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『[笑うケースメソッドⅢ]現代日本刑事法の基礎を問う』

 
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木庭 顕 著
『[笑うケースメソッドⅢ]現代日本刑事法の基礎を問う』

「はしがき」「目次」「0 予備的討論(冒頭)」「1 死刑(冒頭)」「7 未遂(冒頭)」「おわりに」(pdfファイルへのリンク)〉
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はしがき
 
 本書は、2008 年度、そして2012 年度から2015 年度まで、東京大学法科大学院において選択科目「法制史I」としてなされた授業「公法・刑事法の古典的基礎」のうち、後半の刑事法部分を採録したものである。ただし、第4、6、9、10 章は新たに付加されたものであり、第1 章は2008 年度においてのみおこなわれた。
 各回の進行は実際の授業のそれに忠実であるが、枝葉を削り直線的にするために、理想的な学生を設定することとした。もっとも、進行にとって理想的という意味であり、実際の学生(20 ~ 40 名)は、少なくとも10 ~20 人前後のコアな部分において、刑事法にとどまらない関心の点でも、刑事法の理論枠組を根底から問う姿勢の点でも、本書の学生よりもしばしば高度であった。最終学期の、しかも私の授業を複数積み重ねて受講してきた学生であった、ということが大きいと思う。本書の学生よりも、政治やデモクラシーあるいは民事法に関する理解の点ではるかに「話の早い」学生であった。また他方、現在の日本の刑事法学についての理解も(受験直前であるだけに、そしてまたほかならぬ刑事法の研究者になることが決まっている学生もあったため)豊富であり、しばしば私の理解は質され、そしてまた授業における理解と判例理論の落差は議論の対象となった。本書ではそうした与件を可能な限り落とそうとしたが、徹底することはできなかった。論理的に難しいという面が大きい。
 とはいえ、実際の授業においてまさにそうであったのであるが、『公法篇』(『[笑うケースメソッドⅡ]現代日本公法の基礎を問う』)、とくにそのイントロダクションは本書テクストの前提におかれている。これを必ず頭に入れておいてほしいし、また、折に触れて参照し返してほしい。もちろん、註でできる限り参照箇所を指示することとした。
 註では、現在の日本の学説との対話を志したが、文献挙示は全然網羅的でない。対話が成り立ちそうな部分を恣意的にピックアップしたにとどまる。これは読者の参考のためであり、いかなる学術的価値をもプリテンドするものではない。
 例によって、本書はあくまで、ギリシャ・ローマから撮影するとこのような画像が得られるという、そしてまた21 世紀のはじめにはこんな制度とこんな授業もあったという、小さな記憶のための記念撮影であり、それ以上ではない。これを密かに遺しておくことがなにかの役に立つということもなかろうが、古典を研究する者として一個の責務であろうと考えた次第である。
 例によってまったく気が進まない私を、鈴木クニエさんがなだめつすかしつ、本書は実現した。その腕力に脱帽せざるをえない。
 
2019 年3 月
木庭 顕
 
※註と条文は省略しました。以下に掲載部分の註と条文はpdfファイルでご覧ください。
 
0 予備的討論
 
犯罪とは何か
T:君のアパートの上階では、今夜も若者が集まってロックの生バンドです。うるさくて君は睡眠不足です。君の法益というか、なにか大事なことを侵害しているように思えますが、これは犯罪ですか?
S1:それはひどいですね。でも、犯罪とまではいえないかもしれません。
T:なぜですか?
S1:そこまでの重大性がないのではないですか?
T:どうしてそういえますか?
S1:許せないとまでは思わないから。
T:すると、犯罪とは「許せないほどの迷惑」のことであり、かつ許せないかどうかは君が決める?
S1:いや、結局国民が許せないと思うかどうかです。国民感情というか。
T:その「国民さん」とやらはどこにいらっしゃるのでしょうか? 世論調査でもして、許せるかどうか決めますか? けれども世論の風向きなど気まぐれです。空気を読んで、付和雷同して、あることが犯罪かどうかを決める? そんなにふわふわして、大丈夫ですか? 犯罪となれば刑罰を科す。刑罰のなかには、その人の一生を奪うという重大なものがありますよ。
 
罪刑法定主義
S2:だからこそ罪刑法定主義がある。犯罪とは、議会で犯罪であると議決されたことです。そこには明確な言語でなにが犯罪か書かれています。構成要件です。
T:では、議会は好きなようになにが犯罪かを決めることができるのですか? この教室には「飲食禁止」という貼紙があります。「法科大学院の教室において食物を食し飲物を飲んだ者は3 万円以下の罰金に処する」などという、「法科大学院の教室内規律に関する法律」なんかが制定されたらどうします? 「出席をとるのに15 分以上の時間をかけない教員は鞭打ち3 回の刑に処する」というのはイカッスカー。ソクラティック・メソッドの答えを机の下でそっと見て答えることに罰金刑を科すなどというのもオツデヤンスナ!
S1:先生こそダイジョーッスカア?
S2:……いえ、憲法上の制約はあろうかと思います。
T:はあ、なるほど、じゃあ、このロックバンドの一件も、決してこれを犯罪とすることはできない、とした場合、そのことを憲法から論拠づけることはできますか?
S2:幸福追求の自由かな?
T:たしかに、根底には自由の侵害ということがあるでしょう。こういうことに刑罰を科せばその社会の自由が死んでしまいます。しかしならば、殺人に刑罰を科すと殺人の自由が抑圧されてその社会が窮屈になる、というロジックはどうしておかしいのですか? いえ、冗談ではありませんよ。銃規制や正当防衛の解釈で揺れている社会も現にありますから。いったい、どこで線を引くのでしょうねえ?
 
社会防衛論
S3:社会自体にとって危険であるという要素があるかないかじゃないかな? いくらそれ自身非難に値する行為であったとしても、社会全体を危殆に瀕する状態におくような行為でなければ、それを犯罪とすることはできません。これは重要な歯止めの論理だ。
S4:えっ? 責任とか非難可能性が歯止めで、社会防衛論こそが歯止めがないのではありませんか?
T:もちろん、社会防衛論は社会契約論にさかのぼり、重要な示唆を含みます。しかし、そうした必要な脈絡が剥がれ落ちれば、大変に危険でもありますね。いったい、どこが危険ですか? 責任主義が通常の答えですが、噛み合っていますか?
S5:その「必要な脈絡」の部分ですね。言い換えると、防衛の対象たる社会の概念が曖昧な点ですね。独裁体制や暴力組織がその規律を維持することさえ正当化しかねない、という問題があるんじゃないですか? 保護法益とはなにかがはっきりしないのと同様に、社会とはなにかがはっきりしない。社会が危殆に瀕するというのがどういうことかもはっきりしない。
 
責任主義
S4:でもいずれにせよ、責任主義という限定の大原則に反するからこそロックバンドは罰せられないと考えるべきでしょ。どんなに社会が危殆に瀕しようと、その行為に責任がなければ、その行為の主体を罰することはできません。結果、つまり社会の側から犯罪を見ることは根本的な誤りだと思います。その行為とその主体を厳密に見なければなりませんし、絶対的な非難可能性というものがなければ罰することはできません。
 そのロックバンドは、たしかにもう少し節度を弁えるべきであったでしょうが、住宅の作りによっては誰にも迷惑をかけないし、なによりも、決してS1 君の睡眠を妨害しようと思ってしたことではないのです。要するに故意が欠けます。だから罰せられません。非難可能性がありません。
S3:誰が非難するんだろ? 国民? 被害者? 責任主義は否定しないけれどもね。たとえば「それ自身危険な行為類型といえども故意がなければ真の危険を意味しない」というので責任原則があるんだけれど、責任主義を一人歩きさせると、どうしても応報という原理が顏を出してくる。やられたらやり返す。埋め合わせる。非難ということをいいだすと、どうしてもこれになっちゃう。非難可能性論も同じ。社会を守るために必要な最小限の刑罰だけを科す、つまり個別的に方策を施し、できれば教育する、ということがなければ、前近代的でおぞましいことになると思うな。
S4:それこそ、人格の自由を否定する発想でしょ。教育など、余計なお世話ですよ。「社会の規律に向けて訓育する」とでもいうのでしょうか? 学校じゃあるまいし。逸脱者はあらかじめ囲ってしまう? そうではなく、個人の尊厳を認めるからこそ、堂々とやり返すんです。応報といっても、たとえばカントの応報はきわめて厳密な限度を基礎づけるためのものです。主体の高度の自律が思想の根底に存在します。(以下つづく)
 
 
1 死刑
最判昭23-3-12 刑集2 巻3 号191 頁 尊属殺人・死刑制度合憲判決事件
 
判決のロジック
T:今日に限り、事案を省略して、この判決が死刑を合憲だとした、そのロジックのみを読むことにします。では、そのロジックを紹介してください。
S2:判決はまず罪刑法定主義に触れ、死刑を認めるかどうか、どのような犯罪に対して科すか、どのように執行するかなどが罪刑法定主義に委ねられ、したがって時代や環境によって変遷しうるとします。ただしもちろん憲法上の制約に服するので、新しい憲法との関係はどうかということを見なければならないところ、憲法13 条の生命の保障は公共の福祉によって制限されるので、死刑は憲法13 条には違背しないとします。
 さらに憲法31 条は適正手続によって生命をも奪いうるとし、死刑の存在を前提していると述べます。「現代多数の文化国家におけると同様に」、死刑による「一般予防」は「社会を防衛」するためには不可欠であり、「個体に対する人道」より「全体に対する人道」を優先させたとします。
 憲法36 条の「残虐な刑罰」に該当するかどうかについては、執行の方法が時代と環境において残虐だと受け取られる場合には残虐だとせざるをえないが、死刑そのものがただちに残虐だというわけではないとします。
S1:重要な補足意見があり、憲法31 条が死刑の存在を前提しているのは「国民感情を反映」したものにすぎないから、今後それが変化すれば、そして一般予防の必要がない時代になれば、死刑も否定されるかもしれない、といっています。
S2:全体として法実証主義にしたがった手堅い判決だと思う。上告理由に制約されてのことだけれど、憲法も、条文の文言から出発して論じている。死刑制度の実効性を一般予防の立場から判定しているのも実証主義の現れです。
 
判決のロジックに対する批判
S4:まさにその点が非常に不満です。「人の生命は重い」などといいながら、死刑制度の根底については全然論じていないのではないでしょうか。だいたい、多くの日本の最高裁判決と同じで短かすぎます。刑罰を論ずるのに責任論を回避していいのでしょうか? 責任の重さのみが刑罰の重さを正当化しうるというのに。そもそも、時代によって国民感情が動くというのならば、憲法論にさえなりません。
S3:一般予防の部分は、たしかに、あまり実証的でもないようですね。威嚇効果については、いまではほとんどいわれないよ。それに、法実証主義的というけど、憲法31 条の文言の解釈が甘いな。「あることを奪うためにはある手続が必要だ」といっているときには、「そのあることを必ず奪う」といわれていることにはならない。「この山に登るためにはこの断崖を登らなければならない」という言明は、「この断崖を登ることは不可能だから結局この山に登ることは不可能だ」という結論を全然排除しない。
S6:私は、判決や補足意見の歴史の段階論に、ある程度賛成です。ギリシャ・ローマで死刑が違法であったこと、その結果ベッカリーアも死刑を否定したことは有名ですが、ヨーロッパでさえ戦後にならないと死刑は廃止されない。私が死刑に反対する最大の理由は国際的な非難ですが、ようやく世界が死刑を時代遅れとする段階に到達したのだと思います。
S2:だけど、その段階なるものが曖昧なのが激しく気になるな。そこをきちんと言語化してもらわないと納得できない。国際委員会の勧告とかも、人道を説いていてもなかなか堅固な哲学的論拠づけには至ってない気がする。間違ってれば幸いだけれど。
T:おや、この判決の主要な論拠である、「残虐」の問題について意見が出ませんね。
S5:なにが残虐と感じられるかは、時代にもよるし文化にもよるからではないでしょうか。無期懲役のほうがよほど残酷だという意見もありますし。
S2:残虐の厳密な定義ができないから議論が堂々巡りになる。
S6:ベッカリーアは、死刑はその残酷と野蛮が社会にとても悪い影響を及ぼすと言いましたが。
 
死刑制度の意義
T:最高裁の論理構成は、死刑が許されるかのみを論じ、許されれば、立法政策で採否を選べる、というものです。しかし、死刑制度を採るにしてもそれはギリギリの選択たることは明らかだから、「したければできる、なにか利益があればできる」というのでなく、「どうしてもしなければならない、勘弁してくれ」という必然がなければなりません。この必然を理論的に論証する任務が死刑制度を支持する側に課されなければなりません。反対する側にのみ論証責任が課され、これを支持派が駁するというのはおかしい。死刑制度を一応論証しえたならば、これに対して反対派がそれを崩す、というのでなければならない。そこでまず、なぜ死刑という制度があるのか、考察しましょう。
S5:たしかに、「どうしても死刑としなければならないのはなぜか」についてあまり議論されていないように思えます。死刑に処するのも許されるというのが通常の議論ですね。応報が唯一の理論的な論拠ですが、死刑も許されるというまでで、免除することが許されないというロジックは出てこない。それに応報というなら、殺人には必ず死刑、残虐な殺しには残虐な死刑、ということになる。これは著しく逸脱した議論です。
S4:応報は死刑正当化にはならないということですか?
S1:日本では現実問題として、許せないという国民の声、被害者やその遺族の声が死刑制度の推進力となっているのではないかなぁ? その推進力はどんどん高まってる。
S6:ほんとうにそうか、プロパガンダの要素はありはしないか、ということは確かめなければなりません。ほんとうだとしても、なぜそうか、歴史学的に分析しなければなりません。いずれにせよ、そのようなことで物事が動いてしまう連関を叩き切るのが刑事司法の使命です。政治システムは、たとえばそのような感情を養分として成長する権力構造を解体することを生命としている、ということだったじゃないですか。
T:前回、犯罪とはなにか、ということを考えました。犯罪が生じたときになにをするかということも議論しました。裁判をするのでした。裁判自体、いま言った連関を断ち切るためにこそ存在するといってよい。さて、次は、裁判の後になにをするのです? これが刑罰論であるということになります。
S3:えーと、政治システムの破壊が犯罪だということでしたから、社会防衛論は否定されるとしても、修復的司法や教育刑は参考になるのではないかと思うけれど、ちがいますかね?
S6:実力組織が形成されて実力行使がおこなわれたとして、これを除去して政治システムの根幹を復元するのですよね。どいてもらって、線路を修復するように事が進むと思いますか?
S4:そのためのコストを彼らに払ってもらわなければなりません。
S5:うん? それだともう取引になってしまっている。前回の話であれば、1 か0 しかない世界で、1 が0 に引きずり下ろされたんだよ。どこか、上のほうに権力があって、誰かに落とし前をつけさせて、元に戻す、手打ちをするなんて、できないのでは? (以下つづく)
 
 
7 未遂
最判昭53-7-28 刑集32-5-1068(高刑集30-1-150) 拳銃奪取目的警官襲撃事件
 
事案の概要
T:今日から刑法に入ります。では今日の事案、概要をお願いします。
S2:中心的な公訴事実は、被告人Rが拳銃を奪うべく改造した建設用びょう撃銃を警察官V1 に向けて発射し、V1 を負傷させたこと、およびそのびょうがV1 を貫通して流れ、通行人V2 を負傷させたこと、この2 点です。
 一審は、V1 に関し、確定的故意はもちろん未必の故意をも否定し、強盗傷人としました。V2 に関しては少し複雑な判断をしました。いわゆる法定符合説を採って、対象が異なっても同一の犯罪類型に収まっていればその犯罪が成立するということを前提とするのですが、ほかの対象へとそれていくことにつき予見可能性がなければならないとし、本件ではその予見可能性があったとして、V2 に関しても同一の強盗傷人が成立するという結論に至りました。
 法定符合説に過失のロジックを組み合わせたことが特徴です。つまり、そういうことをすれば当然通行人を傷つけることはあるべしと考ええたはずであるというのですね。もともと強盗致傷は結合犯なのだというロジックも混ぜています。
 二審は、V1 に関して未必的故意を認め、殺人未遂としました。V2 に関しては、過失であるとし、予見可能性を肯定し、この予見可能性によって殺人未遂に包含しうるとしました。
 最高裁は、原審の過失云々や予見可能性云々のロジックが適当でないことを認めたものの、かえって端的に法定符合説一本で、V2 に関し殺人未遂、つまり結合犯としての強盗殺人未遂罪にあたるという結論を採りました。
 
殺人罪
T:まず、強盗のところと未遂のところを括弧に入れて、殺人について考えましょう。復習ですが、殺人はなぜ犯罪なのですか?
S1:政治システムを構成する自由独立の主体それ自体を消滅させるのですから、殺人は政治システムの根幹を破壊する行為です。したがってこれは犯罪です。
S3:さらに、政治システムの骨格が拡張子を得ると、政治システムを直接構成するのでない自由独立、つまり一個人の非政治的自由が政治システムの根幹に含まれていくから、この自由の基盤、つまり非政治的個人一人ひとりが自由を享受するその前提、その個人の存立そのもの、の破壊、も犯罪となる。
T:完璧ですね。さて、いずれにせよ自由独立の主体を消滅させるわけですが、それはどうやってするのでしたか?
S6:必ず実力によるのでした。いくら呪っても、いくら宣伝しても、そのようなことに人々が惑わされることなどありえない、本人も強力に反撃する、システムとして総じて万全の批判的判断能力を備えている、という想定でした。それが政治システムであると。
S4:政治システムがテリトリーの実力と利益のロジックを克服してできあがるのだから、その根幹の破壊はその方面、つまりテリトリー上の集団の力によってしか論理的になされえない、ということもあります。
T:その帰結は?
S5:犯罪とは必ず物的な結果のことであり、物的な結果が伴わなければいかなるアイデアも、いかなる試みも、絵が描かれただけだから犯罪ではない、ということです。
 
故意なければ責任なし
T:そういうわけで、物的な結果が必要なのだけれど、他方、いくら物的な結果があっても、それだけでは決して犯罪は成立しないのでしたね?
S4:大事な責任要素を忘れてはいけませんね。故意がなければ、責任は生ぜず、犯罪にはなりません。
T:もう少し具体的にいうと? 鳥に目がけて矢を放ったところ、突風で矢が流されて人に命中してしまったという場合、どうしてこれは犯罪ではないのですか?
S4:主体aの背後というか上というか、それを越えるところから力Mが加わっているからです。
T:力Mが自然力ではなく、誰か他人が押したという場合もそうですね。
S4:aがただ集団Aに属していただけである場合、この集団が殺人に関わったというだけではaによる犯罪というものは成立しません。
T:ということは?
S6:政治システムは完璧に自由独立の個人によって形成されているということです。そこから無分節の実力形成へと移行するには系統的な営為を要します。反射的に、一人ひとりのその営為を問うことになる。したがって、そのどれかの個人を一人ひとり切り出して、それがそれぞれ政治システムの根幹を破壊した、と考える以外にない。集団から個人を切り出すという作用を責任原理、つまり「故意なければ責任なし」が担っているということでした。
T:自然の、個人を越えるヨリ大きな力からも切り出されますね。民事の契約法であれば不可抗力、ウィース マーヨルvis maiorといいますが。しかし故意概念の働きはこの切り出しだけでしたか?
S2:もう一方の側面があるということだった。物的結果と1 点たるその主体を一義的無媒介に結び付けるという作用でした。
T:二つの側面のあいだの関係はどういうものでしたか?
S1:コインの裏表と形容されました。一方が他方をほぼ同時に意味するが、しかし両側面として弁別できるということでしょうか?
T:論理的にも、1 点で切る、ということは他の連続たるを措定することを意味します。ほかに折れ目はないということですね。(以下つづく)
 
 
おわりに
 
 このように、刑事法もまた、われわれの(ギリシャ・ローマという意味における)古典的な経験をいわばコードとして成り立っている。民事法や政治制度に比べれば、直接に起源を見ることができる場合は少ないように見えるかもしれない。しかしそもそも、「起源を見る」という観点自体疑わしいものである。そして、刑事法は、刑事司法が、代表的な古典の遺産である政治システムの生命線の一つであることから、じつは深いレヴェルで古典の世界なのである。それが証拠に、ヨーロッパでもその理解は相対的に遅く、そして発見後も理解は不十分なままであり続けた。
 そのような事情を把握すれば、日本の状況はむしろかなりの健闘を意味するということになろう。政治システムのおかれた状態と比較すれば一目瞭然であり、民事法と比較してさえ、日本の民事法の実質は大きな問題であるだけに、刑事司法のとくに最近の改革は目覚ましい成果である。戦後のアメリカ由来のイムパクトがなんといっても決定的である。とはいえ、多くの点で混乱や退行が見られることもまた確かである。まさにそれらの混乱や退行を識別するときに、基本コードの再確認は不可欠である。
 そのうえで、読後の読者に対して再確認しておきたいのであるが、いうまでもなく、本書に現れる見解は水面下深くのものであり、ひたすら省察を慫慂するためのものであり、実務はもとより法律学に対しても直接示唆するところのものではない。そもそもソクラティック・メソッドよりははるかに対話形式に近く、どの言明も対抗的におかれている。日本の学生が この思考様式を不得手とすることはよく知られている。感覚的に耐えがたいらしい。しかし当のソクラテスを持ち出すまでもなく、これが知性の基本形式なのであり、政治・デモクラシー・法の場合にはこの要素は全面的となる。そしてまさにこれこそが極大的に迂遠な迂回を要請することとなる。しかるに、学生ばかりでなく日本の法律学は文化の定義であるこの迂回を嫌い、性急な理解と性急な答えを求める。本書、そして本書にいたる私の一連の著作は、すべて、無駄、そして理解の阻害、を任務とするものであった。
 さて、『民法篇』『公法篇』に続いて、懲りもせずに『刑事法篇』までが現れ、「笑う三部作」、否、「笑うしかない三部作」が完結するのであるが、少々長居をしすぎたという感は否めない。たしかに、これもまた蜃気楼のような法科大学院におけるソクラティック・メソッドは、奇跡のように楽しい学生たちに恵まれ、思い返しては自然と一人笑いするような経験であり、それにのめり込んだ自分を決して非難しようとは思わないが、所詮それは竜宮城のなか、ふと夢が覚めると、自分は法学者などではなく、ギリシャ・ローマを対象とするヒストリアンであり、法学教育に携わるなどは世を忍ぶ仮の姿にすぎなかった。浜辺に戻れば玉手箱なんぞ開けずとも、すっかり年老いてしまっているのである。
 竜宮城を去るにあたって、もとより、受けた歓待に心より感謝しなければならないが、同時に、もたらしたものの少なさにつきお詫びしなければならない。私が竜宮城に戻ることがないのはどんなに小さくともたしかに朗報にちがいないが、他方、私としては、心より竜宮城の安泰と発展を願い続けていくということを再度ここに確認しておきたい。竜宮城全体の安寧(salus)につき責任を負う意識を持つ若い人々が一人でも多く育つことを願い続けてやまない。
 
 
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