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『酸っぱい葡萄』

 
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ヤン・エルスター 著
玉手慎太郎 訳
『酸っぱい葡萄 合理性の転覆について』 [双書現代倫理学]

「解説 『酸っぱい葡萄』の背景と射程」(抜粋、pdfファイルへのリンク)〉
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解説 『酸っぱい葡萄』の背景と射程 (抜粋)
 
《5》第三章「酸っぱい葡萄」
(a)自律と厚生の衝突という視点
 書名をタイトルに掲げるこの第三章のテーマは、エルスターの提起を受けていまや倫理学のキータームのひとつとなっている「適応的選好形成」の概念である。功利主義批判が議論の中心となっていることは、第一章・第二章から読み進めてくると若干唐突な印象を与えるかもしれない。しかしすでに論じたように、ロールズの『正義論』にはじまる現代の政治哲学は功利主義批判の文脈で発展してきたのであり、学説史的背景を踏まえればこれは決して不自然な展開ではない。
 適応的選好形成とは、大まかに言えば、実行可能な選択肢に応じて選好が変化すること、とりわけ、実行可能な選択肢が貧弱である場合に、そこからでも十分な満足を得られるように選好を切り詰めてしまうことである。この概念それ自体は、そもそもエルスターがラ・フォンテーヌの寓話を引いていることからも明らかなように、決して新しいものではない。他にもたとえばカール・マルクスの叙述の中にはっきりと見出すことができる。「人間は……他のどんな動物よりも自己の性質をかくも信じがたい程度にまで変形させて、与えられた状況に適応することができるのであり、したがって自己の肉体的・精神的欲求を同じ信じがたい水準にまで切り縮め、自己の生活条件を自ら最低限にまで制限することができる」(マルクス 2016, 二三~二四頁)。よってポイントは、エルスターがこの概念からいかなる含意を引き出したかである。
 適応的選好形成の最重要の特質は、そこにおいては「自律」と「厚生」が衝突するということにある。というのも、適応的な選好は、実行可能性によって非意図的な形で形成されたという点で非自律的な選好であるが、実行可能性に応じた選好を持つことによってその人が達成する厚生は高まっているからである。したがって、適応からの解放が生じた場合には、自律は高まるが厚生は下がってしまうかもしれない。このトレード・オフが重要なポイントである。
 エルスターは本書において、適応的選好形成と「計画的性格形成」との区別を重視する。計画的性格形成においても適応的選好形成と同様に、選択肢集合に応じた選好の変形が生じ、それによって厚生が上昇している。しかし計画的性格形成の場合には、その変形が自律的なものとみなされうるので、倫理学的に問題はない。適応的選好形成と異なり、「計画的性格形成は自律を損なうことなしに厚生を向上させるかもしれない」(本書二二八頁)。エルスターが注目するのは選好の変形そのものではなく、その変形に付随する自律と厚生のトレード・オフである。選好の変形そのものをエルスターは批判したのだと誤解してはならない。
 適応的選好形成という概念は、少なくとも国内では、アマルティア・センによる開発経済学への応用を通じて広まっていった。センは途上国の状況を見る上で心理的尺度を用いることの不適切性を指摘しており、たとえば次のように論じている。

すっかり困窮し切りつめた生活を強いられている人でも、そのような厳しい状態を受け入れてしまっている場合には、願望や成果の心理的尺度ではそれほどひどい生活を送っているようには見えないかもしれない。〔……〕実際に、個人の力では変えることのできない逆境に置かれると、その犠牲者は、達成できないことを虚しく切望するよりは、達成可能な限られたものごとに願望を限定してしまうであろう。このように、たとえ十分に栄養が得られず、きちんとした服を着ることもできず、最小限の教育も受けられず、適度に雨風が防げる家にさえ住むことができないとしても、個人の困窮の程度は個人の願望達成の尺度には現れないかもしれない。(Sen 1992, p. 55, 邦訳七七頁)

 これは「飼いならされた主婦」の例と呼ばれ、しばしば適応的選好形成の問題の典型例として扱われてきた。しかしセンの議論とエルスターの議論では強調点が異なることに注意しておきたい。センの議論では、適応的選好形成は主観的な厚生水準を用いることの不適切さを指摘する文脈で用いられている。要するに、本人が幸せだと言っていてもそれが適応の結果であるならば客観的にみて幸せではない可能性がある、ということである。問題は主観的な水準と客観的な水準の対立にある(これはまさに「飼いならされた主婦」の例に典型的である)。これに対して本書で中心となるのは、自律と厚生のトレード・オフの指摘である。すなわち、本人が適応の結果として幸せだと言っているとき、そこでは自律を犠牲にして厚生が得られているのであり、むしろ問題は自律と厚生の対立にある(これはまさに「狐と葡萄」の例に典型的である)。
 主観的な厚生水準の批判という前者の議論は、(セン自身の本来の意図からは離れて)客観的な厚生水準を利用すべしという議論へと進んでいくだろう。そしてそれはパターナリズムに帰結する。人々の選好は歪んでいる可能性があるのだから、当人たちが何を望んでいるのかを離れて彼らの利益を客観的に判断しなければならない、というわけである。しかしこれはエルスターの議論からみた場合、適応的選好形成の含意としてはまったく不適切である。適応的選好形成もパターナリスティックな介入も、自律を無視して厚生を優先するという点ではむしろ同型の問題を有する(エルスターは当人が熟慮の上に自律的に清貧の生活を選ぶならばそれを否定しないだろうし、そのような人に対して生活の客観的な厚生の低さを理由に政府が介入することは自律の不当な侵害とするだろう)。広く論じられている適応的選好形成の議論とエルスターの本来の議論とには微妙なずれがありうる、という点に注意する必要がある。
 
(b)幸福度研究と適応的選好
 より人々のためになる政策を立てるためには、人々が何について「幸福」を感じるのかを知ることが有効でありそうだ、というのは直観的に納得できるだろう。とはいえ人々の幸福度を知ることは実務的に困難が大きいため、広範な調査は実施されてこなかった(それゆえ長らく人々の幸福度は所得で代替されてきた)。しかし現代では大規模なアンケート調査の実施およびその処理は、技術的に決して難しいものではなくなっている。それゆえ、今の生活に、あるいは今の生活のうちどの活動にどれだけの幸福感を得ているかを、実証的に調査することが求められるようになった(このことはまた、先進国がすでにかなりの程度の経済成長を達成したものの、人々がその割にはあまり生活に満足しているように思われない、という事態に対応した動きでもある)。数年前に、ブータンでは人々の幸福度が高い、というニュースが大きく取り上げられたことを覚えている方も多いだろう。
 Bok(2010)はこのような幸福度の実証研究について平易かつ包括的に論じているが、その中では幸福度研究に対する批判の一つとして、適応的選好形成に基づく反論がありうることがしっかりと触れられている(ただしボックが言及する名前はエルスターではなくセンなのだが)。当然のことだが、もし適応的選好形成が生じているならば、人々が主観的に幸福であると答えたところでそれは望ましい社会が形成されていることを意味しない(むしろ逆である可能性さえある)。ボックは次のように述べる。「厳密な研究が、教育、知能、民族の要因をコントロールした上で、奴隷は自由人と同じくらい満足していると明らかにしても、奴隷制度といった不道徳な慣習は正当化できない。ある政策の影響を被る人々の感情とは関係なく、その政策を非難することのできる幸福以外の望ましい価値が存在するはずである」(邦訳七二頁)。
 これはほとんど主観的満足度を計測することの放棄の宣言ではないかと思われるかもしれないが、そうではない。ボックは上記の文章のすぐ後に、むしろ価値を客観的に押し付けることの問題点を指摘する。「民主主義では、明確で一般に受け入れられている正義の原則と対立しない限り、市民が自分自身の幸福の判定者となるべきである」(邦訳七三頁)。ボックの結論は以下である。「したがって要するに、幸福は非常に重要な目標であるが、政府の目標の一つにすぎないというのが適切である。市民の自由や機会の平等を擁護することが、別の目標としてある。さらに加えて、さまざまな憲法上および法律上の予防手段をもうけて、巧妙な操作や不正な方法で幸福を高めようと政府にさせないことも重要である」(邦訳七三~七四頁)。
 厚生のみならず自律も大事にしようとし、どちらかのみを取ることを避ける点で、ボックの主張はエルスターと道を同じくしている。しかし、では具体的にどうすればよいのかということになると、ボックはあまり明確とは言えない。その理由は、自律性をめぐる検討がなされていないからであろう。本書でエルスターが論じているように、適応的選好形成の問題を解決する(自律と厚生の適切なバランスを取る)ためには「自律とは何か」について明らかにする必要がある。上の文脈で言えば、いかなる場合であれば「市民が自分自身の幸福の判定者となる」ことができるのか、その条件を考察する必要があるだろう。それを後回しにしている限り、人々の主観的判断を(適応的選好形成の可能性にもかかわらず)盲目的に信じるか、それを無視してパターナリスティックに介入するかという二択にしかならない。われわれが政策について、さらには人々の生活について考える際には、適応的選好形成が突きつける「自律」の問い(すなわち「広い合理性」の問い)を回避するわけにはいかないのである。
 
《6》第四章「信念、バイアス、イデオロギー」
(a)ポスト真実の時代に
 第三章で不合理な欲求形成について分析がなされたのに対して、第四章では不合理な信念形成がテーマとなる。とりわけ中心的な問題は「希望的観測」、すなわち、願望によって自分に都合のよい信念が変形される事態である。社会心理学や認知心理学へも言及がなされており、近年広く注目される「行動経済学」の問題関心とも重なる点がある。
 二〇一六年一一月にドナルド・トランプ氏がアメリカ大統領に就任して以来、「ポスト真実(post-truth)」という言葉がニュースを賑わすようになった。これはオックスフォード英語辞書が二〇一六年を表す言葉として掲げたものであり、「客観的事実よりも感情的な訴えかけの方が世論形成に大きく影響する状況を示す形容詞」だという(*14)。日本でも、インターネット上のフェイク・ニュースの問題や、政治家による事実の歪曲(かつての文書・発言などをさも存在しなかったかのようにふるまうこと)に際して、この言葉が使われるようになって久しい。
 このような形で表現される状況には、権力者側による情報操作という側面ももちろんあるが、他方で市民の側に客観的事実を軽視する、より強く言えば自分の信じたい事実を信じようとする態度が広まっているという側面も無視することはできないだろう。個々人が情報の真偽を確認するコストは無視できないものだが、それでも人々の側に客観的事実を重視する態度があれば、ここまで「ポスト真実」が広まることはなかったはずである。この意味で、人々が非合理的な信念を抱く、とりわけ欲求によって信念を歪めてしまう事態についての分析は、今こそ読まれるべきものであると言ってよいだろう。
 
(b)議論の整理
 第四章は本書の中でも特に議論の流れが掴みづらいように思われる。はじめに用語の確認をしておくことで理解が進むだろう。本章の主題は「バイアス」と「イデオロギー」である。バイアスとはその人の置かれた社会経済的な地位やその人にとっての利益のために非合理的な信念を持つことである。対してイデオロギーとはバイアスの中でも特に、階級的地位や階級利益のために非合理的な信念を持つことである。バイアスおよびイデオロギーの原因に、地位と利益の二つのものがあるということがポイントとなる。地位によるバイアスは認知的なメカニズムであり、錯覚をもたらす。利益によるバイアスは情緒的なメカニズムであり、歪曲をもたらす。まとめれば表1のようになるだろう。
 本章は、第2節で「錯覚」(表の左列)について、第3節で「歪曲」(表の右列)についてそれがどのようなものであるかを論じ、最後に第4節でそれらについて機能的説明(すなわち「そのような信念はこれこれの役に立つがゆえに形成されたのだ」という説明)をなすことについて検討し、その妥当性を否定する、という流れになっている。
 
(c)労働者階級の選択とイデオロギー
 本章を読む上で押さえておくべきは、当時の現実政治の変遷に際してマルクス主義が抱えていた課題である。過度の単純化は承知の上で、本書が書かれた当時のマルクス主義の動揺を以下のようにまとめることができるだろう。
 マルクス主義の歴史理解が階級闘争に基礎をおく史的唯物論であったことはすでに論じた通りである。この考え方においては、労働者階級は階級として自分たちの利益を実現するために行動を起こすものと考えられていた。しかし一九七〇年代、特にイギリスにおいてこのような考え方は再考を迫られることになる(*15)。この時期のイギリスに起こったのは、福祉国家の行き詰まりと産業構造の転換による労働運動の停滞である。とりわけ一九七九年の総選挙でマーガレット・サッチャー率いる保守党が、労働者にとって有利とは思えない政策を掲げていたにもかかわらず、労働者階級の支持を得て政権に就いたことが重大な転機となった。このことは、抑圧された労働者の「階級意識」(=イデオロギー)が労働者自身のためのものとはならない可能性を示すものであり、それゆえ改めて階級意識がいかにして形成されるかの研究の必要性が生じた。そしてその中で、特定のイデオロギーが支配的となるプロセスを明らかにするものとして「ヘゲモニー」という概念(そもそもはイタリアのマルクス主義理論家アントニオ・グラムシの用いた語である)が用いられるようになった(*16)。
 この第四章でエルスターが注目しているのもまさにこのイデオロギーの形成過程という問題であり、特にイデオロギーとそれを抱いている階級の利益との関係である。冒頭にエルスターが明確に「ヘゲモニー」に基づく議論を批判対象にあげていること、本書の出版年(一九八三年)などから考えても、エルスターが当の問題を念頭に置いていたことは明らかであろうと思われる。
 そしてこの論点は現代のわれわれにとっても重要な問題を提起している。二〇一六年は世界の民主主義にとって激動の年であった。この年の前半を通じて行われたアメリカ大統領選の各党の候補者選挙において、その過激な発言で多くの非難を呼んでいたドナルド・トランプ氏が、大方の予想に反して共和党候補としての指名を得ることとなった。そして秋には大統領に選ばれたことは周知の通りである。また少し戻って六月には、イギリスで行われたEUからの離脱をめぐる国民投票において、これまた大方の予想に反して離脱派が過半数を獲得した(いわゆるブレグジット)。これらの選挙における大きな衝撃の一つは、アメリカ・イギリスといった先進国における市民が、保守的かつ排外的な態度を是認したことであった。
 近年のポピュリズム政治を研究する水島(2016)によれば、その支持者には共通性があり、いずれも衰退地域の白人労働者層を中心としているという。「イギリス独立党支持の中核となり、EU離脱を問う国民投票で賛成票を投じたのは、地方の荒廃した旧工業地帯や産炭地域の白人労働者層だった。その「置き去りにされた」人々を取り巻く状況と、アメリカのラストベルトで白人労働者層の置かれた社会経済的な状況が、きわめて似ていることは明らかだろう」(一九四頁)。このような事態に接して、われわれは(おそらくエルスターが八〇年代のヨーロッパにおいてそうしたように)次のように問わざるをえない。はたしてこの労働者たちは本当に、彼ら自身にとって最善の利益となる選択をなしたのだろうか? あるいはなさなかった(なせなかった)としたら、それはなぜなのか? そして、そのような「置き去りにされた」人々の行動は、階級イデオロギーのような形で認識することができるのだろうか? 本章でのエルスターの分析は、これらの問いを考える上で、大きな助けになるだろう。(以下続く)
 
 
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