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『政治において正しいとはどういうことか』

 
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田畑真一・玉手慎太郎・山本 圭 編著
『政治において正しいとはどういうことか ポスト基礎付け主義と規範の行方』

「序章」(はじめに・第一節 ポスト基礎付け主義とは何か・おわりに)と「あとがき」(pdfファイルへのリンク)〉
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序章 ポスト基礎付け主義の問題関心
 
玉手慎太郎、田畑真一
 
はじめに
 
 本書『政治において正しいとはどういうことか:ポスト基礎付け主義と規範の行方』は、「ポスト基礎付け主義(post-foundationalism)」という政治的態度を手掛かりに、「正しさ」を論じることが困難になった現代において、なおこれを論じうる政治理論を多面的に考察することを目的としている。
 かつて政治は、その目指すべきところが明確に示されうるものとして、論じられてきた。もちろん何を目指すべきかについて論争はあったが、それは単一の結論に到達しうるであろうことが当然のこととして期待された上での論争であった(だからこその論争であったとも言える)。しかし今や私たちは、そのような政治の確固たる目標、いわば政治の「基礎付け」の存在を素朴に信じることができない。ポスト構造主義と呼ばれた諸思想、プラグマティズム、言語論的転回以降の分析哲学などをふまえれば、いまや私たちはいかなる本質も真理も、そして価値も、自明のものとして前提することができない時代に生きている。だとすれば、こうした状況下において、あらゆる主張が等価であるということになるのだろうか。いかなる規範も決定的なものではあり得ず、問い直しの可能性に開かれていると、ただ距離を置いた視点に立つことしかできないのだろうか。現代においてなお「政治における正しさ」を語ることができるのか、できるとすればどのような形でありうるのか――こうした一連の問いに答えることを執筆者らは試みている。
 もちろん現代社会において、誰も政治における正しさを論じていないということではない。むしろこれまで以上に、誰もが正しさを論じているのだが、それがただ各人の自己主張に過ぎないものとして扱われうる事態を、私たちは問題視する。現代では、差別に反対する主張もまた一方での批判にさらされ、抑圧であると受け取られる場面が生じている。挙句、堂々と差別的な主張を行う、いわゆるヘイトスピーチさえも等しく一見解に過ぎないと主張されることさえある。確かに、ある意味では、いずれも恣意的な根拠に基づく政治的主張であるかもしれない。しかしそのように結論するとすれば、私たちは(いかに人々が「自分は正しい」と主張していようとも)「政治における正しさ」を語ることに失敗しているのではないだろうか[1]。
 本書は、規範をめぐる本質主義の瓦解のあとで、いわゆる相対主義に諦観することのない、新しい哲学・規範・政治のあり方を構想する試みである。そのような試みは政治理論の領域に属するものであるだろうが、同時に哲学的に根本から考え直すこと、また周辺領域にまたがって思考することを要求すると私たちは考える。それゆえ本書の論考には狭い意味での政治理論にとどまらない様々な論考が含まれている。とはいえこれらの論考は、本書が鍵概念とする「ポスト基礎付け主義(post-foundationalism)」の問題関心によって、緩やかでありつつも密につながっている。そこで、各論考に進む前準備として、ポスト基礎付け主義の問題関心を明らかにすることが、この序章の目的となる。
 ポスト基礎付け主義は、あらゆる規範的主張の根拠に疑問が付されうる現代の状況を前提としつつ、政治理論を考察・構想する一つの態度であり、特定の政治理論を指すものではない。それは政治理論を組み立てる際の問題関心のレベルで捉えられるべきものである。しかしながら、ポスト基礎付け主義の問題関心を理解することは一筋縄ではいかない。ポスト基礎付け主義という態度は、ある問題に焦点を当ててその解決を試みる、というような明快な構造を取らないからである。むしろ、ある問題の解決を試みることそれ自体がまた問題となって返ってくる、そのような構造の下においてなお問題の解決を求めるものとなる。しかしながらポスト基礎付け主義のこのような、ある意味で矛盾をはらんだ態度は、以下述べていくように、現代の社会状況に真摯に向き合うならば必然的に要求されざるをえない態度であると私たちは考える。
 
一 ポスト基礎付け主義とは何か[2]
 
 はじめに、ポスト基礎付け主義を最初にまとまった形で定式化したオリヴァー・マーヒャルトを参照しつつ、その定義を確認しよう[3]。マーヒャルトはポスト基礎付け主義を「いかなる究極的な・・・・根拠も――いかなる超越的な正当化原理も、異論の余地のないようなアルキメデスの点も――決して利用可能ではない」(Marchart 2011: 172, 傍点は原文イタリック)という状況理解を前提し、その上で政治理論を考察・構想しようという立場であるとする。ここで強調されているのは、ポスト基礎付け主義が政治理論をなんらかの目的によって「基礎付ける」ことを避けるという点である[4]。他方、注意しなければならないのが、ポスト基礎付け主義が基礎付けの単純な拒否ではない点である。ポスト基礎付け主義は、「基礎付け主義」と「反-基礎付け主義(anti-foundationalism)」の間に位置している[5]。以下この点を簡単に確認しよう。
 そもそも、いかなる究極的な根拠も存在しないという理解は決して新しいものではない。過度の単純化の危険を承知でまとめれば、近代の課題とは前近代の知恵、慣習あるいは政治制度の根拠が決して絶対的ではないことを理性の力によって暴き出すことであり、そしてまた近代の危機(=ポスト近代の課題)とは、そのような種々の根拠の批判的検討の先に、自らの示した理性の根拠さえも決して絶対的でないことを明らかにしてしまったことにある[6]。この危機において、端的にあらゆる意味での根拠付けが説得力を失ったと考えるのが「反基礎付け主義」である(その主要な論者としてしばしば指摘されるのはリチャード・ローティである[7])。
 ポスト基礎付け主義は、反基礎付け主義へと進むことをよしとしない。マーヒャルトによれば、反基礎付け主義が「すべての確たるものが空中へと消え去ってしまい、われわれに共通のものを打ち立てるための何らの基盤も残されていない」(Marchart 2011: 172)と考えるのに対抗しつつ、ポスト基礎付け主義は「常に根拠は設定されるが、しかしいずれの根拠もただ多元性のうちに・・・・・・・のみ生起し、そしてまた一時的に・・・・のみ保持される」(同、傍点は原文イタリック)と考える。ここには、反基礎付け主義を受け入れることがたとえ事態の認識として正しいとしても(正しいかどうかにはもちろん論争がありうるが)、それが規範的に言って、私たちにとって望ましいものとはならないのではないか、という逡巡がある。
 しかし、先に「基礎付け主義」と「反基礎付け主義」の間にあると述べたように、ポスト基礎付け主義はここで単純な基礎付け主義に戻ることも同時によしとしない[8]。この両者の狭間で基礎の不確かさを受け入れつつなお正しい政治のあり方を考えよう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(この「正しい」の根拠こそがまさに問題となるのだが)とするのが、ポスト基礎付け主義である。この意味でポスト基礎付け主義は、望ましさの根拠などないという(ポスト近代の)現状理解と、「正しさ」や「望ましさ」を求める(近代的な)規範的要請に引き裂かれていると言うことができる。乙部延剛が述べるように、その試みは「政治を成り立たせる基盤を求めつつ、その基盤こそがまさに不可能であることを明らかにするという、逆説的な企図たらざるを得ない」(乙部2018: 106)のである[9]。
 こうした問題関心をマーヒャルトは次のように述べている。

ポスト基礎付け主義は最終的な基礎の不在を受け入れたところで立ち止まりはせず、それゆえ反基礎付け主義的なニヒリズム、実存主義、多元主義に転じることもない。それらはどれもみな、なんらの基礎も存在しないとみなし、全くの無意味、無制限の自由あるいは全面的な自己決定に帰結するだろう。しかしポスト基礎付け主義はまた、ある種のポストモダンの多元主義に転じることもない。そこではあらゆるメタ物語は等しく空中へ消え去ってしまう。なんらかの基礎は必要なのだ 、ということをポスト基礎付け主義は今なお受け入れている・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・からである。(Marchart 2007: 14、傍点は引用者付記)

 基礎付け主義と反基礎付け主義のはざまで、基礎付けをめぐるこのような困難な課題を引き受ける態度が、ポスト基礎付け主義である。
 こうした態度としてポスト基礎付け主義を理解するとき、通常考えられている以上の広がりがそこにあることに留意すべきであろう。ポスト基礎付け主義は、ポスト・マルクス主義やアゴニズム[10]といった特定の学派のみに固有の理論的態度ではない。プラグマティズム[11]、政治的リベラリズム[12]、批判理論[13]といった多くの議論が、そうした理論的態度を引き受けているとみなしうる。本論集は、そうした理論的態度を共有することで、狭義の政治理論に留まらない広がりの内で、展開される。
 
(中略)
 
おわりに
 
 この序章では、ポスト基礎付け主義の問題関心について明確化することを試みた。改めてまとめれば、ポスト基礎付け主義とは、あらゆる根拠が絶対的な基礎となり得ない中でなお望ましい政治を打ち立てようと試みる態度であり(第二節)、基礎なき倫理を相対化する政治の優位とすべてを政治に還元することを拒否する倫理の優位、この両者の間で引き裂かれたアンビヴァレントな態度を引き受けるものである(第三節)。
 そしてその課題は一つの重要なトピックとして、デモクラシーの望ましさをめぐる問題を提起するものである(第四節)。以上の問題関心を共有して、本書では九名の論者がそれぞれに、この困難な袋小路へと向き合ってゆく。以下、各章の概略を示そう。
 本書の前半には、このポスト基礎付け主義の問題関心に対して直接的な応答を試みる論考が並ぶ。言い換えれば、いま政治的な正しさを論じるための方途が、各論者の関心に照らして多様な観点から提起される。はじめに山本論文(第1章)は、擬制論(フィクション)、およびウィリアム・コノリーの民主主義論に注目し、これをポスト基礎付け主義に対する「政治的な」回答として検討する。一方で政策志向の熟議民主主義、他方で秩序をその根底から問い直すラディカル・セオリー、これら両者の間でしばしば「中途半端」とされるアゴニズムの中に、存在論的な偶発性の認識と、開かれた形でなおそれを求める民主主義制度の両立の可能性が見出されるであろう。つづく玉手論文(第2章)は、完全な正義の実現ではなく「明白な不正義」の除去を求めるアマルティア・センの正義論に注目し、「正しさ」の最低限の基礎を探究する。そこでは、不正義をトップダウンに特定する基礎付け主義を避けつつ、人々が有する複数のアイデンティティの共通判断として明白な不正義を取り出すというセンの構想を一貫した形で練り上げることが試みられる。
 田村論文(第3章)は、多様な制度や実践を組み合わせることで熟議民主主義を達成しようとする「熟議システム論」に焦点を当てる。熟議プロセスに内在的な「正しさ」への依拠、および現状への批判(正解を提示することなしに現状が誤っていることを指摘すること)の重視によって、外的な基準を一方的に引き合いに出すことなしに正しさと政治とを調停することが試みられる。この後者の「批判」という営みについて、より詳細な議論を展開するのが田畑論文(第4章)である。そこでは(批判する側ではなく)批判される側が有する規範的コミットメントに訴える「内在的批判」の方法、さらに批判される側の規範的コミットメントを新しく描写し直す「再構成」の手法が擁護される。その提案は、ハーバーマスのコミュニケーション論(とそこから導かれる討議倫理の構想)に依拠しつつ、最終的に「あえて」基礎付け主義に部分的に回帰する議論になっていると言えるかもしれない。
 ポスト基礎付け主義を検討する上では、以上のような直接の応答のみならず、ポスト基礎付け主義の抱える問題を多角的な観点から捉え直すこともまた必要である。これを試みるのが後半に収められた諸論考である。寺尾論文(第5章)は、現実の政治において用いられるさまざまな概念から、どのように「正しさ」が構築されていくのかを分析する「イデオロギー分析」の手法に注目する。イギリスの自由主義についての事例分析を行うことを通じて、「政治における正しさ」の生成や闘争のプロセスを理解するにあたっての、イデオロギー分析の有効性が示される。市川論文(第6章)は、ポスト基礎付け主義と「教育」との関係について議論を展開する。ラディカル・デモクラシーを教育の場において展開する教育哲学としての「クリティカル・ペダゴジー」の観点から、教育と(それが本質的に抱えざるを得ない)基礎付けとの関係性について検討が加えられ、その困難な論点が描き出される。生澤論文(第7章)は、同じく教育のあり方を主題に置きつつ、さらにプラグマティズムへ焦点を当てる。プラグマティズムの思想がポスト基礎付け主義と非常に近い問題関心を有していることを明らかにしつつ、ジョン・デューイの哲学を軸にして、議論はさらに教育とデモクラシーとの関係に踏み込んでいく。
 柿並論文(第8章)は、この「ポスト基礎付け主義」という考え方を提示したマーヒャルトの主張についてより詳細に検討を行うものである。とりわけマーヒャルトがジャン=リュック・ナンシーの政治哲学に関して論じたことに注目し、なぜ私たちがこのような困難な課題を引き受け「なければならない」のかについて踏み込んだ検討がなされる。大河内論文(第9章)は、哲学における「基礎付け」の意味をカントに遡ることで明確にし、そこから基礎付けを乗り越える試みとして「反省的判断力」が検討される。しかし、そうした方向性を示したアレントの理解は、当のカントに従えば基礎付け的な「規定的判断」に他ならないとされ、ブランダムによる規範的語用論に新たな「反省的判断力」論が見出される。
 最後にもう一度繰り返すことを許していただけば、ポスト基礎付け主義は何らかの基礎を見出そうと試みる自分自身を常にその基礎から引き剥がし続けることを論者に要求するものである。それは安易な解答を許すものではなく、それゆえ、本書に収められた諸論考もまた、明確な「答え」を示すものとはなり得ない(それゆえ誰が真に「正しい」のかを私たちは示すことができない)。だが、単純明快な単一の答えを求めることをせず、しかし答えを求めることを諦めないことが、ポスト基礎付け主義の問題関心であったことを心に留めていて欲しい。このことを積極的に捉えるならば、あるいは次のように言って良いかもしれない。常に自身の基礎を疑い徹底的に吟味する態度の上に、しかし解答の可能性をなお追求していくことこそが、ポスト基礎付け主義である、と。私たちはそのような立場から、いまこそ「政治において正しいとはどういうことか」を問い直したいのである。
 

1 この意味で、本書が論じる「政治における正しさ」はいわゆるポリティカリー・コレクトネス(PC)のことを指すわけではない。
2 本節の内容は、教育思想史学会第二七回大会(2017)にて開催されたコロキウム『ポスト基礎付け主義と規範の行方:政治と教育から問い直す』にて著者の一人(玉手)が行なった報告「ポスト基礎付け主義の問題関心」をもとにしている。報告内容は『近代教育フォーラム』二七号(2018)の一三六-一三七頁に掲載されている(コロキウム全体の内容についても同号を参照されたい)。
3 マーヒャルトはポスト基礎付け主義をフランスのハイデガー左派に、とりわけジャン=リュック・ナンシー、クロード・ルフォール、アラン・バディウ、そしてエルネスト・ラクラウらに帰している。この点についてMarchart(2007)を見よ。マーヒャルトの議論については本書の柿並論文にてより詳細な検討がなされる。
4 ここで「基礎付け」を山本圭にならって、次のように定義したい。すなわち基礎付けとは、「伝統的な形而上学的真理、歴史の本質やその隠された意味を求める歴史哲学、あるいは啓蒙の伝統にある理性/合理性とそれを備えた主体観がそうであるように、まさに知のシステムの土台としてシステムそのものを支える、それ以上遡って根拠を問うことを禁じられた正統性の源泉」である(山本2016: 77)。基礎付け主義とは「そのような基礎付けを土台として据えようとする態度」であり、これに対して「いかなる基礎付けをも峻拒する」態度が反基礎付け主義である(同78)。この「基礎付け」の意味については本書の大河内論文にてより踏み込んだ検討がなされる。
5 ここでは説明の便宜上、「AとBの間」という表現を用いたが、この議論を一次元的に把握することが適切なのかどうかは、さらなる議論がなされるべき問いである。
6 現代プラグマティズムの論者であるヒラリー・パトナムは次のように述べている。「〔…〕近代社会が一つの共有された包括的な世界観によって統合されてはいないということは事実である。近代社会はいずれかの一つの宗教によって統合されてはいない。また、たとえ依然共有された道徳的信念を持っているにしても、それは不可侵の道徳的信念ではない。〔…〕我々が啓蒙運動と呼ぶものは、大部分は、このような「開かれた社会」に理論的根拠を与えるために費やされた知的運動であった。〔…〕そして啓蒙運動によって生み出された諸問題は依然として我々の問題でもある。すなわち、我々は寛容や多元主義に価値を見出すが、その寛容や多元主義とともに現れた認識論上の懐疑主義に直面させられているのである」(Putnam1995: 2=2013: vi-vii, 傍点は原文イタリック)。あるいは広く知られた、ジャン=フランソワ・リオタールによる「大きな物語の終焉」をめぐる議論もここで改めて想起される必要がある(リオタール 1979=1986)。
7 ローティは次のように論じる。「直観的実在論者は、哲学的真理なるものが存在すると考えている。なぜなら彼によれば、あらゆるテクストのはるか基底に、もはやそれ自体は単なるテクストではなく、かえってさまざまなテクストがそれに「適った」ものになろうとしている何ものかが存在するからである。プラグマティストは、そんなものが存在するとは考えない。それどころか彼は、「われわれがボキャブラリーや文化を構築することによって満たすべき目標」、そしてそれに照らしてさまざまなボキャブラリーや文化を検査しうる目標として、孤立した何かがあるとすら考えないのである。けれども彼は、さまざまなボキャブラリーや文化を対決させる過程で、われわれが話したり行動したりするための新しくてより良い方法を生み出すということは、確かに考えているのである。ただしそれは、あらかじめ知られていた基準に照らしてより良いのではなく、ただその方法が先人たちのものより明らかにより良いと思えるようになるという意味で、より良いものであるにすぎないのだ」(Rorty 1982: xxxvii=2014: 77-78, 傍点は原文イタリック)。ローティの反基礎付け主義的なプラグマティズムについてはRorty(1986)も参照のこと。またローティを現代の分析的哲学における反基礎付け主義の契機として位置付けるものとして伊藤(2015)を見よ。
8 ローティに対する批判においてサイモン・クリッチリーは、脱構築にはレヴィナスに依拠した倫理による基礎付けが必要だと主張しているが(Crithcley et al. 1996, Ch.3)、これは反基礎付け主義に対する基礎付け主義的な応答の一例とみなすことができるだろう。ローティはクリッチリーへの応答において、「クリッチリーとちがって、私は「至高の倫理的原理」は必要ではないと考えている」と、まさにその基礎付け主義的な面を批判している(Crithcley et al. 1996:42=2002: 81)。
9 乙部は本稿と同様に、通常の「政治」のそもそもの基礎を揺るがす機能を有する「政治的なもの」の探求として「ポスト基礎付け主義」を位置付ける。乙部はそれに対して「望ましい社会形態や、それを担う行為者を、「政治的なもの」が十分に分節化できない」(同113)という問題を指摘し、政治理論領域において、実際の生活上・経済上の問題に取り組む「社会的なもの」への関心の移行がみられることを論じている。乙部によればポスト基礎付け主義的な議論には、現実の生活や経済とどういう関係にあるのかを明確に示さないこと、および規範的次元について論じられていないことの二つの問題があるとされる。
10 アゴニズムについては本書の山本論文にて詳細な検討が加えられる。
11 齋藤直子はプラグマティズムの立場から、私たちがここで論じるポスト基礎付け主義とほぼ全く同じ立場で問題に取り組んでいる。「その〔プラグマティズムの〕反基礎づけ主義は、基礎の徹底排除でもなく、固定した基礎に安住することでもないような第三の道を拓く可能性をもつ。その可能性を引き出すためにこそ、プラグマティズムは、あいまいさを引き受け、足場を揺さぶられつつ思考するという敢えて困難な道を歩み、反基礎づけ主義的な完成主義の生き様を選択することの「効用」を示すことを求められる」(齋藤2015: 66-67)。ここにみられる曖昧さの引き受けや困難さの自覚は、本稿の論じた内容に大いに共鳴するものである。ポスト基礎付け主義とプラグマティズムの関係に関しては、本書の生澤論文にてより詳しく論じられる。
12 政治的リベラリズムは、理に適った多元性の事実の下で可能な政治的正統性を模索する(Rawls 2005)。理に適った多元性の事実とは、互いに間違っている、もしくは理性的でないと判断し合った結果生じる不和ではなく、互いが互いを理性的なものとして認めた上でもなお不可避に生じる差異を意味する。解消不可能な多元性を所与とした上で、反証的均衡と組み合わされた構成主義に基づき、市民の観点から私たちの社会が実際に依拠している(と想定される)諸要素を抽出し、そこを基点に政治的正義の導出が目指される。
13 近年批判理論内で、そもそも批判という営為がどのようにして可能なのかという点が注目を集めている(Cooke 2006,Kauppinen 2002)。次節以降の規範についての二つの理解は、そうした批判理論内での議論が下敷きとなっている。
 
 
あとがき
 
 本書は、このかん私たちが取り組んできた「ポスト基礎付け主義と規範の行方」研究会の成果である。過去のメールを遡ってみると、このプロジェクトが立ち上がったのは、二〇一四年の初夏頃であったらしい。その後、研究会の体をなんとか成していくなかで作成された「研究会趣旨文」には、次のようにある。せっかくなので再掲しておきたい。

 かつて思想は、私たちの言説を枠付け、意味付ける「基礎付け」の存在を前提としてきた。そのもとでは、何が望ましいか、何を目指すべきかは概して自明であり、政治の目指すべきは自ずと明らかであった。しかしポスト構造主義と呼ばれた諸潮流、とりわけそこから派生したラディカル・デモクラシー、さらにプラグマティズムといった思想が批判したように、いまや私たちは素朴に「基礎付け」の存在を信じることのできない時代に生きている。
 しかしここで問題が生じる。いかなる本質も真理も前提にできない時代においてあらゆる主張が等価であるのだろうか、言い換えれば、私たちは望ましさについて、あるいは規範的なものについて、どのように語ることができるのだろう。もしいかなる規範も論争的であるとすれば、たとえば昨今のヘイト・スピーチ問題がそうであるように、きわめてネガティブな「人民の意志」をも私たちには排除する手立てがないことになる。
 このような状況を受けて、本研究会では規範をめぐる本質主義の瓦解のあとで、いわゆる相対主義に諦観することのない、新しい規範のあり方を検討する。それは民主主義、自由主義、社会主義、保守主義、フェミニズムなど、これまで規範の備給先とされたものそれ自体の再検討によって、政治と規範の新しい関係を模索するものである。

 さて、いざ成果を刊行するにあたって、この無垢で爛漫、かつ性急でもある初志を貫徹しえたかどうかは甚だ心もとない。むしろ、本書で成しえなかったこと、扱えなかった主題、果たされなかった約束ばかりが目についてしまう。しかし、真摯な探求は、答えよりもいっそうの問いを、満足よりも不満を、高慢よりも謙遜を引き起こすものだろう。ひとまずは、私たちが得ることのできたささやかな収穫をここに分有し、さらなる探求への誘いとさせていただくほかはない。「ポスト基礎付け主義」とはおよそ、こうした手探りの前進であるほかないのだから――とは、あまりに都合が良すぎるだろうか?
 いくつかの記録と感謝を。私たちは、名古屋、岡山、北九州、東京を行き来しつつ、また折々に、社会思想史学会や教育思想史学会にて研究成果を報告してきた。報告の機会を与えてくださった関係者の方々、および議論に参加してくださった皆さまに御礼申し上げる。とりわけ、以下の方々に特別の感謝を。本研究会の立ち上げ時から並走してくださり、見守ってくださった高山智樹先生(北九州市立大学)に、プラグマティズムにかんする貴重な示唆を与えてくださった大賀祐樹先生(聖学院大学)に、教育思想史学会にて司会を引き受けてくださった室井麗子先生(岩手大学)に、そして討論者を務めてくださった関根宏朗先生(明治大学)に。
 最後に、私たちの未定形なアイデアに、見事な「基礎付け」を与えてくれたのは、勁草書房の関戸詳子さんである。関戸さんは、研究会にもなんども足を運んでいただき、抽象論に傾きがちな私たちの議論に、適切なタイミングで適切なアドバイスをしてくださった。本書がいくらかでも読むに堪えるものになっているとすれば、関戸さんのご尽力の賜物である。記して感謝したい。
 
編者を代表して山本 圭
 
 
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