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『哲学から〈てつがく〉へ!』

 
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森田伸子 著
『哲学から〈てつがく〉へ! 対話する子どもたちとともに』

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はじめに
 
 子どもの哲学をめぐる状況は、私が一〇年前に『子どもと哲学を』(勁草書房、二〇一一)を世に問うたころと比べると、ずいぶん変わってきたように思われる。当時海外ではすでに多くの試みがあって、その一端を私も文献で知り、同書で紹介もしたのだが、少なくとも私の身近では、まだまだ学校で子どもたちが哲学する、という光景を見ることはできなかった。同書で私が取り上げたのは、やっと言葉を覚えたばかりの幼児期から思春期までのさまざまな子どもたちの言葉だったが、それはいずれも、学校の外で、たいていはひとりでぽつんとたたずんでいる子どもたちの言葉だった。幼い子どもが遊びの途中で、ふと頭をあげて不思議そうにひとりごとのようにつぶやいた言葉を、身近にいた大人がキャッチして文字に残したもの。思春期と呼ばれる年齢の子どもたちが、こっそりと自分だけのノートに書き残して行ったもの。それらの言葉が、私があの時いっしょに哲学した相手であった。ノートに記された言葉は、およそ学校という場所に持ち込むにはふさわしくない言葉だ、とおそらくは当の子どもたちは思っていたにちがいない。だからそれらの言葉は、あるとき、まわりの大人たちがノートの存在に気づき、ノートを取り上げて開いて見るまで、ひっそりとだれにも知られないままにそこに身を潜めていたのだった。私が『子どもと哲学を』という本を書こうと思ったのは、これらの言葉の中に、子どもたちが、それと知らずに哲学している声を、あるいは、それと知らずに哲学を希求している切実な声を聞いたように思ったからである。この声を聴いてくれる人たちがいるなら、それをその人たちになんとかして届けたいという思いが、思想史研究という自分の専門からかけはなれたこのような本を書くという大それた行動を私にさせてしまったのだった。
 この本の最後に、私は、学校の中にほんの小さな隙間でよいから、哲学する時間を滑り込ませることはできないものか、と書いた。哲学を求めている子どもたちはたしかにいる、そしてその欲求は、時に子どもの生死にかかわるような切実な欲求なのだとしたら、この欲求に応えるのは大人の責務ではないか。そしてそのための場所は、子どもが学び、成長することのためにもっぱらしつらえられているはずの学校をおいてあろうか。そう単純に考えたからである。子どもが起きている時間の大部分を過ごす学校という場所。その膨大な時間のほんの少しを、この欲求に応えるために割いてもいいではないか。なにも、学校の正面玄関から堂々と入ろうというのではなく、校庭に面した子どもたちの通用口のかたわらにあるささやかな花壇のかたすみに、哲学の種をちょっと撒かせてもらう、といった感じであった。イメージとしては、ちょっと変わった先生のまわりに、ちょっと変わったことを考えるのが好きな、あるいは、考えずにいられない子どもたちが週に何回か集まる、自由選択の時間、あるいは、クラブ活動の時間、といった光景を描いていた。
 そして今、日本の各地で、自由選択やクラブ活動の時間ではなく、正規の授業時間(その多くは道徳の時間が使われているようだ)に、子どもたちが哲学対話を繰り広げる学校が増えてきている。哲学の時間は、学校の中で少しずつ市民権を獲得しつつあるように見える。昨今のグローバル化に応える新しい能力として「考える力」を重視し、この力を養成するもののひとつとして「考える道徳」を教科として位置づけようという国の方針も、そこには後押しする力として働いているようだ。私は、自分が前著の中で漠然と表明した願いが、このようにして現実化されていく様子を、複雑な思いで見ていた。哲学が学校の中に受け入れられていくという悦ばしい思いがある一方で、あのひとりでそっと自問自答の言葉をノートに書きつけていた子どもたちの求めていたものとこの哲学の時間とを、自分の中でうまくつなげることができなかったからである。
 私がお茶の水女子大学附属小学校から声をかけられたのは、こんな状況の中でのことであった。同校では、二〇一五年度から研究開発課題として「てつがく」という教科の創設を掲げた四年間の共同研究をスタートさせていた。その研究課題は、以下のようなものであった。
 
 「道徳の時間」と、他教科の関連を図り、教育課程全体で、人間性・道徳性と思考力とを関連づけて育む研究開発を行う。そのために、自明と思われる価値やことがらを、「対話」や「記述」などの多様な言語活動を通して問い直し考える新教科「てつがく」を創設する。
 
 ここに書かれている文章を読む限り、「てつがく」はまさに時代の変化の中で必然的に要請されてきたものとして位置づけられている。しかし、校内研究会の講師として依頼された時、私はこうした背景のことをとりわけ考えたわけではなく、ただ私の書いた『子どもと哲学を』に共感を持ってくれたという小学校の先生たちが、どのようにしてあれらの子どもたちの声を受け止め、そこからどのようにして教科としての「てつがく」の時間をたちあげようとしているのか、それを聞いてみたいという思いからその依頼を受けたのだった。二〇一五年の秋の日の午後、子どもたちのいなくなったがらんとした校舎の一室で行われた校内研究会は、アットホームで、知的刺激に満ちた楽しい会であった。「てつがく」の時間というはじめての試みにとまどい、迷いながら手さぐりする教師たちの姿は、そのまま、自ら哲学する教師の姿であり、それは私にとって、それまで「教育現場」という言葉で表現されてきたものを新しい目でとらえ直す新鮮な経験であった。この時の新鮮な思いは、以後、恒常的にこの共同研究に関わることになって今日にいたるまで、少しも変わることはない。哲学することが子どもたちにとって、そして自分たちにとって確かに重要な意味を持つという漠然とした確信に支えられつつ、その具体的なイメージをつかめないまま、迷い、悩み、そして互いに率直に疑問を投げかけ合う教師集団の存在こそが、私が非力を顧みずにこの研究に同行者として関わろうと決心した動機であった。しかし同時に、前著で私が聞いた子どもたちの、いわば実存的で存在論的ともいえる哲学への希求と、今始まったばかりの「てつがく」の時間との関係をどう結びつけるのか、ということは依然として宿題のまま残された。
 こうして宿題を抱えたままの状態で、同校の「てつがく」の時間を共にすることが始まった。それから四年余り、多くの授業を参観し、その後に授業者と参観者で行われる「協議会」と呼ばれる検討会にも参加してきた。参観した授業は、「てつがく」の時間が中心であったが、それ以外のさまざまな教科もあった。同校では、上記の研究課題にあるように、「てつがく」と他教科との内在的な関係が特に重視されている。そこではむしろ、算数や理科や社会や国語といったいわゆる知識的な教科も、さらには、図工や音楽や体育といった技能的な教科も、すべての教科の根底に「哲学する」心が働いているはずだと考えられていて、「てつがく」の時間はこの「哲学する」心を、各教科の特殊性が課すしばりからはなれてよりいっそう自由に解き放つ時間として位置づけられている。公開授業というしばりの中でわずかに参観することができた算数や理科や社会や保健体育の授業では、しばしば目を見開かせられるような新鮮な驚きを経験させられた。これらの経験すべてについて取り上げることは、私の力に余ることだった。本書では、「てつがく」の時間のうちのほんの一部のものを取り上げることができただけである。より詳しくは、同校の関連する出版物を参照していただきたい(1)。
 「てつがく」の時間の一時間一時間は、私にとっては授業参観の時間というよりも、私自身が哲学する時間であった。私は「教育学者」としてでも、ましてや「指導者」としてでもなく、ひとりの哲学する人間としてこの時間を共有してきたのだった。このような参加の仕方は、研究協力者としてはいかがなものかと、しばしば反省もしたが、実際私にはそうした参加の仕方以外はできなかったのだ。この時間を通して、私はそれまで目にしたことない新しい哲学のすがたが目の前に広がるのを見てきた。
 取り上げるテーマはあらかじめ何回かの話し合いで子どもたち自身によって決められていた。テーマを決める所から「てつがく」の時間は始まっており、たくさん出されたテーマから関連しあうテーマが分類され、その中で一番要望の多かったテーマが選ばれている。このテーマ設定の過程で出た問いは、対話の中でもしばしば重要な問いとして想起され、ときに対話の流れをおしとどめ、時にそれを先に進めるものとなっていた。他の哲学対話の例にあるように、子どもたちは椅子を大きな一つの輪にならべて座り、教師はその輪に加わって座っていることが多かった。対話の始まりの時には、本書の八つの章でとりあげられたそれぞれのテーマは、どれもまるで先の見えない鬱蒼と茂った森のようであった。とりあえず子どもたちは繁った枝をかき分けながら先に進んで行く。別の方向に進んだ子どもの呼び声が聴こえれば、みんなでそっちへ行ってみる。木の根元にある小さな生き物に気をとられて立ち止まったり、ぐるっと回って同じところにもどってみたり、それは、皆で声をかけ合いながら手さぐりで進んで行く気ままな冒険の道のりのようでもあった。子どもたちの対話は実に屈託なく自由で、時にはハッとさせられ、時にはなるほどと思わず感心させられ、そこで収まるかと思った瞬間、別の子どもの「でも……」という言葉によって再び振り出しに戻されたりと、ジグザクに進んだ。それは自由で気ままでありながら、同時に、実に執拗で粘り強かった。この対話はいったいどこに向かうのだろうとハラハラすることも多かったのだが、授業者はと言えば、あちこちの茂みから聴こえる子どもたちの声に注意深く耳を傾けながら、迷子になっている子どもがいないかを慎重にたしかめつつ後ろから黙ってついて行くだけである。そして終業時間が近づき、森の中に何度も踏みしめられた跡にうっすらと見えるか見えないかの「てつがく」の道ができるころ、教師が声をかける。「今日はここまでにしましょう。ノートに今考えていることを書いてください」。自分たちが作った「てつがく」の小道をあらためてふりかえって見ながら、それぞれのおどろきや疑問を子どもたちが書き記して「てつがく」の時間は終わる。
 こうして「てつがく」の時間がひとまず終わった時点で、私は脳みそをかき混ぜられたような状態で取り残される。協議会に場所を移すと、他の参観者たちも、そして授業者自身も、私とほぼ似たような状態にいるらしいことがわかる。それから一時間以上、今聞いたばかりの対話についての対話が続く。それも終わって一人帰途につく途中、今度は私の中で今聞いてきた対話と私自身との対話が始まる。そしてこの対話はその後もずっと続き、その結果が本書の八つの章になったというわけである。
 これをまとめる過程で授業者の先生たちに協力を求め、当日のものだけでなく、それに先立つ関連する授業の記録も可能な限りお借りした。教科として構成されているお茶小の「てつがく」は、すでに述べたように一回限りのものではなく、子どもたちの探究が続く限り、同じテーマが角度を変え、形を変えてくりかえされており、複数回の対話記録を見ることで、子どもたちの発言の背景をよりよく理解することができたからである。対話終了後の短い時間に子どもたちが記した、ふりかえりの記録もお借りすることができた。それを読むと、発言しなかった多くの子どもたちが、いかに注意深く他の子どもたちの声に耳を傾け、いかに深く思考していたかが手に取るように感じられた。こうして、出来事としての対話から聞き取った声と、文字記録から聴こえてくる声との両方と対話することによって、やっと私なりにあの対話の中で問われていたこととその意味を再構成することができたのだった。
 この作業は私にとってはじめて知る心躍る経験であった。子どもたちが森の中に分け入ってあちこち彷徨しながらいつの間にか小さな道を残したように、ちょうどそれと同じようにして私は対話で交わされたさまざまな子どもたちの言葉の森を分け入り、子どもたちが残したこの道を発見し、たどり直してみようとした。この試みが成功したかどうかは、実際に子どもたちに聞いてみなければわからないのだが、当の子どもたちの多くはもう卒業してしまっているか、たとえまだ在学していても、あの対話をあとから正確に再現することはできないだろう。対話する、ということはたぶんそうしたことであるに違いない。対話は生き物であり、「てつがく」の時間の中で生まれ、時間の中を勢いよく駆け抜けて、ただ痕跡だけを残して消えていく。てつがくすることは、貯金箱に一つずつ確実な知識を蓄えていくことはちがう。だから後でそれを数えてみることはできないのだ。それは生きる時間を経験することそのものであり、時間そのものを豊かに経験するための多くある仕方の一つである。私は、いわば半分第三者のようにしてこの経験に伴走してきた立場から、このまま消え去ってしまうにはあまりに貴重なこの痕跡が描く小道を、文字の形で書き残してみたのである。子どもたちがいつか何かの折にこれを読んで、遠い日の「てつがく」の時間を懐かしく思い出してくれることがあったら、うれしく思う。しかし本書はむしろ、哲学することにいくばくかの関心を抱く世の大人たちに向けて、子どもという存在が、自由で安全な時間と場所とそして対話する仲間が与えられれば、かくも生き生きと、かくも粘り強く、かくも本格的に哲学的思考に没頭できるものであることを、知ってもらいたいという思いから書き始められた。学校での哲学対話の実践についてはすでに多くの関連書が出版されているが、子どもたちが一つのテーマを何時間もかけて執拗に、粘り強く探究し続けた記録は未だあまり多くはない。哲学の真骨頂は、そのしつこさと粘り強さにある。子どもたちが飽きることなく一つのテーマを考え続けたのは、考えることそれ自体が面白かったからに違いない。考えれば考えるほどに、わからなくなり、わからなくなればなるほどに、考えることは面白くなってくる。本書を書くことで、私はこのおもしろさを子どもたちと共有することができたように思う。
 冒頭に書いた私の宿題はまだ残っている。この「てつがく」の時間と、『子どもと哲学を』の子どもたちが求めていた哲学とはどのような関係にあるのだろうか。両者は一見、あまりに違っているようにも見える。哲学する方法は一つではないことはたしかだとしても、そこにはやはり道が、あるいは、踏み固めるべき道が存在しているのではないだろうか。このことについては、八つの対話記録を終えた後に、あらためて終章で考えてみることにしたい。
 
註(1)お茶の水女子大学附属小学校・NPO法人 お茶の水児童教育研究会編著『新教科「てつがく」への挑戦─〝考え議論する〟道徳教育への提言』東洋館出版社、二〇一九年。
お茶の水女子大学附属小学校編『学びをひらく─ともに〝てつがくする〟子どもと教師』第七九回教育実際指導研究会 発表要旨、二〇一七年。
同『学びをひらく─ともに〝てつがくする〟子どもと教師』第八〇回教育実際指導研究会 発表要旨、二〇一八年。
同『学びをひらく─ともに〝てつがくする〟子どもと教師』第八一回教育実際指導研究会 発表要旨、二〇一九年。
同『学びをあむ─新領域「てつがく創造活動」を中核とする教育課程の開発』第八二回教育実際指導研究会 発表要旨、二〇二〇年。
 
 
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