めいのレッスン ~朝の動画

About the Author: 小沼純一

こぬま・じゅんいち。 音楽・文芸批評家。早稲田大学文学学術院教授。おもな著書に『オーケストラ再入門』『映画に耳を』『武満徹 音・ことば・イメージ』『ミニマル・ミュージック その展開と思考』『発端は、中森明菜――ひとつを選びつづける生き方』など。『ユリイカ』臨時増刊「エリック・サティの世界」では責任監修を務めている。2010年にスタートした音楽番組『スコラ 坂本龍一音楽の学校』(NHK Eテレ)にゲスト講師として出演中。
Published On: 2017/4/21By

 
 

 目覚めたら、スマートフォンにメールが届いていた。サイェからだ。
 めいのサイェは電子メールをつかわない。電子メールだけけではなく、好んでパソコンを開くこともない。ゲームはもちろん、youtubeをサーフすることもない。十歳になるかならないか、から、十歳からすこし、というくらいの子がどのくらいネットやスマフォやパソコンに親しんでいるのかはよく知らないのだけれど、すくなくともサイェは熱中するよりぼんやりしていたりまわりの気配に身をひらいている――のかどうかよくわからないが――のほうが多いようにみえる。
 メールには、だから、すこしではあるけれど、びっくりした。ほとんど毎日のように顔をあわせているし、急いでいることがあれば電話をかけてくる。それがメール、か、と。
 
 おじさん、
 こんなのとったので。
 さいぇ
 
 とてもシンプルな文面。そして添付ファイルがふたつ。
 
 サイェのいるマンションの一室から撮ったのだろう、まだちょっと暗い空が映っている。動画だ。
 
 からすが鳴く。また、鳴く。
 むこうで、
 こっちで、
 あっちで、
 同時になり、ずれ、今度はべつの方角からも。
 
 あっち、こっち、だけじゃなく、もっともっと方角はいろいろなことが、わかる。サイェがむけているスマフォのマイクはきっとひとところに固定されていて、それでいながら、むこう、こっち、あっち、という差がちゃんと収められるのだろう。とても立体感がある。
 
 ほんの、ほんのすこしずつ、遠くがあかるくなってくる。ときに、からすとはべつの鳥の声がまじっているようでもある。すずめ? はと? それとも……
 ふと、自転車のブレーキの音が。
 
 カラスの声は変わらない。
 ときどき全体がふっと静かになって、でも、しばらくすると、またむこうで、こっちで、あそこ、で、しはじめる。
 
 十五分ほどで映像は終わる。十五分といいながら、画面ははじめと較べるとずいぶん明るくなってきていた。
 つづけてもうひとつのファイルを開く。
 
 めずらしく早く目が覚めました。
 まだ暗かったけれど、外ではからすの声がしていて、
 すぐそばだけじゃなく、
 ずっとむこう、だったり、こっち、だったり、逆のほうだったり、
 あ、外って、広いんだな、って
 あたりまえのことをおもった
 だから、こんなときにはとおもってスマフォをつかってみようと
 慣れないからうまくいってるかどうか
 とりながら気づいたんだけど、
 だんだんとあかるくなっていくのがいいな
 
 まだあんまり人は起きてなくて、
 そんなときにひとりで外をみてるのって
 いいようでわるいようで
 
 また眠くなってきました
 またあした
 じゃないか、もうきょうだね
 
 サイェのメールは中途半端なものだ。めいのきまぐれ、なんだな。
 でも、そうか、夜から朝になってゆく時間――
 鳥たちが呼びかわすあとだったかに、すこしずつ人が起きて動きだす。いまはもう聞こえなくなってしまったけれど、ガラスが微かにぶつかりあいながら高い音をたてて牛乳屋さんが配達していったり、一件一件、ブレーキの、タイヤのこすれる音と、ポストに配達される新聞があったり、こつこつと靴が、ひとり、またひとり、と高くなったり低くなったり、テンポがいろいろ違ったりしながら、交差したり。あ、追い抜かれてる、なんておもったこともあった。ハイヒールの音、スニーカーの音、すれてゆく足つきの人の。
 住んでいるところでも、外の音はかなり違う。五年、十年単位でおもいおこしてみると、おなじ通りのおなじ時間帯でも、音が違っていたのをおもいだす。
 くるまがたくさん通っていく。自家用車だけじゃなく、もっと大型のが。そんなことも。また、ゴミ出しをするサンダルの足ばやな音と短い挨拶、ならんで歩く幼稚園児の高い声と先生の注意の声、連続テレビドラマのテーマ曲……時計など見上げなくても、あぁ、八時だな、八時半だな、とわかる。
 母が起きだして雨戸をあける。お湯が沸騰する。電子レンジはまだなくて、冷蔵庫の戸が閉まる。味噌汁にいれる菜っ葉やお漬け物をまな板の上でリズミカルに切る。音と香りは、まったくちがった音と香りであるのを承知しつつも、百年以上前の詩人の一節を想いおこしたりして。
 
 サイェが来たら、このはなしをしてみよう。いまはもう耳にする機会がなくなってしまった音、時と結びついた生活の音のことを。

 
 
 
 
 
 
 
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[執筆者]小沼純一、谷川俊太郎、堀江敏幸、古川日出男、明川哲也、柴田元幸、山崎佳代子、林巧、文月悠光、関口涼子、旦敬介、エイミー・ベンダー、J-P.トゥーサンほか全31名
書誌情報 → http://www.keisoshobo.co.jp/book/b92615.html

About the Author: 小沼純一

こぬま・じゅんいち。 音楽・文芸批評家。早稲田大学文学学術院教授。おもな著書に『オーケストラ再入門』『映画に耳を』『武満徹 音・ことば・イメージ』『ミニマル・ミュージック その展開と思考』『発端は、中森明菜――ひとつを選びつづける生き方』など。『ユリイカ』臨時増刊「エリック・サティの世界」では責任監修を務めている。2010年にスタートした音楽番組『スコラ 坂本龍一音楽の学校』(NHK Eテレ)にゲスト講師として出演中。
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