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『分析哲学 これからとこれまで』[けいそうブックス]

 
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飯田 隆 著
『分析哲学 これからとこれまで』[けいそうブックス]

「まえがき」「「序論 哲学の未来のために」より~ 3 哲学の変わり行く媒体」(pdfファイルへのリンク)〉
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まえがき
 
 ここに集めたのは、主にこの二十年ほどのあいだに書いた、紹介や解説といった性格をもつ文章である。本文でも何度か繰り返しているように、私は自分がしているのはただの哲学だと思っているが、日本でそれは、ただの哲学ではなく、「分析哲学」と呼ばれる特殊な種類の哲学だと一般に思われているようである。紹介や解説が必要なのも、たぶん、そのせいだろう。求められるたびに引き受けていたら、いつのまにかこんなに溜まってしまった。
 紹介あるいは解説であるから、哲学として新しい話はほとんどない。それだけだと退屈するひともいるかもしれないから、必ずしも紹介と解説に徹しているのではない文章も入れておいた。私としては、第8章と第15章とがそのつもりの章である。
 本書は、序論と四つのパートから成る。最初のパート「分析哲学とは何か?」については説明は要らないだろう。第1章以外の三つの章は、同じ雑誌(『現代思想』)から、分析哲学について書いてほしいという依頼に応じて、異なる年に書いたものである。重なっている部分もあるが、それぞれ違った角度からのものになっていると思いたい。
 第二のパート「フレーゲとウィトゲンシュタイン」に集めた文章はどれも、哲学史風にフレーゲとウィトゲンシュタインを解説するものではなく、むしろ、この二人の哲学者が現在の哲学シーンのなかで、どんな役割を果たしているかを紹介するものである。ごく簡単に言えば、フレーゲが現在の哲学の専門化の源泉であるのに対して、ウィトゲンシュタインは、その徹底した批判者として現れる。ウィトゲンシュタインの言い分にももっともな点はあると考えるが、私は、基本的にはフレーゲの側に立つ。
 第三のパート「真理・様相・意味」には、言語哲学あるいは哲学的論理学で扱われる概念にかかわる文章を集めた。現在の哲学のなかでの言語哲学の位置は、かつてほど中心的なものではない。それでも、そこで扱う概念が哲学全般にとって基本的なものであるという認識に変わりはない。第16章は、拙著『規則と意味のパラドックス』(二〇一六年、ちくま学芸文庫)の書評に対する返答の形を取っているが、拙著の解説であるだけでなく、もとの本自体もクリプキの議論の解説であるので、本書に収めることにした。
 最後のパート「日本における分析哲学」は、第一のパートと同様、この表題がすべてを語っている。ここに収めた文章が、哲学史的研究とも言えない、きわめて貧弱なものでしかないことは承知している。それにもかかわらず、わざわざこのパートを設けて、これらの文章を再録したのは、この百五十年の日本の哲学についての研究が、もっぱら京都学派中心で、分析哲学と限らず、第二次大戦後の七十五年間については、まだほとんど手が付けられていないのは異様だと日頃感じているためである。
 序論は、そう銘打ってはいるが、最初に読む必要はない。それを言えば、本書の各章についても、どんな順番で読んでもらってもかまわない。もともと独立に読めるように書いたものを集めたのだから、当たり前である。したがって、互いに重複するところはあるが、あえてそのままにしている。
 では、なぜこうしてまとめる必要があるのかと聞かれるだろう。ひとつは、こうしてまとめてみると、互いに共通する主題やモチーフのあることが見えてくることである。パートに分けたのは、そのことを見やすくするためであるが、異なるパートに属する文章のあいだにもさまざまな関連がある。それを探るには、巻末の索引をぜひ活用していただきたい。もうひとつは、こうした本をまとめるとき強くはたらく動機である。すなわち、異なる時に、互いにかけ離れた場所に発表されて、いまとなっては見つけるのがむずかしくなっている文章に、もう一度読まれる機会を与えたいということである。
 
 
 
「序論 哲学の未来のために」より
3 哲学の変わり行く媒体

 
 論理実証主義はもともと国際化の志向をもっていたが、それは、ここに集まったのが主に、科学者であったり、科学教育を受けた哲学者であり、科学は自然に国際化を目指すものだったからということもある。これはドイツ語圏で始まった運動であるが、一九世紀における科学における国際化と同様、その国際化は必ずしも言語上の標準化を目指すものではなかった。しかし、論理実証主義者の多くがナチスの台頭とともに英語圏への移住を余儀なくされ、英語で著作するようになり、アメリカの多くの大学の哲学科で主要なポストを占めたことと、ムーアとウィトゲンシュタインに大きく影響された哲学者がイギリスの哲学の主流を形作ったことという二つの事情から、分析哲学はもっぱら英語圏の哲学となった。
 分析哲学の仕事の多くが英語で表現されるようになっただけではない。両者の関係はもっと緊密なものにまでなっている。その証拠に、分析哲学が大きな影響を及ぼすようになった非英語圏のヨーロッパの国々、とくにドイツと北欧諸国では、分析哲学者とみなされる哲学者は、母語ではなく英語を用いて自身の成果を発表することが増えている。これは、次に述べる英語の支配と無関係ではないが、そうした傾向が顕著となる前からあった傾向である。
 最近の分析哲学における専門化と、それとリンクしている、関連する個別科学との連携の傾向は、英語化という形での国際化をさらにいっそう強めている。学会での発表であろうが、論文という形であろうが、意味ある仕方で研究成果を発表するには、現在事実上国際的な共通語になっている英語を用いることがほとんど不可欠にまでなっている。つまり、英語は、分析哲学における標準的な言語媒体となってから久しい。
 「哲学の媒体」と言うとき、そこには二種類のものが考えられる。ひとつは、哲学的思考を表現するための媒体であり、もうひとつは、いったんある形を取った哲学的思考を他人に伝達するための媒体である。言語以外の手段で哲学的思考を表現することも、また、その産物を伝達することも考えられないわけではないが、言語の助けをまったく借りないでそうすることはむずかしい。そして、そのために現在国際標準となっている言語は英語である。
 哲学の媒体に関して現在進行しているもうひとつの種類の変化は、第二の意味での媒体、つまり、言語で表現された哲学的思考の成果を、どのような手段を用いて伝えるかに関する変化である。このことを象徴的に表しているのは、「SEP」と略されることの多い、インターネット上の哲学百科事典Stanford Encyclopeida of Philosophy が、現在哲学のなかで果たしている役割である。あるテーマで研究を始めようとしている哲学の院生がまっさきに向かうのは、この事典だろう。関連する項目がここに見つからないということはない。院生でなくとも、ある主題なり分野について、現在の研究状況を知るためには、ここに当たるのが普通である。この事典は、哲学的問題に関心をもっている一般の人が使うこともできるが、基本的には、専門家向けのものである。それぞれの項目を書いているのは、哲学の大御所といった人は珍しく、たいていの項目の書き手は、その主題なり分野に関して第一線で仕事をしている若手の哲学者であり、分量も、短めの雑誌論文程度ある。インターネット上の事典であることの強みで、各項目は、定期的に改訂される。とくに重要なのは、それぞれの項目の最後にある文献表である。これが改訂のたびに増補されることは、言うまでもない。自分の研究に関連する項目に挙がっている文献のすべてに目を通すことを目標にしている研究者も結構いるに違いない。
 SEPの項目の文献表に挙がっている論文の多くは、インターネット上に見つけることができる。そのほとんどが、英語圏の哲学の専門雑誌に掲載されたものであり、そうした雑誌はほぼ例外なく電子化されているからである。ただし、論文そのものへのアクセスには、雑誌を購読している必要があり、その購読料は個人で支払えるような額ではないから、大学のようにそれを購読している研究機関に所属している必要がある。しかも、スプリンガーやワイリー=ブラックウェルのような多国籍企業の出版社から出ている雑誌の場合には、とんでもない値段であるために、購読できるだけの予算をもっているのは、ごく限られた大学でしかない。これは、研究者のあいだでその研究環境が大きく異なるという状況を作り出している。
 ただ幸いなことに、現役の研究者の書いたものに関しては、それが掲載された雑誌に当たらなくとも、いくつかの手段で、その内容を知ることができる。研究者個人のウェッブサイトで論文が公開されている場合は、それをダウンロードすることができる。あるいは、ACADEMIA やResearchGate といったインターネット上の研究者向けのサービスを利用するという手がある。こうしたサービスを用いることによって、同じ分野の研究者どうしで論文を共有することができる。
 この二つは、商業ベースのものであるが、日本国内のものでは、科学技術振興機構が運営している非営利の researchmap がある。これにも、自分の論文をアップロードして、読みたいひとがダウンロードできるようにする仕組みが備わっている。
 いま挙げた三つのサービスは、自然科学系も含めた大がかりなものであるが、哲学に限ったものとしては、哲学文献のデータベース PhilPapers がある。これには、オープン・アクセスが可能な論文を検索できる機能がある。このように自由に利用できる論文のなかには、オープン・アクセスを謳ったオンライン・ジャーナルに掲載されたものもある。こうしたジャーナルに投稿することは、学術雑誌の一部が多国籍企業に支配されている現状に反対する意味もある。また、日本の哲学系の学会の機関誌の多くは、そのバックナンバーを含めて電子化されており、誰でも自由にアクセス可能になっている。
 雑誌論文という形式は、哲学の歴史を通じて、分析的伝統の哲学において初めて重要な役割を果たすことになった形式である。そのことは、ラッセルの「表示について」(一九〇五年)、クワインの「経験主義のふたつのドグマ」(一九五一年)、ゲティアの「正当化された真である信念は知識であるか」(一九六三年)などを思い出せば明らかである。かつて、こうした論文を読むには、それが最初に掲載された雑誌か、それが再録された論文集やアンソロジー、あるいは、それらの(紙の)コピーを手に入れる必要があった。現在こうした論文を読むのに、そうする必要はなく、インターネットにアクセスできる環境さえあれば十分である。
 読むには紙に印刷しなければという研究者は、まだ多いかもしれないが、いまや論文の流通に紙を介する必要はない。多くの学術雑誌はまだ冊子体でも出ているが、それが廃止されてオンライン・ジャーナルになるのは、時間の問題のように思われる。
 ここで当然出てくる問いは、「では、本はどうなるのか」というものだろう。紙の形で残るかどうかは別として、哲学においては「本」という観念は残るのではないだろうか。そう考える理由は、論文とは別に本という形式が必要だと思われるからである。例外もないわけではないが、ひとつの問題に絞って論じるのが論文である。それに対して、ある全体的な展望のもとに、複数の問題や論点にわたって、ある結論に向かって議論を展開するのが、哲学の本の理想である。この「序論」の第1節の最後に、「作品」と呼ぶにふさわしい書物として挙げた内外の本はすべて、そうした理想をかなりの程度実現している。
 本に関しても英語圏では、「デジタル化」が進んでいる。たとえば、オックスフォード大学出版局の哲学関係の本のカタログを見てみるとよい。ほとんどの本は、電子書籍の形でも購入できるようになっている。ハーバード大学出版局のようなアメリカの大学出版局でも同様である。電子書籍を読むためのリーダーは、キンドルにしてもアドビ・デジタルエディションにしても、まだまだいろんな点で不便であるし、そうかと言って、本一冊分を印刷する手間をかける気にもならないから、紙の本はしばらくは残るだろう。しかし、電子書籍リーダーがずっと使いやすいものになるまで、それほどの時間はかからないだろう。論文の場合と同様、本も、紙離れするに違いない。
 論文も本も、紙ではなく電子化されたものとしてインターネットを通じて流通するようになった場合の大きな問題は、ちゃんとした論文や本を、いわゆるトンデモ説の信奉者や狂信者のものから区別することである。どの学問もこうした課題を抱えているが、哲学の場合は、この課題を果たすことを他よりもずっと困難にしている事情がある。
 分析的伝統のもとで哲学の専門化が進んでいるとしても、その専門の内部でも、また、専門の外部からでも、ある段階でその専門のなかでは当然とされている前提に対して疑義が出されることが、哲学の場合には許されるという建前がある。しかし、こうした疑義が、単純な誤解や間違った推論に固執することから生じる場合もある。しかも、こうした誤りを犯すひとのなかには、自分の間違いをどうしても認めようとしないといったひとが、残念なことに少なからず、いる。このこと自体は、世のなかには理不尽なことを信じるひともいるという、周知の事実を裏書きするだけのことで、それだけでは、とくに問題とはならない。
 哲学の場合、それですまないのは、第一に、なされている主張が、常識に反していたり、一見不合理だとみえていても、哲学的に大きな価値がある場合があることであり、第二に、当初は理解できないと思われた主張や議論が実りある結果に導く場合があるからである。後者の場合、哲学的価値が隠されている「本物」と、単なる混乱とごまかしでしかない「偽物」とは、ひとによっては、ちょっと見ただけでは区別できない。事態を悪化しているのは、社会一般における「哲学とは特別な人にしかわからないものだ」という偏見の存在である。この偏見は、哲学の書き物に関して、わからないものほどありがたがるという風潮まで生み出している。圧倒的に多くの場合、哲学の書き物がわからないのは、それを書いたひとがきちんと考えていないことの表れにすぎず、本人自身がわかっていないから読むひとにわからないだけのことである。しかし、ごく稀ではあるが、わかりにくさの根底に真剣な思考が隠されている場合もある。ウィトゲンシュタインがそのいい例である。
 こうした場合を排除せず、しかし、混乱や欺瞞に由来するものを排除することが必要である。これを果たすことは、学会および学術書の出版社の仕事である。誰もが自分の書いたものを「論文」や「本」と称してインターネット上にあげることができるのだから、何もわざわざ学術雑誌に投稿したり、出版社に相談する必要はないと考えるならば、それは大きな間違いである。学界で認められている学会が出している雑誌に掲載されたり、名の通った出版社から出版されるということは、その論文なり本なりが学問的にちゃんとしたものであるという認証を受けることである。そのためになされるのは、論文ならば同じ専門の研究者による査読であり、本ならば同様の査読、あるいは、少なくとも編集者によるチェックである。よって、紙の本がなくなっても、出版社が不要になるわけではない。
 論文と本だけが研究の成果を発表する方法ではない。学会や講演会での講演、あるいは講義といった方法もある。こうした講演や講義は、最終的には論文や本という形になって初めて完成したものになると考えられることが多い。また、従来、講演や講義の録音や録画は、広く流通するものではなかった。例外だったのは、クリプキの場合で、かれはもっぱら講演や講義の形で研究成果を世に出すので、そうしたもののなかには、文字に直されないまま録音テープの形でしか出回っていなかったものもあった。インターネットが普及したことと、録音録画の編集が容易になったことはすでに、インターネット上の教育的なプログラムとして哲学の普及に貢献している。だが、それだけではなく、文字以外の手段も用いた新しい形の哲学作品がこれから現れてきてもおかしくない。
 インターネットによる流通がもたらすかもしれない変化のなかには、哲学の「作品」の同一性にかかわるものもある。とくに本という形態については大きな変化をもたらしうる。これまでのやり方ならば、著者が原稿を書き、それを出版社に渡し、出版社は著者とやり取りをしながら、紙に印刷されて綴じられた本を作成して、取次を通じて書店に置いてもらうという手順が必要だった。このやり方だと、すでに出版されたものに著者が改訂を施したいと思っても、最初に印刷された本の残部が少なくなって、出版社がその本を出し続けようと考えるのでない限り不可能である。しかしながら、原稿を作り、それを流通可能な形に成型し、インターネット上で公開するという一連の過程がすべて電子化されるならば、いったん形を取った本を改訂したり、増補したりすることは、ごく簡単になる。哲学の歴史のなかには、モンテーニュの『エセー』やショーペンハウアーの『意志と表象の世界』のように、著者がその生涯をかけて訂正や増補を続けた本がある。紙の本による出版がむしろ例外となるような将来においては、最終的な形態をもたない本が増えてもおかしくないだろう。こうした「本」は、それを書く人と同じく、時間を通じて変化しながらもその同一性を保つ存在となる。
 ところで、大きな観点からみれば、論文にしても本にしても、進行する議論の一コマとして、さらなる議論を進めるためのきっかけにすぎない。そうした議論もまたインターネット上でなされるべきだろうか。インターネット上の議論に関しては、それを誰もが自由に参加できるような形で行うことは概して不毛な結果になるというのが私の印象である。不毛になりやすい原因として、二種類のものが考えられる。第一に、哲学的議論には持続した集中性が必要なのに、いつでもどこからでも誰かが新しく議論に加われるという状況では、集中性を維持するのは困難である。第二に、お互いによく知っている者どうしでないとき、議論とは関係のないことに気を使わなければならない。とくに、狂信者とまで行かなくとも、間違いを容易に認めないような人物が議論に加わってくることがあれば、議論を続けることはマイナスの結果にしかならない。
 こう言うことは、哲学の議論は閉ざされたサークルのなかにとどめるべきだと言うことではない。興味を共有している人たちがインターネットを通じて、お互いをよく知るようになり、議論を一緒にできる相手であることを確認し合えれば、哲学の議論は可能になる。
 哲学の議論がもっとも生産的でありうるのは、お互いに気心が知れた少数の人たちのあいだでである。たしかグライスはどこかで、哲学の議論をする人数は「室内楽をする人数程度まで」と言っている。十人を超えるような人数では、哲学の議論は成り立たないということである。室内楽の比喩は、理想的な哲学の議論が満たすべきもうひとつの条件も示唆している。それは、室内楽を楽しむ人たちが、それぞれの楽器を携えて、ひとつの場所に集まるように、哲学の議論を行おうという人たちは、そのつもりで、ひとつの場所に集まるべきだということである。同じ時に同じ場所にいることが大事だということだが、現在でもスカイプを使った議論というものもあるから、理想の哲学的議論のための条件は、同じ時にお互いに反応できるような場所にいることといった、もっとゆるいものとなってよいだろう。
 哲学的議論を日常的に交わすことのできるグループやサークルの存在が重要であることは、分析哲学の歴史が示すことでもある。二〇世紀初めのラッセルとムーアを中心とするケンブリッジ、一九二〇年代から一九三〇年代にかけてのウィーン、一九四〇年代から一九五〇年代のオックスフォードといった、時と場所がすぐに思い浮かぶ。これに匹敵するような時と場所が、日本のなかにも存在するようになるのを夢想することは無駄なことだろうか。(注番号と注本文は省略しました)
 
 
 
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