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あとがきたちよみ
『種を語ること、定義すること』

 
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網谷祐一 著
『種を語ること、定義すること 種問題の科学哲学』

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はじめに
 
 世界は種にあふれている。
 例えば身の回りの自然をとっても、春になればヤマザクラが咲き、ウグイスが鳴き、ツバメが巣を作る。梅雨時にはニホンアマガエルが鳴き声をあげ、ニホントカゲが出てくる。夏になればヒマワリが咲き、ゲンジボタルが夜に光る。秋になればアキアカネ(アカトンボ)がやってきて、スズムシが鳴く。ススキが生い茂り、イロハモミジの紅葉が楽しめる。そして冬になれば北国ではタンチョウヅルやハクチョウ(オオハクチョウ・コハクチョウ)が越冬のために飛来し、サザンカやヤブツバキが咲く。
 身の回りを離れて動物園や水族館に行けば、キリン、ライオン、ヤギ、アフリカゾウ、ボルネオオランウータン、ニホンジカ、ホッキョクグマ、フクロウ、キングペンギン、フンボルトペンギン、ゴマフアザラシ、ミズクラゲ、ラッコなどいろいろな種の動物を見ることができる。
 このように、生物の世界は種にあふれている。それだけではない。多くの生物学者は生物の世界は種からなると考えている。例えば、生物学者が論文を書くときには必ず対象にした生物の種の名前を書くことになっている。これは、種名を書くことによって、論文の著者が本当にどの生物について語っているのかがはっきりするからだ。
 このように、種は我々にとって、また生物学者にとってとても重要な単位だ。ではその「種」とは何だろうか。また、「種」をどう定義したらよいだろうか。じつは、これについては生物学者の間でいろいろな考え方がある。
 例えば、別々の種に属する生き物の間には子孫ができないことが多いが、それを基準に種を定義できると考える生物学者がいる。次に、別々の種に属する生き物はその姿形(形態)や振るまいが違っていることが多いが、そのことが種のメルクマールなのだと考える人もいる。また進化的に考えると、ほとんどの場合異なる種は異なる歴史を担っている(異なる系統に属する)が、それが種を定義する上で大切だと考える人もいる。さらに、異なる種の生き物は異なる生息地に住み、異なった仕方で自然選択のプロセスに晒されていることが多いが、それが種の本質だと考える研究者もいる。
 このように、生物学者は「種とは何か」についていろいろな答えを提示してきた。そしてその中でどの考え方がもっとも正しいかについて、生物学者はいまだ意見が一致していない。別々の種の間に子孫ができないことが重要だと考える人もいれば、異なる歴史を担っていることが重要だと考える人もいるし、自然選択のプロセスが重要だと考える人もいる。つまり、「種」とは我々にとって、また生物学者にとって非常に重要であるにもかかわらず、それが何か、本当のところはあまりよくわかっていないのだ。これが「種問題」と呼ばれる。
 本書は、この種問題を哲学的に探究する。と言っても、この本は「種とは何か」という問いへの答えを明らかにしようとする本ではない。この本を最後まで読んでも「種とは何か」、「種を何によって定義したらよいのか」ということはわからない。 ではこの本はどういう本なのか。この本は「種問題と、特に『種』という概念と、科学者がどうつきあっているのか」を明らかにする本である。
 これはどういうことだろうか。なぜこのことが重要なのだろうか。それを説明するには、じつはわたしの研究史を簡単に振り返ることがここではもっとも手っ取り早い(もう少し理論的な説明は第一章で行う)。
 わたしの専攻は「生物学の哲学」という科学哲学の一分野だが、「種とは何か」という問題は生物学の哲学の定番の問題の一つである。わたしが研究を始めた当時、英米の哲学では駆け出しの研究者はその分野のスタンダードな問題に対する解答を与えることからスタートすることが多かった(今はちょっと違う)。わたしもその例に漏れず、種問題の研究を始めた当初はこの問いに答えることを目標としていた。某大学の大学院で修士論文の執筆を最初に試みたときには、種の多元主義(複数の種の定義がそれぞれに正当だと考える立場──詳しくは第一章を参照)を擁護する計画だった。
 その当時、わたしは多元主義こそが種問題に関して哲学者のみならず生物学者にとってもスタンダードになると考えていた。種問題は重要な未解決問題であり、林立する種の定義は互いに簡単には相容れない。もしこれが正しいなら、残る選択肢は複数の種の定義をそのまま受け入れることしかないではないか──そうわたしは思っていた。
 ところが、多元主義の立場が提唱されてからかなりの時間がたっても、生物学者からそれを採用する動きは表だってはまったくなかった。もちろん、わたしの見立てが間違っていて、多元主義は生物学者にとってそれほど魅力がないのかもしれない。しかし、多元主義以外の解決案についても、生物学者の立場が収斂していく気配はほとんど見られなかった。それどころか、わたしが研究を始めた後にも新しい種の定義がいくつも提起された(じつのところ、本書の執筆中も新しい定義が立てられた──Seifert 2020)。また種についての研究も、こうした状況から深刻なネガティブな影響をうけた気配はほとんどなかった。つまり、生物学者は互いに相容れない種の定義が乱立する状況をさほど気にかけていないように見えたのである。
 これはどういうことだろうか。種は生物学にとって重要な単位であり、種問題は重要な未解決問題である。これは種問題を論じる論文で、哲学者だけでなく生物学者によっても何度も繰り返されてきた主張である。しかし生物学者の振るまいを見ると、それとは必ずしも相容れない態度を見せている。生物学者が種問題に対して見せるこの「矛盾」──文字通りの矛盾とまでは言えないにしても、いずれにせよ互いに相反する態度──をどう理解すればよいだろうか。これが種問題の研究を進めていくうちにわたしの前に立ち現れてきた大きな問いだった。
 そしてこの問いに格闘するうちに、こうした矛盾を解きほぐす鍵は、生物学者がどのように「種」という概念とつきあっているかにあるとわたしは考えるようになった。なぜなら、右で述べた一見矛盾する態度もそれぞれに生物学者の実践に源をもっているはずで、ならばそうした実践を解明すれば、なぜそのような一見矛盾するような態度がでてくるか理解できるようになるだろうからだ。
 これがこの本の元になった研究の出発点だ。本書はこの問いをいくつかの章に分けて探究する。まず第一章では、種問題および右で述べた本書の問いをもう少し詳しく説明する。それを受けて第二章では、コミュニケーションの点から生物学者の振るまい方を捉え直す。もし生物学者が異なる種の定義を支持するならば、そうした生物学者の間でコミュニケーションの齟齬が生じると予想されるが、そんなとき彼らはどうするのだろうか。この章ではそうしたコミュニケーション不全が生じると予想される事例を取り上げ、そこで彼らがしたことを振り返る。
 第三章では「よい種」という言葉に着目して、生物学者と「種」という概念とのつきあいを描写する。「よい種」というのは明確に「種」だと見なされている個体群のグループを指すインフォーマルな言葉だ。種問題は往々にして大量の「種」の定義の氾濫という点から解釈されることが多かったが、この概念の使い方を見ることによって、生物学者の定義を介さないような「種」概念に対するつきあい方が明らかになる。
 第四章ではこれまでの議論を受けて、では生物学者がどのように「種」という概念を捉えているのか、その全体像を提供する。これによって生物学者が個別の種の定義を超えた一般的な種の概念をもっていることが明らかになる。またそうした「一般種概念」と個々の定義の関係を「はしご」という喩えで描写し、それがこれからの種問題の議論にとってどういう意味をもつのかを考える。
 これが本書の概要だ。それでは議論に入っていきたい。
 
 
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