昨秋刊行した石田慎一郎さんの『人を知る法、待つことを知る正義』が、第21回日本法社会学会奨励賞と2020年度アジア法学会賞(研究奨励賞)を受賞しました。本書は、ケニアをフィールドにずっと調査、研究をしてきた著者が、そのすべてを注ぎ込んだ著作です。その内容がこうして評価されたことは、このうえなく喜ばしいお知らせでした。今回の受賞にあわせて、石田さんがエッセイを寄稿してくださいました。自著刊行後に出会った先行業績から振り返る自著、どうぞ味わってください。[編集部]
法人類学のパッシオネス
~『人を知る法、待つことを知る正義』刊行後に考えたこと~
いま、いま、いま、いま、それがいまなのです!(Naandî, naandî, naandî, naandî…nî naandî!)
これは、2019年8月にケニア中央高地の農村にて、48年前の実母の遺言をようやく果たすに至った男性による演説の第一声だ。それがいまなのだという思いに駆られる経験は、私自身にもあった。
2019年11月に初めての単著を刊行できたのは、自分が出会い、認識した25年来のいろいろが互いに結んでひとつになって見えた気がして、これを逃すまいと考えたからである。いろいろな幸運もあった。本にするときが来たと合点してとりまとめに着手し、途中くりかえしの試行錯誤はあったが、すべて出し切って書き終えた。
あとで分かったことがある。自著刊行後に読んだ作品のいくつかが、私の関心事に触れていて、すでに確固たる先行業績だった。もっと早く知っていたら、本書全体のページ数はいま少し増えたはずだ。それで本書の結論がにわかに変わるわけではない。だが、そんな重要な先行業績はただ黙視していられない。これは、次に述べる「パッシオネス」なのか。
■2冊の民族誌と出会う
2020年3月から4月にかけて、ゴドフリー・リーンハート『神性と経験:ディンカ人の宗教』と橋本栄莉『エ・クウォス:南スーダン・ヌエル社会における予言と受難の民族誌』を読んだ。どちらも現在の南スーダンを舞台にした民族誌だ。
『神性と経験』は、ヌエル人にも通じるディンカ人の「パッシオネス」の人間観(受苦的・受動的な存在としての人間観=監訳者・出口顕の解説参照)と、個人の生命を超える社会的な生命継承への希求を描いた。『エ・クウォス』は、リーンハートのこの着眼点を受け継いでいる。そして、植民地的征服から南スーダンの国家樹立に至るなかでの「予言者」理解を詳らかにして、ときを隔てた〈いま〉を描く。予言(予言者の言ったこととしての予言)をめぐるヌエル的世界に、著者・橋本自らが巻き込まれていく第7章は民族誌的探究の極致である。
■法人類学のレジェンドたち
ふたたび『神性と経験』、その第6章に私はとくに重要な論点を認めた。私が自著第3章などで論じた「第三の法主体」の趣旨は、アフリカの民族誌と社会人類学においてすでに言われてきた。用語と文脈は違っても、そう思わせてくれるのだ。
ディンカ人にとっての真実は実存的真実であり、「共同的な意図」によって宣言されるべきである。そうした真実を宣告し祈願する指導者の姿をリーンハートは第6章で論じた。法廷での演説であれ、供犠における演説であれ、そのような宣言は「(われわれの観点からすれば)ディンカがそうであってほしいと望む状況を、完全に叙述するものになっている」という(367頁)。これに関連して『エ・クウォス』から学んだのは、新たなモラル・コミュニティの創出に努める「社会的個人」をめぐるバイデルマンの論点だ。橋本はこれに注目して独自に展開する。リーンハートが描くディンカ人の指導者、すなわち「簎矠の長」(やすのおさ)もまた、そのような社会的個人の役割を期待されていたのだろう。
ところで、法あるいは司法における願望的思考の行方は、ジェローム・フランク『裁かれる裁判所』においても主要な論点のひとつだ。私が今更ながらにこれを認めたのは、最近読んだカイアス・トゥオリ『法律家と野蛮人』(K. Tuori, Lawyers and Savages)のおかげである。私が2週間前に書評原稿(『社会人類学年報』掲載予定)を書き終えたばかりの、この『法律家と野蛮人』は、カール・ルウェリン、マックス・グラックマンを含め法人類学のレジェンドたちの意義を独自に論じ、翻ってマックス・ウェーバーの位置付けなどにも論及していて、この本もまた重要な先行業績だ。
トゥオリは、リアリズム法学による法人類学の「革命」を論じている。それを「革命」と呼ぶのは、〈我われ〉の過去あるいは〈他者〉の現在としてのリーガル・プリミティヴィズムを、〈我われ〉の現在の問題として突きつけることで、前代までの思想・研究上の仮定を破壊したからだ。人間精神の普遍性を仮定するからこそ、フランクは、マリノフスキーの呪術論をアメリカ司法の文脈に引きつけて「近代における法の呪術」を論じた。そして、ルウェリンはシャイアンの司法的技法について語るとき、彼はアメリカの裁判官のあるべき姿について論じていた。私の見立てでは、法人類学のリアリスト革命は、グラックマンを経由して、いまも力を失っていない。
■〈個を覆い隠す社会〉、〈社会を語る社会〉
みたび『神性と経験』、その訳者のひとりである佐々木重洋が前著『仮面パフォーマンスの人類学』で論じた「消化」概念は、私の本の主要テーマのひとつであるリーガルプルーラリズムの入口と出口とは何かを考えるうえで示唆に富む。本のなかで述べたとおりだ。他方、アフリカの仮面研究者としての佐々木の新たな論文(古谷嘉章・関雄二・佐々木重洋編『「物質性」の人類学』所収)を私が読んだのは、本を出した直後の2020年1月のことだった。
佐々木によれば、カメルーン南西部州クロス・リヴァー地方における「仮面」は、人間の本質を隠す道具というよりも、甲冑・防具や自転車の補助輪のように、人間身体の力を活性化する道具である。だからこそ、熟練したエブンジョム(オバンジョムなる霊的存在の呼びかけに応える人間)であれば自らの身体の変容あるいは成熟を得ることで「それ」(仮面)なくしても(別の物質的存在そして施述を含む身体的経験を手掛かりにしながら)オバンジョムの呼びかけを感知し、応答できるようになる(可能性がある)。「仮面は、未熟で経験が足りないエブンジョムにはとくに必要なものである」と説明する人もいる。
〈個を覆い隠す社会〉、〈社会を語る社会〉と私が見たイゲンベの民族社会において、仮面ダンサーは、個人の人格を覆い隠すことで、地域社会を代表して何事かを祝福できる。他方、イシアロ関係(2つの集団同士が互いに恐れあう関係)を土台に呪詛をおこなう者(ムイシアロ)は、モノとしての仮面を被らず個人の人格を見せてしまうが、あくまでも出身集団(いわゆるクラン)を代表していることを忘れてはならない。そして、イシアロの力を私物化してはならない。そのために呪詛の終わりに、自己の人格を消去するためのことばを口にする。
個人が重要な役割を果たす際に、自らの人格や獲得的能力を覆い隠すことで、強制力の私物化を慎重に排除するメカニズムを、このようにして私はイゲンベ社会に見た。その意味で、イゲンベの仮面は覆い隠す道具であり、同時に〈社会を語る社会〉を促し、育む道具でもある。そして、上述のように個を覆い隠すべき場面でモノとしての仮面が使われない場合(イシアロ関係を土台とする呪詛)もある。佐々木論文をみれば、その点についてもう少し議論する余地がありそうだ。
■待つことを知る正義
何をどう見つけて考えて書いても、研究に終点はない。次つぎに新しい研究、新しい発見が現れるからではない。すでに言われていたことに遅れて気づいてしまうからだ。過去の手あとに未来を感知すること、それは「過去は現在と連続した関係にあって未来に影響を及ぼす」と見るディンカの時間世界(監訳者・出口の解説におけるフランシス・デン著の引用紹介)、時間をかけて「予言らしく」なっていくヌエルの予言(橋本)に見出せるが、研究についてもそういえるだろう。冒頭で触れた48年来の実母の遺言を果たした男性はいっていた。いちど授かった、あるいは感知した忠告や遺言は、放置したままにおくと危険な呪いになるのだと。
ところで、これもまた用語と文脈は違うが、つい最近刊行の内田樹編『街場の日韓論』に、待つことを知る正義への希求を見た気がした。まえがきで編者はこう述べているーー「難問に答えが出せないのは「自分がそれほど賢くないからだ」と認めて、その上で、自分がその答えが出せるくらいに賢くなるまで待つ。」私たちがいま求めている知恵を、イゲンベの人びとは先取りしているのかもしれない。
石田慎一郎(いしだ・しんいちろう) 1974年生まれ。1998年、慶應義塾大学文学部民族学考古学専攻卒業。2005年、東京都立大学大学院社会人類学専攻博士課程修了。博士(社会人類学)。大阪大学人間科学研究科特任助教を経て、東京都立大学人文科学研究科准教授。専門は社会人類学。編著に『オルタナティブ・ジャスティス─新しい〈法と社会〉への批判的考察』(大阪大学出版会、2011年)などがある。
2019年11月刊行 第21回日本法社会学会奨励賞&2020年度アジア法学会賞(研究奨励賞)受賞!
石田慎一郎著
『人を知る法、待つことを知る正義 東アフリカ農村からの法人類学』
http://www.keisoshobo.co.jp/book/b487505.html
ISBN:978-4-326-65423-9
四六判・296ページ・本体3,200円+税
東アフリカに「待つことを知る」人びとがいる。正義を希求し、法を探究する人間、社会を語る人間の姿を描き、法とは何かを問い直す――。
人間の裁きに宿る根源的困難に、アフリカの人びとはそれぞれの方法で対処している。ある農村では、即効性のない呪物を使い、時間をかけて解決を図る。やがて訪れる自身と周囲の環境・現実理解の変化、そして待つことを知る者の姿がそこにあった。人間による正義の希求、人間的法の探究をめぐる民族誌的発見から真の〈法人類学〉へ。
本書の一部をたちよみ公開しています。こちらからどうぞ→https://keisobiblio.com/2019/12/02/atogakitachiyomi_hitowoshiruhou/