ジェンダー対話シリーズ 連載・読み物

《ジェンダー対話シリーズ》第1回 隠岐さや香×重田園江: 性 ―規範と欲望のアクチュアリティ(前篇)

 

[無用性と天才神話と男性的なもの]

 
隠岐 それで、何が言いたいかというと、さっき、実学は結構男性的、すなわち支配層に立つ男子の関心事に関わるということを暗に伝えたわけですけれども、じゃあ無用性というのが女性を救うか、あるいは「男性じゃない者」を救うかというとそうも言いきれないということです。「無用」が問題になる芸術や哲学はしばしば「天才」のイメージと結びついています。そしてこれも非常に有名な話ではありますが、天才神話が女性を排除したというのはよく言われるところです。もともと、天才概念というのが男性的です。天才=genius(英語の「ジーニアス」)は、古代ローマのゲニウスという、しばしば男性の形で現される守護精霊の名から来ている言葉ですけど、もともとは男性による「産ませる」力を意味するラテン語の動詞に由来するようです。で、18世紀半ば以降、顕著に、芸術とか哲学、数学における天才を崇める言説というのが出てくるのですが、その中で、女性というのは基本的には排除されたというのがあります。
 
で、ルソーの『エミール』などが典型ですが、女性は一般的に現実的な感性を有しているが天才は有していないといわれた。彼女たちは、勤勉さを通して得られるだけの知識を手に入れることはできる。だから、コツコツやるんだけれども、インスピレーションがないんだよねと。つまり女性は生殖と家庭の義務にエネルギーを吸い取られるんだよね、という見方があった。
 
19世紀ぐらいまでずっとその状況で、20世紀もそうで、さすがにそろそろもうなくなったかなと思うところなんですが、なかなかやっぱり、一度できた差別の文化は恐ろしいものでそうはならない。これは最近のアメリカの研究で、『サイエンス』といういわゆる科学の一流ジャーナルに載った論文ですが、「ブリリアンス(brilliance)」、すなわち才気という意味の言葉をキーワードに、人文系、人社系、理工系、合わせて30の分野の人々に、「あなたの分野では、才気すなわちブリリアンスが必要とされますか」と訊いたらしいんですね。ブリリアンスは先に触れたジーニアス、すなわち天才とは必ずしも同じ概念じゃないのでちょっとずれはあるんですが(http://science.sciencemag.org/content/347/6219/262)。
 
それで、結果をいうと「才気」が必要だよと回答した人が多い分野ほど、女性の数が減っているんですね。例えば理工系だと数学、物理はそれが顕著で、コンピューターサイエンス、エンジニアリング、工学もかなりそう。で、おもしろいんですけれども、同じ理工系でも脳神経科学とか、地学とか、分子生物学などはそこまで才気にこだわらず、女性も多い。で、人社系ですと哲学が強烈に「才気」を求めるし女性が少ない。音楽の作曲などもそうらしい(注:アメリカの大学は芸術が人文系Humanitiesに含まれている)。対して、教育、心理学などは「才気」をさほど求めず、かつ女性が多い分野となっている。歴史や経済学は真ん中ぐらいですかね。例外は英文学で、才能が必要とされるけど女性も多いです。というわけで何となく、実学的なものも、虚学的なものも含めて、天賦の才という、才能とかブリリアンスというものが意識される領域ほど男性がふえる、ということになっているんですね。
 
これについて、やっぱり男性は才能があるんだというふうに結論しちゃったら、話は終わりになりますが、そういう研究ではありません。歴史的に差別の対象となってきた人たちが「自分は才能がないかもしれない」と思いこんで、特定の分野を避けてしまうという現象があるかを調べているんです。それで続きとして、「才気」が必要とみなされている分野に、アフリカ系アメリカ人と、アジア系アメリカ人がどれだけいるかを調べた。すると、アフリカ系アメリカ人は、女性と似たようなパターンを示すんですね。それに対して、アジア系はそうならないんですね。つまり、アジア系のアメリカ人はどうやら、才能がないから自分は無理かもしれないということを思わない。実際、この研究ではないんですけれども、ほかの研究でもよく知られているのは、アフリカ系のアメリカ人は、例えば数学というのは白人に向いているものだとか、才能がある人しかできないものだという気持ちを人生の中で強くもたされてしまいやすいということです。で、やる気もでなくて実際に点数が低いということが起きている。
 
こんなふうに、才能がある、必要だと思われている分野に、尻込みをするようになってしまう集団がいる。女性は間違いなくその集団であるし、あとはアフリカ系など、植民地支配の歴史に影響を受けてきた地域の人たちもそうかもしれない。そういうわけで、差別の記憶というか歴史というのは、集団レベルの動向に影響する。
 

[人間や社会などケアに関わるものには才気や才能がいらない?]

 
隠岐 そして、おもしろいんですけれども、才気という概念が非常に強く働いてくる分野にもなんか特徴がありまして、例えば人間とか社会とか、ケアが関わる領域には才気、ブリリアンスがあまり連想されないらしいんですね。全体の傾向として――これは、脳神経科学をやっている人だったら多分、何か気がつくことがあると思うんですけれども――物とか、抽象度が高くて、システムを扱うようなものが、才気というものと結びつけられて考えられる傾向がある。で、すごくざっくりした印象ですが、この、人間とか社会とかのケアというのは女性が「やれやれ」と言われている領域ですよね。そして、物づくりや抽象思考、システムというのは、なんか男の子に向いているものというのが割と一般的な俗説で流布している言説だという気がします。この辺、何かあるのだろうなと思っています。
 
それで、ちょっと話を戻します。そういうわけで、今まで話したことをまとめると、近代までの言説において「実学」として前面に出てくるのは、主に公共領域において男性が熱意を持って競争したがる領域なんですね。前面に出てくるというのがポイントで、単に役に立つだけだったら例えば家事も育児も役に立つわけなんだけれども、そういった領域は、実学が問題になるときにあまり前に出てこないかなと。少なくとも19世紀までだったら間違いなくそうだし、20世紀以降でも、そうじゃないかなという気がしています。
 
それに対して家事や育児、介護のような「役に立つ」領域というのは、もともと、女性とか、使用人にアウトソーシングされてきた領域でもある。非常に役に立つんですけれども、でも、再生産とか、ケア領域とか、そういったものはどうもアウトソーシングされていて、支配層の男性にとっては「そういえば、まあ、役に立つね」と思い出すレベル。ひどい場合は不可視化されている。そして、政治的・経済的には従属的地位にある。つまり、給料が低いとかそういうことがあるわけです。介護って絶対役に立つわけですけれども、実学として、たとえばハーバードや東大を目指す若い男性の前に「さあ、やれ」という感じで出てくるわけではないという。何かそういう序列があるなというのを思うわけです。ただ、当然ながら「要らない」とも言われない。不要論は出てこないんですね。
 
そういうわけで、さっきの無用云々の話ですけれども、数学や哲学、あるいは芸術のような「実学じゃないもの」は、「無用の用」があるよねということで担保される構造がある。だけどそのときに、そういった領域は天才あるいは才気ある人ための領域とされていて、女性が何となく排除されるという状況があった、そういう歴史が続いてきた。
 
それで、最初の、「社会的意義」がないとされてしまった領域について話を戻したいと思うんですけれども、つまり、クィア・スタディーズのような、特定の分野が差別されるとかという話ですが、結局のところ、そういった領域というのは、マイノリティーにとっては重要な一方で、男性のマジョリティーにとっては公共生活に役立たないし「ケア」にもならないとみなされがちな領域だったりする。
 
そして、人社系のそういった専門領域は、例えば私的領域として軽視されたりすることもある。それで、「自分のことだから」と言われてしまったりする。マジョリティーにとっての公共的なものじゃないものというのは、低い扱いを受けやすいんです。
 
あと、「才能」や「天才」言説でもなかなか守ってもらえない。人間やケアというような複雑な対象というのは、どうもなんか、人々は、「才能」とか「才気」という言葉で考えることが難しいらしい。評価が難しいらしい。残念ながら、そういう傾向があるかなと思うわけです。
 

[男女の役割区分、男女の学問の専攻差]

 
隠岐 才能とジェンダーについて今日知られていることを補足しておきます。たとえば数学とジェンダーについては、最近いろんな研究や経験が蓄積されている。女性から男性に移行したトランスジェンダーの数学者の方の例をあげます。その方によると、ホルモン投与をして身体を変え、性別が変わって一番認識したのは能力の変化じゃなくて、周りの待遇だというのですね。言葉をさえぎられずにしゃべれるようになったと。
 
それから、日本の状況については、これは重田さんからお話があるかと思うのですが、男女の役割区分というのか、進路選択の分岐が激しい国の1つです。一応一番新しいデータでお見せしますと、例えば人文学は、OECD諸国の中でも女性が多めなんですね。学部卒業生の7割ぐらいが女性ということになっています。で、社会科学は、女子学生の数がかなり少ないんですね。4割が女子学生で、これは、先進国のOECDの中では一番少ないということになります。理学になると、数としては20何%というところですけども、ビリではないです。工学がビリで、13%ぐらいだと思います。農学になると、割と状況はよくて4割いますね。で、医療・福祉は看護系と医歯薬学部を総合した数字なので6割強ぐらい。ただしOECDではまたもや最下位です。結局、女子学生が一番多いのは「サービス」分野で、これは介護とか福祉とかの関連を主に「サービス」と呼んでいて、これはOECDのエデュケーション・アット・グランスという資料からとっていますので、それでこういう区分になっていますが、ケア領域になんか非常に女性が集まっていることはわかります(http://www.oecd.org/edu/education-at-a-glance-19991487.htm)。
 
私立と国立の役割分担もすごくて、国立大に、いわゆる理工とか商船、あと、教育分野の学生が多くて、これらは男子学生が多い領域でもあります。私立大学は、人文社会・家政・芸術分野に学生が多くて、女子学生も多い(20150827-pkisoshiryo-japanese.pdf)。で、日本の場合、国立大と私立大で役割分業がありまして、人社系は、お金を払って学べという話になっている。奢侈品扱いなのかなという印象です。
 
それから、女性研究者の数ですが、実は、理工系と人文社会系を比べたときに、人社系でも、法学部と経済学部の女性の研究者はすごく少ないです。それに対して、理工系でも医農生命系はそんなに女性が少なくない。
 
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「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。