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『天皇と軍隊の近代史 』[けいそうブックス]

 
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加藤陽子 著
『天皇と軍隊の近代史』[けいそうブックス]

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あとがき
 
 四〇〇ページ近い本書の「あとがき」までたどりついてくれた読者には、感謝の言葉しかない。また「あとがき」から読み始めるのが習い性の「あとがき党」別名「あとがき愛読党」の方に向けてアピールするため、本書が研究史に加えた新たな論点など箇条書きにして振り返っておこうとも考えた。拙著(加藤 二〇一八)で実践したように。ただ本書の場合、「はしがき」においてすべての章で論じた要点をまとめていること、各章の扉に置いた「リード文」でそれぞれの章の「問い」を明らかにしているので、これらによって本書が論じている内容などお掴みいただけたらありがたいと思う(以下、敬称は略す)。
 さて、近代史を専門としている筆者が軍・軍隊に関心を抱いたのは、古代の防人(さきもり)から近世の武士、はては戦前期の軍人までを貫く「意識」のようなものへの関心があったためだ。このような関心から、軍隊と天皇との関係を通時的に見た時どうなるのか、おおまかな見取り図をここに掲げ、「あとがき」にかえたい。
 本書の総論では、一九三二(昭和七)年が重要な年として登場していたが、まさにその年に生まれた古代史研究者笹山晴生が、少年時代の太平洋戦争中に感じた述懐から話を始めよう。当時の少年雑誌には万葉集の防人の歌などが満載されていて、笹山少年は大伴家持(おおとものやかもち)の編纂にかかる万葉集に、次に引く常陸国の防人の歌「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜(しこ)の御楯(みたて)と 出で立つ 吾は」などがあることを知る。笹山は研究者としての筆致としてはやや踏み込んでこう述べている。「そもそも多くの防人歌のなかに、およそ人々の敢闘精神、あるいは滅私奉公の精神を鼓舞すべきものがなにもなかったとしたら、あれほどまでにつよく人々に訴えかける、言霊としての力をもちえなかったはず」であり、「防人歌のなかには、〔中略〕人間の意識に深く刻まれたなにかが宿っていて、それが国家危急のおりに、同じ血を伝える人々のなかに共鳴した」(笹山 一九七五:四)のではないかと。
 歴史を振り返ってみれば、国家が公的武力(天皇の下での軍団・兵士制など公民兵)に依った時期は、律令国家としての八世紀の奈良時代までと、明治維新以降昭和戦前期まで(徴兵制軍隊)の二回だった。それ以外の時期は私的武力(武家の私的主従関係下に組織)の時代であり、笹山は、防人の歌を採録した大伴家持の意識の裏に、天皇の公民兵だとの皇軍意識、武門の名を負う大伴氏ゆえの自負を読み取っていた。
 ついで幕末維新期に天皇の国制上の位置づけが大きく変化する。日中戦争から太平洋戦争終結までの先の大戦で戦死者を最も出した世代の一人、一九二三(大正一二)年生まれの近世史研究者尾藤正英は、この変化を次のような「問い」として捉えた(尾藤 一九九二:一六八)。「武士身分の廃止という大きな社会的変革が、あまり大きな抵抗もなく、短期間に急速に遂行されたところに、明治維新の一つの重要な特色が見出される。〔中略〕封建的特権身分の廃止という大事業が、しかもその身分の出身者を主要な構成員とする政府によって、比較的に容易に行われたのは、何故であろうか」。この問いに対しては、武士が尊王思想に目覚めたから、あるいは武士と豪農との間に同盟関係を築いた下級武士たちのエートスが核となり武士階層に革新的性格が生み出されたから、といった説明がこれまでなされてきた。だが尾藤はこの問いに、武士という社会階層がいかなる状況で発生したかを考えることで答えを対置してゆく(同前:一九一)。
 一五~一六世紀にあって武士は、被支配身分に属していた上層農民が武装した新興社会層として誕生する。この発生の特質から見た時に武士の特徴はいかなるものになるのか。まずその意識は、共同体的な性格から由来した、合議制の伝統、平等意識に支えられていたものと推測できよう。つぎにその使命感は、地域社会の平和を自力で保証しようとする意識となるだろうし、兵農分離後を経て国家の政治と軍事を担う身分に編成された時点では、「国家の対外的な独立と国内の平和とを維持する責任の意識」を持ったとみなせよう。
 このような使命感から考えた時、次のような説明が可能となる。列強の軍事力を前に幕府=公儀の武威が役に立たないものとわかった時、それは共同責任を代表するはずの幕府が責任を全うしなかったことを意味し、国内平和と対外独立の維持という「役」を担う武士層にとって幕府は排斥されるべき対象、すなわち「私心」ある対象とみなされていったのではないかとの見立てだ。武士層にとって「私心」の反対の価値は「公論」だったから、幕末維新期の天皇は公論重視のシンボルとして浮上する。江戸総攻撃予定日に出された「五箇条の誓文」を想起するまでもなく公議輿論は、天皇と武士をつなぐ論理となってゆく。
 発生形態から推測される武士の特性は二つ、合議制の伝統と平等意識だったが、この二つが近代においていかに位置づけられていたのか、その例を各一つずつみておきたい。満州事変の計画者だった石原莞爾は、二・二六事件後の一九三六(昭和一一)年三月一二日、陸軍の再建方針を語るにあたってこう述べていた。「軍部自ら実行力絶大なる強力主義に則り、其組織に一大革新を加ふるを要す。蓋し、現下の組織は合議制、弱体主義に堕しあればなり」(加藤 一九九三:二一四)。組織体としての陸軍の特性を「合議制」に石原はみていた。それはもはや否定されるべき対象ではあったが。
 平等意識については乃木希典に対する北一輝の議論を紹介しておきたい。日露戦時の乃木の戦術については当時から批判があった。北はその著作『日本改造法案大綱』中の「国家の権利」の章において、「徴兵制の維持」を国家の権利として掲げていたが、その説明部分に乃木の挿話を登場させている(北 二〇一四:一一七)。兵営・軍艦内での「階級的表章」以外の物質面での平等を要求した北は、「乃木将軍が軍事眼より見て許すべからざる大錯誤をなして彼の大犠牲を来せしに係らず、彼が旅順包囲軍より寛過されし理由の一は己れ自ら兵卒と同じき弁当を食いし平等の義務を履行せしがゆえなり」と述べ、兵営生活での兵士との平等といった観点から乃木を評価していたのである。
 では、天皇親率を理念に置き、政治からの中立性を確保すべく誕生した近代の軍隊が、その後いかなる論理と経緯によって変容を遂げていったのか、それをごく簡単におさえておきたい。昭和天皇がポツダム宣言受諾を決意した際、陸海軍の統帥部や陸相が反対したことなどは第7章で述べた。東条英機元首相はサザエの殻(軍事力、軍隊)とサザエ(天皇、皇位)のたとえ話によって天皇に反対意見を奏上しただけでなく、四四年七月の時点の内閣総辞職の際には、国体論に狭義と広義の二つがあり、広義の国体論では「国家の為にならぬ場合は、上命に背いても良い」のだと論じていた。国家のためには、生身の身体を持つ天皇の意思に従わなくとも可、とする考え方だった。
 国家の為政者が「王の二つの身体」のうち自然的身体(カントーロヴィチ 二〇〇三)の意思に従わないなどよくある光景だったとは、日本の歴史を学んだ者なら誰でも知っている。一つだけ例を挙げれば、一八六五(慶應元)年にあって第二次長州征討を命じた孝明天皇の勅命を批判した大久保利通の言葉「非義勅命は勅命に有らず」など有名だろう(鈴木 一九九三:二一)。近代に限ってみても政治当局者は、生身の身体を持つ天皇その人と「万世一系」との理念を伴った皇位(政治的身体)をクールにも分別していた(増田 一九九九:一四、一九)。一九〇七(明治四〇)年の公式令の制定などは、明治立憲制の創設者だった伊藤博文や伊東巳代治が、有賀長雄ら国法学者とともに、皇室(天皇・皇族)と国家との切り分けを再考し、改めて制度改正に臨んだ措置といえた。井上毅は頑として認めなかった皇族の臣籍降下などの改正案が皇室典範増補に盛り込まれたからだ。日露戦後という時代は、皇室を議会から隔絶させ、皇室は「私事」だと強弁できなくなった時代にほかならない(鈴木 一九九三:一四八〜一四九)。
 国家の行政の担当者である為政者の側が、国家と天皇の区分に再検討を加える必要を感じ始めたちょうどその時、中国革命へのコミットを通じて二〇世紀初頭の世界の変容を最も敏感に感じていた社会運動家北一輝もまた、天皇のあり方や国体論のアップデートの必要を感じていた。日露戦争終結の翌年、一九〇六(明治三九)年の著作『国体論及び純正社会主義』で北は、「日本国民と日本天皇とは権利義務の条約を以て対立する二つの階級にあらず」(北 一九五九:二一三)と書き、国家という存在を前にした時、天皇と国民は対等と位置づけられなければならないと喝破した。
 常にもまして北の舌鋒の鋭さが増したのは理由がある。日清・日露の両戦争に勝利し、植民地を保有する「二〇世紀帝国」となった日本だったが、その日本が有すべき国体論は準備されているのか、との義憤からである。憲法学者の穂積八束や哲学者の井上哲次郎などが説く「君臣一家論」などでは、現代社会は説明がつかないという批判だった(北 一九五九:二六四)。条約により新しい版図が日本に附加されたにもかかわらず、先の論者らは「天祖は国民の始祖」、「天皇は国民の宗家」などと呑気なことを述べていたからである(鈴木 一九九三:一七五)。植民地として獲得された台湾、租借地となった関東州、併合された韓国、南樺太など、そこに居住していた人々の処遇はどうなるのか。北の問いは、これらの人々と日本の天皇との関係を理論的にどう関係づけるのかという根本的な問いかけに他ならなかった。国家を前にしての天皇と国民の対等性を求めた北の、国家と社会への見方が、当時にあっては高い水準での憲法理解だったことに早くから注目していたのは筒井清忠である(筒井 二〇〇六:三八九〜四〇七)。
 国民の代表である議会と天皇を直結させ、天皇を国民の天皇としてゆくための改造法案を具体化した点に北の議論の画期的な新しさがあったといえよう。「二〇世紀帝国」日本にあって、行政の担当者の側と社会運動家の側双方から、国家と天皇と国民の関係がいかにあるべきかをめぐる理論が出され、どちらが時代を規定するかの競合が始まっていた。そのような時代にあって、「股肱の臣」との言葉で天皇と関係づけられ、「国家の対外的な独立と国内の平和とを維持する責任の意識」を歴史的に抱いていたはずの軍隊は、時代にいかに対応していったのか。
 まず解決すべき問題は、軍人勅諭の核心にあった軍人の政治不干与という原則を、いかなる論理で乗り越えようとしたかということだったろう。北一輝の改造法案や国体論の核心を読み抜いた陸軍青年将校菅波三郎。その影響下にあった士官候補生らの五・一五事件公判での陳述からわかることをまとめておく(原ほか 一九九一:九八)。三三年七月二九日の法廷では島田朋三郎法務官が青年将校の考えについて尋ねていた。菅波は、「軍人の使命と云うことに就て、軍人は国家を保護すると云うことに付て何か話はしなかったか。外敵に対て国家を保護するのが軍人であるばかりでなく、内敵に対しても国家を保護しなければならないということを話さなかったか」と、法務官は誘導質問を行った。
 それに対して候補生の一人・八木春雄は島田の望み通りに答えていた。「軍隊は国家保護の任務」を有っており、「内乱を鎮定するのが真の目的ではなくして、内乱を未然に防ぐ」のが真の役割であり目的だとの答えである(原ほか 一九九一:一〇三)。国家の保護に任ずる軍人は外敵のほか内敵にも対応すべきであり、内乱を未然に防ぐための行動こそが大事だとの論理であろう。二・二六事件の裁判の頃とは異なり、血盟団事件や五・一五事件の公判廷は、軍人・国家主義者の民間人らの自己宣伝の場と化し、裁判はいわば社会運動と同等、あるいはそれ以上に大きな機能を果たすようになってしまっていた(加藤 二〇一八:二五〇〜二五三)。弁護士・菅原裕の法廷戦術の鮮やかさと国家防衛権論については総論で述べたが、急迫かつ重大な危機の存在がある場合、国家の安全を担保する軍人にはそれを防衛する義務があるのだとの論法であった。
 稀有な運動家にして青年将校だった藤井斉の議論を最後に見て筆を擱きたい。藤井の筆になる二八年の王師会宣言中には、「武人の国家的使命を自覚せず、伝統のまゝに政治に係(かか)わらずの勅諭を曲解してその美器の下に国家の情勢に自ら掩(おお)ひ、その混乱に耳を塞ぎて責任をのがれんとす」として軍人の現状を批判した部分があった(高橋 一九七四:二五四)。三〇年四月三日の日付を持つ、同じく藤井の手になる「憂国慨言」は、「我等は外敵の侮辱に刃を磨くと同様にこの内敵─然り天皇の大権を汚し、民衆の生命を賊する貴族、政党者流及財閥〔中略〕政治にかゝはらずとは現代の如き腐敗政治に超越するを意味し、世論にまどはずとは民主共産主義の如き亡国思想に堕せざるを云ふ」(同前:二六〇)と論じていた。先の五・一五事件の公判での発言と合わせて考えれば、軍人勅諭の組織的な読み替えが社会の中で進行していたということだろう。
 長いあとがきも本当にこれでおしまいにするが、二〇〇七年に勁草書房から二冊目の拙著『戦争を読む』を出したおりに大変にお世話になった編集者の土井美智子さんに、今回もまたご担当いただけたのは筆者にとって何より嬉しいことであった。今回も、採録すべき文章の選択から、掲載の順序、全章で統一した章節の構成、釣り見出しの作成にいたるまで、すべて土井さんが流れるような優雅な手さばきでお進めくださった。心から感謝申し上げる。
 
二〇一九年九月
加藤陽子
 
参考文献
加藤陽子(一九九三)『模索する一九三〇年代 日米関係と陸軍中堅層』山川出版社、新装版二〇一二年
加藤陽子(二〇一六)『増補版 天皇の歴史 8 昭和天皇と戦争の世紀』講談社学術文庫
カントーロヴィチ、E・H(二〇〇三)小林公訳『王の二つの身体 中世政治神学研究』上・下巻、ちくま学芸文庫
北一輝(二〇一四)『日本改造法案大綱』中公文庫、原本は一九二三年、改造社
北輝次郎(一九五九)『北一輝著作集』第一巻、みすず書房、原本は一九〇六年刊
笹山晴生(一九七五)『古代国家と軍隊 皇軍と私兵の系譜』中公新書、講談社学術文庫版、二〇〇四年
鈴木正幸(一九九三)『近代日本の軌跡 7 近代の天皇』吉川弘文館
高橋正衛(一九七四)解説『現代史資料 23 国家主義運動 3』みすず書房
筒井清忠(二〇〇六)『二・二六事件とその時代 昭和期日本の構造』ちくま学芸文庫
原秀男ほか編(一九九一)『検察秘録 五・一五事件 Ⅳ』角川書店
尾藤正英(一九九二)「明治維新と武士」『江戸時代とはなにか 日本史上の近世と近代』岩波書店、岩波現代文庫版、二〇〇六年
増田知子(一九九九)『天皇制と国家 近代日本の立憲君主制』青木書店
 
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