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『ヒエロニムス・ボス』

 
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神原正明 著
『ヒエロニムス・ボス 奇想と驚異の図像学』

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はじめに
 
 『ヒエロニムス・ボスの図像学─阿呆と楽園に見る中世』を出してから二〇年が過ぎた[†1]。ボスに関わってからはさらに久しいが、図像学を研究していると、オリジナル体験というのが、どれほど意味があるのかと疑心暗鬼になることがある。作品と作者を密接に関係づけ、オリジナリティを最高の価値あるものと見なす考え方は、はたして金科玉条のものだったのだろうか。「もの」が直接語りかけてくることばに耳を傾けるというもっともらしい教訓を、私自身、学問の世界に足を突っ込んだ頃、美術史によって教え込まれたように思うし、その後美術館の学芸員をしていた頃には、何よりも作品との直接の触れ合いが大切だという立場を自ら表明してもいた。しかし、どうもすっきりしないものが残っていた。
 美術作品にはオリジナルのアウラにぐいぐいと引きずられて見てしまうものと、そうではなくて印刷やカメラの目を通して、やっと姿を見せてくれるものとがあるように思うのだ。前者は問答無用の「芸術」で、後者は文学好きの美術評論家や詩人に好まれて、おのずと図像学へと視線をはわせていく。そして、ヒエロニムス・ボスの作品というのは、どうも後者の典型であるような気がする。もちろんイメージを支えるのは強固な肉体であることは確かなのだが。
 私とボスとの出会いは一冊の画集からはじまった[†2]。もしオリジナルこそが絶対だというのであれば、私の研究は出発点からして不純なものだったようだ。その画集は一九七二年にベルギーで出た大部のもので、厚さは一〇センチ近く、重量は五キロを超える。マレイニッセンというブリューゲルとボスの研究での世界的権威が、長い論文を執筆していたが、それにもまして代表作である『快楽の園』(マドリッド)や『聖アントニウスの誘惑』(リスボン)の細部をクリアに写し出した図版が私を魅了してしまった。そのためなのだろうと思うが、その後何年かしてスペインやポルトガルを訪れ、はじめてオリジナルに接したとき、そのくすんだ色を前にがっかりしてしまった。本当はオリジナルを見た感激というのはもっとあっていいはずなのに、自分は感受性が鈍いのかと不安にもなった。ルーペを通して見えていたものが、肉眼では見えないのである。
 前世紀の終末の年に書いた『天国と地獄』で、私はボスの『快楽の園』が出てくるまでの最後の審判図の系譜を社会史的にたどってみた[†3]。続いて同年の暮に出した『ヒエロニムス・ボスの「快楽の園」を読む』では図像学を武器として、ボスのこの代表作を中世の百科事典として扱い、これを知の宝庫として読み取って
いこうとした[†4]。この時の表紙のデザイン(図0-1『ヒエロニムス・ボスの「快楽の園」を読む』河出書房新社・装丁[*pdfファイル参照])は、はからずもこの本の性格を象徴的に語っている。デザイナーの意図とも共鳴したのだろう、私はこの装丁が気に入っている。設定は暗闇に光を当てて丸いルーペに浮びあがった図像の細部を点検しているところである。あるいは鍵穴からのぞき見ているふうでもある。探偵がそこに見つけ出す人物群は、ほとんどが意味不明だ。しかしそれぞれは意味深長であって、まるでボスが「どういう意味かわかるかね」といって、見ている私たちの力を試そうとしているようだ。神学、哲学、植物学、生物学、民俗学、さらには占星術や錬金術の知識を総動員して、このミステリーの謎を解こうと努める。しかし簡単には扉は開かない。
 別に何の意味もないのだといってしまえば、話は簡単だ。意味など考えずに見るのが芸術だ、どうだすばらしいだろう、とモダニズムの美術鑑賞を勧められても、ボスの場合困ってしまう。近代崩壊後の現代人の心情はそんなに簡単ではない。ボスは深い意味もなくこれらの図像を決定したのかもしれない。しかしそんなことは問題ではない。仮にボスが無意識のうちに生み出した図像であったとしても、かえって無意識のほうが、ボスの生きた時代を丸ごと写し出す鏡にもなる。作者が意識しない作品の本意を鑑賞者が見つけ出しても悪いことではない。図像学の研究は、作家には受けがよくない。しばしば作者を裏切るからだ。作者が思ってもいないような解釈も飛び出す。
 表紙に浮びあがった細部をさらに拡大すると、大きなフクロウに抱きつく男がいたり、二枚貝の中で性行為にふける男女がいたり、逆さになって足をY字型にして池に突っ込んだ男がいる。それぞれが何らかの意味をもっているはずだ。ここではわかっていることはすべて記述しようとしたつもりだが、もちろんわからないことのほうが多い。同時代の図像を丹念に調べてゆくと、たとえば「Y字」の図像は、人間が左右のどちらを選ぶかという「自由意志」の象徴として、いくつかの似た作例に出くわす。
 つまりボスの独創的な図像の源泉を、ひとつずつ探り当てていくことができる。それはボスの想像力を否定する作業ではない。「想像力」というものが、あるいは「夢」といい直してもよいが、決してひとりの独創が生み出したものではなくて、作家を取り巻く大きな力、つまり歴史、環境、自然、社会といった要素を含むなにものかによって、突き上げられていると見ることで、美術作品がひとりよがりの閉鎖的世界から脱することになるのである。
 美術史というのは従来、作品と作者に奉仕するものだったように思う。この分野では今でも作品の管理者たる学芸員が第一線にいることがそれを証明している。しかししばしばそれは美術作品の周辺をうろつく戸籍探しに終始してしまい、いつまでたっても目的地に到達しない。そうした疑念から、やがて美術史はそれを生み出した作者と作品を裏切り、ひとり立ちをはじめる。そこに図像学が生まれる。それはいわば親への反逆である。
 図像学というのは、作品を平均化しようとする試みであって、天才を特別視はしない。一個の生命体の名において平等だとする民主主義の原理から生まれたものだ。ヴァールブルクによって育てられ、ナチに対するレジスタンスの精神に裏打ちされている。それは天才を自称するものを引きずり下ろすことにも貢献する。たとえ作者が墓場から起き出してきて、私はそんなつもりで描いてはいないと主張したとしても無駄である。あなたはそうは考えていないかもしれないけれど、作品はそのように語っていると図像学は論証してみせる。たとえてみれば「癌」だと思い込んでいる人物に、データを突きつけてそうではないと証明してやる医者の心情に似ている。もちろん医者は患者がいないとはじまらないわけで、その意味では決して図像学は作者を無視することはできないが、作品を自分のものと主張する作者やコレクターにひれ伏す必要もないのである。作品は目に触れるすべての、いわば人類の財産なのだから。
 ネーデルラントの画家ヒエロニムス・ボスは、ヨーロッパが中世からルネサンスに移行する時期にあって、変貌する世界観を丸ごと視覚化した重要な要の位置にある。本書では中世の民衆生活の宝庫であるヒエロニムス・ボスの世俗画からはじめ、次にボスのファンタジーを論じ、その幻想が当時の社会を写し出したリアリティから生まれることを確認する。そしてそのリアリティの典型を「病いの情景」を通して考察しようという筋書きである。ここでの分析の方法論は、イコノロジー(図像解釈学)によっている。ひとつの図像が成立してくる意味を知ること、それはボスという図像の宝庫を丹念に渉猟すると同時に「風景画」や「風俗画」というような、ある種の世界観の成立に目を向けるとき、きわだって魅惑的なものとして私たちの目に映ってくるに違いない。
 全体は三部構成からなる。第Ⅰ部はボスの代表的な世俗表現を取り上げる。これまで個別の作品と考えられてきたボスの代表作三点(正確には四点)が、近年一つの祭壇画の一部だとわかり話題となったが、それらはヨーロッパ中世の民衆生活を語るものでもあり、細部の図像解釈を通じて、全体像の復元にいどむ。第Ⅱ部では代表作の『快楽の園』を扱う。美術史上最大の謎とされ、多くの研究者が、様々な解釈を試みてきた大作である。著者もまた長年にわたり取り組んでおり、百科全書ふうに図像辞典として網羅的にまとめて公刊もしてきた。その中でことに謎に満ちた造形を、ここではいくつかのトピックとして取り上げ、従来の説をふまえながらも、図像学の立場から独自の解読を試みている。絵画の中心に位置するフクロウと木男、周縁のモチーフとしてモリスダンスとワイルドマンに注目する。さらに隠し込まれた楽園の幾何学を、文字と数字のシンボリズムとして解明してゆく。
 第Ⅲ部では現実と幻想の狭間に存在した「病い」という幻影を扱う。ボスの作品における幻想(ファンタジー)と現実(リアリティ)は、モチーフでいえば「怪物」と「奇形」という対比に集約できるものだ。具体的には中世を襲った疫病と「聖アントニウスの誘惑」という幻想絵画の宝庫ともいえるテーマの背景には身の毛のよだつような奇病が存在していたというのが、ここでの話の前提である。
 それに先だって楽園に妙薬を探る旅からスタートする。一角獣の角を求めた探索は世界の発見につながり、エデンの園の再発見と連動して加速してゆく。そうした不可視の伝説は、不老長寿を求める中で、偽りの薬学を誕生させ、「いかさま治療」にまで展開していく。「愚者の治療」という頭にメスを入れ、愚かさの石を取り除くという病いの情景もまた、ボスが追求した風刺的意図をもった作品群の一画をなしている。そして奇形への好奇心はファンタジーを越えて、精神病理のリアリティに目が向いたという後年のボスの意志についても触れてみる。
 
[†1]拙著『ヒエロニムス・ボスの図像学─ 阿呆と楽園に見る中世』人文書院、一九九七年。
[†2]R.-H. Marijnissen et M. Seidel, Jheronimus Bosch, Brussels, 1 972.
[†3]拙著『天国と地獄─ キリスト教からよむ世界の終焉』講談社選書メチエ、二〇〇〇年。
[†4]拙著『ヒエロニムス・ボスの「快楽の園」を読む』河出書房新社、二〇〇〇年。その後加筆して文庫本に収録された。『「快楽の園」を読む─ ヒエロニムス・ボスの図像学』講談社学術文庫、二〇一七年。
 
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