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あとがきたちよみ
『続 日本教育学の系譜』

 
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小笠原道雄・森田尚人・森田伸子・田中毎実・矢野智司 著
『続 日本教育学の系譜 京都学派とマルクス主義』

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はしがき
 
 本書は『日本教育学の系譜』(二〇一四)の続編として編まれた。旧来からの執筆者(小笠原道雄、田中毎実、森田尚人、矢野智司)に新たに森田伸子が加わったが、教育学を学問として成立させる理論的・哲学的根拠が、わが国の教育学研究の歴史のなかでどのように問われてきたかを考察しようという当初の意図は変わらない。前著はわが国の教育学説史研究の通説的見解に異を唱えるものであり、ひいては戦後教育学のイデオロギー的前提に批判的に論及することになっただけに、もっと多くの教育学説を俎上にのせて検討し、さらに議論を深めるべきではないかとの思いが、われわれの間に強く残った。このことが続編の企画につながったのである。
 各論稿ごとのテーマ設定は、執筆者個人の問題意識と研究関心に委ねられ、はじめから特定のプランにもとづいて本書の全体内容が構想されたわけではなかった。だが、矢野の「序章」が各章の議論を通観して述べているように、本書の構成は、時間的には敗戦をはさんだ昭和前期に範囲を限定し、内容的には京都学派とマルクス主義という二つの思想軸を交錯させながら教育をめぐる議論を跡づけるものとなった。ただ、タイトルに掲げた日本教育学という表現には違和感を覚える向きもあると思われるので、ここで日本教育学という表記を引き続き用いることの問題性について、二点ほど言及しておきたい。
 ひとつは、「日本教育学」という言葉が、戦前期に国体論や日本精神がしきりに喧伝されるなかで登場した特定の教育学説を連想させることについてである。一九三〇年代になって戦時体制の構築が進行し、教育の領域でも国家主義体制が徹底されるなかで、「日本教育学」と称する教育学的立場が有力な地歩を占めるようになった。それは、明治以降に欧米から移植された教育学が人間理性の普遍妥当性を主張して、功利主義的・個人主義的教育を基礎づけるにすぎないことを批判して、日本の伝統たる君民一体の国民精神にのっとった主体的・実践的な国民教育学を構想するものであった。敗戦を契機にこの「日本教育学」説は全く忘れ去られることになった、というより、きちんとした歴史的検証がなされないままに、軍国主義の負のイメージとともにただ忌避されるべき対象とみなされたのである。こうした事情ゆえに、欧米諸国で行われてきた教育学研究に対してドイツ教育学、フランス教育学、あるいはアメリカ教育学というふうに国家名を冠して呼ばれるのがごく普通にみられたのとは著しく対照的に、わが国における教育研究一般をさして日本教育学という表現を用いるのははなはだ不適切なこととみなす暗黙の合意ができあがったといえるだろう。本書であえて日本教育学という言葉を使ったのは、こうした状況に一石を投じたいがためである。教育学研究に国家の名を冠して呼ぶことは、決して教育という事実を排他的なナショナリズムと結びつけて理解することを意味するわけでなく、また教育問題が国境を越えたグローバルな性格をもつことを否定することでもない。ことさら日本の独自性を強調した「日本教育学」の試みであってさえ、教育学という学問が欧米の近代社会に源流を持つ国際的な性格と切り離しがたいことをかえって逆照射することになったとさえと言えるだろう。たとえば、この学派の指導的な立場にあった近藤壽治の『日本教育学』にあってさえドイツの教育学書から多くの引用もって叙述されているのである。
 われわれが日本教育学という言葉をあえて用いたいまひとつの理由は、教育学がひとつの学問分野として生まれたのが、近代国民国家の成立にともなう教育の制度化の所産であったという歴史的事実についてどこまでも自覚的でありたいと考えたからである。近代教育学は国家を構成する市民の形成という課題を担って登場したのだが、同時に人間理性に対する普遍的な信念によって支えられた近代思想によってその内実を規定されてもいた。近代ヨーロッパの国情に応じた多様な歴史的状況に直面するなかで、さまざまな思想家や実践家によって練り上げられた教育理論は、なべて進歩信仰と理性崇拝を高らかに謳った啓蒙主義精神によって支えられたものであったがゆえに、国境を越えて行き交うことが可能になり、さらには極東の地にまで行き着いたのであった。しかしながら、教育学がさまざまな近代思想を取り込みながら大学のなかの一学問分野としての地位を獲得するようになるには、国民国家のありように照応して構築された教育制度によって媒介されて、そこで実践的・実用的意義が認められた結果にほかならない。ドイツ教育学・フランス教育学のように固有の国家名を冠した教育学を論じる場合には、その国に特有な教育の制度的・政治的現実に対する歴史的な自己認識を含意せざるをえない。従来の教育学説史研究は、わが国の教育学の学問的達成を欧米の動向に追従するものに過ぎなかったと否定的に評価することが多かった。だが、それらがたとえ西洋の教育学説の全面的な受容であり、たんなる祖述にすぎないような外観をともなっていたとしても、わが国における教育学研究は、それぞれの研究者の歴史意識によって媒介された主体的な理論的営為としてなされたのであり、現存する国家・社会が要請する教育の課題と切り結ぶ社会実践を通して構築されてきたというべきであろう。日本教育学という言葉は、排他的なナショナリズムを連想させるかもしれない。実際はむしろ逆に、各国の教育学は世界史的な同時代性とその影響関係のもとにあって、そのなかで国民国家の課題に向き合わねばならないことの自覚的な表現にほかならないのである。
 最後の章を除いて、本書で主題的に検討した哲学者・教育学者のほとんどはいわゆる京都学派に属する、あるいはその影響下にあった人びとである。それはわれわれ共著者にとっても、意図せざる帰結であった。だが、戦後教育改革を、「新教育指針」にのべられた基本構想にはじまって、「国民実践要領」を経て「期待される人間像」にいたる政策的展開へとたどってみれば、さらには社会科の創設や教科書検定の実際的運用といった教育内容にかかわる戦後教育行政の歴史的変遷においてみても、それらを主導した人びとの大半が西田哲学や京都学派のもとで学問的修練を積んだことを顧みるならば、本書の構成内容がこのようなかたちになったのは、著者たちのたんなる個人的な関心の総和という偶然的な結果ではないことがわかるだろう。またここで戦後左翼の知識人グループのなかで、長田新、務台理作、勝田守一など文部行政に批判的なスタンスをとった人びともまた、京都学派の影響下にあったことを付け加えておくべきかもしれない。
 それではわが国の教育学説の歴史を「京都学派とマルクス主義」という二つの軸にそって再構成しようという本書の試みは、思想史的にはどのように位置づけられるのだろうか。本書を通読して浮かび上がるのは、昭和前期における京都学派の教育学への影響は日本における「モダニズム」の思想的実践として理解することができるのではないかということである。だが、モダニズムを直訳すれば近代主義ということになり、戦後日本の知識人に圧倒的な影響力をもった「近代主義」と混同される惧れが生じる。念のために言えば、敗戦後の「近代主義」は、ブルジョア革命によって成立する西欧近代社会の人間像を理念化する啓蒙思想の一類型であって、それはまさにモダニズムが「敵対した」ところの思想であった。つまり、二〇世紀への転換期に起こったモダニズムは同時代のブルジョア文化とその進歩史観に対して激しい憎悪の念を向けた美的モダニズムに端を発しており、戦後日本の知識人の啓蒙主義的観念、つまり社会進歩や人間の合理性、さらには科学技術への揺るぎない信念とははっきりと区別されるべきものであった。ところが問題は、モダニズムが啓蒙主義的な近代思想を乗り越えるべく出現した欧米社会と対比してみればわかるように、日本の思想界では敗戦を契機に啓蒙主義的リベラリズムがモダニズムにとって代わるという、思想史の歴史的展開という観点からすればまったくの逆転現象がみられたということなのである。このことが、戦後日本の知識人や教育者が全体主義的なソヴィエト体制を支持して、教条的なマルクス・レーニン主義に対して寛容な理論的姿勢をとり続けるというアナクロニズムとどこかでつながっていたように思われる。スターリニズムのイデオロギーこそ、京都学派のモダニズムの対極に位置づくものだったからである。
 本書の構成は、以下のようになっている。序章の矢野論文は、本書全体を貫く教育学説史の方法論的視座を論じる。矢野は思想史研究におけるコンテクスト構築の必要性、つまり教育思想の歴史的意義を社会情勢のみならず、哲学・思想の世界的同時代性のもとで捉えることを強調する。そこに浮かび上がる新たな教育学説史の構図は、昭和前期の教育思想が京都学派の哲学を基軸にしながら、それへの対立軸としてマルクス主義を位置づけるかたちで描くことができるというものである。西田幾多郎の「自覚」概念にもとづく「歴史的主体」の探求という思想的課題は、長田新、篠原助市、木村素衞などの教育学者に共通する特質であった。だが、人間のありようを歴史的・社会的存在として把握しようとする京都学派の理論的課題は、当時の知識人に圧倒的な影響を与えたマルクス主義との対決を不可避なものとした。こうした視点から、矢野は西田、田邊元、三木清、和辻哲郎の思想を取り上げ、具体的内容に踏み込んで分析している。
 第Ⅰ部「戦前期の京都学派とその周辺」の三章は、それぞれ京都学派の哲学者を主題に、その思索の跡をたどることを通して、当時の教育理論および教育実践に与えた実際の影響関係を明らかにする。第一章の矢野智司論文は、大正新教育運動のなかに西田幾多郎の哲学が直接的な哲学的影響を与えたのではないかという、これまで問われたことのないテーマを取り上げる。矢野は新教育の国際的性格に注目して、ベルクソンの生の哲学を媒介させることによって、西田の「自覚」の哲学が篠原助市・土田杏村・及川平治らの教育理論に及ぼした影響を検証する。新教育を推進した教師たちによっても西田の著作が熱心に読まれたという指摘は、教育学者にとどまらず、現場教師たちの思想的鍛錬という点でも、京都学派の哲学が果たした思想的・実践的役割をよく物語っている。
 第二章の森田伸子の論文は、京都学派の「形成」概念を、今日改めて議論されるようになったビルドゥング論のひとつとして、その思想的系譜を追認する試みである。西田によってはじめられた歴史的主体の形成を行為論のレヴェルで把握するという課題は、三木清の構想力論を仲立ちとして、美学者として出発した木村素衞の教育学構想へと流れ込む。歴史的主体は、芸術作品からひろく機械や制度・組織を含む、国民文化を媒介にしてはじめて形成される歴史的・社会性格をもつとすれば、個としての主体は同時に国民として生きる集合的な主体にほかならない。とすれば、教育学は国家の問題に向き合わなければならないだろう。
 第三章の田中毎実論文は、西田と並んで京都学派の理論構築を主導したことで知られる田邊元を論じている。これまで教育学説史の対象とされることはなかったように、たしかに田邊の膨大な著作のなかに、教育学への論及を見出すことは難しい。田中は、初期の科学哲学から、カント・ヘーゲル研究、絶対弁証法に拠る「種の論理」を経て、戦後の「懺悔道の哲学」「死の哲学」にいたる田邊の仕事をたんねんに追認しながら、すべてを媒介性においてとらえる田邊の絶対弁証法のなかに、ダイナミックな生成論・変容論へのたしかな手掛かりを見出す。こうした特異な視点こそが、直接の弟子にあたる森昭の教育人間学の構築を導くことになったというのである。
 第Ⅱ部「戦後教育学の原型」は、保守と革新の激しい政治的対立で揺れた戦後初期の教育学をめぐる状況を、稲富榮次郎と矢川徳光というふたりの教育学者にそれぞれの立場を代表させて検討する。第四章は、小笠原道雄による稲富榮次郎論である。広島文理科大学教授としてすでに学問的地位を確立していた稲富は、敗戦後の教職追放によって広島を去り、上智大学教授に転じた。保守的な教育学者のリーダー的存在として、政治的偏向の著しい日本教育学会から距離を置いて、学問の中立性を謳った教育哲学会の創設に尽力した。「道徳の時間」特設をめぐって文部省対日教組という政治的対立が激化するなかで、文部省審議会の委員長として、そのギリシャ哲学の素養によって戦後道徳教育の理論的な基礎づけに貢献した。
 第五章の森田尚人論文は、敗戦とともに教育学者や現場の教師たちに大きな影響力をもつようになったソヴィエト教育学とはいかなるものであったのかを、矢川徳光の仕事を中心に検討する。それは、資本主義社会である日本の教育を変革する道筋を、ソヴィエト国家が公認したマルクス=レーニン主義にたつ教育学説に求めるものであった。ソヴィエト連邦の崩壊から二〇年余を経てもなお、社会主義社会への移行を歴史の必然的な進歩として説いた決定論的思考が教育学にもたらした帰結について、これまでほとんど検証されてこなかった。それは、京都学派の人たちが思想的に対決したマルクス主義とはいかなるものであったかを、あるいはマルクス主義の多様な解釈の可能性を考えるために欠かせない手続きであろう。
 
執筆者を代表して   森田 尚人
 
 
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