることは父親達の関心事だと言っている(『教育に関する考察』)。あと19世紀には、有名な話ですけれども福沢諭吉や津田真道といった人々が、詩歌とか、言うなれば人文系につながるものを虚学とみなし、それに対して、科学技術、あと経済学を実学として位置付けて、男子一生に足る学ぶべきものと推奨した。このように、男性の人生観と結びついた知の序列化がずっとなされてきたわけです。
ちなみに、今、有用・無用と実学・虚学って、ちょっと言葉を混ぜていますけれども、実学と虚学という日本語の言い方はちょっとくせがあって、虚学の中身が結構入れ替わるんですね。例えば江戸時代の初期だと、仏教は虚学なんですけれども、儒学は実学だったらしいんですね。それが明治に入ってくると、儒学をやっても明治政府じゃ役に立たないですから、儒学や詩よりは科学技術、もしくは日用の学とかと言って、読み書きそろばん、特に商学、商業のための役立つものが実学という話に変わってきた。
[無用の肯定論――役に立つものは醜い?]
隠岐 で、何が言いたいかというと、この種の議論が、例えば女性の不在の中、支配者層男性の中でずっと再生産されてきた。その伝統があって、さらにもう1つ、女性とか――より厳密には、女性で「ある」ことより男性で「ない」ことの方が問題なので、「男性じゃない者」という言い方を私はしたいんですけれども――そういった人々の立ち位置を考える上でも気になるのが、「無用」の意味です。「無用の用」という言葉がありますが、実際、学問の序列を決めるのは単なる実学・虚学の優劣だけじゃないんですね。そうじゃなくて、無用なんだけれども、すごく崇高なものとみなされている分野ってあるわけです。例えば数学や哲学が、場合によっては、そうした意味でより重視されることもある。で、その無用論も、男性じゃない人、もしくは支配的な男性じゃない人にとってはちょっとかなり危険なものがある、ということを申し上げたいと思います。
それは、まず最初に、典型的な無用の肯定論というのが、19世紀以降だとはっきり流れとしてありまして、例えば芸術の擁護をするときに、それは無用だからこそすばらしいといったりするわけです。
テオフィル・ゴーティエという人物が詩について書いた文章があるのですが、その中で、「一般的に言って、何かが役に立つと、それは美しくなくなる」と言っている(T. Gautier, Albertus: légende théologique)。彼はすごくて、「役に立つものは結局醜いのだ」と、そして「例えばトイレを見ろ。便所は役に立つ」というふうに言うんですね。要は、無用というのは美しさがある。だから、美しいということだけですばらしい。簡単に言うとそんな話をしている。そして、有用に対しては、醜さ、世俗性、金銭欲といったもの、野心とか、そういうものに結びつけて話している。
これは芸術の話ですけれども、一方で哲学も非常に伝統的な擁護の仕方があるらしくて、アリストテレスの『形而上学』に、要は、哲学というのは、それ自身以外何も対象としないものだから、つまり、全てのものから自由で有用性の奴隷じゃない、無用かつ自由だからすばらしいのだという一節があるんですね。有用であるほうがむしろ奴隷的というか。こうして無用であっても守られてきた伝統的な分野はある。
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