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『孤児と救済のエポック』

 
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土屋 敦・野々村淑子 編著
『孤児と救済のエポック 十六~二〇世紀にみる子ども・家族規範の多層性』

「序章 子どもの「救済」の歴史を問う視角」「あとがき」(pdfファイルへのリンク)〉
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序章 子どもの「救済」の歴史を問う視角
 
野々村淑子・土屋 敦
 
(1)本書がめざすもの
 本書は、『孤児と救済のエポック』というタイトルを掲げている。しかし、身寄りのない子どもたちをいかに救済してきたか、彼/彼女らの苦しみを和らげるべく、いかに善意を尽くしてしてきたのか、などを辿ることを目的としてはいない。あるいは、そうした救済の取組みにもかかわらず、彼/彼女らの苦しみは癒えることはなかった、ということを語ることもしない。彼/彼女らの苦しみや幸せがどれほどのものであったのかを、私たちは推し量ることはできない。できない、だけではなく、してはならない。そのような推測を他者に押し付けることほど傲慢なものはないと考えるからである(1)。しかしながら、このこと自体が、本書が発信したい第一の点ではない。むしろ出発点である。
 児童保護や福祉、教育についての近年の歴史研究は、上記のような発展図式や、物語的記述を離れて展開している。福祉国家による家族や個人の生き方への助成的介入が有している官僚制的形式と、暴力的抑圧性に転化する可能性を指摘し、現代の福祉国家復興や再生論のオプティミズムに一定の距離をおく議論である。比較教育社会史研究会による一連の著作集(広田照幸他2013;橋本伸也他2014;三時眞貴子他2016)は、そうした楽観的な(アカデミズムを含む)主張や議論のアナクロニズムを批判し、福祉国家を成立させた歴史的条件やその過程の精査をすすめてきた。救済、保護、福祉の歴史に常に近接し展開してきた教育の歴史について、従来の日本の教育(史)学研究の幅を拡げ、「政治的楽観主義」を修正したこれらの共同研究は、二〇一〇年以降の当該領域の研究を牽引してきた。比較教育社会史研究会による一連の著作集は、孤児、浮浪児、貧困児ら(2)に対する、篤志家や慈善団体、博愛組織、さらに国家や州、市などの政府機関による救済、保護、あるいは福祉の活動や制度化、実施の成立とその経緯を、その時代の文脈において解明している(3)。
 本書は、これらの研究に示唆を受けながらも、さらに解明しようとした課題がある。それは、こうした歴史的経緯の結果、私たちのなかに定着した「本来の」「普通の」「一般的な」「普遍的な」とされる価値観の成立過程を追い、その経緯や顛末の具体によって、いかにしてその価値観が普遍性を帯びるに至ったのかを解明することである。私たち、というのは、語弊があるかもしれない。むしろ、本書の読者の方々は、そうした価値観を相対化しえているのかもしれない。次のような言葉を付け加えてみよう。普遍性を帯びるに至った経緯、そこに刻まれたけれども今や見えなくなっている社会的な意味や文脈を明らかにすることによって、普遍化された価値観によって出来上がっている通念、社会の仕組や制度、多くの人々の態度や思考などについて、それが不変でも普遍でもなく、従って疑いようもない真理でもない(なかった)ということをまずは認識してみる、ということである。そして、さらに次のように問うてみる。あらゆることには、それが多くの人々に真理と見做されるようになった道筋がある。それが正しいか否かということを判断する前に、その網の目、すなわち、子どもや家族についての、ある価値観が普遍であり、真理であるとされるようになってきたいくつもの線やその絡まりとしての網の目を解きほぐしてみようというのが、本書のささやかな、しかし同時に大胆な試みである。
 子どもは守られるべきである、家族は子どもの命と育ちに第一義的な責任がある、子どもの健全な育ちには家庭的な場が一番である、といった子どもと家族についての言葉に対して、敢えて異議を唱える人は殆どいないと思われる。本書は、そのこと自体についての正誤判断はしない。それは不可能である。しかしその代わりに、このように問いかける。どのようにして、それは異議を唱えることができないような、普遍的な価値観となったのか(4)。
 
(2)本書における問いかけの前に
 その問いかけの前に、ふたつ前提がある。一つは、それを普遍的な価値観としない社会、時代があったという事実である。それはそれぞれの論考において示されるだろう。そしてもう一つは、子どもの保護とその際の家族の役割についての価値観は一度に様々な要素がすべて出揃って出来上がっていくことは考えにくいということである。子どもは大人と異なる扱われ方をされるべきである、子ども期は他の人生の諸時期とは異なる特権的な時期である、養育責任を持っているのは父である、または母である……、あるいは父と母では役割が異なる、父は扶養役割、母には特に幼少期の養育役割が相応しい、子どもの成長にはそうした役割を担う父母が揃った家庭的な場が必要である……、といった様々な層があり、その理由とされたことも、それが主張され浸透していった時代や場によって様々である。
 したがって、本書に収められたそれぞれの論考では、各々の対象の時代、地域において残された史料から、子どもと家族についての新しい価値観の要素と、それが生み出されていく論理と文脈を丁寧にひとつひとつ追うことを心がけた。それまで当たり前ではなかったことが、当たり前とされていく瞬間、そのエポックにフォーカスし、何がいかにして当たり前とされていくのか、を解明する作業である。
 家族や子どもの社会史研究の進展に伴い、近代家族の子ども中心主義については、家族史や子ども史の研究者にとっては、一九八〇年代以降には殆ど常識となっている(5)。そして、そこで意図されたのは、子ども中心主義家族の形成過程とそこに刻まれた諸問題の解明であった。しかし、二〇〇〇年代以降、教育基本法改正(平成一八(二〇〇六)年)や(新)児童虐待防止法制定(平成一二(二〇〇〇)年)、児童福祉法改正(平成二八(二〇一六)年)など、そして、それに伴う教育や福祉、医療領域での社会や政治の場で起きたこと、また起きつつあることは、むしろ、子ども中心家族の家族像、親子関係像の再認過程である。子どもは家庭(的な場)が一番の育ちの場である、しかし貧困やそのほかの事情で子育てができない親もいるだろう、そういう家族には国家や社会は支援が必要である、といった考え方がいまだに支配的である。
 既に多くの研究が明らかにしているように、長い射程で歴史を紐解くならば、家族や子どもについて現在持たれているような普遍主義的かつ強力な価値観は、永続的で不変のものではない。それは過去のある時点で、様々な場所で、様々な経緯で徐々につくられてきたものである。非常に不思議なのは、多様で多層な変化の過程を経ているにもかかわらず、ある程度一定の共通な価値観が、国や地域を問わず、普遍的に存在していることである(6)。そしてそれが、例えば右記に掲げたような法に象徴されるような、強力な規範として機能している。あるいは、教育、福祉、医療制度の実施運営の前提に組み込まれている。そして近年、「児童虐待」、「子どもの貧困」等の問題化によってそれが加速しつつある。
 
(3)本書のささやかな、そして大胆な試み
 本書は、一六世紀イギリス、一八世紀アメリカ、二〇世紀転換期イギリス、二〇世紀アメリカカリフォルニア州日系社会、明治期日本、植民地期朝鮮、戦後日本という、いくつかの時代や地域に焦点をあて、子どもや家族についての規範的な価値観が成立していく様々なエポックメイキングな時期にそれぞれ的を絞り、経緯を明らかにした諸研究の積み重ねである。もちろん普遍的家族観や子ども観についての通史ではない。各々が、自分が最も問うことを必要とした対象、地域に焦点をあてたいくつかのモノグラフの集積である。これらをもって、日本や西洋、また東洋の近現代社会史、教育史研究に位置づけるような構造化を行うことは難しい。比較教育社会史研究会による研究の射程に対して、それを塗り替えるような大きな目論見があるわけではない。その意味でささやかな試みなのである。
 しかし、先に触れたように、本書は、それぞれの対象、社会において、子どもや家族についてそれまで当たり前とされていた価値観が否定され、新たな価値観が承認され、普遍化されていくプロセスにおいて、何が起きたのか、あるいは、誰が、またどういった集団が、どのような論理や弁明をもってそれを可能せしめたのか、について丹念に解明しようとした試みでもある。各々が、その途上にある研究対象地域において、上記のような問いをなげかけ、時代の変わり目を捉えた時空間に降り立ち、残された史料から歴史のリアリティをつかみ取ろうとした軌跡といえる。しかし同時に、子どもとは、家族とは、こういうものだ、こういうものだった、あるいは、それを取り巻く近現代の歴史法則はこうだといった一元的、価値的認識体系そのものへの、それぞれの研究を通した抵抗の試みであるということもできる。
 家族や子どもについての一元的な価値観は、そうでない子どもや家族の形を普通ではない、あるべき姿ではないという評価が下される基準となる。ある像についての規範化は、常に、「そうではないもの」を浮き彫りにし、際立たせる。あるいは逆の場合もあるだろう。「そうではないもの」を浮き彫りにし、際立たせることで、「そうではないもの」ではないもの、すなわちあるべき規範がつくられていく。あるべきあり方ではないことが浮き彫りにされ、際立たせられるとき、私たちはそのこと自体によって羞恥心を覚え、できるならそれを隠し、あるべき姿であることを演じるかもしれない。一九世紀イギリスの新救貧法制定過程で、被救済民に院外救済を制限し、施設(労役場=ワークハウス)収容かどうかの困窮度を自己診断させた労役場テストは、まさにそのような効果によって被救済民数と救貧費用の削減を狙ったことは有名である(川田昇1997:118)。
 同時に、そのようにして、あるべきあり方に近づいていくことが無前提的に当然のことになると、それは、そのために支援することは正しい、という思考に直結する。可哀想だという感情的評価も伴って、である。というのも、上記のように被支援者には引け目と劣等意識が伴っていることが多く、支援者側の憐憫感情と、そうした被支援者側の自己卑下的な感情は表裏一体なものだからである。冒頭に触れたように、このようなサイクルに素手で立ち入り、無前提に支援を後押しすることは、傲慢な態度であると言わざるをえない。研究を通した抵抗とは、そのような態度に対する抵抗、批判である。大胆な試みであるというのは、こうした意味で、である。
 私たちは、貧困や経済的格差を是としているわけでは勿論ない。そしてまた、福祉制度や貧困者への支援を否定しているわけでもない。私たちが問題としているのは、そうした福祉や支援の制度や行為には、優劣感覚を伴う非常に繊細な評価や態度が不可避的に付随しているということであり、それは時として象徴的にであれ、暴力的に作用するということである。それを作りだしている子どもや家族についての一元的価値観こそを見つめなおさなければならない。すべての子どもが、すべての家族がある一定の在り方で存在することが幸せであるという考え方の普遍化、一般化は、いかにして起きたのか。なぜ、どのようにして、その社会は子どもや家族についてのこの強力な価値観に支配されるに至ったのか。これが私たちの問いである。
 
(4)子ども、家族についての「物語」批判
 普遍化された一般的価値観を、そうした価値観の普遍化の物語そのものの成立過程を明るみにだすことによって「脱構築する」という試みは、H・カニンガムによる『貧困者の子どもたち』(Cunningham 1991)の示唆によるところが大きい。本書は、貧困児研究として評価され、参照されることも多い。しかし、当研究に底流するこの視座を十分に踏襲した研究は少ない(7)。左記は、カニンガムがその書の冒頭に記した文章である。

 本書で私が説明しようとしているのは、まず第一に、富裕者の子どもと貧困者の子どものあいだにいかに差異がある(あった;括弧内補足は引用者による)のかということである。それは一七世紀から一八世紀には強調され、大いに喧伝されたが、(二〇世紀初頭には)遺憾なこと(否定すべきこと)とされた。かくして、すべての子どもたちが、「適切な子ども時代」を構成してきたものを経験し享受する権利があると考えられるようになったのである。それはいかにしてか、ということが、第二に説明しようとしていることである(Cunningham 1991:1)。

ここでカニンガムは、歴史上におけるイギリスの富裕層の子どもと貧困層の子どもの差異を説明することを最終的な目的としているわけではない。その差異が際立たせられ、その後二〇世紀初頭にその差異はあるべきではない、とされたことに着目し、貧困層の子どもというフィルターを通して、理想の子ども像とそれに向かう物語のつくられ方が照射されていくのである。
 カニンガムのいう貧しい子どもについての「物語(Story)」とは、産業化前の家の手伝いをする子どもという牧歌的イメージから、産業化による工場で搾取され健康を害する子どもへの変化であり、そこから基礎教育(学校教育)によって蒙昧で野蛮な状態から啓かれ、救済される子どもへ、という系譜を辿って構成される。そのような物語が、救済活動を称賛し推進した改革者や思想家たちによって創られたとされる。重要なのは、「子どもが歴史の前景、中心へと押し出され……、子どもへの対応こそが、文明化の度合いを判断する試金石となった」(Cunningham 1991:16)と指摘されていることである。学校教育が、工場の苛酷な労働や、未開で野蛮な浮浪状態からの救済の手立てとされていくプロセス、そして子どもの身体や精神についての科学が進展し、子どものための制度がそれと歩調をあわせつつ拡充されていくプロセスを追いつつ、それぞれのターニングポイントで創られた物語が示される。秩序の希求(一六八〇─一八一〇)、児童労働への反応(一七八〇─一八五〇)、そして野蛮人(未開人)であること・浮浪児であること・資本主義下の児童労働(からの救済)、さらに、子どもと国家、各章毎に、創られた子ども史の物語が確認されるのである。メタ歴史叙述として非常に刺激的な視座である。カニンガムはさらに、貧しい子どもたちの沈黙の意味を考えなければならないという(Cunningham 1991: 233)。博愛主義者や、制度化推進者、関連行政官ら救済や保護をする側の関係者が声高に創り出した物語を論じる一方で、貧しい子どもたちの沈黙に注目していることは重要である。そのことの意味を、私たちは各章の文脈で考えてみる必要があるだろう。
 ただし、この研究はイギリスの一七世紀から二〇世紀初頭まで長い期間を対象としている。もちろん、この研究が問題にしているような、強力な物語を提示し、それを紐解くという趣旨からも、ひとまず長期スパンでの見渡しが必要である。しかしそれ故に、その多くが既に存在している歴史研究や著名な社会改革者、思想家などの言説分析が主であり、救済や保護事業の内容や制度化の経緯、そこでの意見の対立や妥協、実施の経緯等の詳細や具体までを解明した研究ではない。
 カニンガムの研究に示唆を受けつつも、本書は、対象地域やコンセプトを異にしている。各章で扱う地域に定位し、孤児や貧困児の救済、あるいは保護が、公的な関心事となった、あるいはそのための仕組、組織、施設、制度などが整備され始めた、それぞれのエポックに焦点を当てる。公的とは、施しなどの個人的、私的な慈善ではない、という意味である。都市や州や国家などの明示的公権力だけではなく、ボランタリー団体が資金や運営の面で公の性格を帯びることも多々ある。公的であるか否か、という区別は非常に難しい(岡村他2012)。それぞれの時代、地域によってその意味するところはまったく異なる。また、「福祉の複合体論」(高田実2006)にあるように、そして、本書において各章でも示されているように、近世、近代以降の貧民救済、福祉は、教会や慈善団体、博愛団体などのボランタリーな組織が、公権力による制度や仕組を取り囲み、近隣や縁戚、家族などによる互助などと、共存していた。緊張関係や協力の関係も含み込んだ政治的空間のなかで、国家や社会にとって重要な案件として貧困児、孤児問題が浮上し、彼らを救済、保護する仕組みが整えられていく。そのプロセスをみていく際に留意すべき点が二つある。
 一点めは、それまでの救済の在り方との衝突である。孤児や貧困児が救済され保護されるのは当然であり、そのために公的な財や資源を使用することは理に適ったことであるという考え方が広まり、さらに救済や保護の内容や方法についてのあるべき形が徐々に創られていくには、それが当然でも理に適ったものでもないと思っている人々が納得する理由、条件が必要であろう。それを確認する必要がある。
 そして、二点めは、そのようななかで徐々に主題化されていくのが、家族の在り方であるということである。イギリスの救貧法についていえば川田昇が詳細に論じているように(川田昇1997)、そして本書の各章でそれぞれの対象において論じているように、家族は、貧困児や孤児の救済、保護について他の何よりも責任があるものとして想定されてはいなかった。それが、どのような境遇の子どもであっても、子どもはすべて、まずは家族にその養育や扶養についての第一義的責任をもつものという考え方が定着していくのである。子どもの救済、保護、福祉の歴史のなかで家族がフォーカスされていく文脈は大きく言えば二つある。それは、救済対象としての子どもの家族が問題とされる場合と、孤児院や組織自体の養育の仕方や環境、預け先の環境として家族(的雰囲気)が強調される場合である。いずれにしても、どの章においても、家族、親がフォーカスされていく様相がみえるだろう。
 三点目は、とりわけて子ども、家族が、私領域とされ、政治的世界と隔絶され語られることである。各章でみていくように、子どもや家族の規範は、国家を中心とした政治的な議論の場でつくられていく。カニンガムが「子どもは社会的、政治的真空に存在しているわけではない」(Cunningham 1991: 6)と述べているように、である。しかし、子どもや家族についての語りは、政治的磁場から離れ、それとは無関係に理想や規範、価値を語ることが可能なのである。この「私領域の政治性」の問題は、目新しい視点ではない。橋本がいう「楽観的で教育主義的な福祉国家への期待」(広田・橋本・岩下2013:23)とも通じる問題である。とはいえ、本書の試みによってその問題が解消することは不可能である。しかし、この「政治的真空」化は、子どもや家族が「一般的」「普通」「本来」などの言葉によって形容され、時空間を超えた普遍的な形があるという認識と表裏一体である。各章において孤児、貧困児の公的救済が開始されていくどの動きも、それまでの救済の在り方も、家族の在り方もまったく異なるにもかかわらず、出来上がっていく子ども、家族のあるべき像について一定の共通性がみられるのは、不可思議である。そのような事態、私たちの認識は、どこからくるのか。本書の各章が、部分的にであれ検証しようとしたのは、こうした認識自体の生成過程であり、「脱構築」である。
 
(5)各章の概要 (以下、つづく。注および傍点は省略)
 
 
あとがき
 
 本書の多くは、救貧施設や孤児院そして里親など、出身家族関係とは切り離されるかたちで養育された「子ども」の保護機関の分析に当てられている。その限りで、本書が対象とした子ども・家族規範は、社会のマジョリティであった人々が形成してきた親子関係や家族関係におけるそれではない。また、であるからこそ、本書で対象とした子どもの代替養育の場の形成には、「保護されるべき子ども」をめぐる社会の包摂と排除の論理や公権力の関与、福祉国家や帝国主義・植民地統治の論理、そして教育規範や近代的子ども・家族規範などが複合的かつ多層的に折り重なるかたちで直接的に反映されやすいという特徴がある。
 「孤児」に対する代替養育の場の形成史が開示するのは、そうした「親のいない子ども」に対するさまざまな論理や規範が複合的かつ多層的に織り込まれる、その織り込まれ方を、社会の周縁部に位置づけられた子どもの養育規範の形成・編成のあり方を分析する中から照射していく研究視座の可能性である。こうした主題を、時代も地域も異なる研究者間の共同作業として、そこに編み込まれた複合的かつ多層的な論理や規範の織り目の一つ一つを丁寧に検証するかたちで、一つの研究としてまとめ上げられないか。本書は、そのような問題意識から、執筆者間の議論を繰り返し重ねながら編まれたものである。
 こうした議論を「初期近代」、「福祉国家の揺籃期」とも評される一六世紀半ばロンドンにおけるクライスト・ホスピタルの設立をめぐる分析から開始したことも本書の特徴の一つであった。このクライスト・ホスピタルの設立は、古代から中世期において善意の第三者による養育慣習の中に埋め込まれていた(とされる)貧困階層の棄児や孤児の養育が、公的組織によって公共空間の中で可視化された歴史上初の出来事であった。第一章野々村論文で検討されたのは、そうした棄児や孤児の公的空間への囲い込みをめぐる端緒的出来事の形成史であり、いわば「一大実験」としてあった子どもの救済事業の開始を、同時期の救貧規範の再編や統治機構の編成過程などの多層的な論理や規範の絡み合いを分析する中から明らかにする作業だった。
 また子どもの救済に際して、教育規範・論理が浮かび上がる諸相を軸に据えたことも本書で留意した点である。同主題は、主に第二章、第五章、第六章で扱った。特に第二章乙須論文では、米国社会において、教育の対象として貧困児の存在が明確な輪郭を有し始める、一八世紀後半米国フィラデルフィアにおける貧児教育の形成に関する分析が行われた。なかでも第二章で試みられたのは、一八世紀に急速に拡大していく弱者救済活動の組織化と、その中で紡ぎだされる「人道主義的物語」(弱者の苦しみを細部にわたり描写し、人々の感受性を刺激することで、彼らを苦境から救う手立ての必要性を喚起するかたちで作成される物語)の形成過程を検証したうえで、そうした弱者救済の実践や論理が「教育」という手段を媒介としながら貧児救済の場に織り込まれていく軌跡を検証する作業だった。
 また本書では、「子ども期の科学化」──子ども期を何らかのかたちで測定しようとする動き──を通してなされた「あるべき子ども規範」の普遍化をめぐる主題にも多くの紙幅を割いた。この「子どもの科学化」に関しては、主に第三章と第七章で扱われている。特に第三章草野論文では、子ども期の科学化が顕著なかたちで組織化されていく端緒となった一九世紀後半から二〇世紀初頭英国における児童政策の展開について扱った。第三章では、一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけて二次にわたり繰り広げられたボーア戦争が、英国において「国家の子ども」が強調される契機となったこと、また同時期において、乳児死亡率の改善や児童虐待によって失われる子どもの「生命の無駄遣い」の防止など、より多くの子どもの生命を維持するために多くの科学的調査がなされ、それを下に施策が組み立てられたことが分析された。その上で第三章では、そのような「子ども期の科学化」が「すべての子ども」に普遍的に参照されるべき子ども規範を作り上げていった諸相の解明がなされた。
 また本書の第四章と第七章は、日本の孤児院、児童養護施設における、特に子ども・家族規範の形成・編成をめぐる議論を扱った。
 第四章足達論文では、一八九二(明治二五)年に群馬県前橋市岩上村に設立された上毛孤児院の運営実践の分析から、孤児院における養育環境を家庭的な場とすることをめぐる諸相が分析された。この明治中期は、近代日本においてキリスト教や仏教の影響下に岡山孤児院をはじめ多くの孤児施設が設立された時期に該当しているが、第四章ではこの時期になり初めて「孤児」というカテゴリーが特別に「保護が必要な対象」として創出されたこと、またそうした「孤児」カテゴリー自体が指し示す対象自体は可変的であり、親は存命だが貧困などの理由で養育役割を果たせない家の子どもなどへと指示対象を拡大していったことなど、「孤児」というカテゴリーへの特別視と子どもの「救済」のあり方が結び付けられていく諸相が丁寧に分析された。本書全体の議論自体は一六世紀の子どもの救貧施設の分析から開始しているが、「孤児」というカテゴリーに特別な意味が付与されていくのは一九世紀以降であり、日本では一九世紀末以降に生じた出来事だった。第四章におけるエポックは、そうした「孤児」カテゴリーの特別視が近代家族規範の黎明期に同規範の移入とともに生じた点にある。
 第七章土屋論文では、特に第二次大戦期から戦後期において、乳幼児期に親から切り離されながら施設などで養育される子どもの「発達の遅れ」を指摘するフロイト派の児童精神医学の移入について議論を行った。その際に、施設で生活する子どもを研究対象としながら作成された「ホスピタリズム」、「愛情飢餓」、「母性的養育の剥奪」といった児童精神医学上の専門概念が、施設養育などの社会実践との相互作用の中で、自らの概念規定自体を変容させていく諸相の検証がなされた。孤児院や児童養護施設などの「親から切り離された子ども」の研究対象化とフロイト派児童精神医学概念の移入は、そうした子どもを生み出さないことが、施設児童の「発達の遅れ」の指摘との関連下に、科学的証拠の提示を伴いながら説得的に推奨された点においてエポックな出来事であったといえる。また第七章における議論はそうした問題認識枠組みが一九六〇年代以降、一般家庭児童の「親子分離」を回避するための予防策を組み立てるかたちで、家族政策へと「転用」されていくという点においてもエポックな主題であった。
 また、移民コミュニティにおける同化と異化(第五章)、植民地主義と民族主義(第六章)など、ナショナルな地政学的政治と孤児院の運営や里親委託の実践が折り重なり多層化する場に多くの議論を費やしたことも本書の特徴であった。
 第五章大森論文では、一九一〇年代から戦後期の米国カルフォルニア州において、日系移民によって設立された児童保護事業を、羅府日本人人道会から南加小児園へと展開していく変遷を軸に検証を行った。南加小児園は、保護された孤児に対する家庭の代替的役割を果たすことを企図して在米日本人の「アメリカ化」を志向するかたちで保護機関の形成が行われる一方、日本語教育の実施や「陛下の赤子」という標語の下での「日本人」としての人間形成も行われるという、二重の人間形成がなされる場としてあった。またそうした孤児の保護枠組みは戦後期に至って里親委託を軸に再編されるとともに、「日系人の子供は日系人の家に」という標語を掲げながら、子どもを「自然」に近いかたちで代替養育する場の重要性が強調されるという軌跡を辿る。
 第六章田中論文では、一九一〇年代から三〇年代までの植民地朝鮮における孤児院の展開が、特に私設孤児院である嶺南共済会(慶北孤児救済会、慶北救済会)の設立や運営の変遷を分析する中で検証された。朝鮮半島における孤児院は、植民地期、特に一九一九年の三一独立運動以降多くの施設が設置されていくが、この「文化政治期」と呼ばれる植民地期は孤児院が多く設置されたという意味でも、また孤児院における子ども養育規範の中に植民地統治の論理や民族主義などの政治が編みこまれた点においても画期を形成していたといえる。第六章では、特に一九二〇年代以降における孤児院運営の展開が民族主義や社会事業の興隆などとの交錯関係の下に整理されるとともに、慶北救済会における孤児救済事業が、存続継続のために総督府や道府庁の意を汲むかたちで再編されていった軌跡が描き出された。
 以上、本書のあとがきに代えて、本書全体のコンセプトと各章で展開された「孤児」と「救済」をめぐるエポックな位相をまとめてきた。同作業を通じて、本書の課題であった一六世紀から二〇世紀に至る孤児と救済のエポックを描き出す上で必要な作業の少なくとも一端は提示できたのではないかと自負している。
 とはいえ、本書で提示しえたのは、同主題のラフなスケッチの一端に過ぎない。研究対象も主に欧米圏と日本および朝鮮半島に限られており、膨大な量の課題と分析主題、そして分析史料とが手つかずに残されている。今後、同研究分野に多くの研究者が参画し、研究蓄積が進んでいくことを願ってやまない。(以下、つづく)
 
 
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