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『感情の哲学』

 
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西村清和 著
『感情の哲学 分析哲学と現象学』

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 もしも感情というものがなかったとしたら、どうだろう。AIを搭載した自動車ならば、客観的に見て危険とされる事態を察知して、われわれのように恐怖に駆られてまちがってアクセルを踏んでしまうといったこともなく、あらゆる情況を想定し、最近話題のディープ・ラーニングの能力を備えたプログラムにしたがって、そのつど確実にブレーキをかけて障害物との衝突を回避できるかもしれない。その代わりにわれわれのように、自分にとって安心できるだけの車間距離をとろうとか、あるいはいつなんどき事故に遭うかもしれないという恐怖からいっそ車に乗るのをやめてしまうということもないだろう。じっさい、絶対に安全だと保証された自動運転のバスに乗る乗客のなかには、たとえその運転が合理的であっても、ときにその運転に恐怖を感じるひともいるにちがいない。ということはつまり、感情とは客観的な事態に対する一般的な反応というのではなく、なによりも個々人にとって、自分が立っている〈いま・ここ〉の情況についての、あるしかたでの理解であり反応だということである。AIのように感情をもたなかったとしても、おそらくわれわれは、ある事態を認識したりそれにふさわしい行動をとったりする合理的な能力はもつだろうが、われわれが心と呼んでいるようなものはもたないだろう。
 感情は時間や空間と同様に、われわれ個々人がまちがいなく感じているにもかかわらず、いざそれを説明しようとしたとたんに、客観的な概念的思考や論理の手をすり抜けて謎めいたものに変貌してしまうような、根本的な経験の事実であり、だからこそ、これまで哲学が苦手としてきたテーマである。なるほどプラトンやアリストテレス、ストア派の古代感情論、近代のデカルトやヒューム、二〇世紀にはいってもシェーラーやサルトルなど、感情についての哲学的考察がなかったわけではない。だがそれらはおおむね、怒りや恐怖、悲しみなどタイプとして分類される諸感情のさまざまな現象について、その特性を記述するという点では有意義ではあるものの、われわれの心を構成する知覚や思考や判断、信念や欲求や意志と区別してとくに「感情」と呼ばれる心的現象ないし心的状態についての原理的分析という点ではなお不十分であった。しかし一九七〇年代以降、英語圏の哲学、とりわけ分析系の「心の哲学」の内部で、それまで哲学が苦手としてきた「感情」が、ホットトピックとして盛んに論じられるようになる。それというのも、感情を問うことは結局は、ひとの「心」とはいかなるものであるかという根本的な問題に深く分け入ることになるからである。しかし分析系の哲学者たちにとっても感情はなによりも個々人の心の経験であり、これをかれらはしばしば「志向的」で「現象学的」な経験と呼ぶ。さらには第一章で論じるように、七〇年代以降の感情の分析哲学を牽引し、その後の感情論に影響をあたえたロバート・ソロモンの感情論の根底には、意外なことにハイデッガーの現象学がある。本書は、客観的な合理性を追求する分析哲学が個人的で現象学的な感情経験をあつかうときにどのような問題が生じるのか、またそれはいかにして解決されうるのかをあきらかにすることで、分析哲学と現象学が切り結ぶ地点に立って、あらためて感情の原理論の構築をめざすものである。本書の副題が「分析哲学と現象学」となっているのも、このためである。
 第一章は、分析哲学における信念の命題的態度論をモデルとしつつ、これにハイデッガーの現象学を組みこむかたちで構想されたソロモンのいわゆる感情の認知理論ないし判断主義と、これを修正するべく展開された感情の知覚理論を批判的に検討することで、問題の所在をあぶりだす。そこであきらかになる難点のもとをたどれば、〈命題=永久文〉にかかわる概念主義や信念のパズルといった、そもそも命題的態度論が直面する原理的な問題に帰着する。それゆえ第二章では、信念のパズルで問われている命題的態度論の問題点をあきらかにした上で、それを解決するべく着想された、信念主体である「自己」にかかわるあたらしい議論に注目し、それがハイデッガーやメルロ=ポンティの現象学と通底するものであることを確認する。これを踏まえて第三章ではあらためて、「自己」といい「心」と呼ばれている領域のうちに、しかもそのホーリズムとしてのあり方に留意しつつ、知覚や信念、判断、欲求といった心的諸能力とのかかわりにおいて感情を位置づけること、すなわち「感情のトポグラフィー」をこころみる。また古来感覚や感情の一種とされてきた「快・快楽」とはほんとうのところなんなのかを、快楽主義の問題をも視野にいれつつ考察する。第四章では、感情の認知理論が問題にした感情の合理性の問題、すなわち、がんらい主観的で個人的な感情反応もそれに対応する情況に適切で合理的なものであるべきだという、いわば感情の当為にかかわる「感情の義務論」の問題を、信念の正当性にかかわる「信念の義務論」を検討することであきらかにする。その際、信念の合理性との対比で注目される意志の弱さや自己欺瞞、希望的観測、現実逃避といった信念態度の実質を見きわめることで、病的恐怖や「御しがたい感情」にまつわる感情の不合理性をめぐる葛藤についてもあきらかにする。第五章では、感情と行為の義務論、したがって感情と道徳の関係を問う。これは一八世紀イギリスにおける道徳情操論のテーマであったが、最近になってこれを再評価しようとする主張が見られるようになる。これらの主張が依拠するのは、ひさしく忘れられていたが一九七〇年代以降の感情論の隆盛にともなってにわかに注目されるようになった「感情移入」の概念である。それゆえ本章では、あらためて「感情移入」の概念を検証することで、現代の道徳の情操主義の有効性を検討する。そしてこれを受けて第六章では、道徳の情操主義を排して、現代のカント主義を標榜するトーマス・ネーゲルの「合理的利他主義」を吟味することで、その可能性とともに問題性をもあきらかにし、あらためて感情と道徳のかかわりについて論じる。最後の第七章では、芸術と感情とのかかわりをとりあげる。近代のロマン主義美学では、芸術は作者の内面の自己表現とされ、われわれ鑑賞者も作品をまえにしてその美に感動し、あるいはフィクションの物語世界に没入して喜怒哀楽を感じるとされてきたし、現代のわれわれもなおその末裔である。それゆえわれわれとしてはここまでの感情と快についての議論を踏まえて、芸術と感情のこうしたかかわりについて、あらためて美的快や美的感情、美的義務論、そしてフィクション経験における感情移入と共感という論点から考察する。
 なお本書で使用される基本用語について、ひとこと注意を促しておきたい。わが国の心の哲学ではしばしば「emotion」を「情動」と訳すが、情動という日本語は心理学や生理学、脳科学などの科学用語として用いられているにしても、日常用語として用いられることはない。そこで本書では「emotion」を日常語の「感情」と訳す一方で、「affect」を日常用語としての感情や科学用語としての情動をもふくむよりひろい概念として、「情動」と訳すことにする。このほかにも、「passion」は「情念」と訳し、「sentiment」は文脈に応じて「心情」ないし「情操」と訳している。より複雑なのは、英語における「emotion」と「feeling」の関係である。英語の「feeling」には二種類の意味がある。ひとつは痛みやかゆみといった身体生理学的な感覚であり、これはときに「身体的感覚(bodily feelings)」ともいわれる。もうひとつは、恐怖や悲しみ、苦痛や喜びと名指される特定の感情の種ないしタイプがそのつど個々人の心的状態のエピソードとして生起することで、たとえば恐怖と呼ばれる「ある感情を感じる(feel an emotion)」とか「恐怖の感覚・感じ(a feeling of fear)」といわれるばあいである。これはときに「感情の感覚(emotion feelings)」といわれたりもするが、このように英語の「feeling」は身体的な「感官的感覚(sensations)」を感じ、感覚することにも、また感情のような心的状態を感じ、感覚することにも用いられる。それゆえ本書では、「emotion」と「feeling」が区別されていない文脈ではこれらのいずれをも「感情」と訳し、身体的感覚が話題になっている文脈では「feeling」を「感覚」と訳す。また「emotion」と「feeling」が感情のタイプとエピソードとしてはっきり区別されている文脈では、「feeling」が「感情の感覚」として容易に受けとられうるばあいには「感覚」と訳すが、それがあいまいなばあいにはとくに〈感情=感覚〉と明記することにする。このほかにも「意味」ないし「意義」と「指示」や、「思念(思想)」といった語のように、訳語として一般に安定していないものがあるが、これらについてはそのつど本文ないし注で説明しておいた。「pleasure」については、本書でわたしはときに「快」といったり「快楽」といったりするが、それはとりあえず語呂の問題で、これらは基本的に同義語として使っている。
 
 
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