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あとがきたちよみ
『ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデン』

 
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岡部紘三 著
『ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデン 情動と優美のフランドル画家』

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はじめに
 
 ミュンヘンのアルテ・ピナコテークの長い階段を上った先の部屋に、ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデン(一三九九/一四〇〇〜六四)の《コルンバ祭壇画》が展示されている。三連の画面からなる作品で、最初の画面は純粋無垢なマリアが神秘の受胎を告げられる場面、中央画面は東方からきた三博士が降誕した幼子イエスを礼拝する場面、最後の画面は聖母マリアが幼子を神殿に奉献する場面を描く。青衣の聖母マリアの姿が優美で、その気品ある美しさはたとえようがない。礼拝の場面では降誕の祝福のみならず未来の受難も提示され、さらに晴れやかな神殿奉献の場面では聖母の未来の悲しみも予告される。その哀歓にみちた画面から名状しがたい情感が伝わってくる。文豪ゲーテは「この絵画一点でも私の全詩作に優る」とまで讃えた。
 たしかに、このフランドル絵画の佳作の前に立つたびに離れがたい気持になる。二〇数年前のこと、久しぶりに訪れたミュンヘンでこの作品に見入っていると、日本人の団体がどっと入ってきた。添乗員かガイドか、ほかの作品に目もくれず、まっすぐ本作に近づき簡単に説明してさっと立ち去っていった。その光景がいまも妙に印象に残っている。ブリュッセルの画家ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデンは、ブリュージュで活動したヤン・ヴァン・エイク(一三九〇頃~一四四一)に匹敵する画家である。しかし、わが国ではさほど知られていない。そのことを残念に思っていたのだが、こうして美術館内で案内されているのを知って心強く感じた。その頃は特定の祭壇画の考察にとどまっていたが、しだいにこの卓越した画家のモノグラフィーを考えるようになった。それから長い年月が経過してなお道半ばの感が強いけれども、ひとまずこの画家の生涯と彼に帰属すると思われる作品を検討したい。
 
 ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデンが活動した時代の初期ネーデルラント(現ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)は、ヴァロア朝フランス王家の分家、ブルゴーニュ公国の支配地であった。ディジョンを拠点としていたフィリップ大胆公(ル・アルディ)(在位一三六三~一四〇四)は、一三六九年にフランドル伯ルイ・ド・マルの娘マルグリット・ド・マルと結婚し、ルイの死後(一三八四)はフランドル伯領(現ベルギー西部、北フランスの一部)を領土とした。その後、孫のフィリップ善良公(ル ・ボン)(在位一四一九~六七)の時代に領土は拡大し、一四二九年にナミュール、三〇年にブラバント、リンブルフを公領とし、三二年にはエノー、ホラント、ゼーラントを得て、ネーデルラント全土をほぼその傘下に収めた。一四四三年にはルクセンブルク公領も獲得している。その間、一四三五年にはフランスとの「アラスの和約」がなり、両国の緊張関係は緩和の方向に向かった。
 父のジャン無畏公(サ ン・プール)(在位一四〇四~一九)がモントローの橋上で暗殺された後、公国を継いだフィリップ善良公は、ブリュージュ(ブルッヘ)、ヘント(ゲント)の抵抗にあいながらも、しだいに拠点を出生地のディジョンからネーデルラントのブリュージュ、ヘント、イープル、ブリュッセルなどに移した。ブリュッセルを首都と定めるものの、ディジョンをはじめ各地に宮殿を設けて頻繁に移動を繰り返した。ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデン(ロヒールと略す)の活動期はほぼフィリップ善良公の治世の時代と重なる。ロヒールは善良公の肖像を描いたし、皇太子時代のシャルル突進公(ル・テメレール)(在位一四六七~七七)の肖像も描いている。
 ブルゴーニュ公国が拠点を移すにつれて、その美術もディジョンを中心とした地域からネーデルラント各地に移り、国際ゴシック様式からの転換が図られた。ディジョンの優美な宮廷美術に最初に写実のくさびを打ちこんだのは、主にそこで活動した彫刻家クラウス・スリューテル(一四〇五/〇六没)であった。その力強い造形は彫刻のみならず絵画にも影響を与え、やがてネーデルラント各地に地方固有の写実の様式が生み出された。地方様式というべきその芸術は、まだ後期ゴシックの様相を呈しているものの、「新しい芸術」(ars nova)と呼ぶにふさわしい自然主義の萌芽が見られる。
 北のホラント地方よりも南の広義のフランドル地方(現ベルギー)のほうが、毛織物業、金融業を中心に財政が豊かだったし、宮廷人、都市貴族、富裕な市民、イタリアやドイツなどの外国商人が集結していたので、一五世紀のネーデルラント美術は南部の都市を中心に展開した。フランス領のトゥルネを含め、ブリュージュ、ヘント、ブリュッセル、ルーヴェンなどである。したがって、広義のフランドル美術と称するが、北のホラント地方でも、ハールレム、ユトレヒトでは独自の絵画活動が認められるから、初期ネーデルラント美術とも総称される。
 アルプスの北では人文主義思想はまだ流布しなかったが、新しい信仰のありかたが問われ始めたし、身近な現実世界にも関心を寄せた。ネーデルラントの画家はその要請に応えて、物の質感、量感のある人体、身辺の事物、奥行のある室内空間と戸外風景をとらえた。目に見えない世界を描く宗教画の分野においても、その現実主義が細密な写実描写となって独自の様相を呈した。個人がアイデンティティを求めるようになった結果、宗教画のほかに肖像画の分野も発達をみた。
 一五世紀のイタリア絵画には、範としてイタロ・ビザンティン美術と古典古代の美術があり、その写実は美の規範を求める理想主義に裏打ちされていた。そうした美の規範をもたないネーデルラントの写実は、日常性にもとづく視覚世界の再現にあった。新たに開発された油彩技法による細密な写実描写がその絵画の著しい特性である。とはいえ、ネーデルラントの板絵の出現は、イタリアに比べるとかなり遅く、一五世紀になって本格化した。一四二〇年頃までは国際様式の写本挿絵が主流であって、図像表現でも形式面でも板絵に先行していた。ネーデルラント出身でパリを中心に活動したフランコ・フラマンのランブール兄弟、ブシコーの画家などがその代表である。もっとも、板絵画家の多くは修業期に写本挿絵に携わっており、そこから出発して板絵の道を開拓した。むろん、写本画家と板絵画家は相互に影響し合うようになったが、油彩画法の確立によって板絵の黄金期を迎えた。
 一四二〇年代以降、ヴァン・エイク兄弟によって亜麻仁油と樹脂を混ぜた展色剤を使った油彩技法が確立した。その技法の特性は純粋色を何層も重ねるグラッシ(重ね塗り)の手法で、透明感のある輝かしい色彩と物の質感をみごとにとらえた。北方で開発された油彩画法は、展色剤に卵を使うテンペラ画法に親しんできたイタリアの画家たちをも魅了した。その技法によってネーデルラント絵画は、イタリア絵画に比肩するだけの発展をみたのである。
 イタリアでは大壁画、華麗な大祭壇画などが聖堂、世俗建築を飾ったが、ネーデルラントでは、小型・中型の祭壇画、板絵が聖堂や部屋を飾り、大型の画面は限られていた。一五世紀ネーデルラント絵画は一般に「質と画面の大きさが反比例する」、とフリートレンダーは指摘している。むろん例外はあって、ヴァン・エイク兄弟、ロヒールのほかに、ヒューホ・ヴァン・デル・フース(一四四〇頃~八二)、ハンス・メムリンク(一四三〇/四〇〜九四)らは質の高い大画面を遺している。とくにロヒールは大作をいくつか制作した。
 ナポリ王アラゴンのアルフォンソ五世に仕えたイタリアの人文主義者、バルトロメオ・ファツィオの『名士伝』(一四五六頃)の著名画家の項には、イタリアのジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ(一三七〇頃~一四二七)、ピサネッロ(一三九五頃~一四五五頃)とならんで、フランドルのヤン・ヴァン・エイク、ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデンの名が挙がっている。一五世紀半ばのイタリアでは北方の油彩画法は魅力的であり、彼らの作品が熱心に蒐集されていた。これは二人の画家がイタリアで著名だったことを知らせる貴重な証言である。
 フランドル絵画の魅力は、細密な写実描写と油彩による輝かしい色彩表現にあった。その絵画が内包するのは、ゴシック精神にもとづく敬虔な心情である。敬虔で静謐な聖母画がある一方で、キリストの受難を描く悲痛な場面では登場人物の多くが涙を流しており、見る者の心に直截に訴えかけてくる。フランドル絵画の底流を流れるのは、この「敬虔な心情」といってよかろう。
 敬虔で静謐な聖母画ではブリュージュを拠点としたヤン・ヴァン・エイクが、心情に訴えるエモーショナルな受難画ではブリュッセルを拠点としたロヒールが、そうした絵画世界の基盤を築いた。そしてその後のフランドル絵画の展開は、自然観照に徹したヴァン・エイクの絵画世界と、内なる感情に訴えたロヒールの絵画世界とが交錯する形で進展した。とりわけロヒールの情感豊かな親しみやすい絵画は、一五世紀後半を通してヴァン・エイクよりもはるかに影響力が強かった。
 フランドル美術、とりわけロヒール・ヴァン・デル・ウェイデンの絵画の特性について、一五、一六世紀のイタリア人たちの証言を得よう。その一人は考古学の父とも称される人文主義者のアンコーナのキリアクスで、一四四九年にフェッラーラの宮廷でみたロヒールの三連画についてこう述べている。

ブリュージュの有名人で、絵画の栄光につつまれたヨハネス(ヤン・ヴァン・エイク)に次いで、ブリュッセルのロヒールはこの時代の傑出した画家とみなされている。この最も卓越した画家の手になるすばらしい絵画を、一四四九年七月八日、名高いリオネッロ・デステ侯がフェッラーラで私に見せてくれた。そこにはわれわれ人類の始祖と、神の化身が被った十字架降下の受難が、最も敬虔なイメージで、深い悲しみのなかで立ちつくす多数の男女とともに見られる。これらすべてはみごとに描かれていて、人間の技というより神の技と称すべきである。そこでは人々の顔は生き生きと息づいており、生きているかのように描こうとしていることがわかる。同じく死者は死んだように示される。とくに多くの衣装、多彩な兵たちの外衣や衣服は、紫と金色によって際立って見える。花咲く草原、花々や木々、葉の茂る日陰の丘、さらにまた飾りたてた柱廊玄関と広間、本物の金としか見えない黄金、真珠、貴金属、そのほかすべてのものが、人間の手による技術ではなく、万物を生み出す自然そのものによって創られたように思われる。

 ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデンは、ヤン・ヴァン・エイクとともに国際的な名声を得た画家だった。ロヒールは一四五〇年にローマに旅行するが、その前にすでに彼の作品がフェッラーラにあって評判だったことがわかる貴重な証言である。フェッラーラ侯の手元にあった作品は現存しない。しかし、一四五六年頃のファツィオの『名士伝』にも言及があって、両翼パネルは楽園追放と君主の祈禱像、中央パネルは十字架降下の三連画であった。アンコーナのキリアクスは、ロヒールの作品に「敬虔な心情」と「細密な写実」をみている。それこそがロヒールがめざした絵画であり、またフランドル美術のキーワードでもあった。
 同じイタリア人のヤコポ・ティラボスキは、一四七一~八〇年頃のエピグラムで、古代ギリシアの五人の芸術家──写実に秀でたゼウクシス、古代で最も有名な画家アペレス、画家で彫刻家のエウフラノール、ゼウクシスと腕を競ったパラシオス、イピゲネイアの犠牲の絵で有名なティマンテス──とロヒール・ヴァン・デル・ウェイデンとを比較し、彼らに優るとも劣らないと賞讃している。とくに十字架上のキリストを描く敬虔な絵を挙げ、「誰もかれもが涙をうかべている」と讃える。ティマンテスと同じパトスの画家として、ロヒールをみているのである。
 もう一人、スペインの著述家フランシスコ・デ・ホランダの『絵に関する四つの対話』(一五四八)におけるミケランジェロの有名な証言を聞こう。これは直接ロヒールの作品にふれたものではないが、主として彼の絵画世界を受け継いだフランドル絵画全般に対する論評である。

フランドル絵画は、一般的にいって、イタリア絵画よりも敬虔な人たちを喜ばす。イタリア画は見ても涙を催さないが、フランドル画は見る人に涙を流させる。それは、フランドル画が力強さと長所をもっているためでなく、敬虔な人たちの善良さに訴える絵画であるためだ。フランドル画は女たちを、とくに老女と若い娘を、修道士と尼僧を、真の調和を理解できない若干の貴族たちを喜ばす。フランドルの画家たちは目に見えるものを正確無比に描き、人々を喜ばせるもの、悪口をいうはずがない聖人や預言者たちを描く。彼らは、風景と呼ぶところの、あちこちに多くの人物を配した、くだらない物や石造物、野原の緑草、木陰、川や橋を描く。それらすべてはある人たちを喜ばすけれども、理性も芸術も均斉も比例もなく、技術の選択も大胆さもなく、要するに実体も力もないものだ。

 ミケランジェロは、厳しい自然主義のヴァン・エイクよりも、ロヒールから派生した情動的なフランドル絵画の特性をここで述べている。身の周りの事物や風景を微細に描く描写力を認めながら、理想美の追求よりも現実の再現に固執し、構想力や科学性にとぼしいプリミティヴで感傷的な絵画を、ルネサンス人の立場から痛烈に批判しているのだ。裏を返せば、それほどミケランジェロの周辺には、細密な写実に固執しつつ、敬虔な心情を表わしたフランドル絵画があふれていたということだ。レインの指摘によれば、一五世紀後半にブリュージュで活動したハンス・メムリンクのパトロンの五分の一はイタリア人だったという。
 キリアクスの賞讃もミケランジェロの批判も、いずれも正鵠を射ている。イタリア・ルネサンス絵画と比較するならば、フランドルのプリミティヴな絵画が美しい人体比例をもたず、科学的な遠近法を知らなかったのは確かである。しかし、その細密な写実描写、油彩による輝かしい色彩、敬虔な絵画が「新しい芸術」の魅力をもち、イタリア人を魅惑したのも事実である。そうした魅惑の絵画世界を切り開いた画家のひとりがロヒール・ヴァン・デル・ウェイデンであった。
 ヴァン・エイクとちがって、ロヒールは古風な気質を保持した画家で──焼失した市庁舎の正義図の連作を除いて──サインや年記を記さなかった。それだけに確実な作品は一点もなく、その帰属や制作年代はすべて推測によるしかない。彼の真筆か工房制作か、判断の分かれる作品がいくつかある。フリートレンダーの浩瀚な『初期ネーデルラント絵画』の英語版では、五〇数点をロヒールの作品として挙げている。しかし、その半数近くが今日では工房作品とみなされている。大方の研究者が真筆と認めるのは三〇点にみたない油彩画で、ほかにミニアチュールと素描が遺る。失われた作品も多いが、遺された作品だけでも画家が描いた絵画世界のすばらしさを知ることができる。
 ロヒールの絵画は宗教画と肖像画に集約できる。宗教画では、聖堂や礼拝堂を飾る祭壇画、個人や共同体の信仰心を高める祈念画や聖史画を制作した。肖像画では、人物の外形や地位のみならず、敬虔な信仰心を示すこともあった。ときには市庁舎のために訓戒をこめた世俗画を制作した。
 ゴシックの時代精神に生きたロヒールは、ヴァン・エイクのような芸術家意識をもった革新者というよりも、中世来の職人気質をもった画家であった。職人といっても、むろん自立した親方としての誇りをもって活動した。祭壇画や肖像画の注文制作に応じつつ、ブリュッセルの都市の画家として、市庁舎の装飾や宗教行事などに携わった。宮廷画家ではなかったが、国際的な名声を得てからはブルゴーニュ宮廷のみならず、スペインやイタリアの宮廷人と関わりをもった。フィレンツェのメディチ家、トリノ近くのキエーリのデ・ヴィッラ家からも注文を得た。そうした多方面の活動のために、多くの遍歴助手などを擁する大工房を経営した。
 ロヒールの生涯の活動は、一四五〇年のローマ巡礼を境に前期と後期に分けられる。一般にはもう少し細分化して、三期に分けることが多い。たとえばデレンダは、一四三〇~三六年を「総合の時代」、一四三六~五二年を「厳格な時代」、一四五二~六四年を「抒情の時代」と三期に分ける。「都市の画家」となった一四三六年を初期と中期の境とするのである。キャンベルは、初期を一四三二頃~四二年頃、中期を一四四二頃~五〇年頃、後期を一四五〇頃〜六四年とする。初期と中期の分岐点をプラド美術館の《十字架降下》(口絵1)におくが、この作品の制作年を一四四二年頃と推定するのは首肯しがたい。
 本書では便宜上ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデンの活動を次の四期に分ける。

トゥルネ時代(一四二七~三五年頃)
初期ブリュッセル時代(一四三五~四〇年)
中期ブリュッセル時代(一四四〇年代)
後期ブリュッセル時代(一四五〇~六四年)

 中期ブリュッセル時代と後期ブリュッセル時代の間に、一四五〇年のローマ巡礼がはさまる。こうした大雑把な時代区分で、ロヒールの真筆と思われる作品の観察とその様式の展開を追うことにしたい。とはいえ、真筆か工房作品か判断に迷う作品がいくつかあり、制作年の明確な作品はないに等しい。
 近年、従来のエックス線、赤外線の調査のほかに赤外線反射写真などが加わって、画面の下に隠された下描きの調査が精密になった。それらの光学調査によって、ロヒールの自由闊達な下描きが明らかになるとともに、下描きが親方の手になるか別人か、複数の手になるか、確認できるようになった。またロヒールの作品の多くが、下描きから本制作に移る過程でかなり修正されていることも分かった。それまでレプリカとされた《ミラフロレス祭壇画》(口絵2)が真筆と確認できたのは、こうした科学調査の成果である。
 支持体の年輪を調べ、伐採時期を特定する年輪年代学の調査は、制作年代を判定する重要な手段のひとつとなった。この調査には誤差もあって決め手とはならないが、伐採上限年を特定することで生前の作品か没後の模作か推定できることになった。
 しかしながら、帰属や制作年代の推定は、現今の科学調査をもってしてもなお難しい問題がある。今日でも個々の作品に対する研究者の判断はさまざまで、ロヒールの真筆と思われる作品を観察するにしても、推測と仮説による一応の目安にすぎない。判断の基準は独自性と様式、筆力と質の高さにあるといえるが、とくに簡潔明快な構図、美しい線と形と色、静と動のバランス感覚などを重視してロヒール作品を判断してゆきたい。
 ロヒール作品を裏づける確実なドキュメントは少ない。現存しないブリュッセル市庁舎の正義図を別とすれば、古記録が残る三点の作品が彼の基準作として挙げられる。没後の記録だが、一五七四年のエスコリアル宮の目録にある《十字架降下》、大作の《キリスト磔刑》(口絵3)、一七八三年のポンスの旅行記にある《ミラフロレス祭壇画》、その三点である。《十字架降下》は初期、《ミラフロレス祭壇画》は中期、《キリスト磔刑》は後期の作品と推定されるので、それらを一応の基準にして帰属問題や様式の特性を探ることができる。本書では研究者たちの見解をふまえ、異論は異論として紹介しながら、筆者なりの判断にもとづいて、ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデンの生涯と彼ないし工房に帰属すると思われる作品を観察したい。(注番号は省略しました)
 
 
第1章 謎の前半生
 
一 画家の素顔
 
 ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデンは、小品の聖母画、肖像画から大作の正義図、最後の審判図、磔刑画まで、多様な主題を多彩に描いた精緻にしてスケールの大きな画家だった。傑出した画家であるばかりでなく、人文主義者・詩人のドミニクス・ランプソニウスの詩画集『ネーデルラントの著名画家の肖像』(一五七二)中の頌詩によれば、「自らの筆で得た富を貧者の救済のために分け与える」高潔で無私の人柄であった。
 画家はどのような容姿だったか。マルカントニオ・ミキエルの手稿『アノニモ・モレッリアーノ(美術品消息)』(一五二一~四三)によると、ヴェネツィアのズアン・ラム家に一四六二年の年記のある、ロヒールの小品の油彩による自画像があったという。その自画像は遺っていないし、ロヒールが小品に年記を記したとも思えない。だが、彼の顔貌を知る手がかりがないわけではない。
 そのひとつは、ヴァランシエンヌの画家ジャック・ル・ブックが素描した、宮廷人や著名人の肖像の模写集『アラス撰集』(一五六七頃)中のロヒールの肖像(図1)である。単純な線描にわずかな陰影をほどこしたチョーク素描で、壮年期の画家が無地をバックに大きく見開いた目を斜め前方に向けている。これは失われた画家の自画像を模写したものかもしれない。短く刈った髪で、髭はなく、大きな目、高い鼻、厚ぼったい口唇、額に刻まれた深い三本の筋が、思慮深い熟年の画家の相貌を伝える。その上半身から判断する限り、中肉中背の気品のある紳士であったようだ。ロヒールのみならず、一五世紀のネーデルラントの画家の多くは髭をはやしておらず、立派な髭をたくわえるようになるのは一六世紀以降である。
 もうひとつの手がかりは、ランプソニウスの詩画集にある、コルネリス・コールトの手に帰属する銅版画の肖像(図2)である。おそらく『アラス撰集』にもとづく版画で、すっきりした顔立ちの画家が、画室に立って右腕を縁におきながら、斜め前方に思慮深い目を向ける。壁には小型の半円アーチ矩形の枠のなかに「ピエタ」の絵がかかり、画家の前にたてかけた白地の支持体には自身の影が自画像のように映っている。大プリニウスが伝えるように、人間の影の輪郭線をなぞるのが絵画の起源だとすれば、画家は支持体を前にその原点に立っているといえる。
 この肖像版画は、ロヒールの容貌を伝えるとともに、彼が描いた二大ジャンル──宗教画と肖像画を明確に示している。宗教画の主題として「ピエタ」を示すことで、ロヒールが受難劇を描く画家であったことを印象づける。ロヒールの真筆と認められる肖像画は四、五点にすぎないが、工房作品を加えれば十数点に達し、すぐれた肖像画家のひとりであった。この版画によって、ロヒールの顔と画業は後世に定着したといえよう。ちなみに、先に引用したランプソニウスの頌詩の大要は以下のようである。

ロヒールよ、遠い昔に描いた汝のすばらしい絵画に、われらがいかなる讃辞を捧げようとも十分ではない。われら啓蒙の時代に生きる多くの画家たちには学ぶに値する作品ばかりだ。それを察知するだけの知性を彼らがもっているならば。正義の道から外れないようにと判事を教示するブリュッセルの絵画が、けだしその証しだ。自らの筆で得た富を貧者の救済のために分け与えようとした、汝の遺言を誰が忘れることができようか。地上に遺した作品が、時の経過とともに消え去ろうとも、あの美しい作品の数々は、天上において永遠に輝くことだろう。

 そのほかに、研究者の多くがロヒールの自画像とみなす扮装肖像がある。すなわち画家がブリュッセルに移住して間もなく描いた︽聖母を描く聖ルカ︾(口絵4)である。これは、ブリュッセルの画家組合のために描いた作品である。そのなかで銀尖筆を手にして聖母をデッサンする聖ルカは、画家の自画像と目されている(図3)。現に故郷のトゥルネには、これを元にしたロヒールの銅像が立っている。聖人の顔は理想化されているとはいえ、本制作の前に素描するロヒールの作画法を示しており、聖母を描いたと伝えられる聖ルカに扮装した画家の自画像とみてよいだろう。かつてデストレは、ウフィツィ美術館の《キリスト埋葬》(図88)における正面を向いたニコデモを、ロヒールの自画像と推測した。しかし今日では、それはメディチ家ゆかりの人物の扮装肖像だとする見解が有力である。
 古記録によれば、かつてブリュッセルの市庁舎にあった四点の正義図にも、ロヒールの自画像と目される人物がいた。この作品は一六九五年に焼失したが、原画にもとづいて制作されたタペストリーが幸いにも遺っている。後に観察するが、その横長のタペストリーのほぼ中央で、教皇グレゴリウスの背後からわれわれの方に視線を向けている人物(図4)は、ロヒールの自画像だと伝えられている。
 二〇〇九年のルーヴェンのロヒール展に、《祈る男と老婦人》という縦長の小品が展示された。個人蔵で図版を示せないが、ロヒール工房の作品であり、ロヒールと妻エリザベート・ホッファルツの肖像と推定されている。元はおそらく二連画であって、左翼には半身の聖母子像ないしピエタ像があった。そちらに初老の男と老婦人が視線を向けて合掌している作品である。
 赤い服を着た初老の男は、『アラス撰集』におけるロヒール、あるいはコールトの版画のロヒールの顔と似ている。それらを手本にして描いた肖像と思われる。男に比べると年長に見える老婦人の顔は、いっそうリアルに描かれていて、たぶん実際の写生にもとづく生前の肖像である。エリザベートが亡くなる一四七七年より前、一四七〇年代前半のロヒール工房の制作で、画業を継いだ息子のピエールの手になる亡父と老母の肖像画と推察される。
 
二 トゥルネのカンパン工房
 
入門
 ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデンはベルギーの南西部、フランスと国境を接する古都トゥルネに生まれた。当時のトゥルネはまだフランス領で、同市の古記録にある画家の名前は、ロジェ・ド・ル・パストゥールである。トゥルネの古記録が不備なこともあって、その前半生は不明なところが多い。出生年も曖昧で、トゥルネの一四三五年の記録には三五歳、一四四二年の記録には四三歳とあって、一三九九年か一四〇〇年の生まれか決め難い。父親はトゥルネの刃物職人アンリ・ド・ル・パストゥール、母親はアニェース・ド・ヴァトルロである。
 ロヒールは、一四二七年三月五日、トゥルネの画家ロベール・カンパン(一三七五頃~一四四四)の工房の徒弟となった。きわめて遅い入門で、一四二六年頃にはすでにブリュッセルの富裕な靴職人の娘エリザベート・ホッファルツ(一四〇五頃~七七)と結婚している。妻となったエリザベートはカンパンの妻エリザベートと血縁関係があり、その縁による入門だったようだ。長男のコルネイル(一四二七頃~七三)が生まれたのは、たぶん入門した年だった。
 どうしてこのような遅い入門なのか。その理由は判然としない。別の画家ないし彫刻家の工房に入っていたのか、画業を志す前に何らかの職についていたのか、前半生は謎につつまれている。父親は刃物職人であり、トゥルネは墓碑彫刻などが盛んだったから、それ以前は彫刻家の道を歩んでいたかもしれない。彼の初期の堅固な様式は彫刻との関わりを示唆するし、晩年まで墓碑彫刻の彩色やそのデザインに携わっていたようで、彫刻に対する関心の強さを示している。しかし、そうした様式は師のカンパンから受け継いだものでもあった。トゥルネはまたタペストリー産業の中心地のひとつであったから、その下絵制作に携わっていたとも考えられる。
 フランドルの画家は修業期にミニアチュールの修練を積むのが常だったので、ダーネンスが推測するように、若いロヒールはトゥルネでまずその基礎技術を学び、ついでヘントのヒューベルト・ヴァン・エイク(一四二六年没)の工房で油彩技術を学んだかもしれない。その仮説はヒューベルトの死とカンパン工房への入門が接近しているだけに興味深いが、確証があるわけではない。
 ロヒールと同門のジャック・ダレ(一四〇五頃~六八頃)は、一四一八年にカンパンの工房に入っているが、実際に徒弟になったのはロヒールと同じく一四二七年である。当時の徒弟制度はいわば選抜制であって、才能ある者だけが助手に近い形で徒弟になったと思われる。徒弟にも諸段階があって、パノフスキーが述べるように、「実際の徒弟と制度上の徒弟」を区別する必要があるかもしれない。
 一四二〇年代はトゥルネにとって苦難の時代で、一四二三年には貴族に対する職人たちの暴動が起こり、都市の経済は弱体化していた。一四二六年にはペストが大流行し、都市の疲弊をさらに強めた。そうした社会不安のために画家組合が正常に機能せず、それが正規の入門を妨げる要因のひとつだったとも考えられる。
 カンパンの門下生となる前年、一四二六年一一月一七日に、「ロジェ・ド・ル・パストゥール親方」がトゥルネ市から栄誉のワインの贈り物を受けている。この親方の肩書は記されていないから、われわれの画家とは無関係かもしれない。しかし、本人である可能性もなしとしない。一四二六年三月二八日、亡父アンリのトゥルネの家が売却されたが、そのときロヒールは不在だった。どこにいたか明白でないが、その頃に結婚したと思われるから、ブリュッセルにいた可能性もある。父の死をひとつの契機に帰郷し、その折に何らかの業績のためか、それとも結婚祝いだったか、市からワインを受けたという推測も成り立つ。
 カンパンの工房に入る前のロヒールの足取りは依然として謎である。しかし入門時が二七歳ぐらいだから、基礎の技量を身につけるためでなく、画家としての正規の資格を得るために、あるいは助手としてカンパンの工房に入ったとみるのが適切であろう。
 
徒弟時代
 一四二七年三月五日、カンパンの工房に入門したロヒールは、そこで五年余の徒弟時代をすごした。徒弟期間は四年以上と定められていたから正規の期間を終えたわけだが、やはり助手として活動した時期とみたほうがよいだろう。
 師のロベール・カンパンは謎めいた画家で、たぶん一三七五年頃にヴァランシエンヌで生まれた。一四二二年のトゥルネ市の記録に四七歳とある。市の記録に初めてカンパンの名が出るのは一四〇五/六年で、祭壇の仕事に従事している。一四一〇年末にはトゥルネの市民権を得て、一四二三年にトゥルネの画家組合長に選出される。カンパンの充実した活動期は一四二〇年代で、名の知られた徒弟だけでも四人を数え、一四三〇年あたりが絶頂期であった。カンパンの確実な絵画作品はほとんどないが、カンパンと同定される「フレマールの画家」の作品は二〇点ほど遺る。フレマールの画家をカンパンと同定する見解に異論がなくもない。その詮索は後述するとして、本書ではフレマールの画家=ロベール・カンパンとみなして論を進める。
 ディジョンの宮廷美術で展開された国際ゴシック様式に対し、一四二〇年代に入って写実にもとづく地方様式で対抗した画家が、フレマールの画家=カンパンだった。線を重んじる優美な国際様式とちがって、カンパンは量感や質感のある造形を心がけた。彫塑性、実在性を重んじ、質朴な写実で聖なる物語世界を描いた画家だった。
 試みにディジョンの国際様式を代表する、メルキオール・ブルーデルラム(活動期一三八一~一四〇九)の《シャンモル修道院の木彫祭壇扉絵》(図5)における受胎告知の場面と、同じ主題を扱ったロベール・カンパンの《メローデ祭壇画》(図6)の中央画とを比較しよう。ブルーデルラムは受胎告知の舞台を、イタリア風の宮殿のロッジアに定め、マリアを細身の優美なプロポーションで描く。平面処理した人体の線が美しく、シエナ派の流れを汲む洗練された美しい図像表現である。それに対し、カンパンは舞台を身近なフランドルの家屋の居間に定める。奥行感のあるその居間には、暖炉や円卓、水差しなどの家具調度品がこまごまと配され、即物的な写実の度合いを強めている。大天使ガブリエルの告知を受けるマリアは重量感があり、恰幅のよい素朴な町娘といった印象である。
 堅固な形態、奥行のある空間構成、身近な事物の再現、光と影の効果、そうしたカンパンの写実の追求にしたがった弟子たちが、ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデン、ジャック・ダレであった。ロヒールは、師の自然主義、斬新な触覚値の探求に共鳴した。現実空間の再現、量感のある人体の追求は、絵画上の革新であったからだ。
 ロヒールから二か月ほど遅れて親方となったジャック・ダレの絵画が四点遺っている。元はアラスのヴァースト修道院の木彫祭壇(アラスの祭壇)の扉絵の四点で、親方になった直後の一四三二~三五年頃に制作された。主題は聖母伝にもとづき、〈聖母のエリザベツ訪問〉〈キリスト降誕〉〈マギの礼拝〉〈神殿奉献〉(図7)である。その上方にあった二点のパネルからなる〈受胎告知〉は失われた。いずれも構成や様式、説話主題の扱いなどで、フレマールの画家の作風と類似しており、フレマールの画家=カンパン説の根拠のひとつとなっている。ロヒールもまたカンパンの工房で多くを学び、それを後年の制作に反映させた。ダレが扱ったこの五つの主題を、ロヒールはすべて初期から晩期にかけての作品で扱っている。
 一四二七年一〇月一八日、ヤン・ヴァン・エイクはトゥルネ市を訪れ、市から誉れのワインを受けている。この日は画家組合ゆかりの聖ルカの祝祭日であり、彼はカンパンの工房を訪れ、入門したばかりのロヒールとも面識をもったことだろう。ヴァン・エイクは翌年三月二三日にもトゥルネを訪れている。徒弟時代のみならず、生涯をとおしてロヒールは、カンパンとヴァン・エイクから大きな影響を受けた。
 カンパンは政治に関わった画家で、一四二五~二七年にはトゥルネの市長職の一人だった。一四二九年の政治裁判で証言を拒み、罰としてフランスのサン・ジルへの巡礼を科せられた。実際に巡礼に行ったかどうかは不明だが、絵画制作に支障をきたしたはずである。工房への注文をさばくために、親方の代理として工房システムが機能し始め、いくつかの類似作品を生んだことは十分に考えられる。
 一四二九年の巡礼の罰に加えて、一四三二年にはその不道徳な私生活を非難されて再び裁判にかけられ、一年間の追放を命じられた。その追放令はやがて取り消されたが、その痛手は前回以上に大きく、カンパンは工房を一時的にせよ閉鎖した。ロヒールやジャック・ダレがこの年に自立した親方になったのは、徒弟期間を終えていたとはいえ、この事件と無縁ではない。その後カンパンの工房は再開され、一四四一年までトゥルネにおける活動記録があるものの、その勢いは弱まったようで、新規の徒弟は登録されていない。
 
自立した親方
 一四三二年八月一日、トゥルネの画家組合に親方として登録されたとき、ロヒールは三二歳か三三歳であった。一人娘のマルグリット(一四三二頃~五〇)が生まれたのはその頃で、すでに一男一女の父親になっていた。長男のコルネイルは画家の道を歩まず、一四四五年から四八年までルーヴェン大学で学んだ後、一四四九年頃にエノー州エリンヌのカルトゥジオ会修道院に入り、一四七三年に死去するまで修道士として生涯をすごした。長男との関わりから、ロヒールは晩年、ブリュッセル近郊スヘウトのカルトゥジオ会修道院に大作を寄贈し、また土地購入の資金も預託している。
 親方になった一四三二年、ネーデルラント絵画史に燦然と輝く、ヴァン・エイク兄弟の合作になる《ヘントの祭壇画》(図8)が完成している。この大祭壇画を見るためにヘントを訪れ、さらに一四三〇年からブリュージュを活動の拠点としたヤン・ヴァン・エイクの工房を訪ねたことは想像に難くない。
 ヘントのシント・ヤン聖堂(今日のシント・バーフス大聖堂)の私設礼拝堂に置かれたこの祭壇画を、ロヒールは驚嘆の思いで眺め、その迫力に圧倒されたはずである。そのスケールの大きさ、巨視的な対象把握、微視的な細密描写、輝かしい色彩、深い空間表現、卓越した自然描写、微妙な明暗の色調、それらは画家として進むべき方向性を示していた。事実、ロヒールはブリュッセルに落ち着いた後、この祭壇画を念頭においた大祭壇画を制作している。とはいえ、視覚のヴィジョンを可能な限り追求するヴァン・エイクは、徹底した「眼の画家」であった。それに対し、ロヒールは別の道を模索することになる。
 自立した親方になってから、ロヒールは師のカンパンの堅固な造形を学ぶとともに、ヴァン・エイクの斬新な視覚世界から刺激を得ていた。彼らの絵画がロヒールの出発点となったことは、一四三〇年代の初期作品によっても明らかである。じつは写本彩飾画家として出発したヴァン・エイクにしても、一四三〇年代が板絵を中心に数多の佳作を生む真の活動期であった。
 ルーヴェンの神学者ヨハネス・モラヌス(一五三三~八五)は、市の歴史を綴る晩年の著作で「ロヒール親方、ルーヴェンの市民で画家」と記している。それはモラヌスの誤解といえるが、ルーヴェンの弩弓手組合から《十字架降下》の依頼を受けたのが一四三四年頃と仮定すれば、そこにしばらく滞在したとの推測も成り立つ。しかし、古記録から判断する限り、自立後の数年は引き続きトゥルネに工房を構え、そこを活動の拠点とした。もっとも、研鑽を積むためにフランドル各地を遍歴したことは疑いえない。
(注・図は省略しました。pdfファイルでご覧ください)
 
 
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