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あとがきたちよみ
『話し手の意味の心理性と公共性』

 
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三木那由他 著
『話し手の意味の心理性と公共性 コミュニケーションの哲学へ』

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はしがき
 
 誰かが何かをすることで何ごとかを意味するとはどういうことなのか? 現在この分野で流通している哲学用語を用いるならば、この問題は「話し手の意味とは何なのか?」と語り直されることになる。これこそが本書の中心となるテーマである。コミュニケーションというものが誰かが何かを意味し、聞き手がそれを理解することで成立する営みであるとするならば、この問題はコミュニケーションの哲学に向けた第一歩として取り組むべきものと言えよう。
 私が窓の外を指差すことで、雨が降っているということを意味するとき、素朴にはそれは、雨が降っているということを誰かに信じさせようと意図して、私が窓の外を指差すというのと同じことであるように思える。だが待ってほしい。それだけでは私が録音した雨の音を、録音だとばれないように誰かに聞かせ、本当に雨が降っているかのように思い込ませるような場合にも成り立つ。しかし実際には、こうした場合に私が何かを意味しているだとか、私とその誰かのあいだにコミュニケーションが成り立っているだとかとは言えそうにない。何が足りないのだろうか?
 おそらく、何かを意味するためには、誰かに何かを信じさせようと意図するだけでなく、その誰かにそうした信念を抱かせようという意図を自分が持っているということもまた、相手に気づかせようと意図していなければならないのだろう。録音した雨音を本物の雨の音だと誤認させるような仕方で、雨が降っているという信念を誰かに抱かせる場合には、雨が降っているという信念を相手に抱かせようという意図を持っているということ自体は、相手に気づかせまいとしている。それでは何かを意味していることにはならないのだ。
 このような道筋で思考を進めるならば、ある行為をすることによって何かを意味するということを、何らかの意図、あるいは意図に関する意図、さらなる意図に関する意図……を持ってその行為をすることと同一視できそうに思える。これは意図基盤意味論という、このトピックにおいてもっとも影響力のある立場へと続く道だ。
 何かを意味するということを意図という概念から捉えようという立場は直観的にわかりやすく、いかにも正しそうに思える。だが、本当にそうなのだろうか? 本書ではそうした立場が間違っているということを主張する。意味と意図は、直観的にそう思われがちなほどには、密接に関わってはいないのである。
 本書では、何かを意味するということを意図という概念によって捉える意図基盤意味論の立場を批判し、それに代わるよりよい立場を提案することを目指している。それは、何かを意味するということに含まれる公共的な側面に焦点を当てた立場であり、「共同性基盤意味論」と呼ばれることになる。
 
 本書は大きく三部に分かれている。第Ⅰ部「意図基盤意味論」では、意図基盤意味論という立場の概要を示す。第Ⅱ部「意味と意図を切り離す」では、意図基盤意味論が問題をはらんでいるということを論証する。そして第Ⅲ部「公共性を基礎に据える」で、それに代わる新たな立場として、共同性基盤意味論を提唱する。以下、各章の概要を手短に紹介するので、本書を読むうえでのガイドにしてほしい。
 本書には第Ⅰ部の前に序章が用意されている。序章では、本書全体の議論の出発点として、本書のテーマとなる話し手の意味とはどのようなものなのか、そしてそれにはどういった説明すべき特徴があるのかということを論じている。話し手の意味とは、何かをすることで何かを意味するという行為を指すが、序章において私は、この行為には心理性と公共性という一見すると相反する特徴がともに示されているということを論じる。すなわち、一方で話し手の意味は話し手の心理、とりわけ話し手の信念と他の行為には見られない仕方で結びついており、他方で話し手が何かを意味するときには、話し手はその何かに対するコミットメントをおおっぴらに引き受けなければならない。だが心理と深く結びつくということと公共的であるということとは、一見すると相反する方向を指し示しているように思える。それにもかかわらず、そのようなふたつの特徴がいかにして両立しているのか? これが本書で掲げる問題だ。
 第Ⅰ部「意図基盤意味論」には、第一章「意図基盤意味論という枠組み」と続く第二章「意図基盤意味論と意図の無限後退」というふたつの章が含まれる。
 話し手の意味の分析というテーマは、ポール・グライスによって打ち立てられた。第一章では、グライスのもともとの議論に立ち返りながら、そもそも話し手の意味を分析するとはいかなる営みなのか、意図基盤意味論とはそうした分析におけるいかなる立場なのか、そしてその立場にはどういった利点があるのかということを論じている。意図基盤意味論が話し手の意味の心理性を容易に説明するように見える立場だという点も、この章で指摘するその利点のひとつである。
 意図基盤意味論の歴史には、意図の無限後退と呼ばれる問題が絶えず付きまとっている。第二章では、それがどのような問題であるのかをまず紹介したうえで、この問題を解決しようという試行錯誤とともに発展していく意図基盤意味論の歴史をたどる。しかしこの章ではまた、結局のところ意図基盤意味論に属すさまざまな立場はいずれも意図の無限後退問題の解決には至っていないということも論じる。この問題は、意図基盤意味論にとっての躓きの石なのだ。
 意図の無限後退問題は、話し手の意味の公共性と関わっている。それゆえ意図基盤意味論の失敗が示すのは、意図基盤意味論からは話し手の意味の心理性を説明することはできても、公共性を説明することはこれまでできていないということである。
 第Ⅱ部「意味と意図を切り離す」には、第三章「意図の無限後退はなぜ起きるのか?」と第四章「意味と意図の関係」が含まれており、意図基盤意味論がなぜ失敗に終わり、そしていかに失敗に終わらざるを得ないのかを論じている。
 第三章では、意図基盤意味論の論者たちが採用する前提を洗い出し、そうした前提をすべて採用したならば不可避的に意図の無限後退問題かそれに類する問題が生じるということを論証している。それによってわかるのは、意図基盤意味論に立脚した立場の細部をどのように修正しようとも、意図基盤意味論をそもそも採用しているという時点で、すでに意図の無限後退問題から逃れることはできなくなっているということである。要するに、意図基盤意味論では話し手の意味の公共性を説明できないのだ。私たちは、意図基盤意味論とは異なる道を歩まなければならない。
 それでも、話し手の意味と話し手の意図との密接な関係はあまりに明白で、意図基盤意味論以外の立場は考えがたく思われるかもしれない。しかし本当にそうなのだろうか? 第四章では、まず話し手の意味と意図に関する直観を整理したうえで、実は意図基盤意味論は直観によっても支持されてはいないということを示し、さらにいくつかの具体例を用いて、話し手の意味と話し手の意図は、素朴に想定されるほどには密に結びついてはいないということを論じる。その結果として私たちが見出すのは、話し手の意味に対する話し手の意図の関わり方を最小のものと見積もる「最小意図説」である。
 第Ⅲ部「公共性を基礎に据える」では、意図基盤意味論に代わる立場として、共同性基盤意味論を提示している。第Ⅲ部には第五章「共同性基盤意味論」と、続く第六章「話し手の意味の心理性を説明する」が含まれる。
 第五章では、共同性基盤意味論という枠組みを構築している。手がかりとなるのは、テイラーによる意図基盤意味論批判だ。テイラーの批判とギルバートによる集合的信念の分析とを結びつけることで、話し手の意味が話し手と聞き手の集合的信念の形成に関わっているという発想を得ることができる。集合的信念を共同的コミットメントという概念から捉えるギルバートの立場を採用したならば、話し手の意味を共同的コミットメントという規範的な概念から捉える、意図基盤意味論とは異なる新しい立場が見出されることになる。それが共同性基盤意味論だ。
 意図基盤意味論が話し手の意味の心理性を容易に説明しながらも話し手の意味の公共性を説明できないのと対照的に、共同性基盤意味論では話し手の意味の公共性の説明は容易でも、話の意味の心理性の説明は難しいように思われるかもしれない。第六章では、話し手の意味の心理性を改めて詳しく検討することで、それが一見したところとは異なる相貌を持っているということを示し、そしてそのように正体を見極めたならば、実は共同性基盤意味論こそが話し手の意味の心理性をよりよく説明するということを論じる。鍵となるのは、話し手の意味と話し手の心理との結びつきが、そもそも規範的なものであるという見方である。
 本書の流れはおおむね以上のようなものだ。全体として本書では、話し手の意味というテーマをめぐって、意図基盤意味論という代表的なアプローチの棄却と、共同性基盤意味論というオリジナルなアプローチの提案とをおこなうことになる。結論では、共同性基盤意味論のもとで描かれる、意図基盤意味論とは異なる新たなコミュニケーション観についても解説している。それは、個々人の心理よりもむしろ、ひととひととの結びつきを重視するコミュニケーション観だ。そうした見方のシフトに同意してもらえるにせよそうでないにせよ、しばし私とのコミュニケーションに付き合っていただけると幸いである。
 
 
序章 話し手の意味の心理性と公共性
 
1 私たちはコミュニケーションをする
 電車の窓越しに見た桜の花が、うっすらとした青い空を背に鮮やかで、ふと鞄からスマートフォンを取り出して、「桜がすっかりきれいに咲いているよ」と恋人へメッセージを送る。少しして恋人から、「こちらもいま桜を眺めていたところだよ。お花見でもしたい日和だね」と返事が来る。私たちは互いに何かを伝えあい、コミュニケーションをする。
 人間の社会でもっともありふれたものを挙げるとするならば、ひとつの有力な候補はコミュニケーションではないだろうか。通り道で見かけた素敵なものについて恋人に報告をするとき、カフェでコーヒーを注文するとき、子供に何かを教えるとき、私たちはコミュニケーションをしている。コミュニケーションがない世の中というのは、もはや考えることも難しい。私たちの多くは食料や日用品などを自分で作ってもおらず、そうしたものを手に入れるにも何かしらのコミュニケーションを介するしかない。もちろんたまには誰ともコミュニケーションを取らない日もあるだろうが、しかしこの社会でずっと誰ともコミュニケーションを取ることなく何か月、何年と暮らしていくことは困難だ。コミュニケーションは私たちにとって当たり前の日常をなしており、私たちがこの社会で生きていくうえでなくてはならないものとなっている。私たち人間の生活にこれだけ深く根差している以上、コミュニケーションは哲学という営みにとってもとりわけ重要なトピックのひとつとなるだろう。
 コミュニケーションというもの、とりわけ人間特有の形でのコミュニケーションを、話し手が何かを意味し、聞き手がそれを理解することで成立する営みと捉えることにしよう。「意味する」というのは日本語としては馴染みがないかもしれないが、英語の動詞「mean」に対応するものと考えることにする。また本書では、何かを意味したり意味されたことを理解したりすることを行為の一種として捉えることにする。つまり、コミュニケーションは意味するという行為と理解するという行為から構成される営みと見られることになる。これが広く「コミュニケーション」と呼ばれるもの全般を包括するような十分な記述だと主張するつもりはないが、しかし人間のコミュニケーションというものを直観的に捉えるための手がかりとしてはひとまず満足のいくものだろう。冒頭の例においては、私は話し手として「桜がすっかりきれいに咲いているよ」と言い、それによって何かを、例えば恋人にも桜をぜひ見てほしいと自分が思っているというようなことを意味し、恋人はそれを理解し、次に話し手と聞き手を入れ替えて同じようなことを繰り返し、私たちはコミュニケーションをしている。仮に「コミュニケーション」という言葉を人間以外の動物にも当てはめられるように広く解するならば、「8」の字に躍るミツバチや道標となるフェロモンを残すアリもまた仲間との「コミュニケーション」を取っていると言えはするだろう。しかし人間以外の動物にも見られるこうした振る舞いは、私が恋人に「桜がすっかりきれいに咲いているよ」と語りかけたときのコミュニケーションとは重要な点で異なっている。ミツバチやアリはおそらく自身のそうした振る舞いを意識的に制御できるわけではなく、それゆえ何かを意味するためにそれらを意図的におこなっているわけではない。また仲間のミツバチたちやアリたちもそれらを理解したうえで次の行動を決めているわけではなく、ただ機械的に反応しているにすぎない。しかし「桜がすっかりきれいに咲いているよ」と語りかける私は、それによって何かを意味するためにそのようなことを言っているのであり、また恋人が単にスマートフォンの画面を通じて与えられる視覚情報に反射的に反応するのではなく、私の意味したことを理解し、そうした理解をもとにしてさらなる発言や振る舞いをすることを私は期待している。私は何かを意味し、うまくいけば恋人はそれを理解し、そうして人間的なコミュニケーションが成り立つのである。
 それにしても、誰かが何かを意味するとは果たしてどういうことなのだろうか? これが本書のテーマである。このテーマに対して、本書では従来の論者たちが辿ったのとは異なる、新しい道を指し示したい。従来の論者たちはどのように考えてきたのか、なぜそれでは何かを意味するという現象を捉えられないのか、そしてどのような考え方をすればこの現象に接近できるのか、本書ではこうしたことを順に語っていく。
 何かを意味するという行為に対し、これまでの論者は話し手の心理、とりわけ話し手の意図という観点からアプローチしてきた。これに対して私が提案する立場では、話し手個人の心理ではなく、むしろ話し手と聞き手が作り上げる共同体というものに目を向ける。すなわち本書で目指すのは、何かを意味するという行為を捉えるうえでの立脚点を、話し手個人の心理から話し手と聞き手による社会的な営みへと転換することである。しかしそうした議論に入る前に、まずは誰かが何かを意味するというありふれた行為が、実は不可思議ですぐには理解しがたい、それゆえ哲学的な思考を誘うものであるということを、具体例を挙げながら語っていこう。
 ひとつの不可思議さは、あるひとが何かを言って何かを意味するとき、そのひとは単に音を発する以上の何かをしているということである。次のような場面を考えてみてほしい。子供が玄関で靴を履いている。どこかに出かけようとしているのだろう。それに気づいた親が「雨が降っているよ」と声をかける。子供はドアノブを摑もうとしていた手を止め、「わかった。ありがとう」などと言いながら、傘立てから傘を取り、改めてドアを開ける。ありふれた日常の一場面である。だがその実、このエピソードはある不可解な出来事を描き出しているのだ。親が発したのは一見すると「アメガフッテイルヨ」という音声でしかない。だがこの音声そのものが持つ音響的側面をどのように分析したところで、この音声と傘を取るという子供の行動とを結びつけるものは見出せないだろう。そこには何か単なる音響的性質以上のものがある。子供はその何かを容易に理解し、そしてそれに対して応答している。ひとが音声を発することで何かを意味し、相手がそれを理解するとき、ただ音を出し、相手がそれを聴覚的に受け取るという以上の交流が生じているのだ。もちろん、声以外の方法による場合も同様だ。手話で何かを言うときなどにも、明らかに手の物理的な運動以上の何かが生じている。だがその何かとは結局のところ何なのだろうか? こうしたことこそが何かを意味するという行為に含まれるもっとも根本的な謎だ。ひとが何かを意味するとき、いったい何が起きているというのだろうか?
 親の発したのはもちろんただの音ではない、それは日本語の表現なのだ、だから単なる音響的性質以上の何かが生じているのであり、それ以上の不思議などない、そう考えるひともいるかもしれない。だが、言語の意味というものがそもそも謎に満ちているということを脇に置いたとしても、こうした考え方では、何かを意味するという行為の実態は捉えきれない。確かに先の例において親が子供に発した音は、単なる音ではなく、日本語の文の発話となっている。だが、親が何かを意味したことになるのは、親の発したのが日本語の表現であるからでは(少なくともそれだけでは)ないのである。
 そのことはふたつの方向から示すことができる。第一に、親の発した「雨が降っているよ」という日本語表現は確かに意味のある文であるが、しかしこの文が持つ意味によってだけではこれを受けて子供が理解した事柄を捉えきることはできない。実際、この日本語文そのものは発話の時点において雨が降っているということを表現しているにすぎない。しかし親が出かけようとしている子供に声をかけたとき、ただそれだけのことが伝えられ、子供に受け取られたわけではない。親は子供が傘を忘れないように気を配ったのであり、また親の発話を受け取った子供はそのことを理解し、傘を手に取ったのである。だが「雨が降っているよ」という日本語文そのものには「傘」などという言葉は出てこず、それゆえこの文自体が傘に関する意味を日本語として担っているわけではない。発話された日本語の文が持つ意味を挙げただけでは、この例で起きている不可解な出来事は説明できないのである。親が意味したのは、用いられた日本語文の意味そのものとは別のことなのだ。
 第二に、実は日本語表現を用いることなく同様の例をつくることができる。出かけようとする子供のそばへと親が歩み寄り、無言で手を振って子供の注意を惹きつけ、そのうえで窓の外を指差したとしよう。その指の先には、雨が降りしきる光景が広がっている。この場合でも子供はやはり「わかった。ありがとう」などと言いながら傘を手に取るだろう。親はもはや日本語文を発話してさえいないが、それでもなお起きている現象に本質的な違いはない。だとすれば、この現象は、用いられた日本語文というものを持ち出すことなく説明され得るようなものであるはずなのだ。
 要するに、親子のコミュニケーションの例では、言葉が持つ意味とは次元を異にする、別の種類の意味というものが関与しているのである。この例において、親は「雨が降っているよ」と言うことによって、子供が傘を持っていくべきであるということを意味した。そして子供はそれを理解して、その助言に従った。ただしここでの「意味した」は、親が用いた日本語がそうした意味を持っているというのとは異なる意味での「意味した」なのである。冒頭で定めた意味合いにおける人間的なコミュニケーションは、こうした独特な意味の概念が関与するものとして捉えられなければならない。しかし「言葉の意味について語るときの「意味」とは異なる意味での「意味」において、親があることを意味して子供がそれを理解したのだ」などと語るだけでは現象を記述しているだけであって、現象の説明とはならない。問題は、ここで起きているのは結局のところどういう現象であり、そしてなぜ親が「雨が降っているよ」と言うことで、そのような現象が引き起こされたのかということである。これはつまり、「雨が降っているよ」と言うことで親が何を成し遂げたのか、つまりは「雨が降っているよ」と言うことで何かを意味するとは正確にはどういうことなのかを問わねばならないということだ。こうして、私たちは本書のテーマに直面することとなる。単に音やインクの染みといったものを生み出すということでは尽くされず、かといって単に有意味な言語表現を用いているということだけでも捉えきれない(しかも言語表現を用いなければならないわけでもない)、この「意味する」とは何なのか?
 子供に「雨が降っているよ」と声をかけることで、子供が傘を持っていくべきであるということを親が意味するとき、親が発した音にも、用いた日本語表現にも、子供や傘に関するメッセージは含まれていないように思える。それにもかかわらず子供はそうした内容を理解する。これはいわば制限つきのテレパシーだ。もちろん一切の言語や身振りを介さずして意志疎通が成し遂げられているわけではないが、少なくとも意味されている内容に明白な対応を持つものは何も介在していないように見える。それにもかかわらず、確かに意志疎通が生じているのである。そしてそうしたことはこの例に限って起きている特殊な事態ではなく、それどころか私たちの日常のありふれたワンシーンでしかない。私たちは誰もがちょっとしたテレパシー能力者なのだ。相手が使った表現にも発した音や作ったインクの染みにもそれ自体としては含まれていないはずの内容を、当たり前のように理解する。また逆に、相手がそうした内容を容易に理解してくれると見込んで、何かを言ったり書いたり何らかの身振りをしたりする。あなたが何かを意味し、私がそれを理解し、私たちがコミュニケーションをするとき、私たちはこのような不可思議で、驚くべきことをいつだって成し遂げているのだ。
 ここで改めて問おう。誰かが何かを意味するとはどういうことだろうか? これが、すぐ手元に単純な答えが見つかる類の簡単な問題ではなく、哲学的な考察を要するだけの難しさを持った問題であるということが、いまなら納得できることだろう。
 この問題に取り組むために、いくつかの用語を導入したい。まず、ひとがその発言や身振りによって何かを意味するという事柄を表す単純な言葉があると便利だ。そうした事態ないし行為を「話し手の意味(speaker meaning)」と呼ぶことにしよう。さらに(一部ここまでですでに使われている言葉もあるが)何かを意味する主体、もしくはそうした主体の候補と目されている存在のことを「話し手(speaker)」や「発話者(utterer)」と呼び、話し手が話し手の意味の場面(あるいはその候補となるもの)においておこなう振る舞いを「発話(utterance)」、発話が向けられている相手を「聞き手(hearer/audience)」と呼ぶことにする。「何かを意味する主体、もしくはそうした主体の候補と目されている存在」、「話し手の意味の場面(あるいはその候補となるもの)」といった迂遠な言い回しをしているのは、話し手の意味が不成立な場合や、話し手の意味が成立しているか否かがまさに問題となっている場合などでも「話し手」や「発話」といった用語を一貫して使うようにしたほうが、話が煩雑にならなくて済むからだ。例えば、話し手の意味が成立してはいないが考察に値する状況について語るときにも、「話し手は聞き手に向かってこうした発話をしているが、しかしこのときに話し手の意味は成立していない」といった語り方ができたほうが便利だろう。そうした語り方を許す形で、それぞれの用語を導入している。またさらに、単純化のために、本書で取り上げる話し手の意味の事例は、「陳述的」とでも言えるものに限ることにする。陳述的とは、言語における平叙文の標準的な使用に対応するものであり、冒頭の「桜がすっかりきれいに咲いているよ」という発話による話し手の意味はその例となる。実際のコミュニケーションの場面では、私たちは陳述的な発話だけでなく、聞き手に命令したり、何かを訊ねたりといったこともしており、話し手の意味の理論は最終的にはそうした事例も扱えるものでなければならないのだが、本書ではとりあえずそれは考察の範囲から外している(むろん、本書で展開する議論が、適当な修正のもとでそうした広汎な事例もカバーできるようになるという可能性を想定してはいるが)。それゆえ本書で与える話し手の意味に関する分析も、もっぱら陳述的な事例にのみ適用されるものとなる。
 ここで導入した用語は私が独自に考案したものではない。話し手の意味を分析しようとする哲学者たちは、多少の異同はあるものの伝統的におおよそこうした用語で議論をしており、そのおおもとは意味という概念をめぐるポール・グライスの一連の論文に遡る(Grice 1957 ; 1968 ; 1969 ; 1982)。本書の用語法はグライスから続く議論の流れを踏襲したものである。ここで一点だけ注意が必要だ。それはグライスが(それゆえ私を含むそれ以降の論者も)「発話(utterance)」や「発話する(uttering)」といった表現を「人為的に拡張した仕方で」用いているということだ(Grice 1969, p. 92)。グライスやそれ以降の論者の用語法においては、「発話」や「発話する」という表現は、一般的にこの表現から想起されるような言語的な振る舞い(日本語で話したり、英語の文を書いたりといった振る舞い)のみならず、さまざまな非言語的振る舞いをも指し得る仕方で使われている。すでに私たちは、子供が傘を持っていくべきだということを意味するのに、親は「雨が降っているよ」と言うこともできるし、そうでなく代わりに外を指差すのでもよいということを確認した。「雨が降っているよ」と言うことは通常の意味でも「発話」と呼ばれるであろうが、指差しはそうではない。しかし話し手の意味に関する限り、これらはどちらも等しく用いられ得るという点で同等であるため、両者をともに「発話」と呼ぶのが便利である。こうした事情から、話し手の意味について議論する文脈では、「発話/発話する」という言葉が言語的振る舞いと非言語的振る舞いをまたぐ形で用いられることになっている(それに合わせて、「話し手」、「聞き手」という用語も拡張した仕方で用いられることになる)。
 さて、本書の取り上げる問題は、話し手が何かを発話することで何かを意味するとはどういうことかというものである。本書ではこれを、話し手の意味がどのような条件で成立するのかという問題として読み替え、こうした読み替えに基づいて解答を探ることにする。現在のところ、この問題に対する標準的なアプローチは「意図基盤意味論(intention-based semantics)」と呼ばれる立場に基づいたものであり、その創始者であるグライスを皮切りに、この問題に取り組んできた論者たちの多くは意図基盤意味論を基礎的な立脚点として採用している。その中核にあるのは、何かを意味するとはある特有の意図を持って発話をすることにほかならないという考えだ。もちろん「ある特有の意図」とは具体的にどのような意図なのかという点については個々の論者によって意見が異なり、さまざまな意図基盤意味論者たちが互いに議論を戦わせながらよりよい答えを求め続けている。とはいえそうした差異はあるものの、それらの論者によって共有される、意図基盤意味論の中核にある発想そのものは、いまや話し手の意味という現象を捉えるためのパラダイムとなっており、哲学だけでなく、言語学や心理学といった関連する諸分野でもほとんど自明視されていると言ってよい。
 だが私の考えでは、意図基盤意味論というアプローチは話し手の意味という現象を捉えるのに不適格である。なぜ意図基盤意味論では話し手の意味を捉え切れないのか、それはこれから本書の多くの部分を費やして論じていくテーマであるが、簡潔に述べるならば、話し手の意味が持つ、心理的であり公共的であるという一見すると矛盾しているようにも思われる不思議な特徴に、十分に向き合えていないからだ。それゆえ本書では、心理的であり公共的である話し手の意味というものについて、そのどちらの側面も捉えるための新しいアプローチを提案する。このアプローチは暫定的に「共同性基盤意味論(jointness-based semantics)」と名づけられることになる。
 意図基盤意味論の詳細、なぜそれが誤っているのか、そして私たちにはいかなる発想の転換が求められているのか、それらはこれから本書全体を通して論じていくトピックであるが、ここでその骨子を述べておきたい。すでに述べたように、鍵となるのは話し手の意味が心理的であり、かつ公共的であるということである。(以下つづく)
 
※傍点は省略しました。pdfファイルにてご覧ください。
 
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