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『『哲学探究』とはいかなる書物か』

 
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鬼界彰夫 著
『『哲学探究』とはいかなる書物か 理想と哲学』[ウィトゲンシュタイン『哲学探究』を読む]

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はしがき
 
 本シリーズ(『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』を読む』1、2、3)は過去十年余にわたる筆者のウィトゲンシュタイン『哲学探究』の研究成果を、専門的裏付けをおろそかにせず、同時に、哲学者ウィトゲンシュタインの本当の姿に興味を持つ幅広い分野の読者に理解可能な形で公にしようとするものである。
 過去十年余とは、より正確に言えば、私がウィトゲンシュタインの「日記」と出会ってからの時間を指す。この出会いは、自分のそれまでの『探究』理解が決定的に不十分だったこと、それ以前はほぼ諦めていたこの書の本当の姿を知ることが可能かもしれないことを私に教えるものだった。「日記」は『探究』の背後に隠れていた著者ウィトゲンシュタインの生を示すことにより、これらを私に教えた。興味深いが不可解であった建築物に実は隠された階が存在し、以前はそれが見えなかったためにこの建物が奇妙なものに見えたのだということを私は知った。以来私の『探究』研究は、この隠れた層と一体となったとき、それがいかなる姿を見せるのかを明らかにすることを目的とするようになり、ようやくここに一つの答えを見出すに至った。その答えを示す場がシリーズ第一巻の本書である。『探究』が何のために書かれたのか、そこで示された「哲学」の姿とはいかなるものかを明らかにすることを本書は目的とする。シリーズ続巻では、その「哲学」が『探究』で実際にどのように実践されたのかを明らかにすることが試みられる。
 
 『探究』が我々読者に謎として立ち現れるのは、この書物が言語とその意味、思考や感覚、といった現代哲学にとって重要な主題について様々なこと(著者の様々な見解)を語る哲学書という外見を装いながらも、「私の正体は実はそうではない」と小声でつぶやき続け、そのつぶやきに読者が魅せられてゆくからである。普通の意味での哲学書のようでありながら、本当はそうとは思えない、そしてそこが人を惹きつけるという捉えがたい二重性がこの書物には存在し、ある意味でこの二重性が、哲学と非哲学の二重性が、この書物の本質なのである。
 このように『探究』が、それを必死に捕えようとする我々の手をすり抜け、「神秘的」という言葉が喉元まで出そうなほど解きがたい謎であるのは、本来同一の思考空間に存在しえない二つのものが、ある不思議な仕方でこの書物の中に同時に存在するからだ。二つのものとは、著者ウィトゲンシュタインの哲学的思考とその著者自身の生(好むとあらば「実存」と言ってもよい)である。前者がある書物の本文を占拠すれば、通常後者は「まえがき」や、「あとがき」や、あるいは欄外注や括弧の中に追い込まれざるを得ない。それに対して『哲学探究』ではこれら二つが同時に、しかも分かち難い形で存在している。通常は異空間に存在しているそれらが『哲学探究』では、メビウスの輪のように異次元を通じて繋がっている。本書で我々が試みるのは、それらを繋いでいる異次元の露頭を見出し、それに光を当て、ウィトゲンシュタインの哲学的思考と彼の生がどのようにして高次の場で出会い、ふれあい、互いに変成しあいながら結ばれているのかを辿りつつ明らかにすることである。
 『哲学探究』中のそうした露頭として我々が注目するのが、「哲学論」と呼ばれることもある同書§§89~133である。これこそが『哲学探究』という高次思考空間の奇跡を可能としている幾何学的特異点だと私は考える。この特異点におけるウィトゲンシュタインの思考と生の触れ合いを探るために我々が用いる不可欠な「用具」が、このテキストを最終的に完成させるためにウィトゲンシュタインが書かなければなかったいくつかの手稿ノートであり、「日記」である。
 これらの遺稿の幾つかは一九九〇年代になってようやく公になり、多くの先人による遺稿研究の結果初めて我々が容易に利用できるようになったものである。この点に止まらず、本書の試みは、この哲学者に深い興味を持ち続けた内外の研究者の様々な成果(本書で直接言及したのはそのごく一部にすぎない)に多くを負い、それなしには不可能なものであった。私がそうした先人から受けた恩恵に対し、改めて感謝の意を表したい。
 
 科学と哲学に関する第五章の考察は、第四章までの『探究』解釈にいわば私が強く促されて行ったものであり、自分の知識と力の不足を痛感しながらも、あえて行わざるを得なかったものである。この考察は関連各分野の研究者の多くの仕事に助けられて初めて遂行することができたものだが、とりわけ近年我が国の科学哲学界でなされた戸田山和久、森田邦久、白井仁人、東克明、渡部鉄兵ら諸氏の仕事から、基礎的なことを含めて多くを学ばせていただいた。改めて謝意を表する次第である。
 
 
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