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あとがきたちよみ
『モバイルメディア時代の働き方』

 
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松下慶太 著
『モバイルメディア時代の働き方 拡散するオフィス、集うノマドワーカー』

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はじめに
 
 私たちの働き方は今後どうなっていくのか。これが本書に通底するテーマである。
 AIなど人工知能、ロボットに仕事を奪われる──。そんな危機感を募らせる言説が近年目につくようになった。一方で、私たちは高度プロフェッショナル制度導入の議論に見られたように長時間労働、過労死など働きすぎに対する危機感も募らせている。
 私たちは働きたいのか、働きたくないのか。もちろん、この二択は究極論であり、トートロジーになるが、私たちは「働きたいように、働きたい」のである。では私たちの「働きたい」はどういったものなのか、どこにあるのか、どのように達成しようとしているのか。本書はモバイルメディアが普及した現代における「働きたいような働き方」を探ったものである。
 「働きたいような働き方」と言った場合、どのようなものを指すのか。少々、乱暴にまとめると、対価やモチベーションなどを含めた「やりがい」、身体的・精神的なものを含めた「健康」、自分は他のものに代替されないという「創造」の三つが自分の納得する形で成立するような働き方であると言える。ある人にとっては「やりがい」があれば「健康」や「創造」はそれほど担保されていなくても良いという人もいるだろう。また、ある人は「健康」を重視し、「やりがい」や「創造」については目をつむるということもあるだろう。 もちろん、この三つをすべて満たしていないと嫌だ、という人もいるだろう。しかしながら、これら三つのどれも無しに満足しているという人はほとんどいないのではないだろうか。つまり、私たちは働くにあたって、あるいは働いている中で、これら三つの要素を求め、満足し、時には妥協しながら生きているのである。
 もうひとつ意識したいのは、働き方そのものが多様化しているという点である。言い換えると、私たちは現在、働き方の「相転移」を体感する時代にいる。工業化社会のイメージでの働き方は、決まった時間に決まったところで、決まったことを行う、いわば「固体」だったとすると、インターネットとパソコン(PC)を中心とするICT(Information Communication Technology:情報通信技術)の発展によって情報伝達やコミュニケーションの速度と範囲はこれまでと比べ物にならないくらい速く、広いものになった。サービス業を中心とするいわゆるホワイトカラーの仕事は、時間や空間に制約されず、いろいろなところに流れ出て、仕事と生活との境界がないまぜになる「液体」になった。
 二一世紀以降のモバイルメディア、ソーシャルメディアの発展と普及は、ワーカーそれぞれのモビリティを高めるのと同時に、産業においてはイノベーションが重要になり、そのためのクリエイティビティとコラボレーションに注目が集まるようになった。その中では、これが仕事、という明確なものがなくなり、遊ぶように働くといった、いわば「気体」のようになりつつある。こうした流れを工業社会から情報社会への移行、またそれに伴う産業構造やビジネスモデルの変化と捉えることもできるが、働き方に即して考えた場合、事態はそれほど単純ではない。なぜなら、実際は上記で示したような類型が業界ごと、会社ごとに混じり合いながら存在しているからである。私たちは就活や転職で業界やそれぞれの企業を選んだり、介護や育児などの事情、転勤、配置転換やリストラなどで変わらざるを得ない中で、多様な働き方に接し、選択することになるのである。
 筆者はこれまでメディア・コミュニケーション、若者、教育・学習というテーマを研究してきた。モバイルメディアやソーシャルメディアによって若者たちのコミュニケーションの様式や時間・空間感覚がどのように変容してきたのか、またそうした時代の若者たちにとって、学校における教育と学校外での学びとはどのようなものになっていくのか、について調査してきた。
 一〇年以上こうした研究を進めてきた中で、日本をはじめさまざまな国でのフィールドワークやインタビューで接した中学生、高校生たちは学校を卒業し、働き出す年齢となった。日本では、大学の在学中にインターンシップをはじめ、就職活動を行う。インターンや就職活動、また働き出した彼ら彼女たちと話す中で出てくる、「働きたくない」という本音。その本音を探っていくと、そこにあるのは実は働きたくないということよりも、「なぜそうやって/こうやって働かなければならないのか」という現在の働き方への違和感である。通勤、転勤、休暇、配属など会社にとってはある程度、合理的なものかもしれないが、そのために自分のやりたいことや幸福、健康を犠牲にする合理性はどこにあるのか。これをこれから何十年と続けていけるのか。その前提となっているものは本当に絶対的なものなのか。もっと違ったやり方があるのではないか。こうした若者たちが働き方に対して表明する違和感。それが本書の出発点となっている。
 もうひとつの出発点は、モバイルメディア、ソーシャルメディアによる「いつでも・どこでも」と「いま・ここ」の再構成である。メディアの発展によっていつでも、どこでも時間と場所を問わずコミュニケーションを取ることが可能になった。教育・学習という文脈でもこれまでメディアを活用した放送教育、遠隔教育は中心的な関心であった。もちろん、近年のMOOCs(Massive Open Online Courses)に至るまでメディアを活用して学校から授業、講義を配信するための技術は発展し、「いつでも・どこでも」教育を受けるという流れは広がりを見せている。しかし、それと同時に、オンラインで授業を受けつつ、都市を移動しながらプロジェクト単位で学ぶミネルヴァ大学が注目されているように、むしろオンラインを前提とした「いま・ここ」の意義も高まっている。つまり、モバイルメディア、ソーシャルメディアによって可能になった「いつでも・どこでも」は時間や場所を拡散させるのと同時に、それを前提とした「いま・ここ」の意義を再構成した。こうした変容は教育だけではなく、あるいは教育よりも大きなインパクトで働く場所や働き方の変容を迫っている。こうした二つの出発点から現代における働き方のありようを探っていく。
 しかしながら、本書はワーカーそれぞれがどのように働くべきか、また同時に、企業あるいは関連部署がどのようにオフィスや働き方についての制度を設計すべきか、という「べき論」を提示するものではない。本書がもとづくのは主にフィールドワークによって得たデータである。数年前に研究をスタートした初期は、さまざまなオフィスやコワーキングスペースへの訪問や聞き取りを行った。徐々にコワーキングスペースにおけるフィールドワークも数時間から数日に、さらに(当初、設計していたよりもはるかに長い)一ヶ月に及ぶまで滞在するようになった。それは働く場所や働き方についての「べき論」や、働くことと暮らすことの「当たり前」が果てしなく溶け出している現状と、それに伴って、どのような「兆し」が見えつつあるのか、を探る中で生じた必然的な変更でもあった。
 本書ではこれらのフィールドワークのデータからインターネット、モバイルメディア、ソーシャルメディアなどメディアの進展とそれによる時間・空間感覚の変容がこれまでの働き方を規定していたさまざまな前提を良くも悪くも覆すことで、どのような可能性が提示されてきた/いるのか、そして、どのような実践がなされ、それらをどのように捉えることができるのか、を極力冷静に提示していきたい。それによって、ワーカーそれぞれが「どのように働くべきか」ではなく、自分の価値観や幸福観に合わせて「どのように働くことができるか」、また企業も「どのように設計すべきか」ではなく、「こうした働き方ができるのではないか」「こうした制度を設計できるのではないか」を考える、議論するきっかけと視点を提供することを目指す。
 
 
おわりに
 
 筆者の勤務する大学は渋谷にある。渋谷といえば若者の街、というイメージが強いが、一九九〇年代には「ビット・バレー」と呼ばれ多くのITベンチャーが拠点を置いた街は、今では日本で有数のコワーキングスペース密集地帯となっている。さらに二〇一〇年代末から渋谷駅を中心とした大規模な再開発計画が進み、多くのオフィス・ビルも立ち並ぶようになった。さらに毎年一一月の勤労感謝の日の前後にはTWDW(Tokyo Work Design Week)と題した働き方を考えるイベントが行われているなど、渋谷は若者の街というだけではなく、IT産業やクリエイティブ産業の集積地でもあり、さらに、「働くこと」を考えるメッカともなっている。
 渋谷はどこか怪しく、自由で、クリエイティブやヒッピー的な雰囲気を大事にする。そういった意味で、渋谷は、東京において丸の内を中心とする「大企業的な」働き方に対するオルタナティブとも言える都市である。こうした立地に身をおいて、日々そうした話題について話したり、感じたりすることが、働き方の未来について考えていくためのきっかけとなった。
 本書のテレワーク、コワーキングスペース、ワーケーションについては、すでに発表した「ワークプレイス、ワークスタイルの再編」(富田英典編著『ポスト・モバイル社会──セカンドオフラインの時代へ』世界思想社)、「ワークプレイス・ワークスタイルの柔軟化と空間感覚の変容に関する研究──Hubud, Fab Cafe Hida におけるワーケーションを事例に」(『実践女子大学人間社会学部紀要』第一四集)などを元にしながら大幅に加筆修正を行った。
 多くの部分はとりわけ二〇一八~二〇一九年にかけて筆者自身が勤務する大学のサバティカル(研究休暇)を利用して書き上げた。サバティカルでは籍を置かせていただいたベルリン工科大学社会学部の研究室をベースに、海外のコワーキングスペースなどで調査や分析、執筆といった「仕事」をしつつ、「休暇」を過ごしていた。その中で、日本の大学で働きながらではなかなか実施が難しかった数週間から一ヶ月に渡るワーケーションの調査も行うことができた。いわば、筆者自身も本書で取り上げるような柔軟なワークスタイルの実践によって本書を書く、という、いわば入れ子状の「仕事」となった。
 本書でも触れた地理学者レルフによると、場所への関わり方として、小説などを通じて経験する、その場所に物理的に存在する、その場所への感情的な参加として関わる、そして最終的には、完全で無意識で自然と感じる、といった分け方ができるという。
 こうした分け方は現場での観察や聞き取りを含むフィールドワークにおける研究態度とも通じるところがあるだろう。本書では取り上げる対象のひとつであるコワーキングスペースとの関わりとして、情報として知るだけ、またその場にいるだけでは不十分であった。コミュニティ・マネージャー、ワーカーを含めてより多くの対象を経験し、接近する必要があるが、一方でそれを無意識レベルで経験してしまっては対象化できず研究にならない。つまり、その場所に感情的にも関与しつつ、距離化して関わることになる。場所こそ変われど、数年に渡って各国のさまざまなコワーキングスペースで、このような態度で調査を続けるうちに、自分自身の働き方についても改めて考えるきっかけとなった。
 研究を実施するにあたって、協力いただいたオフィスやコワーキングスペース、関係者の皆様に感謝を示したい。紙幅の関係から本書で扱いきれなかった事例も多い。滞在したベルリンではザンクト・オーバーホーツと並んで草創期のコワーキングスペースでもある「ベータハウス(Betahaus)」や、ウィーワークと同様にグローバルに展開しつつあるイスラエル発の「マインド・スペース」などでもフレンドリーにお話を聞かせていただいた。またヨーロッパではパリでもかつての駅を改装した「ステーション・エフ(Station F)」やカフェ的な雰囲気を持つ「コージー・コーナー(Cosy Coner)」「Le10H10」などのコワーキングスペースに滞在させていただいた。その他、サンフランシスコ、ニューヨーク、スペイン・テネリフェ島でも本書で取り上げることができなかったさまざまなコワーキングスペースに滞在し、お話を聞かせていただいた。どの場所もそれぞれ個性があり、そこで行われているコミュニティ形成や、地域や都市のあり方との関連の中で得た知見、興味深いものとなり、本書に広がりと深みを与えてくれた。ここで感謝の意を記したい。
 
二〇一九年三月 何度も通ったベルリンのザンクト・オーバーホーツにて。
松下慶太
 
※本書は二〇一八年度実践女子学園学術・教育研究図書出版助成(実践女子学園学術・教育研究叢書─二六─)および二〇一五~二〇一七年度・科学研究費補助金基盤(B)「ポスト・モバイル社会に関する社会学的研究」(代表:富田英典)、二〇一六~二〇一七年度公益財団法人電気通信普及財団「ワークプレイス・ワークスタイルの柔軟化と空間感覚の変容に関する研究」などの研究助成による研究成果の一部である。
 
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