ジェンダー対話シリーズ 連載・読み物

《ジェンダー対話シリーズ》第4回 王寺賢太×森川輝一:愛・性・家族のポリティクス(前篇)

 
 

《ジェンダー対話シリーズ》第4回は、王寺賢太さんと森川輝一さんをお迎えして開催された『愛・性・家族の哲学』(ナカニシヤ出版)出版関連イベントでのお話をお送りします。今回のテーマは「ポリティクス」。愛・性・家族の問題は国家の政策や社会の制度とどうかかわっているのでしょうか。また権力や力にかかわるものを「政治的なもの」と考えると、恋人や家族の関係もポリティクスとみなすことができます。こうした広い話題について、前後篇にわたる濃密な議論が繰り広げられます。【勁草書房編集部】

 

第4回 愛・性・家族のポリティクス(前篇)

 
王寺賢太×森川輝一×藤田尚志×宮野真生子
 
←第1回 隠岐×重田:性 ――規範と欲望のアクチュアリティ(前篇)
←第3回 平山×上野:息子の「生きづらさ」?男性介護に見る「男らしさ」の病
 
 

宮野真生子(みやの・まきこ) 福岡大学准教授。京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。日本哲学史、九鬼周造研究。著書に『なぜ、私たちは恋をして生きるのか』(ナカニシヤ出版、2014年)など。
宮野真生子 それではトークセッション「愛・性・家族のポリティクス」を始めたいと思います。私と藤田さんは、この4月(2016年)にナカニシヤ出版さんから『愛・性・家族の哲学』という3冊本を出しました。「哲学」というタイトルですが、愛や性、家族といった問題を考えるときには、アクチュアルな現実を見つめるという意味で、社会学や法学の視点も欠かせませんし、でも一方で、その来歴を知るために思想史の視点も欠かせない。そういう問題意識でこの本には哲学にとどまらない幅広い執筆者に参加していただきました。ただ、やっぱりすべてをカバーするのは難しくて、その1つが「政治」というパースペクティブだなと。そういうことで、今回は、京都大学の森川輝一さんと王寺賢太さんをお招きして、それぞれのお立場から、愛・性・家族について語っていただこうと思います。進行は、大きく2本立てでいきます。まず、家族や性の問題について森川さんと王寺さんにお話ししてもらって、それに対し藤田さんからコメントをいただきます。そのあと、愛をテーマに私のほうから少しお話しした後、森川さんと王寺さんに再度お話しいただき、そちらに対しては私からコメントをして、そのうえでフロアとの討議をおこないます。では、さっそくですが、まずは家族について森川さんからお願いします。

森川輝一 森川と申します。日頃は、法学部や公共政策大学院というところで、政治思想史や政治哲学に関する授業を担当しておりまして、愛や性について専門的な知見があるわけではないのですが、憧れの真生子サマからご指名をいただきまして、嬉しげにホイホイ出て参った次第です。よろしくお願いします。
 

[愛・性・家族の三位一体?]

 
森川 最初に、「愛・性・家族」という聖なる三位一体について、Ⅲ巻所収の論文(第1章「結婚の形而上学とその脱構築:契約・所有・個人概念の再検討」)の冒頭で藤田さんがおっしゃる「結婚の形而上学の脱構築」という観点から、考えてみたいと思います。念頭にあるのは、恋愛して結婚して家族をつくる、という戦後日本で一般化したモデル、まあ「恋愛結婚核家族」モデルといいますか、現在も一般に結婚とか家族ってそういうもんだろ、と多くの人が受け入れている結婚観・家族観です。そこでは、愛・性・家族が何となく一体化しています。愛する相手を見つけて、お互いを性的パートナーとみなして、一緒になって家族をつくる、というふうに。けれども、ちょっと考えればわかることですが、愛と性と家族の間に必然的なつながりがあるわけではなくて、3つは相互に無関係とさえ言えます。たとえば、家族で暮らす場合に性的関係は必須ではないし、愛だって別になくてもよいわけで、また愛があったら性的関係を結ばなきゃいけないということではなく、逆に愛なんかなくたって性交渉はできる。愛というのはよくわからない言葉なので、ちょっとあとに回して、ここでは家族を中心に考えることにしますと、家族という関係性のなかに、愛とか性とか異質なものがひっついてくるわけで、なんでそういうことになるのか、ということを考えてみたいわけですね。
 
愛と性と家族はそれぞれ別ものですが、共通するのは、自分で自由に選べるわけではなく、自由にならないものとして受けとめないといけないもの、という点です。性別にしろ性的衝動にしろ、性的なものは自由に選べるものではないし、家族にしても、自分以外の他人と一緒につくるのだから、自分の思い通りになるものではない。子どもは親を選べない、というように。愛は自由じゃないか、と言われるかもしれませんが、愛というのを情念、つまりパッションとして捉えると、パッションというのはパトス、すなわち「こうむるもの」でありまして、愛に対して人間は受け身なんですね。恋は「する」ものでなくて「落ちる」もの、フォール・イン・ラヴ、好きにならずにいられない、というわけです。とまあ、愛も性も家族も自由にならないのですが、この自由にならない3つを、えいやっと一気に結びつけるのが、「恋愛結婚家族」モデル、なんじゃないか。愛する者どうしが、自由意志で結婚という契約を結び、排他的な性的パートナーとなり、家族になる、という。出発点は自由契約ですから、アソシエーションの形式なんですが、いったん家族になると、相互拘束的な共同体としてのコミュニティの性格を帯びる。結婚のときに、死ぬまでこのヒトと添い遂げます、なんて恐ろしい誓いを立てちゃうわけです。私も既婚者なんですが、よくまあそんな無茶な契約を結んだもんだなー、と我ながら感心してしまいます。配偶者以外と性的関係をもったら「不倫」になりますし、いったん成立した夫婦なり家族なりを解消して自由な個人に戻ろうとすると、大変なエネルギーがいる……みたいですね。私はまだやったことがないのでわかりませんが。

[家族とは?――3つの側面から考える]

 
森川 で、家族ですが、社会的あるいは政治的機能の面から、とりあえず3つの側面に分けてみたいと思います。1つ目は、家族とは私的な人間集団であり、プライベートな空間を構成する、という側面。特に、「空間」という性格を強調したいと思います。国家や市民社会という公的(パブリック)な領域に対して、家族はプライベートな場所としてある、ということですが、建物で考えるとわかりやすいですね。ある家族、この場合は別に1人でもいいんですけど、一家族が住んでいる家とかアパートとかというのは、その家族のための空間で、ドアから内側に入っていいのは家族と、家族が「入っていいよ」と言った人だけで、それ以外の人が勝手に入ってはいけない。家族というのは、自分たちだけの親密な空間をもつ。言い換えると排他的、ということで、DV(ドメスティック・ヴァイオレンス)の温床にもなるという話になってくるんですが、社会から区別された私的な空間をもつということが、家族のもつ重要な側面の1つ、ということは言えるだろう、と。
 
2つ目に、経済的なユニットとして、生計を一緒にする集団としての側面がありますね。「世帯」とか「所帯」という場合の、家族。
 
3つ目に、子作り、子育てをする、新しい人間を産んで育てるための集団しての側面があります。生殖や繁殖、ちょっと嫌な言葉ですが、人間の再生産の単位としての家族です。
 
で、この3つの側面の結びつきは必然的なものか、というと、さきほどの愛・性・家族の三位一体の話と同じで、そんなことはなくて、別々でもいいわけです。なのに、無理やり結びつけようとするので、いろいろと無理が生じて、しんどい思いをする人たちが多くなっているのではないか。たとえば、少子化が問題になると、3番目の生殖の側面がクローズアップされ、子どもを産まない夫婦はよろしくない、けしからん、みたいな話になる。ですが、子どもを産んで育てるというのは、あくまで家族というものがもちうる1つの側面であって、そこにばかり拘束されなくていいんじゃないか。そこで、私としては、1つ目に挙げた、プライベートな空間をもつ人間のまとまりとしての家族、という側面を中心に考えてみたらどうか、と思っています。世界のなかに、自分たちだけの固有の場をもち、「ここは私たちだけの場所だ」と安らぐことができる、それが家族の基本、というかたちで考えられないものかな、と。そう考えると、気の合う者同士が継続的にプライベートな空間を構成するのが家族で、一般的には男と女のカップルが基本とされるわけですが、別に男性どうし、女性どうしでもいいし、1人のひとと動物が暮らすのも家族だろう、というのは私が猫と暮らしているからかもしれませんが、いろんな結びつき方、いろんな家族のかたちがあっていいだろう、と。
 
でも、なかなかそういう話は受け入れられず、やっぱり男女のツガイが家族の基本だよね、と考えられがちなのは、やっぱり生殖、繁殖という側面に縛られているからなんじゃないか。子どもを産んで育てないと、家族とは言えない、そして、子どもを産んで育てるためには、生計を立てて独立した暮らしを営まないといけない。その2つができる家族が、家をちゃんと建てて、自分たちの空間をもつことが許されるのだ……という順番で考える人が多くて、これをちょっとひっくり返せないか、別様に考えられないか。おそらくそれは、この本で目指されていることの1つではないかな、というふうに思うのです。

[国家・社会・家族]

 

森川輝一(もりかわ・てるかず) 京都大学教授。博士(法学)。政治思想史。著書に『〈始まり〉のアーレント』(岩波書店、2010年)など。
森川 なぜ、「生殖」と「生計」という側面が幅を利かせるかというと、近代国家において、家族というものが、言ってしまえば国民を殖やして育てるための装置、つまり軍事を担う兵士、労働力を供給する労働者を再生産するユニットとして位置づけられてきたから、ということがある。家族自体はあくまで私的なものですから、国家と市場という公的な空間の外部に位置づけられるのですが、実際には国家と市場の底を支える役割をもたされてきたんですね。家族が新しい人材を供給しないと国家と市場はもちませんが、国家と市場の方は家族には立ち入らず、労働力の再生産を家族に、いわばアウトソーシングの形で丸投げしてきたわけです。人材供給を丸投げされた家族の内部では、国家社会のために外で働くのは男、家を守るのは女、ということで男性が幅を効かせてきたわけで、家父長制というのが明治国家建設以来の伝統になってきたんですけれども、そうしたものに今も縛られている面が大いにあるだろう、ということなんですね。
 
戦後になると、生殖と生計の単位として、核家族という形態が一般化して、さきほど言った「恋愛結婚核家族」モデルが確立されます。典型的には団塊の世代、私の親がそうですが、地方の村から、家を離れて都会に出てきて、都会で若い男女が知り合って、結婚して一緒になって、団地に住み、子どもをもうけて育てる、という。私も、そのストーリーのとおりに、団地育ちなんですが。こういう、団地に住む核家族というのは、いわば近代家族の進化の最終形態というか、家族がもちうるいろんな性質のうちの、生計維持と再生産の要素を機能的に特化したようなもの、と言えるでしょう。男と女が夫婦として生計を立て、子どもを何人かつくって育てるということを、最小の人数で行うのが、核家族という単位で、そのための非常にコンパクトな空間が、団地です。このモデルがある時期まで通用したのは、経済成長が続いていて、給料も毎年のように上がって、子どもが増えてもなんとか所帯を維持できたから、と言ってよいと思います。ローンを組んで郊外に家を買い、狭い団地を出ることもできたからだろう、と。
 
だから、高度経済成長が終わると、「恋愛結婚核家族」モデルも動揺せざるをえない。少子化の始まりは1970年代半ばで、1990年代以降には晩婚化が本格化します。それにはさまざまな理由があるのでしょうが、生計を立てるうえで、結婚して家族をつくることに経済的なメリットがなくなってきた、ということがある。1人暮らしのほうが、あるいは、「パラサイト・シングル」なんて言葉もありますけど、親と一緒に暮らし続けたほうが、コストをかけずに自由でいられる。一方で、収入が上がらないので、結婚したいけどできない、また結婚したけど子どもを産むことを躊躇する、という人たちも多くなってくる。言い換えると、経済的に余裕のある相手を見つけないと生計も生殖もままならない、というわけで、皆がよい相手を見つけようと躍起になり、婚活市場がものすごく活性化することにもなる。
 
なので、家族というのは生計を立てて生殖を行う単位なんだ、みたいな呪縛を解く、という方向で考えたらいいのではないか、と思うんですが、少子化を解決するためには、生殖機能を家族に取り戻させるためには、健全な家族を再生しなきゃいけないんだ、という話をしたがる人も多いわけです。ある人たちに言わせると、戦後の個人主義が、伝統的な家族を支えていた和の精神を乱して、結果的に少子化をもたらしたから、新しい憲法には家族の大切さを説く条項を盛り込むべき、なのだそうです。家族は大切だと憲法に書き込んだら、伝統的家族が復活するとか少子化が解消される、とかいうのは、国境に壁を作って移民の流入を防ぐのだ、というのと同じ類いのファンタジーとしか思えないし、大体そういう人たちのいう「伝統的」家族というのは、先ほど述べたとおり、わりと新しいもので、またある時期たまたま上手くいっていたように見えただけの家族の1つの形、にすぎないわけですが。

[家族のインフレ戦略]

 
森川 話をまとめますと、生殖機能を強調して家族を特定のかたちに押し込めるのではなく、いろいろな家族のかたちがあっていいじゃないか、Ⅲ巻所収の奥田太郎氏の論文(第6章「家族であるために何が必要なのか:哲学的観点から考える」)の言葉を借りれば、「家族のインフレ戦略」でいいじゃないか、と考えるわけです。夫婦の名字が違っていてもいいし、お母さんと子どもだけのシングルマザーの家庭も、性別が一緒のひとどうしでも、それぞれ立派な家族じゃないか。そういうふうに考えていいんじゃないか、という人たちが、若い世代のなかには着実に増えていると思うんですけれども。本人どうしの自由意志でつくるのが家族、ということなので、その点は恋愛結婚モデルを引き継ぐことになりますが、家族像そのものを当人たちの自由に委ねたらいいじゃないかっていう話です。
 
ただ、人が一緒になれば何でも家族なのか、いろいろな家族に共通する家族らしさ、ヴィトゲンシュタインの言葉を使うと、さまざまな家族の「家族的類似性」は何なのか、というと、僕なりに考えると、1つ目の側面として挙げた「プライベートな空間をもつ」ということなんじゃないか、というわけです。世間や社会から隠れて、リラックスできる場所、親密な相手と時間を共有できる空間をもつ、世界の中で自分たちだけの居場所を作る、それが家族なのかなあ、と。
 
家族の空間が内向きになりすぎ、外の世界から完全に孤立すると、抑圧的に作用したり、DVの温床になってしまう、ということはあります。だから、孤立をよしとするのではなくて、プライベートな空間としての家族をもったうえで、それを外に開いていく。家族のなかに、家族が友人や客人として認めた人が、いろいろ出入りする。そういう形で、社会的関係性の最も基本的な単位として、家族というのをもう1回見直してもいいんじゃないのかな、というふうに考えています。
 
結婚する人の数は減っていても、結婚願望は減っておらず、結婚したい人自体は減っていないわけです。それにはいろんな理由があるのでしょうが、やっぱり1つには、安らぐ場所が欲しいということがあるのじゃないのかな、と思います。その安らぐ場所としての家族には、いろんな形があっていいんじゃないかなあということが、本を拝読して、私なりにこう考えたことの一端です。どうもありがとうございました。
 
宮野 引き続きじゃあ、王寺先生にそのまま、お願いします。
 
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「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。