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辻 泉 著
『鉄道少年たちの時代 想像力の社会史』
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はじめに
電車に乗ると、決まって運転席のうしろにかぶりつくようにして、前方を眺める少年たちがいた。あるいは靴を脱いで長椅子に座り、窓の外をじっと眺める少年たちがいた。いったい彼らはそんなに熱心に、何を眺め、そして何を想っていたのだろうか。
こうした少年たちは、実はかなり昔からこの社会に存在していたようである。例えば、図1は、一九〇二(明治三五)年に刊行された『少年工藝文庫 第一編鐡道の巻』の冒頭部の挿絵である。そこには「汽車を観(み)て啼(なき)を止やめる少年」とタイトルが付けられ、「どうしてそんなに汽車が好きになッたのでせう」と理由が語られており、百年以上も前から、こうした少年がいたことがうかがえる。だが、ひと頃に比べれば、こうした少年たちもあまり目にしなくなってきたように思われる。
筆者は一九七六(昭和五一)年の生まれだが、自身が少年の頃を振り返ってみても、電車の運転手といえば憧れの職業であった。だが、二〇〇四(平成一六)年にBenesse 教育研究開発センターが実施した『第1回子ども生活実態基本調査』における「なりたい職業ベスト20」の結果においても、「電車(鉄道運転士・車掌)」は二〇位以内にギリギリでランクインしていたが、一%にも満たないその割合は決して高いといえるものではなく、特に小中学生男子の場合、やはり野球やサッカー選手に人気が集まり、また高校生になるとランク外となってしまっていた(古賀 2005)。
このように、鉄道に対する関心は、少年が年齢を重ね「現実的」になっていくのに伴い、薄れていく傾向があるようだ。だがもう一つ、この社会においては、時代が遷り変わるのに伴って、こうした関心が薄れてきてもいるらしい。例えば、『鉄道ジャーナル』誌は、二〇〇三(平成一五)年六月号において「“鉄道離れ”現象の行方」という特集を組んでいた。
だとするならば、いったい今まで、なぜ少年たちは鉄道に対して強い関心を寄せてきたのだろうか。そして、こうした関心が薄れてきたのだとすると、それはいったいこの社会のどのような変遷を表しているのだろうか。
詳しくは本文中で明らかになっていくことだが、このように少年たちが鉄道に関心を寄せてきたのは、少年期の心理的特性であったり、何がしかの情報メディアの影響といった「単純」な要因だけに還元して説明できることがらではない。むしろ、長い歴史的変遷を追っていく中で、社会学的に明らかになってくることがらである。
この点に関して、例えば図2をご覧いただきたい。これは、日本社会において義務教育を受けたものならば、一度は見たであろう有名なイラストであり、戦後、日本国憲法が公布されたのに伴い、学校教材として用いられた『あたらしい憲法のはなし』に掲載されたものである。そして、「戦争放棄」という「戦後日本」を象徴するこのイラストの中にも、電車が登場しているのがわかる。
たしかに、電車は戦後復興の象徴であっただけでなく、一九六四(昭和三九)年に開業した東海道新幹線は、まさしく「戦後日本」の「ナショナルシンボル」の一つであった。
だが、この社会の近代化というものが、あらためてその根底から捉えなおされようとしている今日においては、さらに射程の長い変遷を描くことが求められているのではないだろうか。もちろん「戦後史」という問題設定が、それなりの大きな意義を持ったものであったことに疑いはない。「戦後」という言葉が大きく位置づけられてきたように、とりわけこの社会の現在を理解する上で、一九四五(昭和二〇)年以降の歴史に大きな関心が払われてきたのは事実である。
しかし鉄道という対象は、「戦後」のみならず、この社会の近代化当初から象徴的な存在であり続けてきた。よって本書では、「戦後」だけをくくりだすのではなく、むしろこの社会の近代化の当初から今日に至るまでを、連続性のある通史として描き出すための対象として、鉄道に注目をしてみたいと考えている。
いわば近代社会が根底から変わりつつあるような現在を記述するためにこそ、むしろその変遷を初発から描き出すような対象に注目をする。別な言い方をすれば、それは今現在を深く知るためにこそ、より長い歴史的な視座が求められているからだともいえるだろう。
このように本書では、鉄道とそれに対する少年たちの想いの歴史的変遷を、かなり長いスパンに渡って通史的に記述していく。いわば時代ごとの鉄道が持つイメージと、少年たちの文化の歴史的変遷をパラレルに記述していくことが本書の主たる目的である。
※なお、中央大学教養番組『知の回廊』第一一六回「日本が誇る鉄道ファン文化の社会史と今後の展望」では、貴重な資料映像とともに、本書のエッセンスをコンパクトにまとめている。YouTubeでも公開中なので、ぜひ合わせてご参照頂きたい。
おわりに
本書が記述しようとしてきたことがらについて、改めてわかりやすい表現で記すならば、なぜこの日本社会において、鉄道に関心を寄せる少年たちが大勢いるのか、なぜ他でもない鉄道に、ファンたちはあれほど夢中になるのか、といった疑問に答えようとしてきたのだといっても差し支えない。
だが、なぜそのような問題設定をしなかったのか、ということについては大きな理由がある。というのも、冒頭でも記したように、少年たちが鉄道に関心を寄せてきたことは、少年期の心理的特性であったり、何がしかの情報メディアの影響であったりというような、「単純」な要因だけに還元して説明できることがらではなかったからである。このような問題設定では、そうした説明に還元しかねない恐れがあった。
本書からも明らかになったように、それはむしろもっと「根の深いもの」として、社会学的に理解すべきことがらであった。いわば少年たちが鉄道に関心を寄せるのは、好き好んで行う、意図的な選択の結果というわけではなかった。むしろ、ある特定のコミュニケーションやアイデンティティのありようの歴史的な変遷、すなわち文化の変遷を長いスパンで記述する中で、ようやく社会学的に理解可能になるものであった。いわばそれは、あたかも彼らに「染み付いたような」もの、そしてまたこの社会に「染み付いたような」現象であった。
その一方で、こうした「染み」は、今日では徐々に消え去りつつあるような様子も示唆された。この点も含めて、今日のわれわれのふるまいも、そしてその先の未来についても、過去における文化の変遷の延長線上にあるものとして、すなわち歴史の積み重ねの上に存在するものとして理解していかなければならないだろう。
これまた冒頭でも記したように、近代社会が根底から変わりつつあるような今日の状況を記述するためにこそ、すなわち今現在を深く知るためにこそ、より長い歴史的な視座が求められている。それはいわば、この社会の「セルフポートレイト(自画像)」を描くような営みでもあろう。
本書が明らかにしたように、現在が「妄想」の時代であり、「いま/ここ、ではない、いつか/どこか」が「想像」しがたい時代なのだとすれば、こうした営みには、今後ますますの困難が付きまとわざるを得ないだろう。それは本書を記してきた際の困難を吐露することでもある。
だがこの点において、筆者自身もまた一人の︿鉄道少年﹀であったことは、大いなる幸運であった。筆者にとってもまた、鉄道(そしてそれに関するこの社会学的な著作)は、過去を知り現在を理解するための「想像力のメディア」であったように思われる。
さて、本書は「自画像」を描くような営みであったと記したが、ここでもう一度改めて問い直してみたい。
この日本という社会の「自画像」を描くとしたら、いったいどのような絵になるのだろうか。どのような「想像(イメージ)」をしながら描くだろうか。まずは自由に「想像」してみたい。
もちろん、対象が大きい上に複雑すぎて、到底全てを描ききれないであろうことは承知した上での問いである。しかし、それでもどうにかしてこの社会の像を描こうとするのが、社会学者という立場にあるものの務めであろう。だとするならば、どのような対象を描くとよいだろうか。日本社会のイメージと言われて、「想像」するのはどのようなものだろうか。
例えばそれは、ゆるぎなくそこにある「富士」の山であろうか、それとも、しづごころなく散る「桜」の花であろうか。あるいは、「平和」な世の中であろうか、それともそのシンボルとしての「はと」であろうか。そしてまた、大きく広がる「あじあ」の中の一員というイメージであろうか……。どのイメージを用いても、おそらくは一つの自画像を結ぶことが出来ることだろう。
さて、本書が用いてきたのは、今述べたイメージ全てに共通するものである。実は、今述べたイメージは、すべてが特急列車の名称として用いられてきたものであった。
「富士」は「桜」とともに、一九二九(昭和四)年に初めて日本で列車につけられた名称であったし、「あじあ」は一九三四(昭和九)年に走り出した、当時の南満州鉄道(満鉄)のシンボル的存在の特急列車であった。そして一九四九(昭和二四)年に、戦後初めて復活した特急列車につけられた名称が「平和」であり、翌年「つばめ」と改称される中で、同区間を走るもう一つの特急列車として誕生したのが「はと」であった。このように振り返っても、やはり鉄道はまさしくこの社会を代表する象徴的存在であり続けてきたことが理解されよう。
だが、それがこの社会の全てを表しているわけでないことも確かである。しかし、何を対象にしても、部分的な像しか結ばれないのもまた確かであろう。とすれば、あくまで「自画像」は部分的なものでしかないことを自覚しつつ、それらを紡ぎ合わせながら、我々の生きてきたこの社会を理解し、これから先を構想するための足場を固めていくような、そうした気の長い作業をしていくことが、今求められているのではないだろうか。
もちろん、こうした歴史的変遷は一枚の絵だけで描けるものではない。だが、変化する絵をいくつもつなぎ合わせていくことで、あたかもアニメーションのように、そのダイナミズムを浮かび上がらせることができるのではないだろうか。
この点からするならば、鉄道はこの社会の「自画像」を描く上で、類を見ない対象の一つだったといえよう。これほどの長きに渡って、象徴的存在であった対象もそう多くはない。
よって本書では、鉄道を対象にして、それが時代ごとに纏(まと)ってきたイメージの変遷を記述することを通して、この社会の「自画像」を描くことを目論んできた。やや不遜な言い方をすれば、本書が、この社会における近代化を長い目で描き出しつつ問い直していくような作業、そうした気の長い作業のための起点(0哩マイルポスト)になりえたならば望外の喜びである。
今後も、筆者自身の研究テーマとして、こうした気の長い作業をライフワークとして継続していきたい。本書が明らかにしたような今日の時代状況は、果たして永続するものなのか、そうではないのか。すなわち、“終わりなき「妄想」の時代”となるのか、それとも新たな「想像力」の時代が訪れるのか。
換言すれば、「想像力」がひたすらに内閉する時代が続くのか、それとも、また新たな形で解放されるような時代(解想の時代とでも呼ぶべきか)を迎えるのか。筆者自身としては、わずかながらにでも、後者の可能性を捜し求めるために、今後も鉄道とそれを愛好する人々の文化に、関わり続けていきたいと思う。そして、そこから新たな「想像力」のありようへと、いわば新たな社会の「創造」へと、結びついていくような可能性を探求し続けていきたい。再帰的な近代化を遂げていく社会に生きること、あるいはそこでの社会学者の務めとは、そのようなものだと思う。
私事で恐縮だが、この「おわりに」を執筆している現在(二〇一八年春)、勤務先の在外研究制度によってイギリスに滞在する機会に恵まれた。知られるように、イギリスは鉄道発祥の地であるだけでなく、保存鉄道の活動がきわめて盛んである。唐突かもしれないが、「実物」の鉄道だけでなく、こうした保存鉄道の活動にこそ、筆者は今後の研究の可能性を感じている。
というのも、その界隈に詳しい方に聞く限りでは、保存鉄道にも二つの可能性があり、文字通りに様々な時代の状況を保存して、もっぱら過去へのノスタルジーに浸ることもできるし、その一方で、全く新しいアレンジを機関車に加えてみたり、あるいはそれまでになかったような線路の配置を考えて列車を走らせたりと、「実社会」の様々な制約にとらわれず、自由に「想像力」を働かせることもできるのだ。本書の読者にあっては、それは自由形(フリーランス)と呼ばれるタイプの鉄道模型の楽しみ方を、実物大の鉄道施設においても可能になったようなものとご理解いただいてもよい。
筆者は、その可能性に魅力を感じているが、そうした保存鉄道のありようは、むしろ既存のものの保存というより新しいものの創造に近く、いうなれば「創作鉄道」と呼んだほうがふさわしいだろう。このフレーズ自体、千葉県の羅須地人鉄道協会を二〇一七年に訪問した際、事務局長の相場二郎さんにご教示いただいたものだが、同協会は、日本でも数少ないそうした保存鉄道の活動をしている団体として知られている。
前期近代において、鉄道が政治経済的な発展のシンボルとして、一方的に憧れの対象だった時代の「想像力」だけを唯一のものとしてしがみつくのではなく、これからの成熟社会を実り多く生きていくためには、鉄道の新たなありようを「想像=創造」すること、そしてそれを楽しんでいくような文化のありようを考えていくことが肝要であろう。おそらくそのことは、鉄道ファンだけでなく、これからの社会を生きる多くの人々にとっても有用なはずである。ささやかながら、様々な文化の現場と関わりつつ、そうした可能性の探求を、今後のライフワークとして継続していけたらと考えている。
さて、本書をまとめるにあたっては、実に多くの方のお力添えを頂戴してきた。完全に網羅することは難しいかもしれないが、特にお世話になった皆さんに対して、ここで改めてお礼を申し上げておきたい。
まずは薫陶を賜った恩師の先生方に。本書は、平成一九年度に東京都立大学大学院に提出した博士学位論文『鉄道の意味論と︿少年文化﹀の変遷~日本社会の近代化とその過去・現在・未来~』を元に、大幅に加筆修正を加えたものである。大学院の修士課程入学時から一貫してお世話になったのは、指導教員の宮台真司先生である。社会学の一般的な学術書からすると、やや特異なテーマを扱ったようにも見える本研究を遂行できたのは、宮台先生ご自身も鉄道がお好きだったからである。だがそれ以上に、大学院入学以来、多々頂戴してきた、時宜を得た簡潔にして明瞭なアドバイスの数々は、まさに研究者としての私の血肉となり、今日に至っている。本書の元になった博士論文の執筆に至るまでも、幾度も構想に耳を傾けては、適切なコメントを下さった。ご多忙を極める先生に対しては、アポイントをとることすら容易ではないのだが、お会いした際には、必ず有用な「お土産(アドバイス)」を持たせてくださったことに深く感謝している。また、(色々な意味で)日本で最も著名な社会学者のお一人である先生のおられる高みには、不肖の弟子としては到底たどり着きようもないが、時に誤解を招きやすい先生の言動の中の、真にオーソドックスにして有用な社会学的な財産を、少しでも受け継いでいくことができればと考えている。宮台先生、これからもよろしくお願いいたします。
また、同論文の副査をご担当くださった江原由美子先生(現在は、横浜市立大学)にもお礼申し上げたい。本論文は少年文化について論じたものだが、江原先生からはご専門のジェンダー論に関わるコメントに加え、ご自身の体験を基にした貴重なエピソードも頂戴した。さらに同じく副査の玉野和志先生は、社会学の専門的なアドバイスだけでなく、論文提出に関わる事務的な段取りについて、指導教員に代わって、事細かに丁寧にご対応くださった。提出当時、地方の大学に勤務していた筆者にとって、玉野先生がいてくださらなかったら、論文の提出は適わなかったといっても過言ではない。江原先生、玉野先生、ありがとうございました。
さらに論文の主査、副査以外にも、現、首都大学東京(旧、東京都立大学)の社会学研究室の先生方、スタッフの皆さんには修士課程入学以来、大変お世話になりました。ありがとうございました。
なお、筆者が同論文を執筆できたのは、前任校である松山大学の国内留学制度によって、一年間の東京滞在が許可されたからであった。同大学の人文学部社会学科をはじめとする元同僚の先生方、スタッフの皆さんにも厚くお礼申し上げたい。
そして東京滞在時に、受け入れ先となってくださった、吉見俊哉先生(東京大学)にもお礼申し上げたい。本書の元になった博士論文の構想については、吉見先生が主催されていた論文指導ゼミやゼミ合宿で幾度か発表し、ご指導いただく機会に恵まれた。学部生の頃、社会学者を志した原点の一つが吉見先生の著作だった筆者にとって、それは至福のひと時だった。特に印象的だったのは、いつもはニコニコと優しい先生のお顔が、ディスカッションが始まって急に引き締まった時である。別の機会に弟子筋に当たる方からお聞きしたのだが、「基本的なことを二つ三つ聞かせてもらってから、本題について質問させてください」というコメントが、先生が本気モードに入られた時の合図なのだという。自分の発表時に、そのコメントをいただいた時の緊張感と喜びをよく覚えている。また、同ゼミで知り合った、加島卓さん(東海大学)、飯田豊さん(立命館大学)、溝尻真也さん(目白大学)をはじめとする数々の新進気鋭の研究者の皆さんとは今でも交流が続いており、本当にありがたい機会を頂戴した。吉見先生その節は大変お世話になりました。
制度上ではないが、実質上の指導教員のように導いてくださった方々にも感謝したい。(株)ライズコーポレーションの岩間夏樹さんには、博士論文だけでなく修士論文の頃から、幾度も丁寧にフェイスツーフェイスで論文をご指導いただいた。本書のメインテーマについても、「少年文化というコンセプトを大事に温めて育ててください」という岩間さんからのアドバイスが大きな原点となっている。思えば、岩間さんは宮台先生とともに同社を立ち上げられた方だが、この世代の研究者の層の厚さには驚かされる。思えば、筆者が薫陶を賜ってきたのも、この世代の先生方が多く、宮台先生と吉見先生は大学院で同期でおられたし、江原先生も玉野先生も、いわゆる「言語研(橋爪大三郎先生が主催された研究会)」世代である。筆者自身が属する世代も、ひと頃は「七六世代(一九七六年前後生まれの世代)」などと呼ばれたが、後進の活躍とともに、最近ではあまり注目されなくなってしまった。しかしながら、この世代だからこそ、なしうる社会学的な貢献を今後も追求していきたい。
また、島﨑哲彦先生(元、東洋大学)には、調査法に関する専門的な指導に加え、生活指導担当教諭のごとく、大学教員として社会人として、生きていく作法をご教示いただいた。諸橋泰樹先生(フェリス女学院大学)は、メディア論とジェンダー論がご専門であるだけでなく、これまた鉄道ファンであり、筆者が松山にいた頃、何度も訪ねてきてくださり、一緒に鉄道旅行をさせていただいた。車中で、論文の構想についてご指導いただいたことは、最高に楽しく、贅沢な思い出である。
また筆者が所属する研究会の先生方にも、お礼申し上げたい。一つ目は青少年研究会である。初代が高橋勇悦先生(元、大妻女子大学)、二代目藤村正之先生(上智大学)、三代目浅野智彦先生(東京学芸大学)が代表を務められてきた同研究会では、数多くの知的刺激だけでなく、少し上や下、あるいは同世代の研究者との出会いにも恵まれた。特に、前事務局の羽渕一代さん(弘前大学)、現事務局の岩田考さん(桃山学院大学)とは、研究上様々な機会にご一緒させていただき、いまでもお世話になり続けている。
同研究会と重複するメンバーも多いが、二つ目はモバイルコミュニケーション研究会である。初代を吉井博明先生(元、東京経済大学)、二代目として松田美佐さん(中央大学)が代表を務める同研究会でも知的刺激と出会いに恵まれた。特に松田さんは、現在の勤務校の同僚でもあり、様々な場面で正確かつ手厚いバックアップをしてくださっている。また、同研究会で知り合った土橋臣吾さん(法政大学)、先の青少年研究会で知り合った南田勝也さん(武蔵大学)のお二人は、勝手ながら筆者にとって学問上の兄弟子のような存在として、いつも楽しく盛り上がりながら、数多くの知的刺激を与えてくださっている。近年では、いくつもの共著を一緒に出させていただいた。さらに、そうした著作に一緒に取り組んだり、あるいは文字通りに「同じ釜の飯を食べながら」学んできた数多くの同年代の研究者たちにもここでお礼を申し述べたい。皆さん、本当にありがとうございました。
さらに、現在の勤務先である中央大学でお世話になっている皆さん、とりわけ所属先である文学部、中でも社会情報学専攻、社会学専攻の先生方、室員さんなどスタッフの皆さんには、在外研究中にお掛けするご迷惑へのお詫びも添えつつ、改めて厚くお礼申し上げておきたい。いつもありがとうございます、これからもよろしくお願いいたします。
さて、何よりもお礼を申し上げるべきは、インタビュー調査において、数々の貴重なお話を聞かせてくださった鉄道ファンの方々であろう。ご紹介の労をとってくださった皆さんとあわせて、ここで詳しく述べておきたい。
本書の元になった博士論文の調査中に、特にお世話になったのは、鉄研三田会の皆さんである。本文でも記したように、鉄研三田会とは、日本最古の慶應義塾大学鉄道研究会の卒業生団体である。調査開始当時、突然にお送りした筆者のメールに対し、会長であった高井薫平さん、前会長であった齋藤晃さんを中心として、あたたかく全面的なサポートをしてくださった。そこからの展開が、研究にとっての最も大きな中心線となっていったことは間違いなく、例えば齋藤さんがご自宅にお招きくださるとともに、ご自身も含む四名の異なる世代の鉄道ファンをご紹介くださったことは、本書のモチーフへの多大なヒントとなった。鉄研三田会の皆さんのご厚意には、いくらお礼を申し上げても足りないほどであり、現在でも写真展などのたびにご案内を頂戴する。同会の今後のますますの発展を祈念したい。そして、その後も吉村光夫さん、林嶢さん、杉江弘さんをはじめとする鉄研三田会の皆さんと直接お会いしてお話をお聞きする機会に恵まれたが、すでに本文でも触れたように、いまさら詳細な紹介の必要がないほどに、それぞれに多大な業績を残された方々であり、まさに鉄道趣味界の「オールスターチーム」ともいうべき皆さんのお話をお聞きすることは、本当に楽しく、実り有る経験だった。
また鉄研三田会の皆さんは、鉄道趣味の歴史を記述する上で、キーパーソンと呼ぶべき多くの方々をご紹介くださった。本書で言うところの「汽車の時代」を記述する上で、オールドファンの皆さんのインタビュー調査からは、きわめて有用な情報を多々頂戴した。そのキーパーソンの皆さんについて、ご紹介いただいた方々も含めて、お礼申し上げたい。
例えば、宮澤孝一さんは鉄道写真の大家として知られるだけでなく、早稲田大学の鉄道研究会の設立に関わった方である。本書にも収録された過去の鉄道写真や雑誌など、貴重な資料をいくつも貸していただいた(正確には、この研究テーマが終わるまでということで、未だに筆者の手元にお借りしている)。現在でも毎年のように写真展を精力的に開かれるとともに、訪れた筆者に対して、その都度新たな研究テーマのヒントをくださる。渡英前には、「なぜイギリスでは、あれほどに保存鉄道が盛んなのか、明らかにしてきてください」とのリクエストを頂戴した。壮大なテーマとなりそうだが、全力で取り組みたい。
和久田康雄さんは、東京大学の鉄道研究会の設立に関わった方だが、日本の私鉄に関する精緻な歴史記述で知られるだけでなく、(別名「新金沢文庫」とも呼ばれる)膨大な量の鉄道関係文献の収集家である。一部をすでにアーカイブに寄託されたそうだが、鉄道(趣味)の歴史記述に大いに有用な資料を残してくださる、先人たちのこうした蓄積に対しては、心から敬意を表したい。
青木栄一先生は、長らく東京学芸大学の地理学の教授でおられたが、鉄道それ自体はもちろんのこと、鉄道趣味の歴史記述にも、重要な功績を残された方である。青木先生が『鉄道ピクトリアル』誌に書かれた「鉄道趣味のあゆみ──『鉄道ピクトリアル』の半世紀とともに」(青木 2001)は、宮澤孝一さんが『鉄道写真2000』誌に書かれた「鉄道写真の20世紀」(宮澤 2000)とともに、日本における貴重な鉄道趣味の歴史的記述である。詳細は本書に記したとおりだが、一九七二(昭和四七)年の日本の鉄道一〇〇周年にあわせ、鉄道友の会において進められた鉄道趣味の歴史研究が元になっているが、青木先生からは、吉川文夫さんとともに当時作成されたインタビューノートの現物をお貸しいただいた。勝手ながら私が「青木・吉川ノート」と名づけたそのコピーは、今も研究室に大事に保管しているが、今後に渡って、日本の鉄道趣味史を探る上で、最重要資料の一つであり続けることだろう。
それが作成された当時、残念ながら諸事情により著作としてまとめられるまでには至らなかったというが、近年、鉄道友の会が、改めて同会の歴史をまとめるにあたり、白土貞夫さんを編纂委員長とするチームが、同資料も用いながら二〇一〇(平成二二)年に『鉄道友の会半世紀のあゆみ』を出版された(後に改訂版として『鉄道友の会60年のあゆみ』も出された)。白土さんからは、日本における鉄道趣味史の基礎資料とも言える、同書の発行前にお話をお聞きする機会に恵まれた。日本の鉄道の原点を、一八七二(明治五)年における新橋~横浜間の開業ではなく、一八五五(安政二)年における佐賀藩の蒸気機関車模型とするアイデアは、このときの白土さんとのお話の中で触発されたものである。
その他にも、御茶ノ水にあった交通博物館の最後の館長でおられた菅健彦さんからは、海外の鉄道事情について詳細なお話をお聞きした。また、現在会長を務めておられる公益財団法人交通協力会からは、興味深いイベントのお知らせを定期的に頂戴している。こうしたイベントと並行して、同会では日本の鉄道一五〇年史の編纂を開始したと聞いており、その完成が待ち遠しい。
宮田寛之さんは、筆者だけでなく多くの鉄道ファンたちが愛読してきた雑誌、その名も『鉄道ファン』(交友社)の編集長を長らく務められた方であり、編集部にお邪魔してお話をお聞きすることができた。諸河久さんも鉄道写真でその名が知られた方であり、江戸っ子気質の語り口でお聞きする都電のお話が興味深かった。また、本文中だけでなく、表紙にも掲載されたブルートレインブーム当時の東京駅の写真は、諸河さんの作品である。
そして、鉄研三田会以外にも、インタビュー調査を進める上でお世話になった団体などがいくつもある。複数の団体にあたって調査を進めたことは、一定の労力を要したけれども、知見の広がりや複数の比較的な視点をもたらしてくれた点においては、大いに有用であった。例えば調査開始当時、地方の大学に勤務していた筆者が最初に当たり始めたのは、愛媛県内の鉄道ファンたちであった。県内に数えるほどしか鉄道模型店が存在しないような地方であっても、ファンたちは確かに熱心に活動していたのである。いくつか例を挙げよう。
地方暮らしのメリットは人脈の濃さであるが、筆者も同僚の先生にお願いをして、松山運転所勤務のJR四国の社員(運転手や車掌など)の方々をご紹介いただいた。今後の勤務に差し障るといけないのでお名前を挙げることは控えるが、鉄道ファンでありながら、実際の鉄道の仕事にも関わっておられる皆さんのお話は興味深かった。特に、数ある仕事の中でも、やはり機関車の運転が最もやりがいと満足感を覚えるのだそうで、当時、一本だけ松山発東京行きの貨物列車があり、それを引く機関車の運転をする仕事が特に人気があったというエピソードが印象に残っている。
また県内人口三位の都市にある、宇和島鉄道愛好会という団体の活動が特に盛んだという情報が、調査を進める中で幾度も耳に入ってきていて、先に述べたJR四国社員のお一人もその会員だったが、松山在住中に幾度か宇和島に訪問して、複数の方からお話を聞くことができた。会長の河野藤夫さんは一九二四(大正一三)年生まれで、今回のインタビュー対象者中最高齢で、毎年、宇和島の鉄道に関するニュースを載せた年賀状を下さる。宇和島という地方都市にいて、松山からようやく国鉄が延伸してきて開通したときのこと、それ以前に、地元に宇和島鉄道が開通していたことへの誇りなどを語ってくださったのが印象的だった。また、河野さんと一緒にお話をお聞きした大島高義さんが、博士論文提出前に他界されたのはなんとも心残りであった。さらに同愛好会メンバーである松浦健さんは、自作の機関車の運転イベント時にお招きくださり、奥様とご一緒に、じっくりとお話をお聞きした。時折、愛媛県内のNHKの番組でも、松浦さんの活動が取り上げられているが、近所の子どもたちに対して、自宅に呼んで鉄道模型に触れさせたり、お祭りの日に自作の機関車を運転して乗せたりする様子は、鉄道ファンとしてかくありたいと思わされるようなお姿である。
他に松山在住時には、隣の高知県で会社を退職した方が始めたという鉄道模型店にもお話を聞きに行った。門田慶三さんが二〇〇三年に開店したレールショップ「南風」である。その後の経営は予想以上に厳しかったと聞くが、鉄道ファンが鉄道ファンであるがゆえの、そうした趣味活動を生業とする動向の広まりに気づかされたのは、長時間に渡る門田さんのインタビューであった。
また鉄道趣味活動を生業とするという点については、本書の第5章でそのライフヒストリーを詳細に紹介したように、日本を代表する鉄道ファンサイトである、鉄道フォーラムのマネジャー伊藤博康さんのお話がとても興味深かった。伊藤さんもまた犬山という地方都市にご在住だが、大都市への距離とは関係なく業務を円滑にできるのは、まさに情報化時代の特徴といえよう。一九九五(平成七)年の阪神淡路大震災をきっかけに、鉄道フォーラムが一気に注目を集めた経緯や、幼少期に当たる高度経済成長期に、いかに鉄道に「夢」を感じていたかを熱心に語ってくださったのが印象的だった。さらにその後、鉄道フォーラム上では、筆者と当時の同僚(松山大学経営学部准教授)だった苅谷寿夫さんとで、全会員向けのウェブアンケート調査も実施させていただいた。その結果は『鉄道ピクトリアル』誌の二〇一一年一一月号と一二月号に、「分析・鉄道趣味」と題する記事にまとめさせていただいた。伊藤さんご自身も含めて、本書でいうところの「電車の時代」の鉄道ファンの方々の傾向がよく表れた分析結果となっており、よろしければ、本書とあわせてご参照いただきたい。また同記事の掲載に当たってお世話になった、今津直久編集長にもお礼申し上げたい。
また東京においても、さらにいくつかの団体などにお世話になった。情報化時代の現在とはいえ、やはり鉄道ファンは大都市部に多く集まった現象であり、地方に在住していた頃の筆者にとって、上京時に貴重なお話を聞いて回ることが重要だった。例えば、著名なものでいえば、一九五三(昭和二八)年に創立された全国規模の鉄道愛好者団体である鉄道友の会では、当時事務局におられた大庭さんと宮崎さんがご対応くださり、本書にも掲載した貴重な会員データをご提供くださった。
さらに、神保町にある知る人ぞ知る模型の名店、今でも三線式Oゲージを販売している「はぐるまや模型店」の石坂善久さんは、筆者の突然の訪問にもかかわらず、長時間に渡ってお話を聞かせてくださったばかりでなく、日本最初の鉄道雑誌『鉄道』の創刊号をはじめとする貴重な資料の数々を見せてくださった。特に本書における、戦前の模型に関する記述については、石坂さんにご教示いただいた知識に負うところが大きい。ここで改めて御礼申し上げたい。またその石坂さんが、今日においてなお、そうした戦前の模型少年のスピリット、本書でも取り上げた「モデルエンジニアリング」の志のままに活動されている方として、井上昭雄さんをご紹介くださった。井上さんもまた、知る人ぞ知る伝説の技術者であり、日本初の電子レンジの製作やケーブルテレビの敷設に関わられた方である。毎年、鉄道模型コンベンションなどでそのご活躍を拝見しているが、インタビュー時にはご自宅にお招きいただいて、その工房内でユニークな自作模型の数々を見せていただいた。まさにそうした模型たちにこそ、自由な「想像力=創造力」がよく体現されていたのを覚えている。
他に、筆者の父が知り合いだったおかげで、低山会という登山と鉄道旅行を愛好する団体の会員のお二人にもお話を聞くことができた。そのうちのお一人は、少年時代の横浜空襲の体験について、命の危険を感じつつも、爆撃機というメカへの関心が惹起された様子をリアルに語ってくださり、大変参考になった。
それよりも年若い、筆者と同世代であったり、年少のファンたちへのインタビュー調査においては、主としてK中学・高校鉄道研究会(現、鉄道研究部)の皆さんにお世話になった。特に、国語科教諭(当時)の池田宏さん中心に、顧問を勤めておられた先生方、OB・現役会員の皆さんに、多大なるご協力をいただいた。当時インタビューに応じてくれた中高生の皆さんは、もう社会人となり、やはり鉄道に関心を寄せている人もいれば、別の未来的な交通機関に関心を寄せている人もいる。さらに年少の後輩たちも含めて、後進たちの活躍にもエールを送りたい。
そして、ややわき道にそれるが、筆者の中高時代からの夢であったこと、すなわち「鉄道研究会の顧問となること」を実現させてくれた中央大学鉄道研究会、ならびにその卒業生団体である白門鉄道会の皆さんにもお礼申し上げたい。現役も、卒業生の皆さんも盛んに活動され、イベントのたびに筆者に声を掛けてくださる。両会のますますの発展をお祈りするとともに、これからもよろしくお願いいたします。
本書には収録できなかったが、日本を代表する知性でありオールドファンとして、お話を聞かせてくださった、お二人の研究者、小池滋先生(東京都立大学名誉教授)と宇田正先生(追手門学院大学名誉教授)にもお礼申し上げたい。小池先生は、チャールズ・ディケンズ研究の第一人者として著名な英文学者だが、(失礼ながら?)筆者にとってはイギリスそしてヨーロッパの鉄道史に関する専門家という印象が強い。宇田先生も、ご専門は経営史学であるが、むしろ筆者にとっては『鉄道日本文化史考』(宇田 2007)で展開された、日本における鉄道文化史の第一人者という印象が強い。このように、このお二人に共通するのは、文化という視点から、鉄道をとらえる貴重な成果を積み上げていることである。お二人に加えて、青木先生、原田勝正先生が編者となって一九八六(昭和六一)年に出された対談集『鉄道と文化』(原田・小池・青木・宇田編 1986)の内容には大いに刺激を受けた。
またお二人は、戦後に慶應義塾大学の鉄研を復活させた齋藤晃さん、早稲田大学の鉄研を創立された宮澤孝一さん、あるいは歴史地理学者の青木栄一先生といった方々と同世代(一九三一~三二年生まれ)である。この点は、本書の読者ならばご理解いただけるだろうが、奇しくもというより、やはりこの世代の方々が戦後の日本の鉄道趣味界をリードしてこられたということなのだろう。
その後も調査の中でお世話になった方々が大勢おられる。だが、ここでは主に本書の元になった博士論文の調査時にお世話になった方々を中心にして、そろそろここまでとしておきたい。ここで取り組んだテーマについても、むろん本書をもって完結するようなものではなく、日本の少年文化、鉄道趣味の世界もまだまだ奥深いし、それを世界に向けて広げていこうとするならば、何度人生を繰り返せばよいのかと思うほどに、広大なフィールドが続いている。よって筆者の調査は継続中であり、関連するテーマについてお話を聞かせてくださった方々にお礼を申し上げつつ、もしお話を聞かせてくださるような方がおられれば、ぜひお声掛けいただきたい。
そしてお礼とともにお詫びも記しておきたい。本書は、平成一九年度に博士論文を提出した後、できるだけ早いうちに単行本として世に出したかったのだが、諸事情により大幅な遅れが生じてしまった。世界に冠たる鉄道の定時運行を誇るこの社会に生きる者の一人、ましてや鉄道ファンの一人でありながら、このあってはならないほどの遅れについては、言い訳のしようもない。刊行が遅れる間にも、日本の鉄道を巡る状況は大きく変化をし続け、私が好きだったブルートレインはついに完全にその姿を消し、またお話を聞かせていただいた年長ファンには鬼籍に入ってしまわれた方もおられる。
しかしそれでもなお、本書をどうにか刊行にまでこぎつけたのは、ひとえに、勁草書房の松野菜穂子さんが粘り強く、何年にも渡って待ってくださったからである。時に挫けそうになる筆者に対して、季節ごとに正確に(まるで日本の鉄道のように!)メールで励まし続けてくださった松野さんには改めてお礼申し上げたい。どうもありがとうございました。
最後の最後に、何よりもお礼を忘れてはならないのは家族である。筆者を支えてきてくれた両親に姉と兄、そして研究で不在にしがちな私を温かく見守ってくれている妻と子どもたちに。いつもありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
私事で恐縮だが、息子は小学校低学年までは筆者による「英才教育」のかいあって、鉄道趣味にのめりこんでいたが、野球チームに入った頃を境にスポーツ少年へと転向していった。逆に、兄が使わなくなったのを見て「パパ、一緒にNゲージで遊ぼう」と声を掛けてくるのは(もう少し遅ければ鉄道の日に出生する予定だった)娘である。我が家の子どもたちと一緒に遊ぶこともまた、少年や少女たちのコミュニケーションやアイデンティティのありよう、すなわち今日の文化についての格好のフィールドワークとなり続けている。その御礼の気持ちもこめて、筆者の初の単著となる本書を、これからの社会を生きていく二人の子どもたちに捧げる。
二〇一八年五月一〇日 ロンドン大学の図書館にて
辻 泉