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あとがきたちよみ
『 社会システム(上・下)』

 
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ニクラス・ルーマン 著
馬場靖雄 訳
『社会システム 或る普遍的理論の要綱(上・下)』

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訳者あとがき
 
 これは「社会システム理論」ではない。本書そのものが、社会システム(の一部)なのである。
 以上で、訳者がこの「あとがき」で述べるべきことは尽くされているとも言える。しかしやはりもう少し言葉を継いでおこう。
 
Ⅰ:三重の環
 改めて述べるならば本書は、Niklas Luhmann, Soziale Systeme : Grundrißeiner allgemeinen Theorie, Suhrkamp, 1984 の全訳である。底本にはSuhrkamp Taschenbuch Wissenschaft (stw) 666, 16. Aufllage, 2015 を用い、英訳(Social Systems, translated by John Bednarz, Jr./ Dirk Baecker, Stanford U . P.,1995)および先行邦訳(佐藤勉監訳『社会システム理論』(上・下)、恒星社厚生閣、1993/95 年)を随時参照した。
 本書は、ルーマンの「代表作」であるかどうかはともかくとして、彼の遺した膨大な著作群の中でも、特別の位置を占めているのは確かである。
 内容的には本書は、ルーマンの理論が「オートポイエーシス」概念を摂取することによって「後期」の姿へと変貌した、そのターニングポイントに当たっている。本書によって、以後次々と刊行されていく『社会の……(…der Gesellschft)』(『社会の経済』『社会の法』『社会の芸術』『社会の科学』『社会の社会』など)で縦横に駆使されることになる諸概念装置が、一通り提起されたことになる。もっとも、「後期」理論で頻出する「メディア/形式」「セカンド・オーダーの観察」「固有値」「オートロジー」などのタームは、まだ(あまり)用いられていないのだが。
 その意味で本書は、ルーマン理論のいわゆる「オートポイエティック・ターン」の、折り返し点ないし蝶番であるとも言える。ただしこの「ターン」によって「前期」ルーマン理論と「後期」のそれとの間にどの程度の変化ないし断絶が生じているかについては、評価が分かれるところだろう。訳者自身は本書を訳してみて、「前期」でのやや舌足らずな論述の意味は本書と照合することによって初めて理解可能になるし、逆に本書の抽象的で晦渋に見える議論の要点が、「前期」において率直に述べられている場合も多いことを思い知らされた。本書と、「後期」の『社会の……』シリーズを初めとする著作群との関係も同様である。従来のルーマンの訳書は難解だと評されることが多かったが、その一因は、訳者(もちろん、本書訳者も含めて)も読者も、この前期/本書/後期の照合作業を、あるいは三者を相互的な参照の環(循環、自己言及的閉鎖性)の中で読み解く作業を、十分には行ってこなかったことに求められるのではないか。
 この循環はさらに、二重の様相を加えつつ生じてくる。第一に、本書の各章各節、およびそこで提起された諸概念は、本来は互いに前提としあい、参照しあっているがゆえに、網目状の関係の中で一挙に呈示されるべきものである。しかしコミュニケーションは実際には順次的にしか生じえない。本書を書く/翻訳する/読むという作業もまたコミュニケーションの一環であり、したがって事は同様である。つまり本書の章立て、節構成、論述の組み立ては、本来円環と網目で結びつけられている諸項目を、ただ一つの順序へと単純化した(ルーマンの読者なら慣れ親しんでいるであろう表現を用いれば、「複雑性の縮減」を施した)結果として(とりあえず)選ばれたものにすぎない。本書「序言」で読者に、本書とは違った順序で各章を並べ直して読んでみるように求めているのは、「難しいから心して読むように」という単なるブラフではないのである。
 ルーマンの前期/本書/後期の循環と、本書内部での論述諸部分間の円環。さらに加えて(第三の円環として)、本書を含むルーマンの社会システム理論と、その理論によって分析される諸社会システム(Soziale Systeme)、特に全体社会(Gesellschaft)の関係が登場してくる。ルーマンの社会システム理論は普遍的な理論であり、あらゆる社会現象をその対象とする。ルーマン理論が提起され、受容されあるいは批判ないし拒絶されることもコミュニケーションの一種であり、社会的現象として(すなわち、自我/他者それぞれが異なる選択地平を有しているということを前提にしつつ─さもなければどうして批判や拒絶がなされうるというのか─)生じる。それゆえにこの理論自身が、当の理論そのものの対象として表れてくるのである。
 この「理論が理論自身の対象(の一つ)として登場する」という事態は、これまでもルーマン理論の特徴としてしばしば指摘されてきた。しかしその意味するところが十分に明らかにされてきたとは言えないようだ。通常この指摘は、われわれは社会を外から眺めるのではなく、社会の中で、社会の影響を被りつつ、社会を探査するのと並行して理論を構築していかねばならないという、いわゆる「ノイラートの船」的な意味で理解されているようだ(私見では、この種の解釈が述べているのは、「中範囲の理論」や「グラウンデッド・セオリー」とさほど異なる事柄ではない)。ルーマンが主張しているのはそれ以上のことである。すなわち、理論をめぐるあらゆる問題も、例えば「システム概念は〈単に分析的〉なものか否か」という「根源的な」問題も、科学という一つの社会システムの挙動として、経験的観察を通して解かれねばならないということなのである。ルーマンが「導入」や終章でクワインらを引いて強調する「自然化された認識論」は、「社会学化された認識論」として具体化される。「理論は対象とどう関係するか」という認識論的な問題は、哲学的(現象学的?)ないし論理的にではなく、科学システム独特の「システム/環境」関係の現れとして、経験的・歴史的に分析される。それは例えば、法システムにおいて生じる、法の概念体系とそれによって調整される社会的諸利害の関係と、同じ「機能分化したシステム」の挙動として、並行的に生じるのである。また普遍的理論の要請にしても、「理論たるものは普遍的でなければならない」という「べき」論としてではなく(そもそも、そのような「べき」論は普遍的に通用するのだろうか?)、機能分化し自律化を遂げた科学システムにおいては、フッサールが断罪したような視角の限定の代償として学科普遍的な理論が要請されるに至っている(「限定性─ 普遍性」という、近代社会を特徴づけるパターン変数の組み合わせを背景とした)、社会文化的進化の帰結としての近代科学の現状を観察することから導き出されたものなのである。そしてその観察は、本書で提起された自己言及的なシステムの理論を踏まえることによって可能になる。「ノイラートの船」では、われわれは航海しながら、社会を経験的に探究しながら、それと並行して、航海の経験を踏まえつつ、探究のための概念装置を構築し改善していかねばならないと説かれる。ルーマンの場合、航海することがすなわち船を構築することであり、構築することが航海そのもの(航海のための準備作業、ではなく)である。要するに、航海と構築は一体なのである。この事態が、本書以降のルーマンの著作では「オートロジAutologie, autology」と呼ばれることになる(ルーマン『社会の芸術』、馬場靖雄訳、法政大学出版局、2004 年、662 頁訳注[55]参照)。
 さらに述べておくならば、「ルーマン理論内部での諸概念の循環/前期・本書・後期の循環/ルーマンの社会システム理論と社会との循環」という三つの環の関係もやはり円環的に、あるいはどれが「基礎」でどれが「応用」なのかが不分明な「もつれたハイアラーキー」として把握されねばならない。したがって本節のタイトルに反して、それらは「三重」ではない。三者は、ラカンが援用したことでも有名になったあの「ボロメオの環」を成しているのである。
 
Ⅱ:「システムが在る」は不当前提か?
 以上のように本書を、社会システムについての理論としてではなく、諸機能システムの一つとしての科学システムにおいて生じている、「理論」と呼ばれる独特の種類のコミュニケーションの例示として捉えてみよう。そうすれば、近年本書をめぐって本邦で展開された批判的議論の一つ、すなわちルーマンは本書第1 章の冒頭に見られるように、「システムが在る」から出発することによって、システムの存在を不当前提している云々という指摘への応答も可能になる。
 その種の批判の趣旨はこうである。ルーマンはシステムが常に「そこに」(目の前に、対象として)在ると(不当にも)断言している。しかし相互行為や全体社会は「システム」と見なされうるための要件を満たしていない。それらにおいては単にコミュニケーションが生じているだけであって、システムと呼ばれうるような統一体(まとまり)が形成されているわけではない。したがってわれわれは、「システムが在る」(そこに在るのはシステムである)と言いうるための条件を、より精密に規定しなければならない。厳密に言えばその条件を満たすのは組織だけである云々。
 しかし本書で述べられているのは、システムは「ここに」在るということ、つまり本書自体が社会システムの一部として、実際に生じているコミュニケーションであるということに他ならない。したがって「システムは無い」(分析的に設定されたものにすぎない)と述べるならば、それはいわゆる「遂行的矛盾」を犯していることになる。「私は単に投射された影にすぎない」と述べているのは影である、というわけだ。
 また訳者のように本書を読むならば、本書冒頭で提起された「認識論的な問い」が最終章まで延期され、そこで再度取り上げられるが、何ら解答らしきものが与えられていない理由も明らかになる。前節でも述べたように、認識論的な問い、つまりシステム理論は対象といかなる関係を取り結ぶかという問題は、科学システムという分出したコミュニケーション・システム(社会システム)におけるシステム/環境関係(の一ヴァージョン)として、他の機能システムにおけるそれとの比較の中で、つまりは「全体社会の理論Theorie der Gesellschaft」において(要するに、『社会の……』シリーズの中で)取り扱われねばならない。本書の随所で強調されているように、本書の主題はあくまで社会システムの一般的理論であって、全体社会の理論ではないのである。
 
Ⅲ:Wir wünschen Ihnen einen guten Flug!( Have a nice fligt!)
 すでに本書を読み通された読者ならご存じのように、本書の結びは、ミネルヴァの梟に夜間飛行に飛び立てと励ます言葉となっている。この「夜間飛行」とは、全体社会の記述と分析、すなわち『社会の……』シリーズの刊行のことに他ならない。ノイラートの船ならぬルーマンの飛行機では、夜間飛行の前に、あるいは飛行しながら機体の整備をするには及ばない。そんなことは不要だし、不可能でもある。「おまえはすでに飛んでいる」のだから。
 言うまでもなく本書の意義は、以上述べてきたような「理論」というものの位置替え(déplacement)に尽きるものではない。本書は内容的にはほとんど現代社会学の百科事典と呼べるものであり、読み通すならば(必ずしも最初から終わりに向かって、である必要はないが)、現代社会学において常に用いられている多様な概念の用法があるいは読み替えられ、修正され、批判されているのに出会うだろう。意味、理解、コミュニケーション、行為、役割、価値、情報、構造、構造変化、相互行為、「社会と人間」、コンフリクト、歴史と進化等々。読者がルーマンによるそれらの議論を追尾し、受け入れるないし拒絶することもまた、コミュニケーションであり、科学という、あるいはその外に広がる全体社会という社会システムを現に動かしている現実的な作動なのである。読者が本書の抽象的な議論に辟易し、「こんなもの何の役にもたたない」と腹を立てて本を閉じる(投げ捨てる、売り払う、破く、焼く等)こともあるかもしれない。おそらくそれこそが蓋然性の高い結果なのだろう。しかしそれらもまた社会システムの中でのコミュニケーションの一環、ないしはその結果なのであって、何らかの変化をもたらしたという点では、紛れもない事実である。少なくとも「無」ではない。読者がどんな反応を示そうとも、それもまた夜間飛行の一局面なのである。訳者にできるのは、その飛行ができるだけ実り多いものであるよう祈ることだけである─ただし何が実り多いのかもまた予め決められているわけではなく、本書を踏まえた経験的観察によって明らかにされるしかないのだが(この点ではルーマンの議論は、徹頭徹尾「索出的」である)。
 ともあれ、よい空の旅を!
 
 翻訳作業の過程で、多くの方々のお世話になった。何よりもまず、本書の訳出企画をご提案いただいた、勁草書房編集部の渡邊光氏にお礼を申し上げたい。また以下の方々からは、訳文作成と校正作業の過程で多大な御教示をいただいた。心より感謝申し上げる。酒井泰斗(「ルーマン・フォーラム」主宰)、玄潤慶(ソウル大学社会学博士)、梅田拓也(東京大学大学院)、橋本鉄平、樋口あゆみ(東京大学大学院)、梅村麦生(日本学術振興会)。加えて、長岡克行先生(東京経済大学名誉教授)からも、本訳書作成のための準備草稿に関して、多大な御教示をいただいた。本書が先生の御学恩に少しでも応えられるものになっていればよいのだが。
 さらに、訳者の相変わらずの体調不良と日々の仕事にもかかわらず、何とか「あとがき」までたどり着けたのは、大東文化大学社会学部の教職員の皆様のサポートあってのことである。ありがとうございました。
 最後に、本書に出会った時から(訳者の手元には、ルーマンのサイン入りの本書初版が残っている─ほとんどバラバラになってはいるが)、いつかはと希望し続けてきた本書の訳出を何とか成し遂げた自分を褒めてやりたい─が、それは止めておこう。体力・知力の衰えを実感する昨今とはいえ、時に向かって「留まれ、お前はいかにも美しい」と口にするには、まだ少し早すぎると思うからだ。
(傍点と図は省略しました。pdfファイルでご覧ください)
 
 
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