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『柔道整復の社会学的記述』

 
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海老田大五朗 著
『柔道整復の社会学的記述』

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序章 社会のなかの柔道整復
 
序─1 柔道整復に関する素朴な疑問
 ここ10 年程度で、「街に接骨院(整骨院)が何だか増えたような気がするなあ」と思ったことはないだろうか。もしそのように感じた人がいたとしたら、その人の観察眼は鋭く、その直観は正しい。2000(平成12)年から2016(平成28)年の間に、日本全国の柔道整復の施術所は、24,500ヶ所から48,024ヶ所へとほぼ倍増*1 している。「ある柔道整復師がある土地に接骨院を建てていたら、そこのすぐ近所も工事中であることに気付き、何が建つのか調べてみたらそこも接骨院だった」という冗談のような話を友人の柔道整復師から聞かされたこともある。筆者は2004(平成16)年から2011(平成23)年の7 年間、柔道整復師養成のための専門学校で常勤の教職員として働いていた*2 が、振り返ればこの7 年間は、柔道整復師養成校が増加していった時期と重なっている。もちろん、どの地域にもこうしたデータが当てはまるとは限らない。しかし、この柔道整復の施術所数増加という事実は「なぜ、どうして、どのように」というようなアカウント(説明)を要請するように思われる。
 こうした柔道整復師数や施術所の増加については本書の第2 章で触れる。しかし、特に一度も施術所へ行ったことがない人は、「そもそも柔道整復師って何をする人? 柔道?」「接骨院(整骨院)で何をするの? 骨を接ぐの?」という素朴な疑問を抱いたとして、何の不思議もない。近年ではホームページを開設している施術所も多く、こうした素朴な疑問は、ネット検索で解決することも多い。しかしながら「保険は使えるのか?」*3「施術は痛くないのか?」*4「なぜ柔道整復という名前なの?」*5 など、柔道整復についての疑問はいくらでも挙げられる。一般の人びとにとって、柔道整復はまだまだ未知な部分が多く、私たちが生活している社会のなかでどのような位置づけにあるのか判然としない。
 サックスは「社会学的記述」(1963=2013)という論文のなかで、次のように述べている。

科学者としてわたしたちは、わたしたちの主題の文字どおりの記述を産出しようとする。記述するために、わたしたちは言葉を構築する(もしくは、われわれの用法にあわせて言葉を用いる)。わたしたちの言葉から始めるのは粗雑なやり方であろうが、一つの規則が常に留意されていなければならない。それは、わたしたちが主題として取り上げるものは、それがなんであれ記述されなければならないという規則だ。(Sacks1963=2013:77 一部改訳)

 このとき1 つ留意したいのは、人びとは何かを記述するとき、ある程度共有されている手続きや文法に則って記述されるということである。この共有されている手続きや文法をふまえないと、記述は記述というより無秩序な文字の羅列になる(あるいは文字の羅列にすらならない)。もちろん柔道整復についても、すでにたくさんの記述がなされてきた。社会のなかで柔道整復を位置づけようとするとき、柔道整復についての素朴な疑問がいくらでも挙げられるのも、すでに柔道整復が記述されてきたからである。そこで柔道整復を研究するにあたり、最初に問われてよいこととして「何を記述すれば柔道整復を記述したことになるのか」という問いがある。そしてこの回答には当然ながら複数のバリエーションがありうる。この問題から検討していきたい。
 
序─2 日常化・身体化される作業と平坦化される感情
 筆者がホックシールドの『管理される心』(1983=2000)に触発された修士論文執筆のための調査において、看護師たちへのインタビューをもとに、感情経験を記述しようと試みたことがある。次のインタビューは、ある看護師(白井さん:仮名)に対してなされた、苦手や嫌だと思うような仕事をするときの心構えについて聞いたものである。白井さんはこのとき、関東近辺のある病院に勤める勤続1 年目の新人看護師であった。

海老田:これは苦手だとか嫌だというような仕事はありますか?
白井:やることに関してこれが嫌だとかこれがいいとかいうレベルではないです。(海老田2002:83)

筆者からみれば、新人看護師たちの仕事はストレスフルに思われたので、このような回答はとても意外に思えた。他方で、看護師のストレスについてチャンブリスは次のように述べている。

 ナースの仕事は相当にストレスフルなものであろうと思うのは当然であり、「彼女たちはどうやってそんな仕事に耐えているの?」と私もよく聞かれる。しかし、ナースとしての経験を積むにつれ、これらの業務はルーティン化し、ナースの感情は平坦化していくことを一般の人は知らない。看護は確かにストレスフルな仕事だが、それは一般人が考える意味でのストレスフルではない。点滴、配薬、入浴、配膳、バイタルサイン測定、書いても書いても終わらない記録、書類、血液検体を送る─ナースの一日はこれらで埋め尽くされ、おきまりの仕事が何度も繰り返される。(Chambliss 1996=2002:20─1)

チャンブリスの記述からもわかるように、仕事や作業というものは、熟練すればするほど日常化・身体化され、感情は平坦化していく。そうなると、人びとは何らかの行為や作業をする前に、いちいちあれこれと「感じ」たりもしなければ「考え」もしなくなる。別な言い方をするならば、ある行為もしくは作業をする前に「ある種の感情、たとえば緊張や驚きや当惑を抱くかどうか」というのは、その行為自体が日常化あるいは身体化されているかどうかを判断する際の、1 つのセンサーになりうる。ゴフマンは「当惑と社会組織」*6 という論文の中で、次のように述べている。

 相互行為のさいには気楽な気持ちでいるのが自然な状態であって、当惑するのは自然状態からの嘆かわしい逸脱ということになる。実際、相互行為で気楽な感じがあったら「自然な」感じと人は言うし、当惑を感じたら「不自然な」感じがすると言う。(Goffman 1967=2002:97)

つまり「当惑」という感情は、ある状況について「自然な感じか不自然な感じか」を判断する際の基準になっているというわけである。このようなセンサーとしての感情があれば、経験したことを記述することはさほど困難ではないように思われる。その「不自然な感じ」が、どのようなときにどのような場でどのような対象に対して生じたのか、またこの場合の想定されている「自然な感じ」とはどのようなものかというように、その状況を判断するセンサーとなる感情の論理文法にそって、「どのようにしてその感情を経験したか」を追究し、記述することができる。しかしそのような状況を認識するセンサーとしての感情が働かない状況であれば、記述の手掛かりをつかむことすら難しい*7。
 ベナーとルーベルは、身体に根ざした知性(embodied intelligence)が無視されてきた理由の1 つ*8 として、次のように述べている。

 身体に根ざした知性が最もうまく機能するのは、人がそれに注目していないときであり、人の注意にのぼるのは、通常それがうまく機能しなくなっているときだけである。うまく機能しているとき、身体に根ざした知性は迅速に、無意識的・非反省的に働く。うまく機能しなくなったとき、あるいはまったく機能しなくなったとき、それは身体に根ざした知、自明化した知という本来の性格を失い、人が意識的に反省を向ける対象になる。実際、反省を向けるとそれはうまく機能しなくなりがちである。したがって身体に根ざした知性は、スムーズに機能している姿では、研究対象にすることは言うに及ばず、注目することさえ困難なのである。(Benner & Wrubel 1989=1999:49 一部改訳)

私たちはある種の行為や一連の活動をある程度覚えてしまい、その行為や活動が身体化される*9 と、その行為者たちはいちいち感じたり「考える」ということをしなくなる。あるいは逆に、いちいち感じたり「考える」ことをしないような作業を日常化・身体化されている作業と呼んだりもする。したがって、自らが体験しているはずの日常化・身体化された作業を記述のために、その行為者の反省的知識(reflection-on-action)を使用することは、その場において「なかったはずのもの」を遡及的に語る*10 ことでもある。
 さらにいえば、熟練化される作業、日常化・身体化される作業というものは、ある活動において生起する頻度が高いことを示している。生起頻度が高い作業ほど熟練化、日常化・身体化するということは不思議なことではない。そしてこのような作業は、ある活動において生起頻度が高いゆえに、その仕事において中心的な作業であるともいえる。そうなると、「ある仕事においてその仕事に携わるメンバーであれば、だれでも当たり前にできるような身体化された作業ほど言語化が困難である」*11 という帰結が導かれる。
 ここで、ひとまず冒頭の「何を記述すれば柔道整復を記述したことになるのか」という問いに回答しておこう。本書においては、「日常的な業務において、柔道整復師であれば誰にでも共有されて身体化されてできるようなこと/できなければならないこと」を記述する。
 
序─3 人びとの方法の記述へ
 「ある種の日常化・身体化された行為や作業を、どのようなデータにもとづいて、どのように分析するか」*12 という筆者の問いへ回答する手がかりとなったのが、次のようなライルの見解である。この見解によれば、「内省によって語りを生み出すこと」のみを「考える」ことだとするならば、「考える」ということの方法的側面を捉え損ねていたというものだ。次のような例を考えるとよいかもしれない。私たちは、部屋のなかに本が何冊あるかを「数える」とき、「数える」ことの内実は、1 という数字に対して任意の1 冊の本を割り当て、2 という数字に対して(まだ何も数字が割り当てられていない)他の本を割り当て、…というようなある種の方法を駆使することである。つまり、思考することは自分自身との秘密の対話でもなければ内省することだけでもなく、「ある方法を適切に適用させる」ことでもある。さらに次の引用をみるとより論点が明確になる。ライルは『思考について(On thinking)』の「当意即妙」という章で、次のように結論づけている

 まさにその時点、その場所において直面しているたった一度だけの状況に自分自身を適用させるということと、そうすることによってすでに過去において習得した経験を利用するという二つのことを同時に試みなければならないはずである。もし彼が即興的に行動し、しかも同時に用心深く即興的に行なっているのでなければ、彼は彼のある程度訓練した機知をその瞬間的な問題に役立てているのではなく、おそらく思考を伴わないまったくの習慣から行動しているということになるだろう。かくして思考とは、一般的に言えば、少なくとも多少なりとも訓練された機知(wit)を目新しい状況において役立たせることであると断言して差し支えない。それは、予定されてはいないような状況や障害や危機に対して、すでに習得している能力や技術を対抗させることなのである。(Ryle 1979=1997:240.一部改訳 強調は原著者)*13

 「ある種の日常化・身体化された行為や作業の経験をどのように分析するか」という関心のもとで調査研究をしようとするとき、修士論文執筆時の筆者は調査協力者の頭のなかにある「考え」を「経験」として聞き出そうとしていた。もちろんこのような手法によって「語られる経験」*14 は多数あるだろう。しかしながら、たとえば上記のインタビューのような、ある程度日常化・身体化された仕事に関しては、調査者である筆者にとっては語られてほしい経験が、当の行為者にとっては語るためのリソースが乏しい経験であったり、行為者にとっては当たり前すぎて意味づけの困難な経験であることは十分にありえる。
 これに対してライルが「思考について」追究し、辿りつた結論を参照するならば、思考することとは、内省することだけを指すのではなく、「多少なりとも訓練された機知を目新しい状況において役立たせること」でもある。人びとの経験を「多少なりとも訓練された機知を使用する人びとの方法」と結びつけて考察する研究プログラムがあるならば、「普段は意識されることもない、日常化・身体化された行為や作業についての経験をどのようにして記述するか」という問題*15 に一つの解を与えることになる。筆者はそのような研究プログラムを「エスノメソドロジー」*16 という研究プログラムに見出した。
 
序─4 本書の目指すところ
 本書の目的は、柔道整復を記述すること*17、より具体的にいえば「接骨院というフィールドにおける柔道整復師と患者との相互行為を記述すること」である。これは筆者が相互行為の分析を好むという、研究者としての単なる趣向の問題ではない。筆者はあるとき柔道をしていて、右手小指の軟部組織損傷をした。小指の第一関節が曲がったまままっすぐにならないのである。このときの柔道整復師の見立ては、いわゆる「マレットフィンガー」*18 というものであった。このため筆者はある柔道整復師に施術された。いわゆる金属副子をあてた保存療法である。このとき柔道整復師は筆者に対し、「指(小指の第二関節)を曲げてください」と軽く曲げることを指示してきたのである。それに対し、筆者は柔道整復師の指示に従い小指を曲げた。すると柔道整復師はまた「もう少し曲げてください」と指示してきたので、筆者はまた柔道整復師の指示に従い小指を曲げた。これに対し、柔道整復師は「そうそう、その形です」と言ってその筆者の曲げた右手小指に沿うようにして金属副子をあて、上からテーピングを巻いたのである。こうした施術を受け終え、固定された自分の小指を見たとき、筆者はある当たり前のことに気づいた。「柔道整復師にとって日常的な施術は、(他の医療行為や介護行為と同様に)柔道整復師と患者との相互行為によって達成される」ということである。筆者の固定された小指の形は、まさに柔道整復師と患者(この場合は筆者)との相互行為によって形成されたものだった。柔道整復師の施術が、柔道整復師と患者の相互行為によってなしとげられるものならば、その相互行為に直接アクセスし、その相互行為を記述するというのが本研究のかまえである。
 
序─5 フィールドの選択について
 筆者が柔道整復や接骨院というフィールドを選択した理由は、大きく分けて3 つある。 1 つめは、接骨院や柔道整復師についての社会学的研究が、あまりなされていないということが挙げられる。柔道整復師は国家資格*19 であり、その身分は日本国家によって保障されている。独立して施術所を開業することも可能であり、保険*20 を取り扱うこともできる。柔道整復師は公共性の高い職業であるにもかかわらず、これまで社会学的な研究はほとんどなされてこなかった*21。柔道整復師という職業の公共性を考えれば、柔道整復師の施術実践はもっと公のものにされてよいはずである。柔道整復領域から代替・補完医療領域*22 に検討射程の対象を広げたとして、代替・補完医療領域における文献は、そのほとんどが書き手自身も治療家(たとえば片山(2001)、上野(2002 ; 2003)野口(2002)、松田(2005)など)や医師の資格を持つ研究者(たとえば辻内(2004)など)である。これは、代替・補完医療領域における施術実践の記述が、その治療家ではない医療社会学者にとっては記述が困難であることを示しているのかもしれない*23。他方で、代替・補完医療領域における医療人類学的な研究は日本においても見受けられる*24。たとえば飯田(2006)は、タイでのフィールドワークをとおして、いわゆる「タイ・マッサージ」の歴史・制度的背景、教育・普及活動、観光化などを丹念に記述し、エスノグラフィーとしてまとめている。浜本(2009)は、病気や災厄に抵抗する施術にしばしば見られる、現地人ではない調査者の視点から見ればいかさまにしか見えないような施術を、トリックや欺瞞という文脈とは別の視点から理解する可能性について検討し、「不思議の「見掛け」をそなえることにより「適応的」であり、そうした特性は秘伝としてコピーされ、一般化する傾向をもつ」(2009 : 75)と述べている*25。本研究でとりあげる対象領域は、代替・補完医療領域のなかでも接骨院における柔道整復師の施術であり、法的に厳密に言えば医療類似行為である。柔道整復師についての研究は、法規上の問題に関する研究(たとえば加藤(1989))などはあるものの、社会学的研究は、筆者自身の研究(2011a ; 2011b ;2011c ; 2012 ; 2013a ; 2013b ; 2017)を除くと管見の限りほとんど存在しない。ここに本研究の1 つの大きな特徴がある。
 2 つめの理由は、柔道整復師に要請される施術内容が、日本の高齢社会の進行によって変化しつつあるのではないかと思われるからだ。柔道整復師は骨折・脱臼・捻挫・挫傷にたいする施術を行うものであるが、近年では高齢者対象のデイサービスを併設する接骨院も多く、今後は柔道整復師による介護福祉分野への参入が予想される。現在でもすでに、症例によってはアフターケアとしてストレッチングの指導をするなど(これについては第11 章を参照)、コンディション管理についての施術をすることも少なくない。柔道整復師の施術はこれまでの医業類似行為にとどまらず、高齢者などの健康維持・予防医療的行為、あるいはスポーツ選手やオペラ歌手のコンディショニングにまで拡張可能である。進行する日本の高齢社会において、時代の要請とともに柔道整復師に期待される役割が変化しつつあり、そうした過渡期のなかで、接骨院において柔道整復師がどのような施術を実践しているか、あるいはすべきかを議論するために、フィールドワークなどでその詳細を明らかにすることは有用であろう。
 3 つめの理由として冒頭でも少し述べたことでもあるが、柔道整復師養成校に7 年間勤めたという筆者自身の経験が挙げられる。高等学校を卒業したばかりの学生が柔道整復師へと育っていく過程に7 年間も参与することができた経験は、本研究にとってとても貴重であった。柔道整復術についてわからないことがあれば隣に座っている柔道整復師の教員に聞くことができた。筆者は「柔道整復」というフィールドに7 年間毎日「参与観察」(Spradley 1980=2010 など)したといえるかもしれない。こうした要因が複合して、本研究のフィールドとして柔道整復ならびに接骨院を選択するに至った。
 
序─6 本調査研究における倫理的配慮
 柔道整復師と患者の相互行為や施術実践を研究するにあたり、最も重要な研究手続きの1 つが、調査協力者たちへの倫理的配慮である。著者は2009 年10月より2010 年4 月まで2 箇所の接骨院でフィールドワークを行っている。そこでは主として柔道整復師と患者との相互行為場面をヴィデオ撮影している。ヴィデオカメラは、victor everio GZ-MG330 を使用し、ウルトラファインモードで撮影している。ヴィデオ撮影に際し、本調査では双方の接骨院で、最初に接骨院管理者である院長に対し、書面と口頭にて本研究及び調査の説明を行い、調査・撮影・撮影されたデータ使用の承諾書に署名を得た。次に、調査協力頂く柔道整復師に対し、同様の手順にて説明を行い、承諾書に署名を得た。最後に、患者に対して口頭にて撮影の許可を得て、施術などが一通り終了した後に、撮影したものの使用目的・使用範囲などを口頭と書面にて説明を行い、映像データ使用の承諾書に署名を得た。データ使用については、「内容が匿名化され、研究・教育目的であれば」どのような形(つまり映像・音声・などのメディア形態を問わない)でも提示してよいとの承諾を得ている。その際、本研究では微妙な視線の動きなどについても研究対象となるため、極力映像の加工(たとえば目線を入れたり、イラスト化すること)は行わないことについても説明し、同意を得た。なお、撮影の許諾をした患者のうち、2 名が音声データの使用のみを許諾し*26、その他の調査協力者については映像データの使用を許諾した。
 柔道整復師と患者との会話のなかに出てきた言葉で、私にとって意味がわからなかったもの(たとえば、「この前大会があってさ」という発話があったとすると、この前の大会は何の大会なのか調査者でもある筆者にはわからない)について、その際に簡易的に聞き取ることがあった。現在、私の手元には171 のヴィデオクリップ(DVD23 枚に収録)と、法人代表ならびに施設管理者、柔道整復師、患者合わせて76 枚の署名入りデータ使用承諾書*27 がある。
 
序─7 本書の構成
 本書は、3 つのパートに分かれる。
 第Ⅰ部は、本研究の対象と方法について述べる。第1 章は「柔道整復」の最大の謎ともいうべきその名称についての研究である。筆者が、柔道整復師と患者の相互行為について学会や研究会などで発表すると、必ずといっていいほど(そして非公式的に)受ける質問が、「柔道整復」という名称についてである。柔道整復はなぜ柔道整復と呼ばれるのか。第1 章では「柔道整復」という名称が公的に採用される過程の分析を試みた*28。第2 章では柔道整復師法における柔道整復師ならびに施術所の法律上の定義、これらをとりまく現状などを紹介し、データ収集にご協力いただいた2 つの接骨院について紹介する。第3 章では、医療を社会的観点から記述するということ、とりわけ医療をフィールドにした「エスノメソドロジー的な研究」について検討しつつ、明らかにする。病院をフィールドにしたエスノメソドロジー的研究や医師─患者の相互行為(いわゆるDoctor-Patient Interaction(DPI)研究)は数多くある。こうした記述的な先行研究のなかで本研究はどのように位置づけることができるかを示す。第4 章では、「録音録画機器を用いて相互行為を記述する」という本研究の研究方針を擁護する。とりわけライル(1971)の「厚い」記述とギアツ(1973=1987)の「厚い」記述を検討し、フィールドワークとその前提としての日常生活についての考察を加える。
 第Ⅱ部と第Ⅲ部では、「なぜ柔道整復師と患者の相互行為を記述するのか」という疑問に対して、実際に記述を示すことで回答する。第Ⅱ部は、見立てにおける患者との相互行為、第Ⅲ部では施術における患者との相互行為を分析し、記述する。本書では、柔道整復師と患者とのいわゆる「おしゃべり」に代表されるようなトークを分析することだけにとどまらない。柔道整復師と患者は相互行為をするとき、さまざまな実践に従事している。こうしたさまざまな実践について、第5 章から第11 章で記述する。
 本論文における第5 章から第11 章の順序についても簡潔に説明しておく。この第5 章から第11 章の順番配置は適当になされているわけでもなければ、筆者の研究発表順になされているわけでもない。第5 章から第11 章の順番配置は、おおむね接骨院でなされる施術の順序になっている。つまり、患者が接骨院に来院した場合、受付で問診票に記入後、初見であれば「問診(第5 章)→触診(第6 章)」の順序でなされる。初見でなければ医療面接は省略されるか、触診をしながら外傷の状況を聞き取るといったことがなされる。第7 章で分析したような超音波画像観察装置を使用した観察やインフォームド・コンセントは特殊ケース*29 といえる。接骨院に来院する患者は交通事故などで出血を伴うことがない、おおむね重傷*30 とはいえない患者であるものの、重傷が疑われる患者が来院することはある。あるいは第7 章のケースのように、整形外科医の診断に対してセカンドオピニオンを求めての来院のなされかたもある。こうしたある種の重傷が疑われるようなケースの場合、超音波画像観察装置を使用して皮下の状態を確かめることがある。様々な見立ての後になされる実際の施術については、どの接骨院でも「電気療法」(第8 章)を行なうのが一般的であり、外傷の程度に応じて「保存療法」(第9 章)がなされる。この2 つの施術と前後してよくなされる施術が関節可動域を広げるためのストレッチング(第10 章)や痛みの緩和をねらった手技などによる施術である。この3 つ(電気療法、保存療法、手技による施術)の施術が柔道整復師の施術の中心である。症状によっては後療法と呼ばれるような、患者本人でも行なえる施術やリハビリテーション、簡単な運動を患者に教える場合もある。本論文では、患者自身で行なえるようなストレッチングを柔道整復師が教える場面(第11 章)を分析した。
 
*1 厚生労働省の調べによる。詳しくは本書の第2 章を参照のこと。ちなみにこの同じ期間、病院数は約10% 減少している。
*2 筆者と柔道整復との出会いは中学時代まで遡ることができる。当時柔道部に所属をしていた筆者は、怪我をすると、接骨院で柔道整復師から施術を受けていた。柔道部の先輩には当時(1990 年ころ)ですでに、かなりの数の柔道整復師がいたのである。筆者の柔道部の同期も7名中2 名が柔道整復師になっている。
*3 これについては厚生労働省のホームページ(http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryouhoken/jyuudou/index.html)などで確認できる。柔道整復師の施術において保険の対象となるのは、「整骨院や接骨院で骨折、脱臼、打撲及び捻挫(いわゆる肉ばなれを含む。)の施術を受けた場合」であり、「単なる肩こり、筋肉疲労などに対する施術」は保険の対象にならない。
*4 これについてはさまざまな事情により「施術による」としか回答できないが、ほとんどの施術はたとえ痛みを感じたとしても、患者が許容できる程度の痛みしか感じないだろうと思われる。詳しくは本書の第5 章から第11 章を参照のこと。
*5 この疑問については本書の第1 章で直接的に回答している。
*6 ゴフマンはこの論文の始めで、「赤面する、物をいじる、どもる、異常に低いまたは高い調子で話す、震え声や途切れ、汗をかく、蒼ざめる、またたきをする、手が震える、ためらう、ぼんやりする、類似語を誤用する、といった感情による障害(emotional disturbance)の客観的徴候によって、他人の、あるいは自分自身さえの、極端な「当惑」を認識することができる」(1967=2002:97)として、「当惑」の他人あるいは自分の認識可能性についても述べている。
*7 これは、六車(2012 : 204)が原稿を書けない理由として「驚けない」ことを挙げていることに通じるかもしれない。六車によれば、「驚き」は書くことの原動力であるが、他方で介護労働に適応することは「驚き」を減らすことだとも述べている。古くはアリストテレスも『形而上学』のなかで、人間は驚異することによって哲学をし始めたと述べている。
*8 ちなみにもう1 つの理由としてよく挙げられるのが、プラトン以来、「熟練した技能活動的知識」が常に「抽象的推論能力」の下に置かれ続けているというものだ。
*9 逆に調査協力者が日常的な看護作業のほとんど全てがまだ日常化・身体化されていない看護実習生や新人看護師であれば、経験の語りに関するリソースも豊富にありそうだ。たとえば西村(2007)などを参照のこと。
*10 指摘するまでもないが、なかには自らが体験した作業や労働についての遡及的な語りを説得的に語ることができる調査協力者もいるだろう。しかしながら調査においては、常にそのような人に出会えるわけではない。
*11 たとえばルーティン化された介助を伝えることの困難さとして、前田拓也(2009:171)は「細かに記述しはじめれば、ほんとうにキリがない」ことを指摘し、「細かに記述することの困難、言語化することの困難は、そのまま介助を教えることの困難につながってくる」と述べている。
*12 こうした問いはアプローチこそ全く異なるものの、「『当り前』のものとして、普段は疑問を差し挟まない、無自覚に行っている行為や行動、無意識のしぐさや身振りなどにも、深い文化的意味が潜んでいること、またそうした身近で卑近な事象にも、現代社会に生起するさまざまな問題を解決していく手がかりのあること」(松崎編1999:3─4)を示してきた民俗学的な考え方とも共有できる構えかもしれない。
*13 本書の読解については、池吉・中山(2007)も参考にした。また訳書を参照したが、一部訳し変えてある。
*14 このような調査方法が妥当性をもつケースとして、人びとのアイデンティティを探求する研究が考えられる。アイデンティティが「自分とは何か・自己をどのように記述するか」ということと大きく関わるのであれば、必然的にその人の経験を経験者自身によって再記述することになるインタビューという調査手法は、アイデンティティを探求する調査研究方法として妥当であるように思われる。たとえば、南(2000)、鶴田(2009)を参照のこと。
*15 この点については、ガーフィンケルとメルロ=ポンティのいう「身体の習慣化」の関係について少しだけ触れておきたい。メルロ=ポンティはガーフィンケルに「なじみぶかい場面」を分析するパースペクティブを与えた現象学者である。ガーフィンケルが、メルロ=ポンティの影響を受けていたことは、サーサス(Psathas 1988=1995)によっても指摘されている。メルロ=ポンティの1 つの学術的貢献として、身体の習慣化についての考察がある。メルロ=ポンティは、当時の心理学の知見を踏まえた次のような考察がある。「怒りの所作にしろ脅しの所作にしろ、私はそれを了解するのに、私自身がおなじ所作をおこなった際に感じていた感情のことを想起する必要はない。怒りの身振りは、内部からはなかなか知り難いものだし、したがって、類似による連合とか類推による推論とかを行おうにも、どうも或る決定的な要素が欠けているようだ。のみならず、私は怒りとか脅しとかを、所作の背後に隠れている一つの心的事実として知覚するのではなく、私は怒りを所作そのもののなかに読み取るのだし、所作は私に怒りのことを考えさせるのではなくて、怒りそのものなのだ」(Merleau-Ponty 1945=1967:303)。こうした怒りという意味とその所作についてのメルロ=ポンティの主張は、行為の理解や記述という点でとても示唆的である。
*16 エスノメソドロジーの紹介論文としてとても平易かつ簡潔に書かれているものに樫村(1998)、前田・水川・岡田編(2007)、串田・好井編(2010)、へスターとフランシス(Hester & Francis2001=2014)がある。
*17 是永(2013)は、エスノメソドロジーに特徴づけられたエスノグラフィ(Ethnomethodologically informed Ethnography)をいわゆる従来型のエスノグラフィと比較しながら、「当事者である人々がみずからの行為を「経験」として理解するやり方(members’ method)そのものを考察の対象にすえ、それにアプローチしていく」という選択をしたとき、エスノメソドロジーに特徴づけられたエスノグラフィが注目に値すると述べている。また、岡田は自らが編んだ本(前田他編(2007))の中で「エスノグラフィー」との関係について「具体的には、記述の細やかさや分析の解像度の差」(2007:268─9)と述べており、「もしエスノグラフィーが、人びとの実勢の活動に迫ろうとして、これまで以上に精度の高い記録を目指すようになっていくと、これまでエスノグラフィーとエスノメソドロジーを隔てていた研究目的の差は、事実上意味を持たなく」(2007 : 269)なると述べている。
*18 「末節骨基部背側に終止腱が付着しているためDIP 関節の屈曲強制により指伸節腱がその末端付近で断裂を起こしたり、腱性部で断裂せずに付着部の裂離骨折を起こし、マレットフィンガー変形を呈する」(『柔道整復学 理論編 改訂第5 版』:259─60)。
*19 1993 年(平成5 年)に第一回柔道整復師国家試験が実施された。試験科目は、解剖学、生理学、運動学、病理学概論、衛生学・公衆衛生学、一般臨床医学、外科学概論、整形外科学、リハビリテーション医学、柔道整復理論及び関係法規となっている。
*20 柔道整復師の保険の扱いを検討したものとして、加藤(1989)、北原(1999)、濱西(2011)などが挙げられる。また、健康保険法第87 条などを参照のこと。
*21 考えられる理由を2 つ挙げる。1 つは柔道整復師という資格が日本のみで認められており、医師や看護の分野とは対照的に、世界規模での社会学的検討の対象にはなりにくいということだ。世界規模での研究対象とならない以上、柔道整復師を社会学的に研究する研究の数も当然少なくなるだろう。2 つ目として、柔道整復師養成校は、2011 年4 月の時点で108 校(うち一校は事実上閉校している)あるが、そのうち短期大学を含めても大学の養成施設は10 校のみであるという事実を挙げておこう。現在においても柔道整復師養成校のそのほとんどが専門学校である。総合大学ではないので社会学者などの人文・社会科学分野の研究者と対話がなされにくい環境である。医学部や看護学部の多くが総合大学の一学部としてあり、かつ医療や看護というフィールドで社会学的な研究が進んでいることは示唆的である。
*22 エスノメソドロジストの代替・補完医療領域の研究として、鍼灸師の分析については樫田編著(2007b)、齋藤(2009)、理学療法士の分析については樫田(2010)、言語療法士の研究として前田(2002b ; 2005 ; 2008)、作業療法士の研究として林田(2004 ; 2005 ; 2007)がある。
*23 あるいは科学ジャーナリストのシンとエルンストの仕事(Signh & Ernst 2008=2013)もある。たいへん多くの事例を丁寧に調べ上げたもので、代替・補完療法についての事例的知識を増やすという意味では重要な書籍だ。また、伊勢田(2003)のような科学哲学者による論考もある。
*24 代替・補完医療領域において、医療人類学が医療社会学と比べて相対的に進んでいるのは、医療人類学という分野そのものの特性として西洋近代医療概念を相対化する志向の表れ(たとえば波平(1994)、池田・奥野(2007)などを参照)といえるかもしれない。
*25 他方で、タイ・マッサージの施術にしてもいかさま施術にしても、施術者と患者の相互行為によってなしとげられているにもかかわらず、相互行為そのものを記述することはなされていない。
*26 結果的に、本研究ではこの2 名のデータについては音声データも使用していない。
*27 こうした調査における一連の手続きは、西阪ら(2008:227─38)の「付録」が大変参考になる。ここには依頼書や承諾書のフォーマットが掲載されており、筆者はこれらの書式を参考にした。
*28 第1 章の試みは、「概念の結びつきが用いられつつ変わっていく様子を記述する」(2009: 5)ことに主眼が置かれた酒井・浦野・前田・中村編の『概念分析の社会学』(2009)にインスパイアされたものである。とりわけこれらの本に収録されている石井(2009)、喜多(2009)は本書第1 章の執筆にとって示唆的であった。
*29 すべての柔道整復師が超音波画像観察装置を使用しているわけではない。
*30 この点については、柔道整復師が骨折・脱臼を扱う際には整形外科医の診断が必要であるという、法的制約と関係がある。柔道整復師法第17 条には「柔道整復師は、医師の同意を得た場合のほか、脱臼又は骨折の患部に施術をしてはならない。ただし、応急手当をする場合は、この限りでない」とあり、一部の施術が制限されている。つまり、骨折・脱臼が疑われる外傷については、そのような怪我をした患者が接骨院に来院しても、柔道整復師は整形外科医へその患者を紹介しなければならない。たとえば出血を伴う骨折(いわゆる開放性骨折)の場合、衛星管理面や外科手術の必要性から、柔道整復師はこのような重症例を扱うことはできない。
 
 
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