憲法学の散歩道 連載・読み物

憲法学の散歩道
第14回 価値多元論の行方

11月 25日, 2020 長谷部恭男

 
 
 政治思想史家のアイザィア・バーリンは、価値多元論者として知られる。価値多元論(value pluralism)は、価値一元論(value monism)と対置される。
 
 価値一元論は、いくつかの主張によって構成される。第一に、あらゆる道徳問題には、唯一の正解がある。第二に、正解へ行き着く途は発見可能である。第三に、すべての正解は相互に両立可能であり、ジグソーパズルのように、全体として整合する*1
 
 価値多元論は、これらの主張と対立する。第一に、あらゆる道徳問題に唯一の正解があるとは限らない。人の世には、永遠に解決できない問題──「哲学的問題philosophical problems」──も存在する*2。第二に、正解がかりにあるとしても、そこへ辿り着く途が発見可能とは限らない。とりわけ、自然科学の方法にならって検証と論理とに頼って道徳問題の正解を見出すことはできないし、歴史の究極の方向と目的に関して、必然で不可避の歴史法則は存在しない。第三に、道徳問題に関する回答はしばしば相互に両立せず、比較不能(incommensurable)でさえある。つまり、すべての回答を共通の1つのものさしに落とし込んで善し悪しを比べることはできない。
 

 
 バーリンはリベラルである。しかし、リベラルな思想家が価値多元論者とは限らない。ジョン・スチュアート・ミルは功利主義者であり、価値一元論者であった。個人の根源的平等性を強調したロナルド・ドゥオーキンも価値一元論者である*3
 
 ときにイマニュエル・カントが価値一元論者であるとされることがあるが*4、これは誤解である。彼の言う定言命法は、道徳問題について唯一の正解を発見するための手段ではないし、そんなものは発見できないとカントは考えていた。彼が客観的法秩序の下ですべての市民が社会生活を送るべきだと主張したのは、激烈に衝突する道徳的判断を下す諸個人が、自由に判断し行動し得る範囲を法秩序が各個人に平等に割り当てることで、平和な社会生活を保証することができるからである*5。カントは道徳的判断に関する多元論を当然の前提としていた。
 
 いずれにせよ、リベラリズム擁護のために価値多元論があるわけではない。価値が多元的であること、異なる諸価値が対立すること、相互に比較不能でさえあることは、この世の現実である。リベラリズムが擁護されるべきか否かとは、独立の問題である。
 

 
 価値多元論は、価値相対主義と混同されることがある。レオ・シュトラウスもこの混同をおかした。シュトラウスにとって、正解は1つである。それは決して獲得できるものではなく、それを目指して永遠に努力すべきものにとどまりはするが*6。正解が1つであることを否定する者は、シュトラウスにとっては価値相対主義者であった。
 
 バーリンは、マイケル・ウォルツァーに宛てた手紙(1986年1月14日付)で、価値多元論と価値相対主義の相違を論じている*7。議論の出発点となるのは、H.L.A. ハートが『法の概念』で描いている「自然法の最小限の内容」だとバーリンは言う。
 
 ハートは、人の世の中には、永遠に変わらないいくつかの特質があると言う。人間らしい暮らしを送るには集住が必要であること、人間が肉体的に傷つきやすい存在であること、身体能力や知的能力において人々の間に大きな差異はないこと、人の利他心には限りがあること、人が生きていく上で必要な資源は稀少であること、社会公共の利益の実現に向けた人々の理解や意思にも限界があること等である*8。これらの特質のため、人々が生きのびていくための社会のルールとして最小限必要なものの範囲がおのずと定まってくる。
 
 しかしさらに、人がいかに生きるべきか、道徳的問題に直面してどのような解答を与えるかは人によって異なる。アンティゴネが正しいのか、クレオンが正しいのか。いずれの決断にも、それを支える十分な理由がある。いずれが正しいかを判断するための、両者に共通するものさしはない。対立を調和させること、トレード・オフで最適解を見つけることはできない。そうした意味で、両者は比較不能である。
 
 真実と人の幸福が両立するとは限らず、効率性と個人の権利・自由はしばしば衝突する。自由を無制限に認めれば、強者は弱者を虐げるだろう。すべてを取り込み調和させる価値の包括的秩序、いつの時代もどこの社会でも妥当する唯一正しい価値秩序は存在しない*9
 
 人は生きる上で比較不能な選択肢に直面する。それぞれに選ぶべき十分な理由がある。いずれを選んでも間違っているとは言えないが、両方を同時に選ぶことはできない。人はそうした選択を通じて、自分が何者であるかをみずから決めていく。人の判断と選択には意味がある。
 
 価値多元論は価値相対主義とは異なる。価値相対主義は、すべては趣味の問題だという立場に似ている。あなたはアイスクリームが好き、私はシャンパンが好き。それで話は終わりである。何がその選択肢を支えているか理由を訊ねる意味もない。それが正しいか正しくないか、当人からしても評価のしようがない。アイスクリームが好きな人とシャンパンが好きな人との間に、対話は成り立ちようがない。異なる文化相互の理解は不可能である。
 
 価値多元論は違う。人が目指す目的と価値は客観的にそこにある。それぞれ理由に支えられている。それらは相互に衝突する。比較不能でさえある。しかし、相手の視点に立って、相手の価値観を内在的に理解することは可能である。対話も相互理解も可能である。そして、人や社会の特質に根本的な変化がない以上は、多元的と言っても限界はある。人間の社会であるためには*10。価値多元論にも、保護範囲は設定可能である。
 

 
 バーリンは、哲学者として研究生活をスタートし、政治思想史研究へと針路を転換した。この転換が起こったのは、第二次大戦中の1944年、ワシントンDCの駐米大使館に勤務していた彼が、イギリスに一時帰国するために搭乗した、大西洋を横断する飛行機の中でのことであったと、バーリン自身は述べている*11

 1944年に、私は爆撃機でイギリスに帰国しなければなりませんでした。この頃の爆撃機は機内の空気圧が調整されておらず、酸素マスクを付けるよう言われました。眠ることもできません。眠り込んで酸素を送るパイプを押しつぶすと窒息するおそれがあります。灯もありませんから、読書もできません。というわけで、もっとも恐るべき状況に陥ります──考えるしかない。私はカナダからイギリスまで、7~8時間考え続けました。
 私が到達した結論は、私は、人生の出発点より多くのことを人生の終わりにおいて知りたいと思っていること、哲学は人間の知性を最高度まで強いるすばらしい研究対象で、そのもっとも重要な局面と成果を天才たちが指し示してきた領域ではあるものの、私には向いていないということでした。私は哲学研究を楽しんではいましたが、哲学上の問題について夜中に目を覚まして考えはしませんでした。他方、道徳的・社会的な対象を研究するとき──たとえば、私がいつもかじっていた19世紀のロシアの思想家を研究するとき──彼らを悩ましていた事柄や、彼らが問うていた問題は、長い年月をかけて追求するに足りる知的興奮を生み出すものでした。
 そのとき私は、これらの思想家の歴史に猛烈に関心を持つようになったのです。彼らは近代世界についてだけでなく、人間の条件一般にとってレレバントだと考えたからです。そこでイギリスに辿り着いたき、私は驚き呆れるニュー・コレッジの同僚たちに──私はこのコレッジのフェロウだったのですが──哲学はもうやめる、思想史家になると告げました。受けはよくありませんでした。当時において現在においても、イギリスで推奨された研究領域ではありませんでしたから。

哲学は知識を徐々に蓄積していくことのできる研究領域ではないし、社会上・政治上の道徳問題を取り扱うものでもない*12
 
 政治思想史家である以上、当然のことであろうが、バーリンは思想がもたらす影響力を強調する*13

すべてを引き起こすのは、私の考えでは、思想(ideas)です。社会的条件とか、社会的・政治的な変動・発展にかかわる諸要素とか、階級間の経済的関係とか、技術の文化に及ぼす影響とかではありません──歴史家の中にはそう信じたがる者がいるようですが。マルクシズム、ファシズム、ナチズム──つまり個々人の頭から生み出される思想こそが、騙されやすい信奉者を魅了する。結局はこうした思想とそれを生み出す個々人にこそ責任があります。

有名な講演「2つの自由の概念」で、彼は次のように述べる*14

約100年前のことですが、ドイツの詩人ハイネは、フランス人に対して、思想の力を軽視しないよう警告しています。教授の静謐な書斎で育まれる哲学的概念は、1つの文明を破壊することができるのだと。

政治思想史研究は、価値多元論とどのように関係しているであろうか。個々の思想の研究を通じて価値の多元性に気付かされることもあるはずである。バーリンは、若い頃は価値一元論者であったが、マキャヴェッリとの出会いがその信念を揺るがした*15

マキャヴェッリは、2つの対立する価値秩序、キリスト教のそれと異教(pagan)のそれとが可能であることを認識した、おそらく最初の思想家だと思います。彼は、いずれを選択すべきかを判断するための包括的な規準を提供していません。いずれかが他に優るとも言っていない。彼が異教のローマ的な価値秩序の方を好んだことは明らかですが、しかしキリスト教を断罪したり批判したりはしていない……『君主論』と『リウィウス論』を支える思想は、倫理学と政治学における「久遠の哲学philosophia perennis」の観念に深い亀裂を生じさせました。事実にせよ価値にせよ、あらゆる問題には唯一の正解があり、理性的探究を通じてそれを発見できるという観念は、ギリシャ・ローマに始まって、中世のスコラ学者、ルネッサンスを経てデカルト、ライプニッツ、スピノザ、さらにはフランスの百科全書学派、19世紀の形而上学者、実証主義者、実在論者、観念論者、そして現代の科学的思考の信者にいたるまで一貫して共有されています。マキャヴェッリは、人が奉ずることのできる生き方、現世にしろ来世にしろ、救済を得る途に少なくとも両立しない複数の途があり得ると考えた最初の思想家です*16

 マキャヴェッリは、誠実さと隣人愛を説くキリスト教の倫理を全否定したわけではない。彼は死の床で告解し、キリスト者として死んだ。
 
 しかし、祖国イタリアを防衛し、外国の諸勢力の支配からイタリアを解放するために必要なのは、キリスト教倫理ではないことを彼は指摘した。むしろ共和政期のローマ人やペリクレス治下のアテナイ人の倫理を身につけ、市民としての徳を涵養すべきであると主張した。マキャヴェッリにとって、キリスト教倫理と古典古代の共和政の倫理とは両立しない。ローマやアテナイを再興するために必要なのは、後者である。望ましい理念がすべて両立し、整合するという前提は間違っている。価値は多元的である。
 
 価値が多元的である以上、道徳上のすべての問題を一挙に解決することは不可能である。すべての人にとっての理想の社会なるものは、丸い三角形と同様、筋の通らない観念である*17
 
 この論点は、前述した「哲学的問題」と「政治的問題」との区別と関連する*18。政治思想史研究から分かることの1つは、それぞれの社会、それぞれの時代に特有の問題があることである。古典古代のギリシャの哲学者が直面した問題と、戦間期のヨーロッパの思想家が直面した問題とは異なる。それらはいずれも、21世紀の日本の思想家が直面する問題とは異なる。こうした地域や時代によって異なる問題は、政治的問題であり、政治的に解決されるべき問題である。過去の歴史や他国の事情を考察することで、解決の手掛かりが得られることも、しばしばある。
 
 これに対して、人の世が続く限り、解決できない哲学的問題もある。人間のあり方や社会のあり方が根底的に変革されない限りは、解決があり得ない問題である。人々はなぜ多様な理念や思想を奉ずるのか、なのになぜ「真の自己実現」に関する教理を人々に押しつけようとする政治指導者が後を断たないのか、なぜ人々は世界観や信仰の対立を理由に殺し合うのか、生産力が飛躍的に拡大し、地球全体としては資源の稀少性は解消されているはずなのに、なぜ人々はさらに自分たちだけの資源を追い求め、消費し切ることもできない富を追い求めて相争うのか。
 
 こうした問題を一挙に解決する夢のような「最終的解決」は存在しない。価値一元論からすれば、最終的解決はあるはずだし、それは「科学的」に発見可能でもあろう。正解が発見されれば、それ以外の「誤り」を除去すれば足りる。教育か矯正か強制収容所か、あるいはギロチンによって。しかし、そうした想定はしばしば、残忍な独裁体制か、あるいはあらゆる矛盾と衝突の解決を旗印とする血みどろの激烈な闘争をもたらし、今も世界各地にもたらしている。
 
 バーリンは、「理想の追求The Pursuit of the Ideal」*19という彼の講演録について、次のように述べている。

アネリ(Agnelli)賞を受賞したおりの講演で、私が話したのは、人間のかかえる諸問題に対する単一の最終的で普遍的な解決を追求しようとすることは、幻影を追い求めるものだということでした。追求すべき理想は数多くあります。それらの中には相互に両立しないものもあります。しかし、人間のかかえるすべての問題を包括的に解決するという観念は──それへの抵抗が激しければ、暴力を用いなければならないわけですが──流血と苦難のもとを増やすだけです*20

 

 
 価値多元論とリベラリズムとはどのような関係にあるのだろうか。バーリンはこの論点を十分に展開しているとは言いがたい。彼の議論を受けて、いくつかの議論の方向性が示されている*21
 
 第一に、価値多元論は、価値が多元的であり多様であることを前提とする。多くの価値があるのだとすれば、許容される価値の幅が狭い社会は、それだけ多くの価値を切り捨てていることになる。価値の多元性を真剣に受け止めるならば、人間社会に相応しい価値をできるだけ多く許容すべきことになる。
 
 第二に、価値多元論は多様な文化の存在を帰結する。それぞれの文化は、それに属する個人の生きる基盤を形成する。多様な文化が存在していること自体が、1つの価値である。存在する価値が多様であればあるほど、その社会は善い社会であろう。
 
 第三に、諸個人がそれぞれ自分なりの価値を選択し、追求し、自分なりの人生を(少なくとも部分的には)自分で作り上げていこうとするとき、多様な価値が許容され、存在する社会は、そうした自律的な生き方にとって適切な環境を提供する。もっとも、個人が自律的であることを必ずしも高く評価しない文化も存在するし、そうした文化の存在も許容されるべきではあるが。
 
 価値や文化の多様性も、個人の自律も、それ自体が追求されるべき唯一の価値であるわけではない。それぞれ、多様な価値の1つである。しかし、価値や文化の多様性がより多く認められる社会とそうでない社会、個人の自律的な生き方がより多く認められる社会とそうでない社会で、どちらが選ばれるべきかと言えば、答えはおのずと明らかであるように思われる。気をつけるべきなのは、こうした選択は、その帰結に関して非対称であることである。
 
 個人の自律的な生き方が認められる社会は、修道院での修道士の生のような、自律的でない生き方をも許容することができるが、個人の自律的な生き方を認めない社会では、自律的でない生き方のみが認められる。多様な文化が共存する社会で、単一の文化にのみ従って生きることは可能であるが、単一の文化のみが認められる社会で多様な文化と触れ合い、かかわりあいながら生きることは不可能である。
 
 価値多元論とリベラリズムとの関連を考えることは、そうでないとしたらどうなるか、という想像力を働かせることである。表現の自由や信教の自由がその社会でどこまで広く認められているかは、表層の問題にすぎない。権力行使のあり方や制度運用の背景で、価値の多元性への配慮がどこまで働いているか、それが本当の問題であり、それを見極める必要がある。
 
 とはいえ、すべての人、すべての社会が価値多元論に与することは期待できない。それは、哲学的問題である。
 
 

*1 Isaiah Berlin, ‘The Lessons of History’, in Joshua L. Cherniss and Steven B. Smith (eds), The Cambridge Companion to Isaiah Berlin (Cambridge University Press 2018) 265-68.
*2 『論理哲学論考Tractatus logico-philosophicus』を完成した直後のウィトゲンシュタインのように、哲学的問題を解決したと主張する哲学者はあとを断たないが。
*3 少なくとも表面上はそうである。しかし、『法の帝国』以降のドゥオーキンは、諸個人の到達する「正解」が一致するとは限らないことを正面から認めるようになった(Ronald Dworkin, Law’s Empire (Harvard University Press 1986) 81, 267)。彼の「正解テーゼ」は、それでも個人は自身にとっての「正解」を求めて解釈活動を続けるべきだという個々人の心構えに関する主張へと変貌している(ibidem, 413)。プロテスタントの信者が、それぞれ神と直接に交流し真の信仰をつかみとるために自分自身で努力を続けるべきであるように。とはいえ、ドゥオーキンの最終的な「真意」が奈辺にあるかは、掴みがたい。次から次へと主張を変転させていく彼は、「濡れたアザラシwet seal」にたとえられている(cf. A.W. Brian Simpson, Reflections on ‘The Concept of Law’ (Oxford University Press 2011) 2)。
*4 たとえば、ジョン・ロールズが『道徳哲学史講義Lectures on the History of Moral Philosophy』で描いているカントは、定言命法を武器に唯一の正解を探究する価値一元論者である。バーリンも、カントを価値一元論者としてとらえていた可能性がある。
*5 この点については、拙著『憲法の円環』(岩波書店、2013)第4章「カントの法理論に関する覚書」参照。
*6 この点については、拙著『憲法の境界』(羽鳥書店、2009)第5章「学問の自由と責務──レオ・シュトラウスの「書く技法」に関する覚書」参照。
*7 Isaiah Berlin, Affirming: Letters 1975-1997 (Henry Hardy and Mark Pottle eds, Chatto & Windus 2015) 275-78.
*8 H.L.A. ハート『法の概念〔第3版〕』長谷部恭男訳(ちくま学芸文庫、2014)第IX章第2節。
*9 Berlin (n 1) 272-73.
*10 Steven B. Smith, ‘Isaiah Berlin on the Enlightenment and Counter-Enlightenment’, in Joshua L. Cherniss and Steven B. Smith (eds), The Cambridge Companion to Isaiah Berlin (Cambridge University Press 2018) 147-48.
*11 Isaiah Berlin, Flourishing: Letters 1928-1946 (Henry Hardy ed, Cambridge University Press 2004) 488-89. ちなみに、彼が当時属していたニュー・コレッジ(New College)の創立は1379年である。
*12 ブライアン・シンプソンは、バーリンを哲学から遠ざけ、思想史研究へと向かわせたことが、J.L. オースティンが成し遂げた最大の知的貢献かも知れないと述べる(Simpson (n 3) 45)。
*13 Berlin (n 7) 540-41.
*14 Isaiah Berlin, ‘Two Concepts of Liberty’, in his The Proper Study of Mankind: An Anthology of Essays (Henry Hardy and Roger Hausheer eds, Farrar, Straus and Giroux 1998) 192).
*15 Isaiah Berlin, ‘The Pursuit of the Ideal’, in his The Crooked Timber of Humanity: Chapters in the History of Ideas (Henry Hardy ed, Princeton University Press 1990) 7.
*16 Ramin Jahanbegloo, Conversations with Isaiah Berlin (Phoenix Press 1993) 53-54.
*17 バーリンは、価値の多元性が明確に意識されるようになった18世紀以降になってはじめて、自分の信念に対する真摯さ(sincerity)や自身と異なる信念に対する寛容さ(tolerance)が美徳として意識されるようになったと言う(Isiah Berlin, ‘Letter to Henry Hardy on 11 April 1994’, reproduced in Henry Hardy, In Search of Isaiah Berlin: A Literary Adventure (Tauris Parke 2018) 152-55.)。
*18 Ryan Patrick Hanley, ‘Berlin on the Nature and Purpose of the History of Ideas’, in Joshua L. Cherniss and Steven B. Smith (eds), The Cambridge Companion to Isaiah Berlin (Cambridge University Press 2018) 91.
*19 Berlin (n 15).
*20 Jahanbegloo (n 16) 47.
*21 George Crower, ‘Pluralism, Relativism, and Liberalism’, in Joshua L. Cherniss and Steven B. Smith (eds), The Cambridge Companion to Isaiah Berlin (Cambridge University Press 2018) 245-48.

 
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第1回 現実感覚
第2回 戦わない立憲主義
第3回 通信の秘密
第4回 ルソー『社会契約論』における伝統的諸要素について
第5回 宗教上の教義に関する紛争と占有の訴え
第6回 二重効果理論の末裔
第7回 自然法と呼ばれるものについて
第8回 『ペスト』について
第9回 「どちらでもよいこと」に関するトマジウスの闘争
第10回 若きジョン・メイナード・ケインズの闘争

長谷部恭男

About The Author

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第7版』(新世社、2018年)、『法とは何か 増補新版』(河出書房新社、2015年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)ほか、共著編著多数。