現実は変えられないという「現実主義」に抗するためにフィクションは意味をもち得るか、SFアニメで考える骨太フィクション論。
科学、技術の急速な発展をうけて、現実主義者は、フィクションは意味がないしくだらない、あるいは、無責任で害悪でさえあるという。それに対し、そのような態度こそがわたしたちの現実を堅く貧しくしているのだと反論することはできるのだろうか。名作SFアニメを題材に、フィクション、現実、技術について、深く検討する。本連載を大幅修正加筆し、2018年12月末刊行。
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古谷利裕 著
『虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察』
四六版判上製・304頁 本体価格2600円(税込2808円)
ISBN:978-4-326-85196-6 →[書誌情報]
現実の入れ替わり
なんとかして御神体にまで辿り着いた瀧は、再び入れ替わりが起きることを期待して、三葉の唾液によって発酵させた口噛み酒を口にします。間接的ではありますが、この時に瀧ははじめて、瀧の身体として三葉の身体と接触をしたことになります(3年前に電車のなかで接触していますが、この時の瀧は三葉を知りません、つまり、三葉からみた瀧との初めての接触と、瀧からみた三葉との初めての接触とが、食い違うのです)。間接的に身体がはじめて触れ合ったのです。ここで「入れ替わり」が、偶発的な出来事から、期待する事象の意図的な誘発へと意味を変え、また、同時代における場所の交換から、過去への遡行、あるいは黄泉への潜行へと意味を変えています。それはある意味で、死者たちの国に意識的に降りていくことであり、死者たちと対話し、死者たちを復活させようとすることです。3年前に死んだはずの三葉の魂を、そうと知った上で現在の瀧の身体の元によみがえらせるということでもあります。そしてこのことは、宮水システムが、まんまと瀧を取り込むことに成功したことをも意味します。三葉の姿となった瀧は、糸守町を救うための未来からのメッセンジャーとなって、過去の糸守町へ現れるのです。
しかし、三葉の姿となった瀧と、三葉の友人の高校生たちだけでは、糸守の住人たちに、彗星の落下という事実について説得し、安全な場所への避難を誘導するには力が足りません。彼らは大胆な作戦を思いつき実行しますが、上手くいきません。糸守の住人たちを安全な場所に避難させるためには、市長である三葉の父の力が必要であり、彼を説得する必要がありますが、中味が瀧のままの三葉ではうまくいきません。そこで、三葉となった瀧は、御神体の元で眠っているはずの、瀧となっている三葉に事情を話し、入れ替わりを解いて、三葉自身である三葉として、父を説得してもらおうと考えるのです。しかし、瀧となった三葉が眠っているのは、三葉となった瀧がいる「今」の御神体ではなく、3年後のそこであるはずです。
心と体の直接的な交換によって成り立つ二人の時間の「同時性」は、二人が決して他者として「会う」ことがないことによって成立するものです(二人が「会えない」ことによって時間のずれが露呈しない)。会って話せないことで、二人はずれた時間(別の世界)を背景にもったままで同時性を生きることができるのです。そのような二人が会って話すことを可能にするのは、二つの時間(二つの世界)のどちらにも属さない、その界面にある時空です。御神体のある、クレーター状に抉れた土地のエッジにあたる頂の部分、そして、昼でもなく夜でもないそのエッジの誰そ彼の頃、そのようなごく稀である特異的な時空において、二人は例外的にほんのわずかだけ「会って話す」ことができたのでした。入れ替わった3年後の糸守で、三葉は、壊滅した町を既に見て事情を察していたので、細かな説明は必要ありませんでした。三葉は三葉として町に戻り、父を説得し、住人の避難は実現しました。二人の協力によって大災害は免れたのです。
それは、ここで世界の現実が大きく分岐することを意味します。500人以上の人が亡くなった大災害が、たまたま避難訓練があったために誰も死ななかった奇跡的な事件へと変貌します。世界1から世界2が分岐し(片割れし)、世界1は闇へと後退し、世界2の方が「現実」となるのです。「界面」的な時空で一瞬だけ会うことができた三葉と瀧ですが、その直後には二つの時間の間のリンクは完全に途切れてしまうのです。組み紐を三葉に返してしまったため、瀧に右手首にそれはもうありません。瀧の掌に「三葉」という名前は書かれていませんし、仮に書かれていたとしても、瀧はその意味を既に分からなくなっていたでしょう。宮水システムは完璧に作動し、糸守は救われ、三葉は生き返りましたが、それによって二人の入れ替わりの経験や、界面での奇跡的な出会いは、この世界そのものから完全に忘れ去られ、消えてしまったのです。
わたしのいない「ここ」
何かを「忘れたこと」それ自体を忘れたのかもしれない、と想定することで、「世界そのものが世界自身を忘れる」という事態を想定する(想像する)ことができる。このような想像力はとても重要で、この点に、この物語の大きな意味があると考えられます。それは、「自分が現にあるありかた」以外の世界や自分の状態について、どのように考え、感じることができるのかということでもあります。たとえば、「わたしが生まれなかった世界」について、わたしは「わたしとして」何かを考えることができるでしょうか。
それにはまず、わたしを「そこ」として想像するというステップが必要だと思います。たとえば、自分が映っている映像を観て、そこに動いている何かを自分だと認めることと、ラバーハンドイリュージョンの実験で、ゴムでできた腕を「自分のものだ」と感じることの間には大きな隔たりがあります。ラバーハンドイリュージョンとは、自分の腕を視界の外に置き、他人から棒でつつくなどの刺激をしてもらい、視界内に置かれたゴム製の腕にも、それと同じタイミングで刺激が加えられると、あきらかにゴムであるそれが、自分の腕であるように感じられるという現象です。その時に、ハンマーでゴムの腕を殴ろうとすると、人は反射的にそれを避ける仕草をするといいます。その時、わたしが「そこ」に移動しているのです。映像に映った自分をハンマーが殴ろうとしても、嫌な気分なるかもしれませんが、反射的な反応をするまでにはならないないでしょう。
三葉は、「生まれ変わったら東京のイケメン男子」になりたいと湖に向かって叫びますが、そのような願望=妄想はあくまで「わたしの欲望」であり、わたしを「そこ」として想像するところにまでは至っていないでしょう。遠くにある「そこ」に感情移入しても、「そこ」が「ここ」化するだけです。しかし、実際に東京のイケメン男子と体と心が入れ替わり、股間に男性器の存在を感じ、トイレへ行って「リアルすぎる」とげんなりすること、つまり、ラバーハンドではなく男性器を「自分のもの」として感じることは、わたしを「そこ」として想像することに近いと言えるのではないでしょうか。
ここで三葉は、瀧に変身したのではなく、三葉(女性・ここ)として瀧(男性・そこ)の経験をもったということになるのです。わたしはあくまで「ここ」にありながら、ふと気が付くと「そこ」に移行している。しかしそこを「そこ」と言えるのだから、起点としての「ここ」はどこかに残されている。本来、わたしのいる位置が常に「ここ」なので、どこに移動しようとわたしは「ここ」にしかいられないはずです。しかし、「そこ」にわたしが見出されるとしたら、わたしのいない「ここ」がどこかにあることになります。わたしのいない「ここ」が、起点として、あるいは「そこ」を見出すための志向性として残されたまま、わたしがふっと「ここ」から零れ出て、「そこ」に見出されるのです。
あるいは、三葉となった瀧が、三葉のおっぱいを揉んでいる時、彼は何をしているのでしょうか。男性の欲望として女性の体を触っているのか、それとも、自分が持たないはずのものを確かに「もっている」と感じることの違和を、自分の手で揉むことによって調整し、解消しようとしているのでしょうか。おそらく、前者でもあり、同時に後者でもあると思います。この「おっぱいを揉む」という行為の両義性こそが、わたしを「そこ」として想像することに繋がっていると言えるのではないでしょうか。
「ここ」としてのわたし、あるいは、わたしが「わたしの身体」をもつという時、それには二つのモードがあると考えられます。一つは呪いとしての身体、もう一つは故郷としての身体です。わたしは常に「ここ」に縛られていて、わたしが「わたしという形式」である限り「ここ」でしかありえない。それを基本として、この固着性から、いかにして逃れ、可塑性や多様性、可能性へと開かれてゆくかを探るモードが、呪いとしての身体モードです。そして、それとは逆に、あまりにもとりとめのない、多様に開かれたネットワークとしてある現実のあり様に対して、このわたしの身体、あるいは「ここ」という限定性や有限性こそを根拠とし、故郷とするモードが、故郷としての身体モードでしょう。この二つのモードは排他的ではなく、常に同時に働きながら「わたしという現象」を作り出し、どちらか一方が強くなったり弱くなったりするでしょう。
起点としての「ここ」を残しながら、ふっと零れ落ちた「そこ」にわたしが見出される時、わたしは、「この現実」にいながら、それが別様なものである可能性のなかに零れ落ちると言えるのではないでしょうか。それは、わたしがわたしのままでいながら、他者でありえた可能性のなかに零れ落ちるということです。この場所においてはじめて、「わたしがいなかったかもしれない世界」のあり様を、「わたしとして」思考できるのではないでしょうか。それは、「わたしの死後」の世界を、わたしとして考えるということでもあるでしょう。