[個人の問題と政治がどうつながるか]
質問者 お話ありがとうございました。僕、後半から来たので、前半は何をされていたかちょっとわからないまま聞いてしまって申し訳ないんですけど、お二人のお話は最終的に「個人」の問題になってくるのではないかと思いました。他方で、この会のタイトルに「ポリティクス」とあって、お二人の話と最終的にどこで結びつくのかなと疑問に思いました。個人と法の関係に行き着くのかなと思ったんですけど、そこについて何かご意見をいただければ。(注:質問者の方の発言は、編集部で短くまとめさせていただきました)
王寺 ありがとうございます。僕は前半では結婚という制度の話をしました。結婚というのが基本的に私有財産を核に組織されていて、結婚なり家族っていうのはやっぱり私有財産の保持、使用、そして相続の単位であり、そこに生殖と扶養が付随しているとみなせるだろう、と。だとすると、結婚や家族の問題は、最終的には、所有のレジームをどう変えるかっていうことと切り離して考えられないだろう。また家族の問題は、財産所有を介して扶養・養育とも結びついているがゆえに、家族のあり方の多様化として起こっていることは、実際にはほとんど、家内労働の市場化、アウトソーシングだという話もしました。だからこそ、後半では、法制度では捉えきれない、シンギュラーな個人のあいだの関係に根差す愛をとりあげて、その愛自体がもつある種の政治性について少し立ち止まってみたということになるかと思います。すべてが交換可能になり、市場化可能になりゆく世の中にあって、どうしても交換不可能なもの、あるいは個々の主体が主体であるというシンギュラーなしるしづけにかかわるようなものとして、愛をあらためて考えられないかというような意図をもって話をしたんですね。もっとも、この愛の話は、非政治的であるがゆえに政治的な「対幻想」みたいな議論に落ちて行きかねないものではあります。
宮野 森川さん、いかがでしょう。
森川 はい、今お話をうかがっていて、ポリティクスという言葉自体がおそらく、2つの位相で使われている、ということなのかな、と。1つは、質問者の方が念頭に置かれているような、国家の政策や社会の制度にかかわる、いわゆる政治の話ですけど、2つめに、「ポリティカル」すなわち「政治的なもの」という次元があるわけです。厳密な定義があるわけじゃないですが、アーレントやフーコーが言う意味での力、権力にかかわるものを広く「政治的なもの」と呼ぶことができるだろう、と。そうすると、男女や家族の関係だって力関係、つまりポリティクスだろうと。
それで、私も前半では法の話はしてなかったんですけど。具体的な制度のアイデアとかがあるわけではないので。ただ、今おっしゃられた話でいうと、育児とか、家事とか、家族が担ってきたいろいろな機能は、もう社会にアウトソーシングできる。逆にいうと、これまで家族に丸投げしてきた育児や、今日は話に出なかった介護なんかを、福祉というかたちで社会全体が担っていかなきゃならない。たとえば介護という視点から見ると、老老介護なんかが典型ですけど、セクシャリティとはまた別の次元で、家族って呼ばれる営みを生きている人たちがいて、いろいろな形態がある。ところが今までは、言ってみれば、育児も介護も家族でやるべきだ、愛があって結婚したんだからできんだろ、みたいにやってきたものを、ちゃんとやっぱり、社会で引き受けなきゃいけないと思うんです。逆に、そうなってきたときに、家族って呼んでいるもののコアな部分に何が残るのかなって考えてみて、とりあえず僕はプライベートな空間を共有するっていうことなんじゃないのかなと申し上げたんですが。何かそういう、お話をさせてもらいました。
[自由主義的統治から逃れられる……かも]
王寺 基本的に、藤田さんと宮野さんの共編著に通底する主張としては、生物学的次元、文化的次元、そして法制度的次元を、これまで往々にしてなされてきたように、べったり一致させて考えることはできないよ、という主張があると思います。僕自身もいまや常識的に押さえておくべき基本的な地平だと思います。ただし、これはさきほどの藤田さんからの大問題に対する僕の返答の補足にもなるのですが、今回フーコーの『性の歴史』を読み返してみて、やっぱりフーコーはすごいなと思ったのは、1976年の『知への意志』の段階で、いかなる欲望の解放も、性的志向の多様性の承認要求も、もはや革命的ではありえない、自由主義的な統治性のもとではけっしてそれが秩序を壊乱することはありえないという趣旨の主張をしていることでした。ひょっとすると、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』あたりへの違和感の表明なのかもしれない。自由主義的な統治は、それぞれの主体に性について語らせ、あらゆる倒錯を登記し、それぞれの主体の同一性を規定しうるかぎり、そして個々の主体のふるまいが根本的な性的禁忌であるインセンスト・タブーに触れないかぎりにおいて、いかなる倒錯も禁じたりはしないのだ、というわけです。僕には、フーコーがそんなふうにして76年の段階で見切っていたことが、現在までどんどん進行し続けているようにも見える。
だから、藤田さんの論文で話題になっていた「分人主義」にしてもそうですが、さまざまな可能性や選択肢を最大限認めて、他者の選択に対しては努めて寛容に、それとともに自己の選択もできるだけ自由かつオープンにしておくという議論だけでは、結局、政治の問題を私的な空間の個人の選択に帰着させるということにしかいきつかないかもしれないし、フーコーが言うような自由主義的統治性とは一切矛盾しないかもしれないという疑念はもっています。それを突破する道が僕に見えているわけではまったくないので、モヤモヤとした議論にならざるをえないのですが、およそ人が何者かとして誰かの前にあることの次元にまでいったん降りて、その次元から性や愛の問題、あるいは家族の問題を考えてみることはできるんじゃないか、そこからひょっとしたら、自由主義的統治性とは背反するような特異点を探り当てることができるのかもしれないという感触はもっています。そのかぎりでは、甘ったるいロマン主義者と言われようが、純愛イデオロギーだと誹られようがかまわない、と思っています(笑)。
[最後に、いくつかの応答]
藤田尚志 はい、いろいろありがとうございました。最後なので、これまでに答えそこねていた点にいくつか応答を返しておきたいと思います。
それから森川さんからは、私が家族の本質的な部分として強調した「空虚で唯名論的で機能主義的な家族」というのは、「強い個人」しか耐えられないのではないか、というご指摘をいただきましたが、それは実は私が、上野千鶴子さんの「おひとりさま」に対して思っていることなんですよね。「おひとりさま」の連合で優雅に生きられるのは、ある程度の所得をもち、家族関係にもさほど強く縛られることなく生きていける強い個人だけであって、多くの人は家族という「うっとおしく愛おしいもの」(是枝裕和)にしがみついて生きていくほかないんじゃないか、と。なので、私も森川さんと同じく、家族は安定して生きていくための装置としてある程度必要だと思っています。だからこそ、古めかしく見えるのを承知で「結婚の形而上学とその脱構築」なんてことを言っているわけです。しかし、家族の必要条件として「親密さ」を入れてしまうと、親密ではない家族に身を置かざるをえない人、たとえば、離婚したいけれども経済的条件から別れられずにいるという社会的弱者の立場にいる人にとって苦しくならないだろうか。「安らげる家族」という理想像が時として人を苦しめるときがある。私の懸念はその点にかかっています。
最後に、手短に「脱構築」と「分人主義」に関する誤解を解いておきたいと思います(詳しくは論文をご覧ください)。まず、「脱構築」について。これは論文の中でも強調しましたが、脱構築は「する」「外から意志的に行なう」ものではなく、「される」「形而上学の体系の内側から行なわれる」ものだということです。「分人」概念も同様です。分人とは「そうあろうとする」ものではなく、「そうなってしまう」ものです。そこには王寺さんが「運命」と呼び、森川さんが愛・性・家族に共通の性格としてみてとった「自分で自由に選べるわけではなく、自由にならないものとして受けとめないといけないもの」の性質があり、個人を超えるモーメントがあります。「分人主義」とは、ある意味で「超個人主義」だと言ってしまってもいいかもしれません。シュルレアリスム(超現実主義)が、現実を徹底的に微細に精細に描くことで現実を変容させていくように、超個人主義は個人の諸側面を精緻に把捉することで個人を変容させていく。いや、個人という輪郭のきわめてはっきりした概念と見えていたものが溶解し、実は諸関係の効果=結果にすぎないことが明らかになってくる。この、個人を超え出ていく側面を表すために、私は人間を社会的諸関係の束であり響き合いと捉えたうえで、明確に「個人性」(individuality)と「人格性」(personality)を区別し、前者は法的・制度的虚構であり、後者を「実存」(existence)ならぬ「響存」(echo-sistence)と捉えました。そこでは個人は“止揚”されていると言ってもいいかもしれない。なので、分人主義は、「さまざまな可能性や選択肢を最大限認めて、他者の選択に対しては努めて寛容に、それとともに自己の選択もできるだけ自由かつオープンにしておくという議論だけ」にはとどまらないと考えています。ただし、矛盾するようですが、一見すると「政治の問題を私的な空間の個人の選択に帰着させる」ように見え、「フーコーが言うような自由主義的統治性とは一切矛盾しない」ように見えるかもしれないということは否定しません。私は政治哲学に関しても、「生の哲学」の観点から考えているので、おそらく王寺さんとも森川さんともかなり異なるヴィジョンをもっているのだと思います。この点はもっと突っ込んで議論を深めたいところですが、もう時間がありません。
本当はさらに、質疑応答の最後に出てきた「交換」や「贈与」、あるいはすでに繰り返し述べてきましたが、自明のものとされてきた「個人」という概念についても、おそらくもう1度考え直す必要があると思いますし、本日のテーマであった「愛、性、家族のポリティクス」そのものについても議論をさらに広く、さらに深く継続していかなければならないと思っています。が、今日のところはそろそろ時間ということで。本日は長時間お付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。フロアのみなさまにとって少しでも愛、性、家族の問題について考えなおすきっかけになれば幸いです。
*《ジェンダー対話シリーズ》第5回「愛・性・家族のポリティクス」は、2016年5月13日に京都大学生協ルネ書籍部で行われた「ボク/ワタシたちをつなぐもの――愛・性・家族のポリティクス」(登壇者:王寺賢太、森川輝一、藤田尚志、宮野真生子)を元にしています。なお、本イベントの書き起こしは、科学研究費基盤研究(C)「フランス現代哲学における主体・人格概念の分析(愛・性・家族の解体と再構築を軸に)」研究課題番号:16K02151(研究代表者:藤田尚志)の助成を受けています。また、ウェブでの掲載にあたり、ナカニシヤ出版様のご協力を得ました。記して感謝申し上げます。
【登壇者プロフィール】
王寺賢太 京都大学准教授。博士(文学、パリ西大学)。思想史。共編著に『現代思想と政治:資本主義・精神分析・哲学』(平凡社、2016年)、共訳書にドニ・ディドロ『運命論者ジャックとその主人』など。
森川輝一 京都大学教授。博士(法学)。政治思想史。著書に『〈始まり〉のアーレント:「出生」の思想の誕生』(岩波書店、2010年)、共編著に『政治思想と文学』(ナカニシヤ、2017年)など。
藤田尚志 九州産業大学准教授。博士(哲学、リール第三大学)。フランス近現代思想、アンリ・ベルクソン研究。編著に、シリーズ『愛・性・家族の哲学』1~3巻(宮野真生子と共編、ナカニシヤ出版、2016年)。現在、「けいそうビブリオフィル」にて、『ベルクソン 反時代的哲学』を連載中(近刊)。
宮野真生子 福岡大学准教授。京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。日本哲学史、九鬼周造研究。著書に『なぜ、私たちは恋をして生きるのか−−「出会い」と「恋愛」の近代日本精神史』(ナカニシヤ出版、2014年)、編著に、シリーズ『愛・性・家族の哲学』1~3巻(藤田尚志と共編、ナカニシヤ出版、2016年)など。
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第4回 愛・性・家族のポリティクス(前篇)
第3回 息子の『生きづらさ』? 男性介護に見る『男らしさ』の病
第2回 性 ――規範と欲望のアクチュアリティ(後篇)
第1回 性 ――規範と欲望のアクチュアリティ(前篇)