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あとがきたちよみ
『法と文学』

 
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小林史明 著
『法と文学 歴史と可能性の探求』[明治大学社会科学研究所叢書]

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はしがき
 
 本書のテーマは「法と文学」である。ほとんどの読者にとって馴染みのない「法と文学」がいったい何ものであるのかについては、本書を通じて多少知ってもらえると期待するが、その期待が多少でしかないのはこの領域があまりに茫漠としていてその疆界線を誰も見たことがないからである。法と文学の関係を語るに際しては「文学とはなにか」「法とはなにか」という問いが先決であるやに思われるが、そうだとすれば「法と文学」の本は永遠に出ないだろう。定義の問題は文学的ではないし、実は法学的でもないと私は考える。さしあたり、いわゆる通念としての「文学」と「法」を念頭に、本書の実践を通じて像を結んでもらいたい。
 Law and Literature として主にアメリカにおいて展開されてきたこの分野は、特定の法律や法分野を対象とせず法一般の理論的・基礎的研究を試みる点で、法史学や法社会学などが属する基礎法学の一つである。そのため、文学が人間の想像しうるあらゆる主題、時代、内容、ジャンルなどを扱うのに似て、「法と文学」も法に関するあらゆる領域に手をひろげることができる。実際には文学者よりも想像力がないためかそれほど浩々とはしていない。ただ、法教育への実践的応用を論じたかと思えば法解釈方法論の理論的考察もおこない、政治的法運動に関わったかと思えばライティング・スキル向上のメソッドを論じることもある。これらがすべて「法と文学」の名の下におこなわれているのが実情である。
 本書は、これまで「法と文学」に関連して書いてきた小論を集成したものである。刊行にあたっては、この広汎かつ雑然とした「法と文学」を整序して見晴らしをよくしたいと考えていたが、能力的にも性格的にもかなわなかった。言い訳がましいことを言えば、ある種の「法と文学」には理性によって整然と均された大地を良しとせず個々の感応性を重視する性向がある。とくに本書の第二篇がてんでんバラバラなものを扱っているように見えるのは著者の関心のうつろいによるもので、「法と文学」らしさの実践があると居直ることもできるが、読者においてはどうかこの鵺的な多様性を温かく諒としてほしい。このことは、本書が、数少ない類書においてあまり扱われていない分野の小論を収載している理由でもある。
 そもそも、私が「法と文学」に関心を抱くにいたったきっかけの一つは、あるギリシャ悲劇を読んだことであった。ギリシャ悲劇を素材に「法と文学」を論ずる場合、しきりに引かれるのはソポクレスの「アンティゴネー」である。人定法たる王の禁令と神の法である自然の掟の二律背反を激越に示したこの作品は、法哲学やフェミニズムなどにも刺戟を与えていて、これに触発された多くの論攷が現在でも世界中で発表されている。だが私が関心を抱いたのは、おそらく裁判文学としては最古級であるアイスキュロスのオレステイア三部作の一つ「慈みの女神たち」であった。
 アポロン神の命により、父アガメムノンを殺した母を殺害し復讐を遂げたオレステスが、女神アテナの指揮する陪審裁判を受ける物語で、一般には復讐の連鎖を法の裁きによって断ち切る司法制度確立譚として理解されている。アテナは果てしない報復の報復を求める復讐の女神たちに「お前方は、実際に正しくあるより、そう言われれば満足なのだね」と問い、「誓いだけで、不正なものが、勝ちを得られはしない」と宣言して、十分に事案を吟味して、言葉だけではたどりつけない正しさを得るべく「実をつくして裁くよう」裁判を開き、見事に血で血を洗う報復劇に終止符を打つ、といったようにである。
 ところがよく読んでみると、そんなアテナの指揮する裁判で弁護に立つアポロン神は、少なくとも現代の私たちには詭弁とも思われる弁舌を振るっている。さらにはゼウスの神威に恃んで陪審に無罪を訴えるも、神の支配を重視する当時の市民たちでさえ、これに十分には説得されなかったとみえて票決は有罪無罪同数となる。しかし裁判長を務めるアテナは説得されたようで無罪に与し、はれてオレステスは無罪放免となる。ここに私が見出したのは司法制度の確立ではなかった。アテナの当初の宣言とは反対に、正しさが語りと説得によっていかようにも左右されるさまである。裁判におけるレトリックや語りの重要さを意識せずにはいられなかったのである。最古の裁判文学は、文字通り裁判が文学的に決せられていると暗示しているのではないか。ここから裁判や法のもつ文学的性質に取り組んでいこうと決めたのである。
 本書はこの無謀な企てのさしあたりの記録である。説明がやや淡泊にすぎたきらいがあり引証をより充実させるべきであったが、引き続いてこの課題と挌闘するために、ここにこれまでの試みを一旦示して読者諸賢からの指導を請いたいと思う。
(傍点と注は省略しました)
 
 
あとがき
 
 本書は、二〇一六年に明治大学大学院に提出した博士論文を加減筆しつつ、その前後に執筆した数篇の小論を集成したものである。出版にいたるまでには多くの障壁があった。とくに過去に書いたものを読み返す心理的障壁には長く悩まされた。遅筆、悪文にはいまも苛まれている。もとより移り気で関心が持続しない性格がわざわいし、一つのテーマで書き切ることがついぞできなかった。これらの自分自身に由来する障碍は、新型コロナウイルス禍やその影響による図書館や研究室の利用制限よりもはるかに大きかった。それでもなんとか出版にこぎつけることができたのは、編集者の鈴木クニエさんの硬軟おりまぜた督励のおかげである。鈴木さんでなければ私は逃げおおせていたのではないかと思う。
 私が「法と文学」に最初に触れたのは学部三年生のときだったらしい。ゼミの担当教員であった石前禎幸先生がLawʼs Stories という本を私に貸し与えてくれたと日記にある。これがすべての始まりであったが、私の関心は長続きしなかったようでその後は法の不確定性、マルクス主義法学、映画と法などを勉強していたようである。
 大学院での指導教員は土屋恵一郎先生となり、私にとってこれは大きなショックであった。土屋先生の書いたものには、天才的なひらめきによる題材組み合わせの妙があり、何から何まで異彩を放っていた。読むたびに自分の考えていることがいかに凡庸かを自覚させられひどく落ち込んだ。先生はどのようにして読む本を決めているのか見当もつかないほど、フツウの法哲学者が読んでいないものを大量に読んでいる。本書にも登場するショシャナ・フェルマンと証拠の問題をはじめて聞いたのは先生との会話である。土屋門下の敬愛する先輩である西迫大祐さん(沖縄国際大学准教授)も書いている(『感染症と法の社会史』新曜社、二〇一八年、あとがき)ように、先生は論文のテーマを考える天才で、たくさん思いついているが書く時間がないのだと常々いっている。私たち院生との会話でも惜しみなくアイディアの一部が披露されていたが、それを受け取る能力が私にはなかった。先生と会うたびに大量に降り注ぐアイディアの素粒子が私を透過していったが、たったひと粒受け取れたのが「法と芸術の交錯」だったのである。もちろんこれをキャッチできたのは、その数年前に石前先生が私に植えつけた受容体のおかげである。かくして明治での院生生活は両先生のあいだを行き来することで過ぎていった。
 大学院ではさらなる僥倖があった。当時、東大を退官して日大に移っていた長尾龍一先生が明治大学大学院で法哲学演習を担当していたのである。自身も文学青年だったと『文学の中の法』でも書いている長尾先生の該博、博覧強記に圧倒され、ここでも大変落ち込んだが、それ以上に知ることの楽しさを教わった。今日にいたるまで長尾先生には有志による合宿の機会を通じて指導を仰ぎ、いかに先生の知らないことを面白く伝えるかに今でも四苦八苦している。
 博士論文執筆後には、運よく学術振興会特別研究員PDに採用され一橋大学の森村進先生の指導を受けることができた。特別研究員PDは、原則として所属研究機関を変更しなければならないが、いったい日本のどこに「法と文学」で受け入れ可能な研究者がいるのかと考えを巡らせていたところ、灯台下暗し、法哲学者のなかにあって文学や芸術に通暁している森村先生に快諾してもらえたのである。はじめて明治から出て、一橋大学の基礎法学の先生方、院生方と交流できたことは、神田駿河台の小さな世界しか知らなかった自分の来し方を見つめ直す貴重な機会となった。
 法哲学者にはさまざまなタイプがある。誤解を恐れずにいえば、土屋先生、長尾先生、森村先生は同じ森に棲んでいるような気がする。少なくとも似たようなものを食べていそうである。私にとって居心地の良い森である。ここに誘ってくれた石前先生、それぞれの仕方で指導にあたってくれた先生方、議論につきあってくれた院生方にこの場を借りて心より感謝したい。
 家族に感謝する「あとがき」を多数見てきた。そのたびに家に帰って直接言うなり電話するなりすればいいのにと思っていた。文章として紙の上に残したいのは、その人への感謝ではなくてその人に感謝している自分そのものなのだろう。だから、私は親密な人にはなるべく直接言うことにしたのでここには書かない。ただ、恥ずかしくて言えない人、言うことができなくなってしまった人は、ここに書いておくしかない。
 明治に引きこもっていた私を若手研究会という他流試合に引っ張り出し、その後も公私共にお世話になっている吉良貴之さん、法哲学会の合宿ではじめて報告した際にコメントを担当してくれた三本卓也先生、そのときの質疑で完膚なきまでに打ちのめしてくれたが「面白いから学会で法と文学ワークショップを企画してはどうか」と声をかけてくれた谷口功一先生にはとくに記して感謝したい。
 本書の刊行を強く勧めてくれたのは、二〇一七年四月に京都大学から明治大学法学部に移籍し、私と机を並べて新任教員研修を受けるはめになった亀本洋先生である。亀本先生には幾度となく励まされ、その飾ることの(でき)ない性格は失礼だが歳の離れた友達のように錯覚することもあるほどである。安酒をあおりながら先生とくだらない話をするのが私にとって至上のときである。亀本先生と引き合わせてくれた石前先生に重ね重ね感謝したい。
 「法と文学」の可能性はあらゆる法分野に及ぶと信じているが、それを本書が示しおおせたとは到底思えない。本書よりももっと魅力的に豊饒な可能性を現実化できると多くの読者に思っていただければそれで十分である。
 本書は、明治大学社会科学研究所の助成を受けて、社会科学研究所叢書として出版された。若手教員への支援を続けている大学に感謝したい。また、本書の原稿のチェック、校正にあたっては、後輩である野寺巧寛さん(金沢学院大学助教)、大上尚史さん(明治大学大学院博士後期課程)に大変お世話になり感謝の言葉もないが、言うまでもなく文責はすべて小林にある。
 
二〇二〇年九月
小林史明
 
 
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