ジェンダー対話シリーズ 連載・読み物

《ジェンダー対話シリーズ》第6回 阿部ふく子×大島梨沙×宮﨑裕助: 家族の「きずな」を哲学する──私たちをつなぐものはどこにある?(上)

 
 

《ジェンダー対話シリーズ》第6回は、阿部ふく子さん、大島梨沙さん、宮﨑裕助さんをお迎えして新潟大学で開催された『愛・性・家族の哲学』(ナカニシヤ出版)出版関連イベントでのお話をお送りします。ホストはこれまで同様、宮野真生子さんと藤田尚志さん。今回のテーマは「家族」。婚姻関係と親子関係から構成されていると考えられる家族ですが、何があれば家族といえるのでしょうか。友人や知り合いと家族を区別するものはなんでしょうか。血や遺伝子の繋がり、同じ氏、婚姻契約それとも愛、一体感……? 自明のようでいて自明ではない家族について、哲学的、法学的な角度から議論します。【勁草書房編集部】

 

第6回 家族の「きずな」を哲学する──私たちをつなぐものはどこにある?(上)

 
阿部ふく子×大島梨沙×宮﨑裕助×藤田尚志×宮野真生子
 
 

[知っているようで知らない家族の話]

 

藤田尚志 九州産業大学教授。博士(哲学、リール第三大学)。フランス近現代思想、アンリ・ベルクソン研究。編著に、シリーズ『愛・性・家族の哲学』1~3巻(宮野真生子と共編、ナカニシヤ出版、2016年)。現在、「けいそうビブリオフィル」にて、『ベルクソン 反時代的哲学』を連載中(近刊)。
藤田尚志 本日は新潟哲学思想セミナー(NiiPhis)にお招きいただきまして、誠にありがとうございます。イベントの開催にあたりましてご尽力をいただきました宮﨑裕助先生と阿部ふく子先生には心から感謝申し上げます。お二人から、このイベントの趣旨説明を簡単にしてほしいと頼まれましたので、手短にお話しします。
 
本日のテーマは、《家族の「きずな」を哲学する――私たちをつなぐものはどこにある?》です。ごく簡単な例から始めますが、日本でよく知られている「家族」のイメージの一つに、ソフトバンクの「白戸家」があります。お父さんが白い犬で、お兄さんが黒人俳優で、お母さんと妹が美人女優、というあれです。皆さんよくご存じのCMですけれども、これは2007年から2014年まで8年連続で、CM好感度第1位だったんです。ということは、平均的な視聴者にとっては意外性はあっても、違和感や嫌悪感はなかったということですよね。

でも、例えば、この白戸家の家族構成をひっくり返してみるとどうなるでしょうか。お母さんが白い犬で、妹が黒人女優、お父さんとお兄さんがイケメン俳優、もしそういうCMをつくったとしたら、果たしてどういう反応が出るだろうかということを考えてみる。大好評になるんでしょうか。それとも、女性差別だということで糾弾の声が上がるんでしょうか。例えばそんなことを考えてみると、私たちは、家族というものを、決して何か公平中立な、客観的な形でとらえているのではなくて、ある種の固定観念ないしステレオタイプでもってとらえているということがわかります。
 
そのような固定観念やステレオタイプを逃れて、変わり続ける「家族」の未来のかたち、来たるべき「家族」のイメージについて考えるにはどうすればよいのか。社会学や心理学、歴史学や法学など、さまざまな学問の知を総動員しなければならないのは当然として、意外に思われるかもしれませんが、実はそこで哲学や哲学史、思想史も役に立つことがあるのではないか。そういうコンセプトのもとに、今年(2016年)ナカニシヤ出版から宮野真生子さんとの共編著として『愛・性・家族の哲学』全三巻を上梓したわけです。その中の第三巻である「家族」の巻の冒頭で、私自身は、ヘーゲルやデリダに依拠しつつ、「結婚の脱構築」という話を展開しました。
 
デリダ研究者の宮﨑さんとお話をしているときに、新潟大学にはヘーゲル研究者の阿部さん(以前、哲学的大学論の文脈でご一緒させていただいたことがあります)、さらには論集にもご執筆いただいた大島さん(夫婦や非婚の男女カップル、同性カップルといった、カップル関係の法的取扱いや日仏比較を主たる研究テーマにしておられます)もいらっしゃることであり、何かイベントができないだろうかということになりました。そういうわけで、哲学や哲学史、あるいは思想史や法学の観点から、家族の問題、家族をつないでいる「きずな」について、少し根源的なところにさかのぼって考えてみたい、というのが今回の企画の趣旨です。
 
宮﨑裕助 どうもありがとうございました。では、阿部さんからお願いします。
 

[ヘーゲルの愛や家族観――導入としてのさまざまな違和感]

 

阿部ふく子 新潟大学准教授。東北大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。近代ドイツ哲学、哲学教育研究。著書に『思弁の律動――〈新たな啓蒙〉としてのヘーゲル思弁哲学』(知泉書館、2018年)、共著に『人文学と制度』(未來社、2013年)など。
阿部ふく子 こんにちは。阿部です。このシンポジウム「家族の『きずな』を哲学する」で私が務めるべき役割は、近代哲学のなかの家族論を考えることでした。私は特にヘーゲルを中心とするドイツ観念論の哲学を専門に研究してきましたので、お話をいただいた当初は、やや漠然と、ヘーゲルの愛・結婚・家族論(以下、略してヘーゲルの家族論とする)を取り上げて紹介することにしようと考えていました。
 
でも今になって、この役割を通して感じたことを率直に述べると――ヘーゲルの家族論を再読すること、解釈し、現代的な観点から批判を加えて、何かしらの限界や可能性があればそれを提示すること、これを学問の名において公の場で客観的観点からおこなわなくてはいけないということ、そうしたすべてが私自身にとって、じつは結果的に大変苦しい作業でした。話題提供の出だしから、「つらかった!」というネガティブな話をしてしまってすみません……。でも、この感覚は、家族の近代と現代を考える上で、取り逃してはならない種類の、本質的なものだと思うんです。だからそれを語るところから始めたいと思います。
 
さて、そんなふうにつらいと感じた理由なのですが。まず一つは、そもそもヘーゲルの家族論を私自身が主体的に、実感を伴ったかたちで理解することができないということ。ヘーゲルの家族論は、現代に生きる、論じようとする私自身の感じ方、考え方、状況とはかなり違っていて、違いがあるということ自体は悪くはないのですが、ヘーゲル自身はそうした違いの存在も意に介さないくらい強固な家父長制の家族観を素で語っているので、昔の常識を、それがもう通用しなくなった今、どのくらい真面目に受けとめて哲学すればいいのか、少し戸惑ってしまいます(苦笑)。
 
もう一つは、もっと根本的なことなのですが、家族について考える哲学の議論の場から、たとえば独身であることや非血縁関係などの伝統的な意味での家族から見ればいわば〈家族外〉であるものへの視点が暗黙裡に排除されがちであることです。私はそこにある種の違和感を覚えていて、この違和感を抜きにして〈家族の哲学〉に向き合うことはできないと感じます。
 
哲学者ヘーゲルの家族論は、多様な価値観に開かれた現代の感覚からすれば、完全に保守的な内容です。そのような哲学を今繙くにあたって、どんな態度で臨めばいいのだろう、と自問自答してしまいます。家族論の哲学史の一コマとしてヘーゲルを紹介するだけで済ませることは、簡単ではありますが、本当のところは不可能です。なぜ家族論の哲学史をあえて参照する必要があるのかが、おのずと問われてくるからです。なぜ過去のものとなった価値観をここで辿り直さなければならないのでしょうか。

哲学は歴史的考察ではありません。〈哲学する〉とは、どんな対象であれ、それをアクチュアルな視点から主体的に考えることです。なので私は、先ほど述べた、私自身が素朴に覚えるヘーゲル家族論に対する違和感と、家族を考える際に哲学という学問にひそむ前提への疑念を、私という考える主体の立脚点にしたいと思いました。こうした観点から、ヘーゲルの哲学、ひいては愛・結婚・家族という、私的領域と切り離せないテーマに迫っていきたいと思います。
 
さて、前置きが長くなりましたが、ここから先はヘーゲルの家族論を部分的にではありますが紹介し、それに対して徹底的に疑問を投げかけてみるというスタイルで進めていくことにしたいと思います。ヘーゲルの家族論では、保守的な考えが終始確信に満ちた調子で述べられていますが、私はこの確信にあえて揺さぶりをかけてみようと思います。そうすることで、単にリベラルな価値観を提示したいというわけではありません。そうではなく、保守もリベラルも越えて哲学する際に取るべきひとつの倫理的な態度のようなもの、つまりミシェル・フーコーが「哲学的エートス」(注1) と呼ぶものにおそらくは通じる思考の次元を明らかにしたいと考えています。家族を哲学する際にヘーゲルが強調する「倫理」という言葉を否定的媒介にして。

(注1)エートスとはギリシア語で倫理を意味します。フーコーは「哲学的エートス」を「一つの〈限界的態度〉」、すなわち境界に立って批判的に物事を限界づける態度であるとします。何かを限界づけるということは、フーコーによれば「実践」です。「哲学的エートス」が担うべき問いについて、フーコーは次のように述べます。「私たちにとって、普遍的、必然的、義務的な所与として与えられているものの間で、単独で、偶然的、そしてある種の恣意性にゆだねられているものの占める部分とはどのようなものか、と問うべきなのだ。要するに、必然的な制限のかたちで行使される批判を、可能的な乗り越えのかたちで行使される実践的批判へと、換えることが問題なのだ」(ミシェル・フーコー「啓蒙とは何か」石田英敬訳、小林康夫他編『フーコー・コレクション 6 生政治・統治』、ちくま学芸文庫、2006年、385頁以下)。

 

[ヘーゲルへの問い]

 
阿部 ヘーゲルは、「結婚し、家族をつくらなければならない」と主張する哲学者です。それは人間の「倫理的義務」であるとも言われます。家族論が述べられている『法の哲学』(1821年)ではこう明言されています。「人間の客観的なつとめ、したがって倫理的義務は、婚姻状態に入ることである」(§162)(注2) 。以下では、ヘーゲルに対してインタビューをするような形で、彼がなぜこのように結婚し家族をつくることを倫理的義務と考えるのか、その根拠や説明となる部分を概観していきます。

(注2)ヘーゲル『法の哲学』藤野渉・赤松正敏訳、『世界の名著44 ヘーゲル』所収、1978年)引用に際しては節番号のみ記す。[ ]は引用者による補足を表す。

Q1. なぜ結婚して家族をつくらなければならないのか? 
A. ヘーゲル:「人間は倫理的にならなければいけないから」。 
 
ヘーゲルによると、「倫理とは生きている善としての自由の理念である。生きている善は、おのれの知と意志の働きを自己意識においてもち、自己意識の行動を通しておのれの現実性をもつ」(§142)。前提として、ヘーゲルは道徳と倫理を区別します。道徳の場合は、カントの定言命法(「~せよ」「~するべし」)という形をとった道徳法則のように、現実には対応しがたい理想で終わってしまう。でもヘーゲルは、善を理想の域にとどめて形式的に考えるだけではなく、それを人間の意志や行動や共同体形成を通じて現実の中で具体的な形にしていかなければいけない、と説きます。それが生きた善としての倫理であり、自由の実現とも言われます。
 
ヘーゲルにおける自由とは、各個人がやりたいことを何でも好きなようにやるということではありません。ある全体の中に属する成員として、全体との有機的なつながりの中で自己実現をしていくということです。だから、倫理の実現形態は個人という単位ではなくさまざまな共同体だという考え方が出てくる。ヘーゲルがそこで挙げる共同体とは、家族、市民社会、国家です。人間が倫理的になる第一歩が家族をつくることだとされます。
 
――さて、ここで素朴に疑問を投げかけておくことにしたいと思います。何かしらの理由があって、家族という共同体を築いたり、そこに属したりすることがない、そうすることが困難な状態にある人やそれを自分の意志で選択しない人は、非倫理的であると言い切ってしまえるのでしょうか?
 
 
Q2. 愛とは?  
A. ヘーゲル:「愛とは総じて私と他者が一体であるという意識のことである」(§158補遺)。
「愛における第一の契機は、私が私だけの独立的人格であることを欲しないということ、もし私がこうしたものであるとすれば、私はおのれが欠けたものであり、不完全なものであると感じるだろうということである。第二の契機は、私が他の人格において私を獲得し、他の人格において重んじられるということ、そして他方、他の人格が私においてそうなるということである。だから愛は悟性の解きえないとてつもない矛盾である。なぜなら、自己意識の点的性格は、つまりは否定されるものでありながら、それでも私が肯定的なものとしてもたざるをえないものであるため、これほど解きがたいものはないからである。愛は矛盾の惹起であると同時に矛盾の解消である。矛盾の解消として、愛は倫理的合一である」(§158)。
 
 
――私と他者が「一体である」とは、どのような状態なのでしょうか。愛が「意識」であるかぎり、「一体である」とは、客観的事実というより、むしろ自他のなかに主観的に(ひいては相互主観的に)生じる一体感のことだといえるでしょう。あくまで自他の存在は別個のもので、たとえヘーゲルが言うように各々の人格を相互の人格のうちで獲得したり重んじたりすることが愛において起こるとしても、完全に互いの人格になりきるということはできない。自己は自己のまま主体を保ち、他者によって規定される(ヘーゲルはこれを否定と呼びます)自己もまた自己として受容し、これを相互におこなうというのは、ヘーゲルが言うほど「矛盾」した事態なのでしょうか。私にはそれは、人が共生するときに営む主体間の自然な交流なのではないかと思われます。ごく日常の素朴な感覚として、愛情関係にあるとき、私たちはまず自他を独立一個の人格として知り、対立や共感をくり返して親交を深めつつも、あくまで互いを自立した主体として保ち、尊重しあっているのではないでしょうか。愛情関係において一体感が感じられるのは確かにその通りだと思います。
 
しかし、それはイメージで言えば、二つの小さな円を囲む大きな円のように、一体感という全体が二つの個別の人格を包摂するといった関係よりも、二つの円の交わりのように個と個の関係があって、交わる部分が一体感、交わらない部分とそれを含めた双方の円が互いに「解消」されない主体的人格、という風に捉える方がよいのではないでしょうか。愛情に限らず人間関係を占めるのは徹底的な個と個のやりとりであって、個の尊重を基準としない一体感が理念として一人歩きし、関係性そのものを蝕んで機能不全に陥らせることもあります。ヘーゲルの言う「愛」は、個と個との互いに解消されない部分を含んだ関係性をほとんど度外視して、一体感という全体的理念から構成されていますが、これは愛の定義としては普遍的ではなく、かなり限定的なのものではないでしょうか。
 
 
Q3. 結婚とは?  
A. ヘーゲル:「結婚は本質的に、ひとつの倫理的関係である。(……)より正確には、法的に倫理的な愛である、というふうに規定されなければならない。これによって婚姻のうつろいやすい面、気まぐれな面、たんに主観的な面が婚姻から消え失せるのである」(§161補遺)。 
 
Q4. 法律婚か事実婚か? 
A. ヘーゲル:「結婚が内縁と区別されるのは、内縁では主として自然衝動を満足させることがねらいであるのに対し、結婚では自然衝動が抑制されているという点である。(……)結婚の目的は倫理的な目的であり、倫理的な目的はきわめて高いところにあるので、これに比べればその他のすべてのものが無力であり、これの支配下にあると思われる。(……)結婚には感情の契機が含まれているから、結婚は絶対的ではなくて動揺するものであり、解消の可能性を含んでいる。しかし立法はこの可能性をきわめて困難なものにし、気に入るとか気に入らないとかいった気ままな意向に対して、倫理の法を堅持しなければならない」(§163補遺)。
 
 
――ヘーゲルは、人間の自然な欲求や感情から生じる愛にもとづいて成り立つ結婚制度から、ほかならぬその愛に関わる自然的な要素を、倫理を動揺させる「主観的」なものとして否定します。でも、根本的な問いとして、そもそも制度とは、欲求や感情など本能的なものと完全に切り離したところに成立しうるものなのでしょうか。本能と制度の関係性をめぐっては、すでにさまざまな哲学的議論があるため、この限られた場所で詳しく論じることは難しいですが、ここでは両者の本質的な結びつきについてのみ指摘しておきたいと思います。
 
人間の自然な欲求にもとづく恣意的な行動をある程度制限したりコントロールしたりすることで社会秩序を保つのが制度であるとすれば、本能と制度は確かに異なるはたらきをします。しかし、制度の起源を考えれば、両者は連続性ももっています。フランスの哲学者ドゥルーズによる初期のアンソロジー『本能と制度』ではまさしくこうした両者の連続的な関係性に焦点があてられています。ドゥルーズは言います。「本能と呼ばれるもの、制度と呼ばれるもの、これらは本質的には、満足を得るための異なった手段を示している」 (注3)。両者は、満足を得るという共通の目的に向かう二つの異なる手段ということです。三大欲求を思い浮かべればわかるように、人間の本能は欲求や傾向性を自然的な手段で満足させます。

(注3)ジル・ドゥルーズ編著『哲学の教科書』加賀野井秀一訳、河出文庫、2010年、75頁。以下、同書からの引用に際しては頁数のみ記す。

他方で、制度は人為的です。ドゥルーズは次のように説明します。「あるときには主体は、みずからの傾向性と外界の間に、独自の世界を確立〔=制度化〕することによって、数々の人為的な充足手段をつくりあげる。これらの手段は、有機体を自然状態から解放し、別の事象にしたがわせ、傾向性そのものを、新たな環境にもたらすことによって変形してしまう。まさしく、金銭はそれを手に入れれば、飢えからの救いとなるし、結婚は、相手を探す手間をはぶき、ほかの仕事ができるようにしてくれる。(中略)結婚することによって性欲が、所有することによって渇望が、それぞれ満足をえるように、傾向性が制度の中で充足されるというのは確かなことである」(75-76頁)。
 
家族論のテーマのひとつである結婚に焦点を絞って言うなら、結婚制度は、人間の本能がもつ傾向性の充足、ということになります。制度の中に没入することで、人間の傾向性がいかに本能から離れて文明的な内容に「変形」されていこうとも(たとえば「結婚をしたい」、「よい家庭を築きたい」などの願望)、制度の起源は人間の本能と密接です。ドゥルーズのこうした見方は、「自分の身体の性的使用権を生涯にわたって特定の異性に対して排他的に譲渡する契約」という上野千鶴子による結婚の定義の基本にある考え方にも通じるところがあるように思われます。
 
ヘーゲルは、自然から離れてできるだけ人為的な次元へと突き進んだ制度に「倫理的合一」を見ています。しかしながら、本能と制度を切り離すことによって確保される倫理性とは何なのだろうか、と問いたい。制度によって保証される連帯のほうが、愛などの自然な感情にもとづく連帯に比べてより倫理的であると、どのように言えるのでしょうか。
 
 
Q5. 家族とは?  
A. ヘーゲル:「家族は(……)精神の感じられる一体性、すなわち愛をおのれの規定としている。したがって家族の心構えとは、精神の個体性の自己意識を即かつ対自的に存在する本質性としてのこの一体性においてもつことによって、そのなかで一個独立の人格としてではなく成員として存在することである」(§158)。 
 
Q6.感情や気持ちだけで持続可能な(必然的な)連帯が築けるだろうか?  
A. ヘーゲル:「結婚は直接的倫理であるから、結婚の本性そのもののなかに、実体的関係と自然的偶然性と内的恣意とが入りまじっている。――だから父親に対する子どもの隷属関係や、(……)またローマ人の間での離婚の容易さによって、実体的なものの権利よりも恣意の方に優位が認められ、その結果、キケロでさえも(……)新しい配偶者の結婚資金によって借金を払おうとして、自分の配偶者を追い出す算段をしたのであった。――これは習俗の頽廃に法律上の道が拓かれているということであり、あるいはむしろ、法律が習俗の頽廃の必然性であるということなのである」(§180注)。  
 
――結婚や家族のきずなは、愛という確かな感情によって結ばれるものです、そのつながり自体の性質は、直接的であり偶然性や恣意的要素もはらんでいて、(法が連帯を保障する国家と違い)解消されることもありうる不確かなものです。家族は確かに倫理的共同体であり実現されるべきものですが、絶対的な持続を求めることはその自然的な性質上できない。ヘーゲルの家族論の要点は以上の通りです。感情が客観的な制度と結びつくかぎり、その関係性に不安定な要素はどうしてもつきまといます。
 
しかし、それでも、ヘーゲルの哲学において結婚が「倫理的義務」だと断言されていることに変わりはありません。この主張の問題性を指摘しないわけにはいかないでしょう。それは単に、現代のリベラルな感覚にそぐわない前時代的な考え方だからというのではありません。むしろ、ヘーゲルのこうした保守的な主張は、現代の多様な価値観や議論のなかにも「本音」として根強く残り、ある種の暴力性をはらむ多数派の素朴な意見に通じています。ヘーゲルの主張はそれを学問的に根拠付けようとしているだけで、今の時代によく言われる、「結婚はしたほうがよい」「家族をもって初めて一人前だ」という典型的な、場合によっては他者の人格否定につながりかねない発言と、考え方の素朴さにおいて変わりはありません。私が問題としたいのは、結婚を「倫理的義務」とするヘーゲルの確信的態度が、果たしてそれ自体倫理的なものと言えるかどうか、という点です。
 
倫理とは何でしょうか。それは既定のルールでも多数派の価値観でも、また権威化された言説でもなく、共同体の中に生きる人間がその成員として自他の自由を追求し責任を果たしていくための探究的思考や行為なのではないでしょうか。さまざまな価値観が存在し衝突しあったときに、数に訴えて正当性を主張するのではなく、無理やりに調停しようとするのでもなく、多様性そのものを引き受け尊重する態度や議論にこそ倫理の次元は開かれるのではないのでしょうか。このとき、多様性への理解はもちろん決して単なる言葉や建前となってはなりません。多数派に属する者が自らの思考や価値判断を語るときには、その言説がもつメッセージ性、ひいては潜在的な暴力性にまで視野に含めた最大限の慎重さと想像力が求められます。
 
「家族のきずな」という言葉は、複雑多様な現実に対してあまりにも平和的で単純な響きをもっているような気もします。すなわち、家族はきずなをもつものであり、どんな形であれそれを育むことは無条件によいことである、と。しかし、「きずな」と言われるものからどうしても遠い家族もいるでしょう。法律婚、事実婚を問わず結婚と関わりをもたない独身者もいるでしょう。その独身者に家族や恋人がいる場合もあるし、まったく身寄りのない人もいるでしょう。血縁でなくとも誰かと家族と変わらぬ関係にある人もいるでしょう。どんな境遇にあれ家族やきずなのイメージそのものに深く傷ついている人もいるでしょう。〈家族=きずな=善〉の図式に必ずしも当てはまらない状況は、当たり前ですが数え切れないほどあります。
 
懐疑や批判を通じて真理を追い求める哲学にできることは、「家族」とは、「きずな」とは何かを根本的に問いつづけることです。さらに、私たちをそうした問いへと突き動かすものが何なのかを問うことです。そして、このような問題について議論をするときに、私たちが陥るかもしれない誤謬や自己欺瞞につねに注意深く目を向けることだと思います。
 
倫理学で言われるように、「である」と「すべき」は混同されてはならず、現実と道徳的義務の違いとして区別されなければなりません。道徳と言えば聞こえがよいかもしれませんが、「すべき」が「である」を盲目的に覆い尽くし、現実に対して暴力性をもつことはあります。そうなったとき、「すべき」もはや善とは言えない。真に倫理を問う次元は、この善からかけ離れてしまった「すべき」に立ち向かう局面にこそ現れてくるはずです。
ちょっと長くなってしまいましたが、以上で終わりたいと思います。
 
藤田 ありがとうございました。「家族について考える哲学の議論の場から、たとえば独身者などのいわば〈家族の外〉への視点が暗黙裡に排除されがちである」というご指摘はきわめて重要なものですね。付け加えるならば、「独身者」だけでなく、制度的に家族を持つ方々の中にもまた、〈家族の外〉を感じている人々もいらっしゃることでしょう。
 
「家族から遠く離れている」ことと「家族の問題から遠く離れている」ことは同じではなく、また逆に、〈家族の外〉を感じているならば、制度的に家族を持っているかいないかにかかわらず、「家族」について、「きずな」について、己の実存を賭けて〈倫理的〉に思考し、哲学してみることができるはずです。阿部先生が感じておられる「ある種の違和感」は、まさにその意味でこの場にいる方々によってそれぞれなりに共有されており、だからこそこのシンポジウム開催につながったのではないかと考えております。
 
では、続いて宮﨑先生よろしくお願い致します。
 

[家族の家族たるゆえんは何か]

 

宮﨑裕助 新潟大学准教授。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。哲学、現代思想。著書に『判断と崇高──カント美学のポリティクス』(知泉書館、2009年)、『ジャック・デリダ──死後の生を与える』(岩波書店、近刊)などなど。
宮﨑 2004年まで生きていたジャック・デリダというフランスの哲学者がいますけども、私のほうからはこのデリダが家族についてどういうふうに考えていたかということについて、お話しできればと思います。
 
家族とは何かということが先ほどから話題になってきているわけですが、藤田さんの導入もたいへんわかりやすいお話で、そのイメージみたいなものはみんなもっている。誰もが、家族とのかかわりを持って生まれてきたわけです。ある意味であまりにも明らかな事柄なんだけれども、にもかかわらず、ひとたび「じゃあ、家族って何ですか」っていうふうに言ったときに、どこかよくわからないものというところがあるわけですよね。藤田さんのお話しに出てきたCMでも、そもそも誰がお父さんなのか、誰が兄妹なのか、ぱっと見よくわからない。けれども、あれでもうなんかイメージ的にオーケーみたいな、そういう感じなわけですよね。「おかしいだろう!」とかって追及しないわけですよね。まあなんとなく、ああいう家族もあるのかな、そういうので、なんか変な説得力があるというか。
 
つまり、いわゆる「核家族」だけじゃなくて、いろんな複合的な家族、大家族、ひとり親の家族、「ステップ・ファミリー」、あるいはさっき阿部さんが少しだけ言ったような、子どもがいない世帯、夫婦2人世帯もあり、独身世帯はあまり「家族」と言わないかもしれないですが、でもひとつの家の形態ではあると思うんです。家族のありかたを考えていくとさまざまな形があって、現代はますますひたすら複雑化、多様化しているという感じなわけですよね。
 
だから「家族のイメージ」と言われると、もうどんどん多様化して、家族の数だけ家族の形もあるんじゃないか、もうそれでいいんじゃないか、という話なのかもしれない。それはそれでもう現代の趨勢というか、そこから認めるところからしか始まらないんじゃないかなと思うんですけれども、にもかかわらず、家族というのは単純に、決して自由に、恣意的に取り結ばれる人間関係ではないわけですよね。例えば知人友人だったら、学校で出会った人とか、仕事で一緒になった人とかいろいろありますけども、そういう間柄に比べれば、家族は、簡単に変更したり、取りかえたりというようなことができないような、ある種の堅固な関係性がある。
 
その場合に私が気になっているのは、家族がこれほど多様化しているのに、でも何か、結局のところそこに戻らざるをえないような絆、強い絆みたいなものがあるんじゃないかということが、他方で信じられているということですね。そこに何か、家族の家族たるゆえんみたいなものが漠然と示されているのではないかなというふうに思うのです。
 

[デリダの家族論――親子関係]

 
宮﨑 家族の堅固さみたいなもの、絆の堅固さみたいなものは、大体2つぐらいあると思います。ひとつは夫婦関係、つまり婚姻、結婚による関係、もう一つは親子関係ですね。この2つがやっぱり、家族の軸になっている。
 
結婚のほうはまだお互いにパートナーを選ぶ、自らの意思で自由に選ぶという余地があります。もちろんいったん結婚してしまえば、ある種の制度化された関係ですので、簡単に解消したり変えたりということはできないようにはなっていますが、離婚も許容されていて、自由な選択の余地がある。
 
それに対してこれからお話ししたいと思っているのは、親子関係のほうです。もうひとつの親子関係のほうは、結婚の関係よりも強固な関係のようにみえる。というのも、子どもというのは親を選べないわけです。生まれてきたときにはもう親はいて、気づいたときにはもうその親に任されてしまっていて、自分がそこに縛られているというような、ある種の非対称性というのか、そういうものがあります。その親子関係の堅固さみたいなものは、よく考えてみる必要があるんじゃないかなと思うのです。
 

[父親の不安定性]

 
宮﨑 親子関係について、どうして親子になるのかというと、一般には、やっぱり血の関係、あるいはより現代的な言い方をすれば遺伝子ですね、それを引き継いでいるという関係があり、それは生物学的にも保証されているんだというような考えが広く共有されている。しかしまさにその前提というか、その考え方を私は問い質してみたいと思っています。つまりそこにこだわって考えたのがデリダの哲学ではないかというふうに思うんですね。
 
デリダには精神分析学者のルディネスコと2001年に出版した対談集(ジャック・デリダ、エリザベート・ルディネスコ『来たるべき世界のために』藤本一勇・金沢忠信訳、2003年、岩波書店)があるのですが、そこではデリダは「家族が永遠だというふうに言われれば躊躇せざるをえない」と率直に述べているんですね。
 
家族の絆というものを一般化したり、自然の本質みたいに、いま言ったような血とか遺伝子とかというようなものに帰したりするということにデリダは強く異議を唱えているわけです。存在している家族というのはいろいろさまざまに異なる家族でしかないのであって、そこに何か永遠不変の共通のものがあるという想定は同意できないと話をしている。
 
とはいえデリダ自身とりあえず出発点として、家族とは生殖を軸にした社会的な絆であるということは認めようというところから話を始めているんですね。つまり、それはある種の常識的なことであって、そうやって子どもが生まれて、そこから家族というのが実際に営まれてきた。そのこと自体は出発点として受け入れよう、と。しかし重要なことは、そこで受け入れられている「生殖」や「誕生」つまり「子どもが生まれる」ということは一体どういうものとして受けとめられているのか、その内実を問いただそうとするわけです。これは要するに2つの関係がある。父と子の関係、母と子の関係ですね。
 
まず、父・子の関係というのを考えてみたいと思います。人は、男は、どうやって父親になるのか。しばしば言われることですけれども、父親を特定することは母親を特定することとはかなり異なることなんですね。
 
子の父は誰かということについては、典型的には日本の民法で「離婚後300日問題」というのがありますが、つまり、離婚届の後に300日以内に生まれた子は、遺伝的関係とは関係なく前の夫の子どもとみなされ、それがげんに問題になっています。そういうことからも見てとれますように、第三者から見て父というのは、ある種、推定される関係にすぎないわけですね。もちろん、現代はDNA鑑定とか、遺伝子検査ができるわけですけれども、デリダがここでこだわるのは次のことです。
 
つまり、種元の男性が即父になるわけではない。父とはみずからの子どもを認知する何者かなんだと。認知して初めて、父は子どもの父となることができる、ということです。もっと明確にしたいと思うんですが、DNA鑑定の結果はただちに父であることの条件にならない。認知を促すということはあっても、認知が実際に行われなければ、決してその者の父親になるわけではない、ということですね。
 
これはたんに法制度上の問題というだけでなくて、子の認知そのものが、法だけじゃなくて慣習やその意味などさまざまな要素が複雑に絡み合ったものであり、決して終わりがないある歴史のなかで、その認知の受けとめられ方が、広がったり、不安定になったり、さまざまなかたちをとる、そこをデリダは強調するわけです。
 
遺伝子技術や法制度、そういうものを巻き込みながら認知するということは、ひとつの何か積極的で解釈的な行為であり、デリダは「象徴的な行為」という言い方をしていますが、つまり、さまざまな社会慣習や歴史のなかで当のことがらをみずから理解し、そしてそれを他者に承認される、そういう関係をさまざまに巻き込んだ意味を伴う働きなわけです。だから、その認知というのは、たんに生物的に確定できるものではなくて、それが現実に社会でもつ意味合いにおいて実に多様な不安定さをはらむ行為なわけですね。
 

[母もまた認知の中で母になる]

 
宮﨑 そういうわけで、父というのは実は非常に危い存在だというふうに言えるわけですけれども、ただ、この話は意外となされてきている。昔の原始共同体の家族が母系制だというようなことがしばしば指摘されたりするんですけども、つまり、父はなくても子は育つというか、母親がいて、母親の家が子どもを育てていけば、家族はずっと続くだろう、もともとの家族モデルがそうだった、と言われることは人類学などでも結構あるんですね。
 
しかしデリダの議論で興味深いのは、父子関係だけではなくて、母子関係の自明性すらも疑問を投げかけようとしていることです。何が問題なのかをみるのにデリダの発言を引用してみます。

母は産みの母ばかりではありません。[…]別の者でも母「なるもの」、母のひとりになることが可能であり、また実際そうであったのです。[…]ひとり以上の母がいるということ、縮減不可能な複数性において、母にはいくつもの代理がいるということです[…]。母の同一性(法的に可能なその同定も含めて)は、合理的な推論によって憶測された父性の「法的フィクション」[…]と同様、ひとつの派生的な判断に属するのであり、すなわち、どんな直接的な知覚からも切り離された推理に属するのです。[…]「母」もまた父と同じく、「象徴的」母ないし「代理可能な」母だったのであり、出産の契機に獲得される確信ないし確実性はまやかしだったのです。 (『来たるべき世界のために』60-61頁)

母親というのは、自分の子どもであるという確信をもって母になることができる、つまり、おなかを痛めて産んだということほど強い経験はないわけですね。父親と異なり、この特権によって母になることができる。でも、その特権をデリダは認めない。一体なぜでしょうか。
 
まず事実として、産みの母以外にも、歴史的に言って、養育する母(乳母)がいた。18世紀のフランスの事情についてデリダは紹介していますが、養育者が母親であるということは珍しくなかった。さらに現代では、医療技術の発達で「代理母」と言われるような、産みの母自体を代わってもらうということが起こっている。日本では産科婦人科学会が自主規制していますけども、世界的にみればアメリカを中心にかなり起きている。そうやって生まれた子どもを育てる。あるいは、さらに一方で卵子を提供する人がいる。つまり、そこには3人の母、卵子提供者と、産む母と、実際に育てる母という形で、さまざまな母がいるとことははっきりしているわけですね。
 
もちろんこれはある種の区分であって、実際にはそれは、数で言うと少数派だったり多数派だったり、歴史的にも社会的にも変わってしまうわけですけれども、でも特別なことではない。先ほど出たような、子連れの男女が再婚でつくったような家族、ステップ・ファミリーには複数の母がいる、というのは普通のことだし、代理母の問題も、アメリカでは、生まれた子どもがどちらに所有権があるのかということで法的な闘争になったりもしています。応用倫理学でよく取り上げられる「ベビーM事件」みたいな事例があるわけですが、そういうことのなかで、実際に母親の同一性、母親の確実性というものも、実は揺らぎをはらんでいるということがはっきりしてくるわけです。どのタイプが実際の、本当の母なのかということは、何かアプリオリな条件、先験的で確実な条件としてあらかじめ定めることはできない、というふうに言えると思います。
 
もちろん、だからといって人間の身体の生物学的な構造がありますし、そこから赤ん坊が生まれるといったそういう事実の重みがあることは確かです。そこからある種の母親経験が神聖化されてきた。ただちにこうしたことが軽視できるということではないんですけれども、でもここで強調しておきたいのは、そうした体験が尊いのだとしても、それは母親であることの条件とは別のことであって、母親の条件そのものは、そういう産みの経験というような、最も自明視されたものにすら還元できないということです。産みの経験ということで言えば、帝王切開や無痛分娩は痛くないから母親としての本当の産みの経験をすることにならないと言う人もいると聞きますが、いまや5人に1人が帝王切開で分娩する日本の現状からすれば、まったく不毛な偏見です。それはさておき、そのような意味では、結局のところ、母もまた父と同様に、さまざまな認知のなかで母となる、そういう存在なんだというふうに言えるわけです。
 

[父と母について、確実な知はない]

 
宮﨑 父母の話をしてきましたけれども、では今度は、子どもの側から考えるとどうなるのかを話しておきたいと思います。
 
子どもにとってみたら、自分が生まれてきたこと、父と母がいることに関して、「確実知」と言われるような知でもって知ることはできない、とデリダは言っています。
 
つまり「自分が親と思っている2人の者が本当に自分を生んだのか」ということを本気で問題にし始めれば、どこまででも疑うことができるわけです。DNA鑑定で遺伝上のつながりを確かめるようなことはできますが、誕生のときから2人が自分を育ててどのような経緯を経て自分がこうなったのか、そもそも自分の誕生は歓迎されていたのか、最初は孤児院かどこかに入れられていて後から引き取られたのかもしれないとか、小さいときの自分について確実に自分で直接知ることはできないわけですね。自意識自体がない時代まで、さかのぼれないわけです。
 
とはいえ実際に子どもにとって、親が本当に自分の親なのかということを確かめようと思うことは実はあまり起こりませんよね。確実でないわりには起こらない。というのも、無力な自分、子どもにとって記憶がさかのぼれるかぎりで世話をしてくれる親が親として振る舞い、そのようにずっと信じさせてその振る舞いを一貫させてくれれば、それでもう親として自分は十分だ、と子どもは思うからですね。
 
もちろん遺伝子検査はつねに可能であり、医療技術が非常に発達したこの現代では、これに頼ろうとする見方が進んできている。しかしこれは、むしろ後から引き合いに出されるようになったひとつの転倒ではないでしょうか。つまり、血統とか遺伝子というような生物学的な事実自体が、親子関係を証明するものではないからですね。
 
先ほど言っていたのは、父であれ母であれ、そうした遺伝子的なつながりが意味を持つには、親子関係を認知して、社会的ないし歴史的に媒介されてきた、複雑なプロセスを経る必要があるのであって、母にもさまざまな類型がある。父も一義的ではない。そうしたプロセスは、初めから決まっているわけではないんですね。親子関係が生じたり生じなかったりするなかで、医療技術の進歩に乗じて生物学的な事実が引き合いに出されるようになった、ということであって、その逆ではないということです。
 
デリダは、産科病院で生じた子どもの取り違え事件に触れています。つまり、生まれた直後に子どもを取り違えて、違う子どもを受け取って育ててしまったということがごくまれにあとで判明し、ニュースになることがある。それがもし「悲劇だ」というふうに言われるとしたら、それは事後的にであって、取り違えという事実が起きて初めて、血液型だとか遺伝子というエヴィデンスが持ち出され「悲劇だ」というふうに感じられる。もしこれが、なにも知らないまま、親が親として、子が子として、互いに納得して振る舞っているかぎりは、親子の絆は何事もなくそのまま、取り結ばれたままであったわけですね。
 
いまや親子関係は、遺伝子という要因が前面に出てくるようになって、遺伝子の継承や血統が特に親子関係の基礎になるということがあまりにも自明視されてきていますけれども、むしろそうしたつながりは、長い人類の歴史から見れば必ずしも特別なものではなかったのに、戦後の核家族化する趨勢のなかでいつのまにかそのことが忘れ去られる一方、他方でさまざまに流動化して多様化する家族関係を受け止められず反動が起こるようなかたちで、結果的に生物学的なエヴィデンスを求めようとするような考え方が顕著になってきているのだろうと思います。
 

[信じることが家族の根本である]

 
宮﨑 そろそろ閉じようと思いますが、最後に、デリダが結論的なかたちで言っていることを紹介しておきたいと思います。では、結局のところ家族とは何なんだという話です。そうやって認知のさまざまな複雑なプロセスのような、ある種ブラックボックスのなかに放り込むというようなことだけで済むのか。デリダはこんな言い方をしています。

父と母が、または、父あるいは母が、真正の「親」であると実際に信じた瞬間から、すなわち、彼らのところにあると信じるものの「親」であると信じた瞬間から、幻想が運動し始め、またなんらかの運動を惹き起こすのです。(『来たるべき世界のために』65頁)

端的に「信じること」が家族の根本にある。要するに、家族の絆とはそう信じたもののことである。それは、そう信じたものからしか生まれない。血縁にせよ、身体の類似にせよ、制度上の契約にせよ、共に過ごした時間と記憶の積み重ねにせよ、そうした「信」を引き起こす要因はいくつもあるわけですけれども、そのどれにも還元することはできない。突き詰めれば、家族への「信」以上の確固たる根拠はなく、本質的に「信」から始まるわけです。
 
これは悲観すべきことではなくて、逆説的ながら、そうした根拠のなさこそが、絆へのさらなる「信」、信じること、さらには「愛」をもたらすのだと考えるべきではないでしょうか。
 
逆にいうと、仮にまったく揺るぎのない根拠によって確証された絆が、すでに確立されて所有されているとしたとするならば、そもそも家族であることの絆は、問題にすらならないんじゃないか。絆が問題になるのはそれが自明でも既成事実でもなくて、そうではないものを自らつくり出すことの中で初めて見出される、そうしたものだからではないでしょうか。デリダがこだわり続けるのは、まさにそのことなんですね。
 
デリダは別の本のなかでおもしろいことを言っています。「私が愛することができる子どもは、私生児だけである。我々は、子どもが非嫡出的であるかぎりでのみ、子どもを愛することができるのです」(デリダ『他者の言語』高橋允昭訳、1898年、法政大学出版局、124頁)。奇妙な発言ですけども、もちろん、普通であれば、子どもたちへの愛を説明するのに、そこに何か自分を引き継ぐ似姿を見出して、それが親子のつながりを確認させるものだから、いわばそういう仕方でそのつながりを子どもが返してくれるからだ、とそんなふうにして、その子どもへの愛の理由を考えがちなのですが、しかしデリダが強調するのは、そうではなくて、子どもを愛することができるのは、結局のところ、まさにそうではないからだ、ということなんですね。

けれども、もし子どもが帰ってくるものでしかなかったとしたら、もし子どもが親の名をもつことに、親に似た似姿に集約されるものでしかないとしたら、逆に言うと、もし子どもが立ち去っていく者、自発的に話す者、親の名以上の者、親の名とは違った者、そして帰ってこない者でないとしたら、人はやはり子どもを愛することができないだろう。したがって、人は自分自身の子どもにさえ、何か非嫡出的なものを愛しているのである。つまり、血統や名、名が差し戻すナルシシズム的な似姿には、もはや集約されることのないものを愛しているのである。そうして人は、自分自身の子どもたちにおいてまた、いわば私生児たることを愛しているのである。(『他者の言語』125頁)

つまり、自分の子どもを愛することができるのは、その子どもが自分の子どもであることを否定するからがあり、そして、私が子どもに投影するかもしれない自己愛をかき乱す限りでのことである。子どもというのは、私ではない他者からやってきて、他者へと去っていく。家族に永久の絆はなく、つかの間の絆である。しかし、そうであるからこそ、絆は日々改めてつくり出されるべきものとなるのであり、まさに絆として貴重になるものである。恐らく、そのようなものとして子どもは愛すべき存在になるのではないでしょうか。
 以上で、話を終わりにしたいと思います。
 
(中篇)へつづく――。
 

第6回の《ジェンダー対話シリーズ》、いかがでしたか。フェミニズムやジェンダー・セクシュアリティについて、専門家を含めて多くの人が語りにくい空気を感じているいま、いろいろな立場からの、まとまったりまとまらなかったりする話をお届けできればと思っています。中では、藤田さんの『アンチゴネー』読解、大島さんの家族法の話と続きます。どうぞお楽しみに。【編集部】
 
*宮野真生子さんは2019年7月22日にご逝去されました。心よりお悔やみ申し上げます。さまざまな事情が重なり、公開は今(2019年12月)になってしまいましたが、宮野さんには既にご校正をしていただいていました。登壇者、編集部ともに、この記事を通し、宮野さんの残された言葉と思想にふれる方が一人でも多くなることを願っています。
 
*《ジェンダー対話シリーズ》第6回は、2016年11月18日に新潟大学 五十嵐キャンパスで行われた「家族の「きずな」を哲学する──私たちをつなぐものはどこにある?」(登壇者:阿部ふく子、大島梨沙、宮﨑裕助、藤田尚志、宮野真生子、主催:新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS))を元にしています。なお、本イベントの書き起こしは、科学研究費基盤研究(C)「フランス現代哲学における主体・人格概念の分析(愛・性・家族の解体と再構築を軸に)」研究課題番号:16K02151(研究代表者:藤田尚志)の助成を受けています。また、ウェブでの掲載にあたり、ナカニシヤ出版様のご協力を得ました。記して感謝申し上げます。

 


 
 
【登壇者プロフィール】
 
阿部ふく子 (あべ・ふくこ)新潟大学准教授。東北大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。近代ドイツ哲学、哲学教育研究。著書に『思弁の律動――〈新たな啓蒙〉としてのヘーゲル思弁哲学』(知泉書館、2018年)、共著に『人文学と制度』(未來社、2013年)など。
 
宮﨑裕助 (みやざき・ゆうすけ)新潟大学准教授。東京大学大学院総 合文化研究科博士課程修了。哲学、現代思想。著書に『判断と崇高── カント美学のポリティクス』(知泉書館、2009年)、『ジャック・デリダ──死後の生を与える』(岩波書店、近刊)(
本ウェブに掲載されたデリダの家族論の完全版が、近刊のこのデリダ論に収録されている。ぜひこちらもご覧いただきたい)など。
 
大島梨沙 (おおしま・りさ)新潟大学准教授。北海道大学大学院法学研究科博士課程修了。民法学。共編著書に、『性的マイノリティ判例解説』(信山社、2011年)。共著に、『家族研究の最前線②出会いと結婚』(日本経済評論社、2017年)など。
 
藤田尚志 (ふじた・ひさし)九州産業大学教授。博士(哲学、リール第三大学)。フランス近現代思想、アンリ・ベルクソン研究。編著に、シリーズ『愛・性・家族の哲学』1~3巻(宮野真生子と共編、ナカニシヤ出版、2016年)。現在、「けいそうビブリオフィル」にて、『ベルクソン 反時代的哲学』を連載中(近刊)。
 
宮野真生子  (みやの・まきこ)福岡大学准教授。京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。日本哲学史、九鬼周造研究。著書に『なぜ、私たちは恋をして生きるのか−−「出会い」と「恋愛」の近代日本精神史』(ナカニシヤ出版、2014年)、『急に具合が悪くなる』(磯野真穂と共著、晶文社、2019年)、『出逢いのあわい――九鬼周造における存在論理学と邂逅の倫理』(堀之内出版、2019年)。編著に、シリーズ『愛・性・家族の哲学』1~3巻(藤田尚志と共編、ナカニシヤ出版、2016年)など。2019年没。
 
》》ジェンダー対話シリーズ・バックナンバー《《  【これまでの一覧は 》こちら《 】
 
第5回 愛・性・家族のポリティクス(後篇)
第4回 愛・性・家族のポリティクス(前篇)
第3回 息子の『生きづらさ』? 男性介護に見る『男らしさ』の病
第2回 性 ――規範と欲望のアクチュアリティ(後篇)
第1回 性 ――規範と欲望のアクチュアリティ(前篇)

ジェンダー対話シリーズ

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「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。