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『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか(上・下)』

 
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ロバート・ブランダム 著
加藤隆文・田中凌・朱喜哲・三木那由他 訳
『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか(上・下)』[現代プラグマティズム叢書]

「訳者解説」(冒頭)(pdfファイルへのリンク)〉
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訳者解説
 
 上下巻から成る本書は、Robert Brandom, Perspectives on Pragmatism: Classical, Recent, and Contemporary (Harvard University Press, 2011)の全訳である。原著は一巻本であるが、訳稿の分量を鑑みて二分冊とした。とはいえ本書は、二〇〇〇年代に原著者が公刊したプラグマティズム論を集約した論文集という側面があり、各章を単独の論考として読むことができる。上巻下巻の順序にこだわらず、読みやすそうな章、興味を惹かれる章から自由に読み進めてほしい。
 原著者のロバート・ブランダムは、二〇二〇年現在アメリカのピッツバーグ大学哲学特別教授(Distinguished Professor of Philosophy)であり、現代のネオプラグマティズムを牽引する中心的存在として世界的に認知されている。例えば、フランクフルト学派第二世代を代表する思想家ユルゲン・ハーバーマスは、ハンス=ゲオルク・ガダマー、ジャック・デリダ、ジョン・ロールズといった極めて多彩な哲学思想の大家たちと論争を交わしてきたことでも知られるが、そんなハーバーマスがブランダムの著書『明示化』を評して次のように述べている。

ブランダムの『明示化』は、ロールズの『正義論』が七〇年代初期に実践哲学において画期的著作だったのと同じように、理論哲学における画期的著作である。

 このようにブランダムは、哲学界ではたいへん有名な人物であるが、本邦において彼の紹介はあまり進んでいない。本書以前のブランダムの単著の翻訳は、二〇一六年に出版された『推論主義序説』(斎藤浩文訳、春秋社)を数えるのみである。そのため、ブランダムとは何者なのか、そして彼が牽引しているというネオプラグマティズムとは一体何なのか、若干の説明が必要であろう。
 一般に「ネオプラグマティズム」というと、リチャード・ローティの思想をさすことが多い。ローティは二〇世紀後半に英語圏哲学界で支配的であった分析哲学の手法に通暁した上で、一九七〇年代からそれを根底から揺るがす革命的な主張を展開した。その際に彼は、当時の学術界において分析哲学に株を奪われていた(と彼が見なす)プラグマティズムの復権を主張しており、それゆえにローティの思想はしばしばネオプラグマティズム(新プラグマティズム)と呼称される(自称もしている)。そして本書の原著者ブランダムは、ローティから一世代後のネオプラグマティストであり、ローティとは博士論文の執筆者と指導教員という関係であった。さらに彼は、ウィルフリド・セラーズの有名論文「経験論と心の哲学」に解説文を寄せており、同論文にはさらにローティの手による序文が付され、単行本として刊行されている。このように彼は、自身とローティ(そしてセラーズ)との思想上の結びつきの強さを事あるごとに明示している。また、ローティも、自身のネオプラグマティズムの向かう先はブランダムのそれに近いと表明している。こうしたことを踏まえれば、ブランダムはローティ的なネオプラグマティズムの、まさに正統な継承者といえそうだ。
 とはいえ、ローティの議論にしばしば見られるような分析哲学とプラグマティズムを対立的に捉える構図は、現代のブランダムと私たちを取り巻く哲学界において、さほど有効なものではなくなっている。まず、ローティ自身がアメリカのアカデミックな哲学界に早々に見切りをつけ、一九八二年からヴァージニア大学の人文学大学教授(University Professor of the Humanities)という特殊なポジションに就いたことからも象徴的にわかるように、ローティは哲学界内で自身のフォロワーを積極的に増やそうとしなかった。若い哲学研究者にとって、ローティのフォロワーであることはアカデミック・キャリア上のリスクになり得ると考えられることもあったようだ。こうして、アメリカ哲学界の主流は依然として分析哲学であったし、今現在もそうであろう。こうした中でブランダムが打ち出したネオプラグマティズムは、ローティの思想を継承しつつも、分析哲学で扱われる諸問題に対してプラグマティズムの考え方を応用することによってより良い展望を開くという、いわば「ポスト分析哲学」の提案である。つまり、分析哲学を否定するわけではなく、プラグマティズムを介することで分析哲学に新展開をもたらしているのだ。そうしてブランダムが提案する「分析プラグマティズム」の概要については、本書第六章で語られている。
 ブランダムのネオプラグマティズムを理解するうえではさらに、ドイツ観念論、とりわけヘーゲル思想をどう引き受けているのかということが決定的に重要である。しかしこの点について、本書では、ほんのさわりの部分が語られるのみである。本書の姉妹編である『哲学における理性』ならびに二〇一九年に発刊されたばかりの長大なヘーゲル論『信頼の精神』の議論の本邦での紹介が待たれる、というのが正直なところだ。とはいえ、本書の序章では、プラグマティズムをドイツ観念論の連続線上にあるものと捉え、ひいては今後はドイツ観念論的な方向へと回帰した「合理論的プラグマティズム」こそが有望だという議論が明解に打ち出されている。さらに、先述のとおりブランダムのネオプラグマティズムは分析哲学の更新を提案するものであるが、これはプラグマティズムを介した更新であると同時に、第三章で示唆されるとおり、ドイツ観念論を介した更新でもある。本書では、仔細な議論には立ち入らないものの、以上のようなブランダム思想におけるドイツ観念論のハイライトがひととおりは看取できるようになっているということにも注目しておいてほしい。
 原題(Perspectives on Pragmatism)が示すとおり、本書は様々な視点をとることによって現出するひとつのプラグマティズム像を描写している。また、ここで言っている「視点」は、例えばプラグマティズムのある側面に注目するというような空間的な視点のとり方だけでなく、プラグマティズムの来し方と行く末を見遣るという時間的な視点のとり方をも含意している。こうして本書は、同時代の分析哲学に対して転回を提案するというプラグマティズム像を示しつつ、そうしたプラグマティズムを、ドイツ観念論からローティを経由して「合理論的プラグマティズム」へと伸びて(あるいは回帰して)ゆく歴史的営為として描き出すという、少なくとも二重の試みを展開しているのである。そしてこうした描像は、もちろんブランダムが主張するネオプラグマティズムの描像である一方で、同時に、現代において決して無視できない、しかしあまりに多彩な面を持つがゆえにその全容を把握することが困難なブランダムという巨人の姿を、非常にうまく要約しているのではあるまいか。いささか強引だが、本書を、ブランダム自身のこれまでの哲学的キャリアと関連づけてまとめてみると次のようになるだろう。本書は、ブランダムがドイツ観念論とプラグマティズムをどのように引き受けているのかを披瀝し(序章、第一章、第二章、第三章)、わけてもローティの思想をどのように継承しているのかを述べ(第四章、第五章)、その上でブランダム独自の「分析プラグマティズム」によって分析哲学の更新を提案し(第六章)、さらに同時代のネオプラグマティストたちとブランダムと(そしてローティと)の立ち位置を整理して示している(第七章)。こうして本書は、ブランダムを理解するための様々な視点をも効果的に与えてくれる書となっている。以下、それぞれの章について、翻訳の担当者が簡単に内容を紹介してゆく。(以下、本文つづく。注は省略しました)
 
 
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