「憲法学の散歩道」書籍化第3弾『思惟と対話と憲法と』が2025年10月15日に発売となりました。第44回までの連載分に単行本用書き下ろし1篇が加わった、著者・長谷部さんとの散歩をぜひみなさまも一緒に楽しんでください。[編集部]
立憲主義(constitutionalism)は、政治権力を憲法によって制限する*1。その場合の憲法は、憲法典というまとまった法典の姿形をしているとは限らない。イギリスに憲法典はないが、それでも立憲主義国家である。
立憲主義は、統治者の権限(potestas)を制限する。統治者にとっては、邪魔で余計な制限であるように見えるであろう。できることなら、憲法を無理やり変えてでも制限をかなぐり捨てたいと思うのではなかろうか。
ただ、統治者の権限が制限されていることは、長い目で見れば、統治者のためにもなっている。統治の能力(potestia)の増大につながるからである。目先の利得に目がくらんで、うっかり権限を拡大するのは考えものである。
統治権限と統治能力の区別は、スピノザも行っている。彼によると、国家の最高の主権者たち(summae potestates)は,すべての事柄について権利を持つし、自身と異なる見解を抱く者を敵とみなす権利も持つ。
しかし、主権者が異論を唱える者を、それを理由に死刑に処すことは(彼にはその権利があるが)、健全な理性の判断に合致するとは誰も思わない。そんなことをすれば、国家全体を危機に陥れることになる。人がそれぞれ独自で判断したり感情を抱いたりすることは、止めようとしても止められない。主権者の実際の権利は、その能力(potentia)によって決まる*2。
人民の思想の自由を抑圧して、為政者が得られるものは何もない。肉体に処罰を加えて心変わりをさせようとしても、そうはいかない。
むしろ、人々の思っていることを自由に表現させた方が、為政者は人民の意向を知ることもできるし、誤った政策判断を思い止まるきっかけにすることもできる。人民の思想の自由、表現の自由を保障することは、為政者の統治権限を制約することではあるが、かえってその統治能力を高めることにつながる。それが、スピノザが言いたいことである。
絶対君主制は、17世紀のヨーロッパで隆盛をきわめた。フランスのルイ14世やイギリスのチャールズ2世が王位を占めた時代である。絶対君主(absolute monarch)とは、法から解放された(absolved)君主のことである。絶対君主とか絶対主義と日本語で言われただけでは、何のことかよく分からないであろうが*3。
法にしばられない絶対君主は、やりたいことを何でもする権限を持っている。制限君主(limited monarch)はそうはいかない。人民の自由を制約する法律を制定するには、人民を代表する議会の同意が必要である。人民から税を徴収する場合もそうである。また、絶対君主と違って、裁判は君主から独立した裁判所が行う。君主自身が裁判をするわけにはいかない。
絶対君主制はなぜ制限君主制へと変化したのであろうか。
民主化の波に押されたから、とか、個人の自由や権利を守るためというのでは、同じ結果を別の表現で語っているだけで、大した説明にはなっていない。この変化を説明できる要因の一つは、それが長い目で見れば、君主自身(とその後継者たち)のためになったから、というものである。
裁判では当事者の一方は必ず負ける。負けた側は裁判官を恨みに思う。勝った側は勝って当然だと思っているので、感謝はしない。裁判は恨みを買うだけの仕事である。刑事裁判はとくにそうである。裁判官が高祿を得ていることには、理由がある。
君主としては、自分の思い通りにはならない、独立した裁判官が裁判をしているのだという形をとれば、自身が恨みを買うおそれはない。恨まれるのは裁判官である。その上、罪人に恩赦を与えれば、感謝もされる。そもそも、君主が自分で裁判をしようとしても、処理できる事件数には限りがある。できもしないことは、やらない方が身のためである。君主が得意なほかの分野に統治のエネルギーを注ぐことができる*4。
人民を代表する議会の同意をとるのも、同じ理屈である。
同意もとらないで人民の自由を制約したり税金を取ったりすれば、人民の恨みを買う。悪くすれば、叛乱が起こって王位を追われたり、チャールズ1世のように処刑されたりする。議会の同意を得てことを進める方が、君主の統治能力は高まる。
裁判に話を戻すと、裁判官が事実認定の権限を陪審に委ねることも、同じ理屈で説明が可能である。裁判官は独立していることになってはいるが、個別の事案によっては、たとえば政治部門から、ああしてくれこうしてくれという圧力を受けるリスクはある(だから、そうした圧力に屈しないよう裁判官の身分保障がなされている)。リスクを回避する一つの手段は、裁判官自身の権限を縮小することである。
事実認定の権限を陪審に委ねてしまえば、その限りで、裁判官は圧力を受ける(あるいは、昇進と引き換えに買収される)リスクを減らすことができる。陪審は一般市民から事件ごとに無作為抽出で選ばれ、事件が終われば元の市民生活に戻っていく。政治部門から圧力を受ける心配はないし、買収される心配もない。裁判官は陪審の事実認定をもとに、法律の条文を当てはめて(機械的に)結論を出せば足りる。それでも買収しようとする人間は、裁判官だけでなく、すべての陪審員を買収しなければならない。買収のリスクは確実に減る*5。
人民一般からしても、こうして裁判官の権限と陪審の権限が分離され、政治的圧力を受けたり買収されたりするリスクのないことが、制度上も明らかになっていることは、安心の種となるだろう。いろいろな意味で都合が好い。
統治権限と統治能力とは、区別しなければならない。統治権限を制約することで、統治能力がかえって向上することは、珍しくない。
統治権限と統治能力は、相互に関連はしているものの、一応は別の問題である。各国の歴史を見ると、統治能力の向上が宗教と深く関連している事例がある。
マックス・ウェーバーは、プロテスタンティズムが資本主義発展の精神的基盤を形成したことを指摘した。社会学者のフィリップ・ゴースキーは、カルヴィニズムが、オランダとプロイセンの国家形成に大きく寄与したことを指摘する。これら二国では、宗教によって国民の精神を規律する、規律革命が発生した*6。
ゴースキーは、国家の統治能力は、行政部門の合理性だけでなく、社会の精神基盤の強さとその合理性にも依存すると言う。基盤が広範囲にわたり、しかもその内容が合理的であれば、それだけ国家は強力となる*7。
スペインからの独立を果たし、世界中に植民地を置いた17世紀のオランダは、連邦国家であった中央政府の機構が強力に全国を支配したわけではない。オランダの国力を支えたのは、カルヴィニズムによる精神的規律であり、それはスペイン支配下の他の地域にはびこっていた売官制や腐敗を抑止し、勤勉や自己犠牲の精神が遵法精神を支えた*8。軍隊では秩序立った教練が行われ、5列に組織された隊列によるマスケット銃の連続射撃は、きわめて効果的だった*9。
オランダ人に行き渡った精神的規律は、名誉革命と呼ばれることもある1688年のイングランド侵攻の際、劇的に発揮された。約1カ月の間に、オランダは2万1000人の兵を整え、100年前にイングランドを目指したスペイン無敵艦隊の4倍にあたる規模の船団を準備した*10。
オランダが強国となるについて、カルヴィニズムはどれほどの要因となっただろうか。ゴースキーは、北イタリアの諸都市との比較が有益だと言う。経済的な豊かさ、寡頭制の政治組織、社会構成における市民階級の地位等の点で、フィレンツェやヴェネチアは、オランダ諸州と似通っていた。ただ宗教については、イタリア諸都市は、カトリックである。オランダが世界に発展を遂げた時期、フィレツェやヴェネチアは、世界史の周縁的なプレイヤーにとどまった。
他方、同じくカルヴィニズムの社会であったスコットランドは、近隣の強国、イングランドの支配下に置かれた。これはスコットランドの経済的な貧困さで説明できる。結局のところ、カルヴィニズムによる精神的規律だけでなく、経済的な豊かさも、強国として発展するためには、必要であったことが理解できる*11。
ゴースキーによると、近代プロイセンの発展も、宗教的要素抜きでは説明がむずかしい。プロイセン国家機構の社会からの自律性は、国内諸身分が圧倒的にルター派であったのに対し、国王をはじめとする官僚機構と軍を構成する人員がカルヴァン派であったことに由来する。しかも、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世による上からの規律革命は、緊縮財政と合理的な官僚機構、そして強力な軍組織を作り上げた*12。軍では、オランダと同様、密度の高い教練が行われ、軍の規律は社会一般へ及ぶことが期待された*13。
オランダもプロイセンも、その領域や人口からすると、驚くべき発展を遂げた近代国家である。その発展を支えた精神的基盤はカルヴィニズムだった。
オランダやプロイセンから200年以上遅れて、日本は近代国家建設への道を歩み始めた。大日本帝国憲法の起草にあたった伊藤博文は、1888年6月18日、憲法草案を審議する枢密院の第1読会冒頭で次のように述べた*14。
抑欧州ニ於テハ憲法政治ノ萌芽セルコト千余年独リ人民此制度ニ習熟セルノミナラス又タ宗教ナル者アリテ之カ機軸ヲ為シ深ク人心ニ浸潤シテ人心此ト帰一セリ然ルニ我国ニ在テハ宗教ナル者其力微弱ニシテ一モ国家ノ機軸タルベキモノナシ仏教ハ一タヒ隆盛ノ勢ヲ張リ上下ノ人心ヲ繋キタルモ今日ニ至テハ已ニ衰替ニ傾キタリ神道ハ祖宗ノ遺訓ニ基キ之ヲ祖述ストハ雖宗教トシテ人心ヲ帰向セシムルノ力ニ乏シ我国ニ在テ機軸トスベキハ独リ皇室アルノミ是ヲ以テ此憲法草案ニ於テハ専ラ意ヲ此点ニ用イ君権ヲ尊重シテ成ルヘク之ヲ束縛セサランコトヲ勉メタリ
欧州では、宗教こそが政治の「機軸」となり、人心を統一している。他方、宗教に代わって日本で政治の機軸となり得るのは、皇室への尊崇だけである。
こうした観念を伊藤をはじめとする明治の元勲たちに教えたのは、1871年(明治4年)、廃藩置県によって国家の統一をなし遂げた年の11月に横浜を出航し、米欧各国を歴訪した、岩倉使節団の見聞である*15。
大久保利通、木戸孝允、伊藤博文等、政府要人からなる使節団のメンバーを困惑させたのは、米欧社会を支配するキリスト教信仰であった。岩倉使節団の報告書によれば*16、
西洋ノ人民、各文明ヲ以テ相競フ、而テ其尊重スル所ノ新旧約書ナルモノ、我輩ニテ之ヲ閲スレハ、一部荒唐ノ談ナルノミ、天ヨリ声ヲ発シ、死囚復活ク、以テ瘋癲ノ譫語トナスモ可ナリ、彼ノ異端ヲ唱ヘテ、磔刑ニ羅リシモノヲ以テ、天帝ノ真子トナシ、慟哭シテ拝跪ス、我其涙ノ何ニ由テ生スルヤヲ怪ム、欧米ノ各都、到ル処ニ紅血淋漓トシテ、死囚十字架ヨリ下ルヲ図絵シ、堂壁屋隅ニ揚ク、人ヲシテ墓地ヲ過キ、刑場ニ宿スルノ思ヒヲナサシム、是ニテ奇怪ナラスンハ、何ヲ以テ奇怪トセン
それにもかかわらず、使節団の見るところ、文明国であるはずの米欧各国では、キリスト教信仰が異様に盛んであった。全く何の理由もなく政治的エリートを含めてキリスト教が信仰されているはずはない。何か理由があるはずである。
使節団の到達した結論は、第一に、宗教が人心を団結させる力を持ち、それが「人民交際、及ヒ政治兵力ニ影響ヲナス」こと、第二に、宗教には社会道徳を維持する効用がある、つまり、宗教は人民の道徳性の基礎となっていることであった*17。だからこそ、欧米の政治指導者たちは、みずからは信じているはずのない荒唐無稽な宗教を信じているかのように装っている。
欧洲上等社会ノ人人ニ於テ、甚タ法教ヲ崇重スル外面ヲミレトモ、其深意ヲ揣レハ、蓋し人気ヲ収メ、規律ニ就シメル器具トナシテ、其権謀ヲ用フルニ似タリ、普魯士王「フレデルヒ」第二世曰ク「法教ノ効験トスル所ハ、国民ノ霊智ヲ荒暴スル外ハ、更ニ其功能ヲミルヘキナシト、此激烈ナル快論ヲ発シタルハ、独リ「フレデルヒ」一人ノ口ニ出タレトモ、各国ノ君相、内ヲ治メ外ニ交リ、詭譎百端ニテ、権謀ヲ用フル実跡ヲミルニ、法教ハ全ク器具ニ弄シテ、此仮面ヲ以テ愚民ヲ役使スルヲミル*18
「『宗教』は、『人気ヲ収メ、規律ニ就シメル器具』であり、『上等社会ノ人人』自身が信じているわけではない。それは、『愚民ヲ役使スル』『権謀』であり、『仮面』」だというわけである*19。宗教こそが近代国家建設の鍵だと、使節団のメンバーは考えた。
とはいえ、明治日本において、キリスト教を導入して、あるいは他の信仰に頼って、人心の団結と道徳の維持をはかることができるかと言えば、信仰心の希薄な日本人相手では、それは望み薄である。そこで伊藤たちが頼ったのが、皇室への尊崇であった。
伊藤らの皇室に対する態度は、虚飾であることを知りながらも一般大衆に対しては真剣に皇室への尊崇を演技し教化するという、「真剣なシニシズム」*20であった。天皇への奉尊は、それが政治上の便宜に適うからという功利主義的理由によって基礎づけられていた。
そうである以上、それをエネルギー源として作動する憲法制度も政治の便宜に適っている必要がある。potentiaに応じたpotestasの機構が求められる。伊藤の「此憲法草案ニ於テハ専ラ意ヲ此点ニ用イ君権ヲ尊重シテ成ルヘク之ヲ束縛セサランコトヲ勉メタリ」との言明が、こうして導かれる。束縛されない大権を実質的に支配するのは、天皇自身ではなく、伊藤をはじめとする政治エリートたちである。
皇室への尊崇は、初等・中等教育を通じて国民一般に教え込まれ、それを動力とする民族意識は軍部をも支配した。日本の規律革命のはじまりである。
他方、高等学校、さらに大学に進学した少数のエリートのみが、美濃部達吉が主導する国家法人理論を修得し、それにもとづいて統治権の行使をコントロールした。顕教と密教とが乖離することになる。
1935年の天皇機関説事件において対立したのは、絶対君主制イデオロギーという顕教と制限君主制という密教ではない*21。天皇機関説事件で対立したのは、皇室への尊崇というキリスト教の代替物としての「政治の機軸」と国家法人理論というエリートが受容し利用した学説であり、本来は同じ土俵で対立するはずのないものであった。美濃部が説いたのは、国家の法的な統治権限(potestas)を説明する理論であり、これに対して「天皇=神」という疑似宗教は、エリートの統治能力(potentia)を構築するため、軍部と一般大衆を教化し規律する精神的基盤であった。
天皇機関説事件を屈曲点として、支配的エリートによる操作の道具であったはずの皇室への尊崇は、エリートの手を離れて暴走を始め、大日本帝国は滅亡へと向かうことになる。国民を規律する精神的基盤の非合理性は、国家の統治能力をむしろ衰弱させた*22。
日本人の民族意識を喚起し、人心を統一し団結させるための皇室への尊崇の作出は、天皇の偶像化にほかならない。エミール・ファッケンハイムが指摘するように*23、「偶像idol」には、崇拝する人々の願いや悩みや畏れが投影される。偶像は、投影された願いや悩みに応じて行動するものとして理解され、意味づけられる。人々の願いや想いが投影されるからこそ、偶像は崇拝される。偶像を崇拝し、応援する人々が崇拝し、応援しているのは、つまるところはナルシシズムに浸った自分自身である。
天皇を偶像視する庶民も、自分たちの想いや願いや畏れを天皇に投影し、それを崇拝する。天皇の実際の考えと投影された想いや願いが異なるとき、崇拝すべきなのは、ナルシシズムに浸る自分たちの想いや願いである。天皇自身が天皇機関説論者であったとしても*24、それは問題ではない。
自分たちの想いや願いと天皇自身の言動とが齟齬を来せば、それは「君側の奸」の仕業として説明される。顕教がエリートのコントロールを離れ、逆に後者を圧倒しがちであることに、不思議はない。
1930年代における浜口雄幸首相や井上準之助の暗殺、5・15事件、2・26事件等、度重なる右翼分子のテロや軍部のクーデタ、また、昭和天皇がポツダム宣言受諾を「聖断」した後、神州防衛派が「一時天皇裕仁の意図に反しても、皇祖皇宗以来うちたてられた國體の本義を守ることが大きな意味では本当の忠節」と主張したことも*25、こうした文脈で理解することができる。
伊藤ら、薩長藩閥勢力が起動させた明治国家は、その内的な動力の暴走によって自壊するにいたった。天皇の偶像視をもたらす皇室への尊崇は、政治的エリートたちによる指導体制を呑み込み、軍部による非理性的な政治指導を帰結した。当時の政党に軍部に抵抗することはもはや期待できなかった。政党はみな政権に近づこうとして軍部に阿諛・迎合し、ついには近衛新体制に便乗して政権に近づくことができると信じてすべて解党し、大政翼賛会へとなだれ込んだ。
1945年8月10日未明の御前会議(最高戦争指導会議)は、ポツダム宣言受諾に際していかなる条件を付すべきかにつき、意見の一致を見ることができず、鈴木貫太郎首相は昭和天皇の「聖断」を請うた。天皇は、「自分は[天皇の国法上の地位を変更しないとの条件のみを付す東郷茂徳]外務大臣の意見に同意である」と述べ、悲惨な戦争と明治国家は終焉を迎えることとなった。
もっとも陸海軍上層部は国体護持の保証がないとして戦争継続の道を探ろうとしたため、事態を案じた昭和天皇が8月14日の御前会議(最高戦争指導会議と閣議の合同会議)で重ねて戦争終結の意思を示し、自らラジオ放送で終戦を国民に宣言する用意があるとしたことでようやく軍上層部は天皇の意思に従うこととなった。ポツダム宣言受諾の詔書は同日午後9時過ぎに署名された*26。
大日本帝国憲法第13条の規定する天皇の講和大権が、伊藤たちの作り上げた明治国家に止めを刺したことになる。1946年1月1日、連合国軍総司令部の提案で発布された「新日本建設に関する詔書」、いわゆる人間宣言は、天皇の神性を否定した。
「天皇=神」という疑似宗教に支えられ、短期間で富国強兵という国家目標を実現した明治国家の終焉である。
*1 ここでいう立憲主義は、希薄な意味合いのそれである。濃厚な意味合いのそれは、近代立憲主義と呼ばれる。人々の価値観・世界観の多元性を前提として、さまざまな価値観・世界観を抱く人々が、それでも公平な形で社会生活を営むことのできる枠組みを構築し、維持することを目指す。
*2 Spinoza, Œuvres III, Traité théologico-politique (PUF 1999) 634 35 [XX.3]. 畠中尚志訳『神学・政治論(下)』(岩波文庫、1944)では、273−74頁に相当する。
*3 絶対主義(absolutism)という概念は、フランスでは18世紀末、ドイツとイギリスでは19世紀になって生まれた(Melvin Richter, ‘absolutism’ in Blackwell Encyclopedia of Political Thought (Dvid Miller ed, Blackwell 1987) 1)。たとえばジャン・ボダン(1530−96)を絶対主義のイデオローグと呼ぶのは、いささか時代錯誤の気味がある。
*4 Stephen Holmes, ‘Lineages of the Rule of Law’ in José María Maravall and Adam Przeworski (eds), Democracy and the Rule of Law (Cambridge University Press 2003) 25−27.
*5 Alexander Hamilton, ‘Federalist Paper No. 83’ in The Federalist (Terence Ball ed, Cambridge University Press 2003) 408−09; see also Holmes (n 4) 27.
*6 Philip S Gorski, The Disciplinary Revolution: Calvinism and the Rise of the State in Early Modern Europe (University of Chicago Press 2003).
*7 Ibidem 37−38.
*8 Ibidem 71−72.
*9 Ibidem 73.
*10 Ibidem 68. スペイン無敵艦隊とオランダのイングランド侵攻については、長谷部恭男『戦争と法』(文藝春秋、2020)第2章「イングランド征服の挫折と成功」参照。
*11 Gorski (n 6) 76.
*12 Ibidem 112.
*13 Ibidem 97−98.
*14 国立公文書館所蔵『枢密院会議議事録』第1巻明治21年[上](東京大学出版会、1984)157頁。丸山真男は、この伊藤の発言を『日本の思想』(岩波新書、1961)29頁で引用している。
*15 以下、岩倉使節団に関する記述は、渡辺浩『明治革命・性・文明──政治思想史の冒険』(東京大学出版会、2021)457頁以下に多くを依拠している。
*16 久米邦武編著『特命全権大使米欧回覧実記(一)』(岩波文庫、1977)343頁。
*17 渡辺(n 15) 460頁。
*18 久米編(n 16) (四)(1980) 73頁。
*19 渡辺 (n 15) 462頁。
*20 渡辺 (n 15) 473頁。
*21 久野収=鶴見俊輔『現代日本の思想』(岩波新書、1956)第Ⅳ章は、そのように描いているが。
*22 Gorski (n 6) 37−38.
*23 Emil L Fackenheim, ‘Idolatry as a Modern Possibility’ in his Encounters between Judaism and Modern Philosophy (Jason Aronson 1994).
*24 本庄繁『本庄日記』(原書房、2005)203−04頁、寺崎英成/マリコ・テラサキ・ミラー編著『昭和天皇独白録』(文春文庫、1995)36−37頁。
*25 丸山(n 14) 35頁。
*26 重光葵『昭和の動乱(下)』(中公文庫、2001)322−24頁、寺崎/ミラー編著 (n 24) 157頁。
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連載書籍化第1弾『神と自然と憲法と』のたちよみはこちら。→《あとがき》
連載書籍化第2弾『歴史と理性と憲法と』のたちよみはこちら。→《あとがき》

