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『中所得国の罠と中国・ASEAN』

 
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トラン・ヴァン・トウ、苅込俊二 著
『中所得国の罠と中国・ASEAN』

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はしがき
 
 東アジアの過去約半世紀にわたる経済発展は目覚ましいものであった。日本に続き,韓国や台湾が成長軌道に乗り新興工業経済(NIEs)と呼ばれるようになると,1980 年代後半以後,マレーシアやタイ,さらには中国も経済的勃興を果たし,成長ペースを速めた。1990 年代後半にアジア通貨危機による一頓挫があったものの,2000 年代に入るとインドネシアやフィリピンが成長力を高めたほか,ベトナムも力強い発展を遂げるようになり,さらにはカンボジア,ラオス,ミャンマーといった後発国も発展の輪に加わった。こうして,現在,各国の発展レベルは異なるが,広く捉えれば中国およびASEAN 諸国はすべて,世界銀行が定義する中所得国に分類されている。
 では,低所得から中所得段階に到達したASEAN と中国は,今後,高所得段階にステップアップできるだろうか。世界経済の発展史を見ると,ある程度の人口規模,また農業国から出発して高所得段階まで発展できた国は,それほど多くない。高所得段階に到達できず,長期にわたり中所得国にとどまる状況は「中所得国の罠」と呼ばれ,中所得国の発展に関心を持つ研究者や政策担当者の間で広く共有されている。
 しかし,現在に至るまで,①発展論から見た中所得国とは何か,②何をもって「罠」に陥ったか(あるいは嵌まるか)は論者によってさまざまであり,明確な定義がなされないまま議論されているように思われる。また,中所得段階における発展の理論的裏付けを欠いたまま,政策が立案,実施される場合もある。そもそも,中所得は範囲が広く捉えられすぎている。1 人当たり2,000 ドルの国と1 万ドルの国は発展論的特徴が異なるはずである。世界銀行も低位中所得(lower middle income)と高位中所得(upper middle income)に分けているが,中所得国の罠に関するこれまでの研究はその区別をせず,政策論議も一括して展開している。
 こうした状況に対して,われわれは,新しい視点から「中所得国の罠」論を理論的・政策論的に考えようと,研究を進めてきた。本書はその成果である。本書の特徴や独自性は以下のようである。まず,中所得を低位と高位の2 段階に分けて,それぞれの段階を発展論的に特徴づけ,それぞれ高次段階への持続的発展の条件を特定した。詳細は第2 章に展開されるが,高位中所得の段階は過剰労働力がなくなり,資本蓄積の役割も低下し,要素投入型成長が限界に直面するので,技術革新の役割が決定的に重要となる。技術革新や制度改革による全要素生産性の向上が高位中所得国の罠を回避するための条件である。他方,低位中所得の段階では過剰労働がまだ存在し,資本蓄積の役割も重要であるので,要素投入型成長が継続する。低位中所得国が持続的に発展していくために労働・資本の要素市場の健全な発展が必要である。要素市場の大きな歪みは資源配分の非効率,成長の停滞をもたらす可能性が高い。このように,低位中所得の段階も「罠」に嵌る可能性があることを指摘した。
 また,上記の発展段階論的問題のほか,東アジア諸国の発展過程の特徴と現段階の課題を鑑みて,関連トピックとして直接投資主導型成長や「未熟な脱工業化」(pre-matured deindustrialization)についても持続的発展や中所得国の罠と関連づけて検討した。
 われわれは以上のような分析枠組みに基づいて日本と韓国の経験を考察し,高位中所得国になった中国,マレーシアとタイ,低中所得国になったインドネシア,フィリピンとベトナムがそれぞれ高次段階へステップアップするための課題を詳細に検討した。
 筆者の一人(トラン)は「中所得国の罠」に早い時期から着目し,2010 年に出版した『ベトナム経済発展論』では副題に「中所得国の罠と新たなドイモイ」と付して,発展段階と制度の質に着目し,中所得段階ではより良質な制度を構築することが求められ,それができない場合,発展が停滞してしまう可能性を力説した。また,2011 年にはアジア開発銀行研究所(ADBI)が開催したクアラルンプール会議で,スピーカーとしてASEAN 諸国から見た中所得国の罠を包括的に論じ,ここで中所得を高位と低位の2 段階に分ける必要に気づいて,各々の特徴を理論的に指摘した。この分析はのちにABDI のworkingpaper としてまとめられた(Tran[2013b])。さらに,2015 年の日本国際経済学会全国大会の共通論題『新興国と世界経済の行方─貿易・金融・開発の視点』の報告者として「アジア新興国における中所得国の罠」を論じ,理論的枠組みを具体化した(トラン[2016c])。
 他方,もう一人の著者(苅込)は早稲田大学社会科学研究科において,大学院トランゼミで「中所得国の罠」をテーマとする研究に取り組んだ。本書の第3 章や第7 章はその成果の一部であり,それら成果は数度にわたるアジア政経学会などでの報告を経て,博士論文「中所得国における持続的成長のための基盤・要件に関する研究」として纏められた(苅込[2017])。
 このように,中所得国の発展持続性を論じる「中所得国の罠」に早くから注目してきた筆者らは,2017 年夏,互いの研究成果を発展させて書籍化するプロジェクトを開始した。その後,筆者らは,早稲田大学のトラン研究室で定期的に勉強会を開催するようになったが,出版を構想してから本書を上梓するまでに2 年もの歳月を要してしまった。これは,中所得国の罠に関する先行研究を丁寧にサーベイしながら,筆者らの独自性がどこにあるか,互いの問題意識をすり合わせるのに多くの議論,時間を費やしたからである。こうして,現在のコンセプト,構成に固まったのがほぼ1 年前である。全体構成を構築後,トランが第2 章,4 章,5 章,6 章,8 章,11 章を,苅込が第1 章,3 章,7 章,9 章,10 章を担当した。各自の担当章を執筆し,一次草稿を完成させた後,2019 年1 月,全体の整合性を図るための調整・検討会議を厳寒の伊豆で合宿しながら行った。こうした根を詰めた議論はトランの腰痛を悪化させ,ヘルニア除去手術という代償を払うことになったが,病室でも議論を重ねるなど出版に向けて前進を続けたのである。
 本書は,筆者らと関わった多くの研究者との議論,あるいはコメントに基づき,ブラッシュアップされ,完成したものである。本書のフレームワークである第2 章は,ADBI によるクアラルンプール会議と日本国際経済学会全国大会共通論題での報告論文をベースにしたものであるが,前者の会議でDr. Giovanni Capannelli(ADBI)やCielito F. Habito 教授(Ateneo de Manila University),後者の学会報告会で討論者であった郭洋春教授(立教大学)などから有意義なコメントをいただいた。また,苅込が執筆した本書の一部は博士論文に基づくものである。博士論文の執筆にあたり,戸田学教授(早稲田大学),鍋嶋郁准教授(早稲田大学)からご指導いただいたが,そこでのコメントやアイデアを本書でも多数活用させていただいた。さらに,第3 章は苅込がアジア政経学会全国大会で報告した論文に基づくが,そこでの討論者,藤田麻衣アジア経済研究所主任研究員から重要な指摘をいただいた。また,著者たちが専門外の国に対して関係の章の一次原稿を専門家に読んでもらった。中国経済を分析した第8 章は,中兼和津次東大名誉教授に貴重なコメントをいただいた。そして,第9 章は穴沢眞小樽商科大学教授,第10 章は石田正美アジア経済研究所上席主任研究員に一次原稿を丁寧に読んでいただき,的確かつ意義深いコメントを頂戴し,原稿をブラッシュアップすることができた。なお,早稲田大学ベトナム総合研究所や大学院トランゼミOB をはじめとする多くの研究仲間との日常的な議論を通じて,いろいろなアイデアをいただいたことは記しておかねばならない。紙幅の都合からすべての方々の名前を挙げることができないが,この場を借りて,感謝申し上げたい。
 最後となるが,本書の出版にあたって,最もお世話になった勁草書房編集部長の宮本詳三氏に感謝せねばならない。宮本氏は本書の意義を認め,出版を引き受けていただいただけでなく,筆者らの2 年近くの執筆作業を辛抱強く見守ってくださった。また,校正段階で本書全体の統一感を図るための工夫や文章を適切な表現に改善していただいた。本書全体が読みやすいものになったならば宮本氏のおかげにほかならない。心より御礼申し上げたい。
 
2019 年初夏 早稲田の杜にて
トラン・ヴァン・トウ
苅込俊二
 
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