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『カント批判』

 
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冨田恭彦 著
『カント批判 『純粋理性批判』の論理を問う』

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まえがき
 
 私は取り立ててヘーゲルのファンというわけではない。けれども、「個人に関して言えば、誰もどのみちその時代の子であるが、哲学もまたそうであって、その時代を思想のうちに捉える」(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, Grundlinien der Philosophie des Rechts, Vorrede)という彼の言葉には、いたく同感する。カントは自らの思想をもって、「時代の子」ならぬ「永遠の子」になろうとした。しかし、『純粋理性批判』で彼が繰り返し最後の拠り所とした「経験」は、それ自体がまさに、カントが「時代の子」であることの証であった。それはいったい誰の「経験」なのか。まさしく、一八世紀を生きた、カント自身が是とした経験であった。
 カントは、「可能な経験」(すなわちありとあらゆる経験なるもの)に、繰り返し言及する。その可能な経験に、時空を超えたある一定の本質的なあり方を見いだそうとするのが、彼のやり方である。しかし、カントが「経験」と考えているものが「可能な経験」であり「経験一般」であることを、どうして彼は証明できたのか。カントがこの問題に触れることはない。
 かつてデカルトは、若い頃から精力的に行ってきた数学的自然学の研究の中で自身の物体観を彫琢し、数学的に処理可能な性質のみを物体の本質的性質とした。この物体観が彼の形而上学に色濃く反映する。すなわち、自然学を基礎づけるべき形而上学は、明晰判明に知られる第一原理から順次構築されなければならないという自身の公式見解にもかかわらず、実際には、自然学に属するその物体観を、形而上学の重要な要素としてその中に組み込むのである。カントの『純粋理性批判』の基礎理論にもこれと同様の特徴が認められる。カントはその書の中で「明証必然的」なものしか認めないという公式見解を提示しながら、自身が信じる「経験」のあり方──自身の科学的「自然」観──を、『純粋理性批判』という形而上学の予備学の、最後の拠り所とした。つまり、カントにおいても、一八世紀という時代を生きた彼自身の自然学的見解が、形而上学的考察の基盤となっていたのである。
 カントの生涯を調べるにつけ、彼が(本当は誰でも多かれ少なかれそうなのだが)、さまざまな困難(ハイデッガー流に言えば「被投性」の困難)を乗り越え、一生懸命生きてきた人だということを、私は十二分に認めたいと思う。けれども、そうした自らの時代や地域のさまざまな制約の中で思索を続けた人であるにもかかわらず、カントのなすことは、彼のときおりの言葉とはうらはらに、絶対性へのあまりに強い願望、歴史を超えた真理を自分は手にしようとしているのだという確信の潜在を、明に暗に示しているように私には思われる(これはとりわけ『純粋理性批判』第一版に著しい)。
 だが、「必然的」や「ねばならない」を多用するカントに対して、「思われる」は失礼であろう。だから、感想文ではなくて、何がどうだからカントはよくないということを明言し、論理による批判を懸命に試みることによってカントに「否」を言うことが、今カントに対してなすべきことなのだと私は思う。本書で試みようとしているのは、まさしくそれである。
 『純粋理性批判』の「超越論的観念論」の考え方に対する私の反論の一部は、前著『カント哲学の奇妙な歪み──『純粋理性批判』を読む』(岩波現代全書、二〇一七年)と、『カント入門講義──超越論的観念論のロジック』(ちくま学芸文庫、二〇一七年)の最終章で明示した。カントには申し訳ないが、彼は、一七世紀以来の自然科学の新たな動向と深く関わり、そこから原子仮説が持つ物そのものと現象からなる仮説的二重存在構造を自らも引き受けながら、物そのもの(物自体)を不可知として仮説的研究に背を向けるという不整合な振る舞いをした。さらに、アリストテレス以来の伝統的論理学を完成したものとみなし、それが行う判断の分類を自らの純粋知性概念(カテゴリー)の根拠とするようなふりをしながら、自らの判断表では判断の形式の恣意的・意図的取捨選択を行う。つまり、伝統的論理学よりもむしろ、自らのある思いが、取捨選択の最終根拠となっているのである。
 その思いは、純粋知性概念(カテゴリー)の表に明確な姿を現す。純粋知性概念は、それによって「経験」と「経験の対象」の可能性が保証されるような概念である。したがって、外延量を持ち、内包量を持ち、実体であり偶有性であり、原因であり結果であり、相互作用をなし、偶然であったり必然であったり、単に事実そうだというだけであったりするような、そういうものが、カントにとっての経験の対象のありようなのである。
 ならば、彼は、そういうものが自分にとっての「経験」だと率直に認め、そう考える歴史的根拠を丁寧に提示すべきではなかったか。しかし、彼が行ったのは、一連の議論によって、自身の見解が超歴史的なものであるかのように見せようとすることであった。
 結局のところ、カントがしようとしたのは、自分自身の簡単には譲れない固守したいものを、さまざまな議論を用いて固守しようとすることであった。であるなら、「あの有名なクワイン」(der berühmte Quine──カントがロックに対してよく用いた言い回しのパロディー)が、プラハ留学から戻って間もない二〇代半ばに「アプリオリとは自分が固守したいもののことだ」と言ったのを転用すれば、カントもまた、固守したいものを固守しようと論を立ててはみたものの、結局それはあまりいい立論にはならなかったということではなかったか。だから、私は、カントには──デカルトやロックやバークリやヒュームやヘーゲルやマルクスに対してもそうではあるが──一人の頑張って生きた人間として敬意は払うものの、同時に、自身が「時代の子」でありながらそうではないかのようなふりをするのは、やめるべきだったと思う。
 ある書き物で、私は「カント哲学に魅力を感じる点では人後に落ちないと思っています」と書いた(『ちくま』二〇一七年四号)。それはそのとおりである。私は『純粋理性批判』はあまり評価しないものの、人を単なる手段としてではなく目的として見ているのかというカントの『実践理性批判』での問いかけは、君たちは搾取されている人を見て見ぬふりをするのかというマルクスの問いかけと、同じ重さを持っていたと思う。カントにせよマルクスにせよ、みな時代の子である。この状況の中で、この時に、彼らは言うべきことを言ったのだ。しかも、両人の言うことは、少なくとも私には、大きな意味を持ち続けてきた。私がカンティアーナーでもマルクシストでもないにもかかわらずである。
 だから、本書でカントを批判し続けるとしても、それはカントの全否定ではない。カントに対して言うべきことを言った上で、肯定できることを称揚する必要がある。私の勝手な思い込みであろうが、カントの神格化がおさまらなければ、カントの発言がニーチェやマルクスやローティのそれと同じように真に人々の心を打つことはないであろうと私は思う。
 
 本書は6章からなる。
 第1章「「独断のまどろみ」からの不可解な「覚醒」──「唯一の原理」への奇妙な道筋」では、カントが自身を「独断のまどろみ」から覚醒させたとするヒュームの警告を取り上げ、それに対するカントの対応がどのような意味で不可解なものであるかを論じる。カントとヒュームの基本的視点の乖離からして、カントがヒュームの知見を十分に踏まえていたとしたら、ヒュームからショックを受けたというのは信じがたいことであるというのが、第1章の論点である。
 第2章「ロックの反生得説とカントの胚芽生得説──カントが言うほどカントとロックは違うのか?」では、空間と時間および一二の基礎概念をアプリオリなものとして扱う『純粋理性批判』の基本戦略を取り上げる。特に問題となるのは、一二の純粋知性概念である。カントは概念(ロックの場合には「観念」)をすべて経験から導いたとロックを捉え、自分はロックとは大きく違うのだと主張する。けれども、実際にロックが観念の起源をどのように扱っているかを具体的に見れば、カントとロックの捉え方に決定的な差異があるようには見えないはずである。第2章ではこの点を確認するとともに、カントが一二の基礎概念をアプリオリ化することによって、彼が固守しようとした「必然性」を本当に固守しえたかどうかを考察する。
 第3章「カントはロックとヒュームを超えられたのか?──アプリオリ化の実像」では、カントがヒュームの警告に対して示した反応の是非に立ち入る。ヒュームが原因と結果の必然的結合を経験の中に(「印象」として)見いだすことができないとしたことにカントは反応し、そこから、超越論的分析論の基本となる、基礎概念のアプリオリ化の道をとった。そもそもヒュームの見解は、ロックのそれを心像論的視点からなぞったものにすぎず、カントは基礎概念のルーツを経験に求めたロックとヒュームに対して、そのアプリオリ化によって彼らを乗り越えたとする。だが実際には、カントもまた、原因と結果の結合の概念については、その運用においてロックの言う「恒常的変化」やヒュームの言う「恒常的接続」の経験に依拠する形をとっており、その知見が結局のところロックやヒュームを超えるようなものではなかったことを確認する。
 第4章「そもそも「演繹」は必要だったのか?──自身の「経験」概念の絶対化」では、カントの「演繹」を取り上げる。カントは繰り返し、経験の可能性の条件を問おうとするが、自身の「経験」理解の妥当性を吟味することはない。彼の言う「経験」が、自らがそれであると考えるような「経験」であり、純粋知性概念がその経験に合うよう意図的に選択されたものであることからすれば、純粋知性概念がそうした経験の成立に不可欠のものであることを「演繹」によって示そうとすることは、自らの経験概念に基づいて選ばれた基礎概念を当の経験概念に合うからという理由で妥当であるとする、循環論法にほかならない。第4章では、カントの超越論的分析論のそうした問題性に立ち入る。
 第5章「判断とカテゴリーの恣意的な扱い──カントの隠れ自然主義」では、一二のカテゴリーの四分の三を占める「量のカテゴリー」と「質のカテゴリー」と「関係のカテゴリー」を取り上げ、右に言うカントの意図的選択の実際を見る。ここでは、まず、「量のカテゴリー」と「質のカテゴリー」が、少なくともアリストテレス以来の由来を持ち、当時自然科学において重視されつつあった「外延量」と「内包量」の区別に関わるものであることを確認する。そして、それらのカテゴリーを伝統的論理学の判断の区別に由来するとすることが、いかに不当な措置であったかを論じる。また、「関係のカテゴリー」については、その背後にカントが重視した力学の法則があり、それを形而上学的に支えるために強引な議論を進めたことを指摘する。結局のところカントは、自らの経験概念の基を自らが支持する自然科学に求めながら、自然科学を支える形而上学(純粋哲学)が自然科学とは独立に成り立つかのようなふりをしている。つまり、彼の基本的立場は自然主義的なものでありながら、表面上は反自然主義の立場を標榜するという事態になっている。ここでは、これを示すことによって、『純粋理性批判』におけるカントの議論が、彼が是とした自然科学の知見を密かな基盤としながらその知見を擁護するという、「隠れ自然主義」的営みであったことを確認する。
 第6章「空間の観念化とその代償──議論の浅さとその不整合の意味するもの」では、カントの空間論の是非を論じる。カントは超越論的感性論において、空間を感性にアプリオリに備わった純粋形式とする。カントはその措置によって、純粋幾何学の成立根拠が与えられると考えているが、実際に彼が提示した「構成」による方法では、概念の直観化とその普遍化が本質的役割を担っているのであって、空間のアプリオリ化はその方法に直接かみ合うものではないことがわかる。また、カントの「多様なもの」とその「総合」という考え方は、空間のアプリオリ化によって感性に与えられたものを空間中にあるとすることとどう整合するかという問題を惹起する。また、その空間のアプリオリ化は、『純粋理性批判』の初期の批評にもすでに認められるように、当時知られていた「モリニュー問題」に関する知見とどうかみ合うかという問題を残したままとなっている。第6章では、これらの問題を指摘することによって、カントの空間論がもたらす問題の再考を促す。
 
 カントの『純粋理性批判』は、彼が原子論(粒子仮説)を肯定しなかったにもかかわらず、原子論由来の基本的枠組みを踏襲しており、また、先に述べたように、一二のカテゴリーの少なくとも四分の三が、「外延量」と「内包量」の区別、および「質量保存の法則」、「慣性の法則」、「作用・反作用の法則」という、当時の自然科学の重要な区別もしくは法則を前提として選択されたものであった。カントはデカルトと同じように、科学を形而上学によって基礎づけるという基本方針を採用したにもかかわらず、実際に彼が行ったのは、自身が是とする科学的知見を前提として、それに合うよう、形而上学(純粋哲学)的な見かけを持つ議論を構築することであった。
 ディオゲネス・ラエルティオスが編集したとされる、古代の原子論の考えを含む書物がラテン語等の翻訳で読まれるようになるなど、古代の文献への新たな関心に促され、アリストテレス流の科学のあり方が行き詰まりを見せるという状況の中で、古代の原子論が復活を遂げた。西洋近代観念説は、その復活した原子論の論理を大枠として形成されたものである(この件は、拙著Locke, Berkeley, Kantをはじめとして、これまでさまざまな機会にそれを明らかにするよう試みた)。そして、バークリやヒュームやカントは、この科学を基盤とした「自然主義」的大枠をそれぞれの仕方で歪めていったというのが、自身の西洋近代観念説研究を通して得た私の見方である。本書の議論は、この見方を具体的に実証しようとする試みの一環である。これによって、『純粋理性批判』のカントも、実は密かに科学的知見を基盤として形而上学を展開しようとした「隠れ自然主義者」であったということに目が向けられるようになれば、本書は一定の役割を果たしたことになるであろう。
 哲学が歴史の中で進められる営みであるとすれば、相互批判は、ローティの言をまつまでもなく、われわれにとって極めて重要な、前進のための手段である。明快かつ具体的な論拠に基づく読者諸兄諸姉の鋭い反論が寄せられることを、大いに期待する。
 
(各国語の文献を扱うため、文献の表記に際しては可能な限りオックスフォードスタイルを基本とした。ドイツ語やフランス語の表記法に親しんでおられる読者には寛恕を請う。)
 
 
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