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『法的人間 ホモ・ジュリディクス』

 
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アラン・シュピオ著/橋本一径・嵩さやか訳
『法的人間 ホモ・ジュリディクス 法の人類学的機能』

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訳者あとがき
 
 本書はアラン・シュピオ(Alain Supiot)著、Homo juridicus. Essai sur la fonction anthropologique du Droit, Seuil, 2005 の全訳である。翻訳の底本には二〇〇九年の文庫版を用いた。本書は二〇〇七年にサスキア・ブラウン(Saskia Brown)の訳により英訳が刊行されている(Homo Juridicus: On the Anthropological Function of the Law, Verso, 2007)。邦訳にあたってはこの英語版も適宜参照した。
 本書の著者であるアラン・シュピオは、労働法・社会法を専門とするフランスの法学者である。一九四九年にフランスのナントにて生まれた同氏は、一九七九年にボルドー第一大学にて国家博士号(法学)を取得し、早くも翌年には私法および刑事学の教授資格を取得している。以後、ポワチエ大学教授(一九八〇年~一九八二年)、ナント大学教授(一九八二年~二〇一二年)として労働法の研究・教育に携わる傍ら、ナントにて学際的研究組織であるアンジュ・ゲパン人間科学研究所(la Maison des sciences de l’Homme Ange Guépin)およびナント先進研究機構(l’Institut d’études avancées de Nantes)をそれぞれ一九九五年、二〇〇八年に創設し、ナント先進研究機構については所長職を二〇一三年まで務めた。二〇一二年に同氏は、コレージュ・ド・フランスの教授に就任し、「社会国家とグローバル化:連帯の法的分析」との講座を担当している。
 『法的人間』と訳した本書のタイトル『ホモ・ジュリディクス』が、フランスの人類学者ルイ・デュモンの『ホモ・ヒエラルキクス(階層的人間)』(一九六六年。邦訳二〇〇一年)と、その続編である『ホモ・エクアリス(平等的人間)』(一九七七─一九九一年。未邦訳)を念頭に置いたものであることは、シュピオが本書でしばしばデュモンを引いていることを指摘するまでもなく明らかである。デュモンの著作は、カースト制や個人主義を手がかりに「人類とは何か」を問おうとした大著であったが、本書もまた、一読していただければおわかりのように、西洋的人間と法との本質的な関係を、時にアジアやアフリカとの比較を交えながら解き明かそうとした、壮大なプロジェクトである。
 一方でアラン・シュピオは、労働法の専門家として、実務的な仕事も多く手がけてきた。かつて序論と第一部のみが日本語にされたこともある(財団法人日本ILO協会訳編『フランス労働法研究』、一九九六年)主著の『労働法批判』(Critique du droit du travail, PUF, 1994)は、版を重ねて読み継がれているほか、入門書『労働法』(Le droit du travail, PUF, « Que sais-je ? », 2004)も、二〇一六年には第六版が刊行され、フランスで労働法を学ぶ者がまず初めに手に取る一冊であり続けている。またシュピオを中心に編纂された報告書『雇用を超えて』(Au-delà de l’emploi. Transformations du travail et devenir du droit du travail en Europe, Flammarion, 1999)は、欧州委員会の依頼により、今後の労働政策・社会政策のあり方を提言した報告書であり、欧州のみならず世界的に注目されたこの報告書は、二〇一六年に第二版が刊行されている。近年フランスではマクロン大統領が遂行を目指す労働法改革が政治的な火種となっており、改革の是非についてシュピオが新聞等でコメントを求められる機会も少なくない。
 このような実務家としての仕事と、本書のような法哲学的・法人類学的な仕事は、一見すると乖離しているかのようにも思われる。しかし本書の議論はシュピオが労働法学者であるからこその知見に満ちている。労働法という観点を常に視野に入れておかなければ、本書の議論の争点を見誤る恐れもあるだろう。だが労働法とは、そもそもどのような法律なのだろうか。
 ヨーロッパで一九世紀末に誕生した労働法は、刑法や民法などと比べて、比較的新しい法分野であると言える。なぜこの時期に労働法という新たな法が必要とされたのだろうか。シュピオが本書で説明しているように、それは産業の機械化に伴う労働条件の変化と関係している。たとえば「機械が筋力の必要を減じることで、女性や子供の労働搾取が可能になった」(本書第四章)。あるいは「疲労や日周期とは無縁の馬力が、労働日を無限に延長することを可能にした」(同上)。こうした事態を前にして、労働法は、労働時間を制限することにより、「労働者の身体を保護」(同上)したのである。
 つまり労働法の誕生において問題となっていたのは、労働者の「身体」である。機械化の進展に伴う「身体」の出現は、フランス革命によって成立した平等の原則に対する脅威であった。人権宣言において「生まれながらにして平等」と謳われた法主体は、たとえば所有権を与えられることによって、封建的な関係から解放される。しかし個人と同様に法人もまた所有権を有していることからも明らかなように、法主体とは擬制[フィクション]であり、それは身体を持たない。このような虚構的な主体と、実際に生まれてくる身体との間には、当初からズレが存在したのだが、このズレはひとまず無視することができた。ところが機械の発達によりこのズレは見過ごすことのできないほど大きくなる。たとえば工場の大型機械が事故を起こせば、操作する人間が責任を負いきれないほどの大きな暴力をふるうこともある。労働法は「事物の所為による責任」という概念を導入し、労働者の身体を客体化することで、その人格を保護したのである(詳しくは、前掲『労働法批判』第二章参照)。より法学的に表現すれば、労働法は、自由・平等と観念される法主体の間で妥当する契約自由の原則を、現実の労使間の不平等と産業の機械化による労働者の身体への侵襲とに照らして修正し、労働者保護のための国家介入を組み込むことで、労使間の実質的な平等を実現しようとしているのである。
 機械化が明らかにしたのは、ただ生まれてくるだけでは、平等は担保されないという事実である。法は雇用者と労働者の間に立ち、両者の平等という建前を見守らなければならない。それこそが本書で「ドグマ的機能」と呼ばれる、法の役割である。ドグマとは正当性を保証するもののことである。西洋では、かつて神により担われていたドグマの役割は、国家により引き継がれた。労働法の理念を体現する国家とは福祉国家であり、この新たな国家は、個人と個人の間に介在する〈第三項〉として、「生まれながらにして平等」という理念の後ろ盾の役割を果たすのである。
 このように労働法の発明とは、一九世紀末に訪れた人権の危機に際して、法のドグマ的な役割を再確認するものだった。しかしながら、生まれるだけでは平等が担保されないという事態を前にして、導き出された解決法は、残念ながら福祉国家の創設だけではなかった。むしろ逆に、ドグマ的なものを解体しようとする動きも生み出されたのである。それはつまり、生まれながらの身体を、制度的な場面においても基盤とみなし、生物学的な法則に、法律を従わせようとする立場である。こうした立場の嚆矢である優生学が、労働法の発明とちょうど同じ頃に出現したのは決して偶然ではない。このような立場はやがてナチス的な発想に結びつくことになる。本書に引かれる(第二章)ヒトラーの言葉のように、そこにおいて国家は「種の保存」という目的のための手段でしかない。
 ハンナ・アーレントに依拠しながら、本書でシュピオがナチスの批判を執拗に繰り広げるのは、ナチス的な発想が今日でも形を変えて、その勢力をますます強めているからである。各個人を素粒子状の存在とみなし、そうした個人の自由な取引により市場が形成されていると考える、新自由主義的な立場がそれである。こうした立場がナチスと共通するのは、生物学であれ経済学であれ、いずれも「科学」の法則を基盤とみなし、国家のようなドグマ的な機能の介入を最小限にとどめようとするからである。一部の経済学に由来するこうした発想の影響が、法学にまで及んでいる現状に、シュピオは強い懸念を抱く。
 生物学主義であれ、市場中心主義であれ、問題はそれが「ドグマを否定するドグマ」として機能してしまうことである。国家が果たしてきたドグマ的機能は、「非科学的」なものとして退けられる。一方でドグマとは、人間が人間である限り取り除くことのできないものである。なぜなら言語がすでにドグマ的な構造を備えているからである。ある表現が正しく、別の表現がそうではない理由は、必ずしも合理的に説明できるものではなく、最終的には「そう決まっているから」としか答えられないことも多い。西洋においては法が担ってきた「禁止」の機能も、典型的なドグマである。こうしたドグマ性を科学主義が否定しても、代わりに自らがドグマの位置につくという結果を導くだけである。その帰結によりもたらされる「破壊的効果」の被害は甚大である。
 シュピオが本書で「契約主義」と呼ぶ、あらゆる対人関係を契約に還元するような態度がその一例である。互いに交わした約束が法律としての効果を発揮する、契約という制度は、西洋の特殊な発明品であり、日本がいまだに契約社会になりきれずにいることは、本書が指摘するとおりである。このような契約という制度が機能するためには、国家のような〈第三項〉が当事者同士の間に介在し、両者の対等性を保証しなければならない。ところが「契約主義」は、世界全体を均質な市場とみなし、そこにおいて各個人が自由に契約を結び合うことができると考える。しかしすでに見たように、個人の平等性は生物学的に生まれるだけでは確保されない。結果として群雄割拠することになるのは、かつての封建制を思わせるような、主従関係の数々である。
 ただしそれはかつてのようにあからさまな従属を強いるものではない。マネージメントやガバナンスと呼ばれる新たな管理のシステムにおいて、人々が従うのは上司の命令ではなく、到達目標や効率や評価などの「合理的」な基準である。「封建的な色合いを取り戻した契約は、新たな種類の忠誠関係を結ぶために用いられ、命令を下すことなく行動を指図することを可能にする「客観的」な評価基準に人々を従わせる」(第五章)。こうした基準によって部下を評価する上司もまた、別の基準によって縛られている。私的な領域で発達するこのような忠誠関係は、近年では公的な領域にも進出している。このような「契約主義」に共通する特徴は、「形式的には平等原則を侵害することなく」、人々を「他人の権力の行使領域に導き入れること」である(第三章)。こうして「新たな圧制」(第五章)への道が開かれる。
 こうした危機を前にして、「人類の共通資源」としての人権の価値の再評価を唱えるシュピオの主張は、穏当すぎるものに聞こえるだろうか。もちろんシュピオは「人権」が人類に普遍的な価値であるとして、あらゆる文化がそれを受け入れることを求めているわけではない。そのような態度は「契約主義」と大差がないだろう。人権とは、「人格」という法主体を単位とする、西洋的な価値観にすぎず、他の文化がそれを受け入れるのは自明のことではない。それでもなお、「ドグマを否定するドグマ」による圧制が差し迫るなか、人類にとっての「共通のドグマ的源泉」(第六章)となりうるものとして、私たちは人権しか持ち合わせていないのである。このような人権を原理主義的に振りかざすのではなく、他の文化にも「解釈の扉」を開いて、来るべき「破壊的効果」の備えとするのが、シュピオの目指す道である。
 人権の価値を保証するのが、目下のところは国家である以上、ドグマ的機能を果たす限りでの国家を、シュピオが擁護するのは当然である。こうしたシュピオの立場を「保守的」だとみなせば、本質を見誤ることになるだろう。労働法を発明し、福祉国家を創設し、二度の大戦の反省の上に立つ国家とは、今日の私たちにとっての到達点である。これに対し、国家のドグマ的機能を否定する市場中心主義がもたらすのは、封建的な主従関係であることは、すでに見たとおりだ。つまりシュピオの国家擁護は、封建時代を回帰させるような反動的な流れに対する抵抗である。どちらが「保守的」であるかは明らかであろう。
 シュピオが本書の次に出した単著である『フィラデルフィアの精神』(L’esprit de Philadelphie, Seuil, 2010)は、経済活動を社会正義に従属させることを宣言した、一九四四年の「フィラデルフィア宣言(国際労働機関の目的に関する宣言)」の精神が、戦後の市場中心主義によって後退させられていく経緯を分析し、社会正義の復権のための新たな道筋を探った書物である。『ホモ・ジュリディクス』が理論編であるとすれば、こちらの書物は実践編であると言えるだろう。この書が日本の読者にとっても重要であるのは、日本国憲法もまた、とりわけ労働法規に関して、「フィラデルフィアの精神」を受け継いでいることが明らかであるからだ。つまり昨今の改憲の動きは、市場中心主義を前にしての社会正義の後退というグローバルな流れの中に位置づけられるのである。とかくドメスティックな議論に終始しがちな改憲論議に、新たな観点を導入するためにも、理論編である本書に引き続いて、『フィラデルフィアの精神』が日本の読者に届けられることが急務である。
 訳語に関して一言記しておく。本書におけるキー概念である「法(Droit)」は、日本語でいう「法」や「権利」の意味を合わせ持つとともに(とりわけ、droits と複数形になった場合には「権利」の意味であることが多い)、本書では上記の通り西洋的ドグマとして意識的に位置づけられている。こうしたことから、本書では、西洋的固有性を強調すべきと思われる箇所では、Droit の訳語としてあえて、日常語としても法律用語としても耳慣れない語ではあるが、〈法権利〉の語を当てている。また、légitimité には法学の分野では「正統性」の語が当てられることが多いが、宗教的な文脈で用いられるorthodoxie と区別するため、本書では「正当性」とした。
 翻訳はプロローグおよび第Ⅰ部を橋本が、第Ⅱ部を嵩がまず訳出し、橋本が全体を整えた。本書の邦訳書の刊行にあたっては、企画開始の時点から実に一〇年近くの歳月がかかった。原著の難解さから遅々として進まぬ翻訳作業を辛抱強く待ち支えてくださった、勁草書房編集部の鈴木クニエ氏に厚く御礼申し上げる。また、邦語訳の確認、原著者とのやり取り等をしていただいた西谷修先生(東京外国語大学名誉教授、立教大学特任教授)にもこの場を借りて感謝申し上げる。
 
二〇一八年一月
訳者
 
 
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