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『歴史学者と読む高校世界史』

 
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長谷川修一・小澤 実 編著
『歴史学者と読む高校世界史 教科書記述の舞台裏』

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世界史教科書をめぐる近年の情勢
 二〇二二年度より高校社会科に、日本史と世界史を統合し近現代を中心に教えることが予定されている「歴史総合」が必修科目として導入される。その結果として、従来の歴史科目のうち、必修科目であった「世界史」と選択科目であった「日本史」は、それぞれ「日本史探究」「世界史探究」と名前が変わり、選択科目となることが決定している。この「歴史総合」が具体的にどのような内容を持つ科目になるのか長らく明らかとなっていなかったが、二〇一八年三月に新しい学習指導要領案が告知されることで、文科省の要求構図がようやく見えてきた。今後、この構図にしたがって、教科書会社と執筆者の間で議論を積み重ね、新しい歴史教育のベースがつくられることになる。実際にその教科書を用いて高校生に授業実践を行う高校の社会科教員らは、その教科書が果たしてどのような構成になるのか、少なからぬ関心を寄せている。
 「歴史総合」にせよ、選択となる「世界史探究」や「日本史探究」の教科書にせよ、そこで採用される歴史記述は、わたしたちの誰もにとって極めて重要である。というのは、教科書間での記述に細部の差こそあれ、日本国が、すべての記述を規定する学習指導要領を定め、教科書調査官を通じてそれに基づく教科書検定を実施している以上、それら歴史教科書が政府「お墨付き」の歴史認識を示しているからである。さらに言えば、検定済み教科書を通じて全国の高校生が学ぶことにより、そこで示された歴史認識が拡散され、その歴史観が国民全体に刻み込まれてゆくからである。それだけに教科書の執筆者もそれを用いて教える高校教員も、教科書記述には最大限の関心と細心の注意を払うべきことは言を俟たない。
 他方で、一旦は教科書を通じて高校で歴史を学び、大学で歴史学を専攻して研究史の整理と史料調査を重ね、やがて自他ともに歴史学者と認めるようになった専門家が、改めて高校世界史教科書を読むと、その歴史記述に首をかしげることがある。その記述が、歴史学者となった自らが所属する今日の歴史学界における共通の歴史認識と乖離していることがままあるからである。本書を手にした読者諸兄の中にも同様の体験をした方があるのではないだろうか。
 本書のもととなった共同研究は、とりわけ歴史学者による教科書記述に対する疑問、すなわち教科書記述と歴史学界の研究成果との間に見られる乖離がなぜ生じているのか、そしてそうであるならばどのようにしてその乖離が生起したのか、また、その歴史記述を方向付けているものは何か、といった疑問から出発している。
 
本書の目的
 以上の疑問を氷解させるためには、世界史教科書の記述内容の生成を検討する必要がある。そのためには、大きく分けて二つの方向からのアプローチが必要と考えられる。
 一つは、世界史教科書に収められた記述内容と執筆者に対して目を向けるという、きわめてオーソドックスなアプローチである。世界史教科書の記述内容は、その都度の学習指導要領が要求する内容を満たしていれば、あとは割り当てられた分量の範囲において執筆者に委ねられる。そういう点で言えば、研究者が大学生や一般読者層に向けて執筆する世界史概論とさほどの差はない。しかしすべての研究者が同じ時代幅と頁数を許されたとして、まったく同じ世界史概論が記述されることはない。執筆者の歴史観や強調すべき情報に従って、定められた頁数の中で異なる記述が生み出される。同様に世界史教科書も、出版社によっても、また同一教科書でもその版によっても、執筆者はまちまちであるため、また同一著者であっても執筆時期によって蓄積や立場が変わりうるため、教科書ごとの記述内容は大きく異なりうる。そうであるならば、実際に世界史教科書の記述内容を検討し、それを記述した歴史学者やその教科書が書かれていた時代の歴史認識に目を向けることで、所期の目的を達成しうるような結果を得られるだろう。
 もう一つは、世界史教科書を一つのモノととらえ、そのモノが製造されるプロセスにかかわる制度や関係者のあり方を検討することである。世界史教科書は、執筆者がただ自分に割り当てられた範囲の記述をすれば完成するわけではない。言ってみればそれは素材である。忘れられがちであるが、教科書は公定価格で販売される商品である。商品であるとするならば、それは他の商品とまったく同じように、生産・流通・消費という経済ルーチンにのる。そのルーチンの過程でさまざまな力が作用し、商品の内容自体にも大きな影響を与える。生産過程に関わるのが執筆者であるとするならば、流通過程に関わるのは、記述内容をチェックし学習指導要領などの基準に合致しているかどうかを判断する文部科学省や、高校での採択率を可能な限り上げるようにコントロールする教科書会社であり、消費過程に関わるのは、検定を通過した教科書を利用して授業をおこなう高校教員、その教科書にしたがって入試問題を作成する大学、大学入試に対応しうるさまざまな商品をつくりだす受験産業などである。これらはすべてモノ=商品としての世界史教科書の記述内容に影響を与えるステイクホルダーである。こうしたステイクホルダーの求めるところを無視して教科書がマーケットに投下され、最大の受益者である高校生のもとに届くことはありえない。
 このように、世界史教科書にみえる歴史記述は、一方では記述それ自体を直接生産する執筆者による執筆内容のゆれと、他方では商品としての教科書を流通させ消費するさまざまな主体による圧力の中で像を結んでいる。
 
本書の構成
 以上を踏まえて本論集は三部で構成される。
 第Ⅰ部「高校世界史教科書記述の再検討(一)オリエントからアメリカへ」では、世界史教科書記述におけるオリエント、西洋中世、中東欧、アメリカを対象とし、いくつかの現行教科書を資料として参照しながら該当部の記述の問題点を提示する。第1章「高校世界史教科書の古代イスラエル史記述」では長谷川修一が、現在のオリエント史の研究進度と現行教科書記述の間の乖離とその理由を論じる。第2章「古代と近代の影としての中世ヨーロッパ」では小澤実が、 執筆慣例上、必ずしも専門家が配置されずに前後の時代の専門家によって記述されている西洋中世の記述部分の問題点を提示する。第3章「高校世界史教科書の中・東欧記述」では中澤達哉が、明治以来の中東欧記述にまでさかのぼり、歴史的に当該地域の記述がどのように変化してきたのかを同時代の歴史状況と関連させながら論じる。 第4章「高校歴史教科書における〈アメリカ合衆国〉─人種・エスニシティ、人の移動史を中心に」では貴堂嘉之が、自身の教科書執筆経験を踏まえながら、最新の研究成果を教科書記述にどのように反映させるのかを論じる。
 第Ⅱ部「高校世界史教科書記述の再検討(二)イスラームとアジア」では、第Ⅰ部に引き続き、世界史教科書記述におけるイスラーム史、中国史、東南アジア史、そして日本史の記述の問題点を論じる。第5章「高校世界史とイスラーム史」では森本一夫が、イスラーム世界の多様性を強調する議論が高まる中、それでもイスラームという枠組みを用いる意味を論じる。第6章「高校世界史における日中関係」では上田信が、記述の大部を占める中国史の中で日中関係記述に注目して、問題点を論じる。第7章「高校世界史教科書と東南アジア」では松岡昌和が、東南アジアの記述が中国や日本との関係でどのような位置付けになっているのかを検討する。第8章「日本史教員から見た世界史教科書─世界史教科書の日本に関する記述をめぐって」では大西信行が、日本中世史の研究者そして現役高校教員という立場から、世界史教科書における前近代日本史該当部の記述がもつ問題点を指摘する。
 なお第Ⅰ部は、オリエント・ヨーロッパ・アメリカという「西洋」(オリエントは『旧約聖書』の舞台として、西洋の共通要素であるキリスト教世界の起源としての地位を与えられているように思われる)を、第Ⅱ部は、イスラームとアジアという「東洋」を扱っている。相変わらず西洋と東洋という旧来型の二区分を持ち込み、その旧来の見方を肯定しているように理解されるかもしれないが、そのような意図は編者にも執筆者にもなく、章数に基づく便宜的なものであることを断っておきたい。
 第Ⅲ部「高校世界史教科書の制作と利用」では、教科書記述それ自体を問題とした第Ⅰ部・第Ⅱ部と異なり、世界史教科書の制作ならびに利用のプロセスに目をむける。第9章「「世界史」教科書の出発」では茨木智志が、旧制高校時代の西洋史と東洋史という二つの流れから戦後の高校世界史教科書が成立しようとする過程を明らかにする。第10章「世界史教科書と教科書検定制度」では新保良明が、自身の文科省教科書調査官としての経験を踏まえ、世界史教科書作成における検定の役割を位置付ける。第11章「官立高等学校「歴史」入学試験にみる「関係史」─その変遷と拡大」では奈須恵子が、旧制高等学校の対外関係史に関する歴史入学試験を検討することで、歴史教育における試験と同時代社会の展開の関連を示唆する。第12章「高等学校の現場から見た世界史教科書─教科書採択の実態」では矢部正明が、世界史教科書の消費者である高等学校という現場において、教科書がどのように受けとめられているのかをデータに基づき論じる。
 大まかに言えば、第Ⅰ部と第Ⅱ部が世界史教科書の記述内容と執筆者に焦点を合わせており、他方で第Ⅲ部が教科書をめぐるステイクホルダーに光を当てている。本書は歴史学の論集である。執筆者の多数は歴史学者であり、それぞれが歴史学の手法を用いて対象を分析している。世界史教科書は歴史を記述した書物である一方、その教科書記述、教科書、教科書を支え、またはそこから派生する制度のいずれもが、幕末維新期以来の日本社会の歴史と不即不離の関係を持つ、すぐれて歴史学的な研究対象である。狭義には教育史という枠組みに収まるのかもしれないが、その問題系は教育制度、教育言説、教育理念などに留まることなく、日本社会固有の問題や日本と世界との関係性へと開かれている。巻末には世界史教科書に関する年表を添えている。
 
本書の経緯
 本書に収めた以上の論考群は、それぞれ別個にすすめられた二つの共同研究が出発点となっている。
 一つは二〇一四年度から二〇一五年度にかけて、長谷川修一を代表者とし二年間おこなわれた立教大学文学部人文研究センターの共同研究「世界史教科書の研究」である。この共同研究では、代表者である長谷川の差配のもと、研究者、現場教員、教科書会社社員らによる個別報告と討論が行われた。もう一つは二〇一四年度から二〇一六年度にかけて、小澤実を代表者とし三年間おこなわれた立教SFR「グローバルヒストリーのなかの近代歴史学」である。この共同研究では、ナショナルな枠組みを超えたグローバルヒストリーという観点から、近代歴史学や歴史記述のありかたを考察することを目的としていた。その一環として近代における歴史教科書記述のありかたも課題の一部をなしていた。
 これら二つの共同研究は、参加する研究者の一部が重なっていたこともあり、それぞれの協力関係のもとに二つのシンポジウムを開催した。
 最初のシンポジウムは、二〇一五年三月四日に立教大学池袋キャンパスで開催された「高校世界史教科書記述・再考」(主催:立教SFR「グローバルヒストリーのなかの近代歴史学」、共催:立教大学文学部人文研究センター共同研究「世界史教科書の研究」)である。小澤の趣旨説明ののち、高校歴史教科書について研究面でも実践面でもリーディングな立場にいる桃木至朗による「新しい世界史叙述と歴史学入門を目指して~阪大史学系の取り組みから」という基調講演がおこなわれた。その後、小澤実、上田信、貴堂嘉之が、世界史教育がはじまった当初から多くの頁数が割かれている西洋中世、中国、アメリカの記述にかかわる問題点を指摘した。
 以上の成果をうけて、一年後の二〇一六年三月一九日に同じく池袋キャンパスにて開催された公開シンポジウム「高校世界史教科書の記述を考える」(共催:立教大学文学部人文研究センター共同研究「世界史教科書の研究」)では、長谷川の主旨説明を受け、二部にわたる報告が行われた。第一部「世界史教科書記述の「狭間」」では、中澤達哉と森本一夫がそれぞれ中東欧とイスラーム世界を、第二部「世界史教科書の歴史と教科書検定制度」では茨木智志と新保良明が、世界史教科書の成立と教科書調査官の役割を説く報告をこころみた。二〇一五年度のシンポジウムでの報告が、世界史教科書記述において従来から多くの頁が割り当てられてきた西洋中世、中国、アメリカの記述に見られる問題を取り上げたのに対し、二回目のシンポジウムでは、近年になって記述が厚みを増した中東欧史とイスラーム史を、第二部では、現行教科書記述を歴史化・構造化するために、戦後における世界史教科書の歴史と教科書検定制度の内実が論じられた。当日の報告全体は、立教大学のサイトにアップされている(http://www.rikkyo.ac.jp/bun/symposium160319.pdf)。
 これら二度のシンポジウムのうち、総論的内容であった桃木の報告は、立教大学史学会の『史苑』に掲載し、その他の個別報告に手を加えた上で、長谷川、松岡、大西、奈須、矢部による寄稿をあわせ、全体を三部に分割した。巻末に掲載した明治以来の中等教育・高校世界史教育に関わる年表の作成にあたっては、茨木智志と奈須恵子の多大な助力を得た。
 
 本書は、昨今目まぐるしく変転する世界史教科書の記述や世界史という科目を今後どうしていくべきかという問いに対する直接的な処方箋ではない。今現在高等学校で必修科目に指定されている世界史という科目において、すべての高校生が用いる教科書が、どのようなメディアであり、どのような問題をはらみ、またどのような可能性を持ちうるかを歴史学的に論じた論集である。現状に対してただちに「役に立つ」処方箋を期待する向きには、なぜ揃いも揃って「役に立たない」議論ばかりしているのかともどかしく思われるかもしれない。しかし、わたしたちがこれからの世界史教育を考えてゆくにあたっても、まずはそのテキストである世界史教科書に内在する問題を構造的に理解することが肝要ではないだろうか。
 本書が、世界史教科書の記述のあり方についての議論に一石を投じ、さらには我が国における歴史認識と歴史学のあり方、国家と歴史記述との関係などといった問題にも議論の材料を提供できるとするならば、編著者として幸いである。
 最後に。勁草書房の関戸詳子さんには、企画から完成に至るまで、大変お世話になった。執筆者を代表してお礼を述べたい。
 
二〇一八年五月
長谷川修一・小澤 実
 
 
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