現実は変えられないという「現実主義」に抗するためにフィクションは意味をもち得るか、SFアニメで考える骨太フィクション論。
科学、技術の急速な発展をうけて、現実主義者は、フィクションは意味がないしくだらない、あるいは、無責任で害悪でさえあるという。それに対し、そのような態度こそがわたしたちの現実を堅く貧しくしているのだと反論することはできるのだろうか。名作SFアニメを題材に、フィクション、現実、技術について、深く検討する。本連載を大幅修正加筆し、2018年12月末刊行。
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古谷利裕 著
『虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察』
四六版判上製・304頁 本体価格2600円(税込2808円)
ISBN:978-4-326-85196-6 →[書誌情報]
アンドロイドの「特別な一日」
2002年に公開されたスティーブン・スピルバーグ監督の『A.I.』という映画は、人を愛するようにプログラムされたアンドロイドの話でした。時代は、地球温暖化で多くの土地が海に沈んでしまっている未来です。
子供のいない夫婦のための子供型アンドロイドの試作機デイビッドが、それを開発した会社の社員である、一組の夫婦の元に届けられます。夫婦の息子は、現状では治療が困難な難病であるため冷凍保存されています。息子の代理となるアンドロイドに最初は抵抗を感じていた妻のモニカですが、次第にデイビットを受け入れるようになり、モニカは、デイビッドに組み込まれた「母モニカを永遠に愛する」プログラムを起動させます。モニカはデイビッドを息子とすることを決めたのです。このプログラムはいったん起動するとリセット不可能になっており、今後デイビッドは、自身が壊れてしまうまで母のモニカを愛しつづけることになります。
しかしここで、夫婦の本来の息子であるマーティンの病が奇跡的に回復し、家族にマーティンが戻ってくることになります。デイビッドはマーティンとともに暮らすのですが、マーティンはデイビッドを快く思っていません。そして、マーティンの友だちのいたずらに引っかかったデイビッドが、マーティンの命にかかわる事故を起こしてしまいます。夫婦は二人を一緒にしておけないと判断しますが、夫婦がデイビッドを放棄すると彼は廃棄処分にされてしまいます。悩んだ末、モニカはデイビッドをこっそり森に捨てるのです。
言葉を喋るクマのぬいぐるみテディとともに森に置き去りにされたデイビッドは、かつてモニカに読み聞かされた「ピノキオ」の物語を思い出し、ブルーフェアリーに会って本当の人間にしてもらえば母に愛してもらえるようになると考え、ブルーフェアリーを探そうとします。様々な出来事や危険を乗り越えて、デイビッドは、今は海中に沈んでしまっている遊園地の廃墟にブルーフェアリーの像をみつけ、その像に祈るのでした。
デイビッドは海底でなんと2000年も祈りつづけ(スリープモードになっていたわけですが)、その間、氷河期が訪れて地表は氷で覆われ、人類は絶滅し、地球は高度に発達したAIのみが活動する世界になっていました。AIによって海底から引き上げられたデイビッドは、AIたちから、絶滅してしまった人類の記憶をもつ貴重な資料として手厚く扱われます。デイビッドはAIに、自分が持っている髪の毛を元に母のクローンをつくってほしいと要望します。しかし、クローンの命は一日しかもちません。
そしてデイビッドは、再生されたモニカと、人類が生きていた当時のように再現された空間で、2000年の間夢に見つづけた、自分だけが母に愛される特別な一日を過ごします。大量生産のためのプロトタイプのアンドロイドとしてではなく、唯一の存在である息子として、母からの愛情を受けることのできる、たった一日です。時間が過ぎ、永遠の眠りにつくモニカの傍らで、デイビッドも幸せそうに眼を閉じます。ブルーフェアリーへの祈りは届いたと言えるでしょうか。
この映画のラストにある特別な一日はとても奇妙なものです。人間の愛情を模倣して再現するようにプログラムされたアンドロイドと、髪の毛のDNAとアンドロイドのメモリーにより再構成されたクローンのモニカが、AIによって再現された舞台の上で、既に滅亡してしまった人間たちの「母と子の愛情」を一日だけ再演するのです(まったく異なる知性であるAIに、それはどのように映るのでしょうか)。これは、アンドロイドであるデイビッドの夢の実現なのですが、しかしこの幻のような、ホログラムのような一日を現実だと言うことができるのでしょうか。ただ、これを、人類が既に絶滅してしまった人間不在の場所にあらわれた「人間というものの姿(形象)」であるとは言えるでしょう。時を越えた蜃気楼のように、人間がいなくなった場所に、人間の姿(愛という形象)がふっと浮かび上がったのです。
人間が不在の場所に蜃気楼のようにあらわれる人間の形象。『けものフレンズ』という、モロー博士のいない「モロー博士の島」のような物語と、『A.I.』のラストである、この「特別な一日」の間には、深い繋がりがあるように感じられます。
ジャパリパークという場所
『けものフレンズ』の舞台となるのは、ジャパリパークと呼ばれる島まるごとが一つのテーマパークであるような場所です。そこに住んでいるのは「フレンズ」と呼ばれる、動物が人間化(美少女化)した存在です。フレンズは、もともとのその動物が持っていた特徴が、人間の特徴や性格へと転化するような形で人間化されているようです。例えば、気温の高低差のはげしい砂漠に住むスナネコは、何事にも興味を持つがすぐに飽きてしまう(熱しやすく冷めやすい)性格として人間化され、スナネコのフレンズとなります。フレンズは大きさも人間の基準に合わせられています。エリマキトカゲとインド象とのサイズの差は、フレンズ化することで、小柄な人と大柄な人くらいの差にまで均されているといった具合です。ジャパリパークに住むすべての動物のフレンズは、無償で提供されるジャパリマンという饅頭を食料としているため、捕食-被捕食の関係がありません。すべての動物のフレンズに、生存に必要なニッチと食料が与えられているので、労働を必要とせず、競争や争いが存在しない世界となっているのです。
つまり、フレンズとはキャラ化された動物であり、ジャパリパークはそのようなキャラが住む、人間のためのテーマパークであるとしか考えられません。しかし、そこには人間がいないのです。人間が人間を楽しませるためにつくった人工的な環境であることは明らかなのに、人間の姿がない。つまり、人間はこの世界に既に存在しないか、少なくとも、この地域からは完全に撤退していると考えられます。そして、人間を楽しませるためにつくられたフレンズたちが、人間が去った後にも、人間が残した環境を利用しながら、持続的にそれを維持し、自律的に生存しているというのが、この物語の世界だと言えます。
動物を人間化するというと、すぐさま想起されるのが「モロー博士の島」ですが、しかしジャパリパークにはモロー博士に相当する人間がいません。山頂の火口から噴出される「サンドスター」という物質によって、動物が自動的にフレンズ化してしまうということになっています(ということは、この島にはフレンズ以外に、普通の野生動物も生息しているのでしょう)。山頂からはもう一つ、「サンドスターロー」という物質も排出され、サンドスターローは、ジャパリパークにおけるフレンズたちの唯一の脅威であるセルリアンを生成し、活性化します。セルリアンとは、生物というより鉱物によってできた怪物のような存在で、火山の噴火やマグマといった自然災害がイメージされているようです(水に触れると硬化して石になります)。セルリアンに食べられたフレンズは、元の動物の姿に戻ってしまうとされます。つまり、サンドスターによって動物がフレンズ化(人間化)し、サンドスターローによってフレンズが動物化(脱人間化)する、という循環構造ができているのです。脱人間化することで、フレンズだった時の記憶と言葉を失います。
そのような世界に、ある日、自分が何者なのか(どういう動物のフレンズなのか)分からない主人公が現れるところからこの物語ははじまります。「かばん」という珍しい物を身に着けていることから、仮にかばんと名付けられたこの主人公が、この世界ではじめて出会ったフレンズであるサーバルキャットのサーバルと一緒に、自分が何者であるのかを探す旅をするというのが物語の主線となります。そして、主人公のかばんが人間であることは、観客には一目瞭然です。明らかに人間のために作られたと思われる環境なのに人間がいない場所に、自分のことを人間だと知らない人間がたった一人だけあらわれるのです。