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『〈聖なる〉医療』

 
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ジャン・ボベロ、ラファエル・リオジエ 著
伊達聖伸・田中浩喜 訳
『〈聖なる〉医療 フランスにおける病院のライシテ』

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訳者あとがき
 
 本書は Jean Baubérot et Raphaël Liogier, Sacrée médecine : Histoire et devenir d’un sanctuaire de la Raison, Paris, Entrelacs, 2010, 196p. の全訳である。
 著者のジャン・ボベロは、一九四一年生まれでライシテ研究の専門家。プロテスタンティズムとライシテについての研究からスタートし、一九九〇年にフランス高等研究実習院の宗教学部門にライシテの歴史学・社会学の講座を創設した。二〇〇七年に退官したあとも旺盛な研究活動を続けている。日本語の訳書として、すでに『フランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史』(三浦信孝・伊達聖伸訳、白水社文庫クセジュ、二〇〇九年)、『世界のなかのライシテ─宗教と政治の関係史』(私市正年・中村遙訳、白水社文庫クセジュ、二〇一四年)が出ている。
 一方、ラファエル・リオジエは、一九六七年生まれの社会学者・哲学者。エクサンプロヴァンス政治学院教授で、パリの国際哲学コレージュでも教える。西洋における仏教受容の研究からスタートし(ブリュノ・エティエンヌとの共著がある)、フランスにおけるイスラモフォビア(イスラーム嫌悪)にメディアが果たした役割の批判的検討など、宗教とライシテに関して幅広く論じている。#MeToo に関する著作も出している。トランスヒューマニズムについても論じており、広い意味では現代社会における「人間」概念の変貌に宗教と世俗の観点から光を当てることに取り組んでいるようで、その関心は本書にも窺うことができよう。
 本書の大きな特色は、フランスの近代医療という対象を宗教と世俗の歴史のなかに位置づけることによって、その特徴ある輪郭を描き出し、批判的な分析と考察を加えることにあると言えるだろう。それによって、近代医療の両義的な性格が見えてくる。それと同時に、西洋ひいては世界の近現代におけるフランス社会の独自性の姿が、相対化された地平において立ち現われてくる。
 ある意味では当然のことだが、それが本書の原題 Sacrée Médecine : Histoire et devenir d’un sanctuaire de la Raison に集約されている。« sacré(e) » という形容詞は、名詞に対して後置された場合は「聖なる」「神聖な」などの意味になるが、前置で使われると皮肉や非難のニュアンスが出てくる。« Sacré bon Dieu ! » は、字面は「神聖で善良な神」に見えるけれども、実際には「畜生」と悪態をつく罵り言葉である。フランス・ギャルが歌う往年のシャンソン「シャルルマーニュ大王」( « Sacré Charlemagne »)の歌詞は 、この王を讃えるというよりは、学校を作った(とされる)彼のせいで、私たちは嫌な勉強をしなければならないと不平を述べる内容である。« Sacrée Médecine » は「聖なる医療」と訳すこともできるだろうが、そこには医療のせいで私たちはこんなふうになってしまったというような、非難めいた意味合いも込められている。実際、本書を読めば、二人の著者は近代医療の「栄光」と「悲惨」の両方を描き出していることがわかるだろう。
 近代医療の両義性を系譜学的に位置づけたビッグネームとしては、誰よりもまずミシェル・フーコーの名が思い浮かぶ。医師ピネルによる狂人たちの「解放」が実際には規範の内面化という監視の再編にすぎなかったとする『狂気の歴史』や、ビシャの病理解剖学によって医学的まなざしが大きな転換を遂げたとする『臨床医学の誕生』の議論は、よく知られているだろう。もちろん本書もフーコーには言及しているが、特に前半のボベロの執筆担当箇所を見ると、ジャック・レオナール、ピエール・ギヨーム、オリヴィエ・フォールらによる医療社会史の先行研究を参照しながら、近代医療を前にした当時の人びとの反応や、病院という制度や医者という職業の特性についての記述が特徴的である(その割にはアーウィン・H・アッカークネヒト『パリ、病院医学の誕生――革命暦第三年から二月革命へ』(舘野之男訳、みすず書房、二〇一二年)――一九六七年に刊行された原書は英語だが、フランス語訳も一九八七年には出ている――が参照されていないのは気になるところではある)。
 そして、病院と医者に焦点を当てて近代医療の特徴を論じる枠組みが、いわゆる医学史や医療社会学の分野ではなく、宗教および世俗の歴史社会学と哲学であるという点が、本書の持ち味だと言えるだろう。すなわち、宗教から世俗へと政治的実権や人びとの世界観が移っていくなかで医療が「神聖化」されたこと、そうして覇権を握った近代医療がある時期より「脱神聖化」されてさまざまな相対化の渦に巻き込まれるなかで試練に晒されている様子が、特にフランスの文脈において語られるのである。
 このような研究は、ありそうに見えて、実はなかなかない。図式的に言えば、西洋近代において宗教に代わる世俗の体系を支えた二大領域が教育と医療であり、制度的には「教会」の機能がそれぞれ「学校」と「病院」に引き継がれるところがあった。学校については教育史、病院については医療史の範疇となるが、この二つの近代の制度を代替宗教の観点から批判的に分析する視角が出てきたのは一九七〇年代頃から、とりわけ本書でも言及されるイヴァン・イリイチあたりからであると思われる。しかも、「宗教」と「世俗」は対極にあるものと長らく観念されてきたから、世俗の宗教性に注目する研究は――とりわけフランスについては、宗教とライシテを対置する観念が強かったし、現在もなお強いという事情があり――必ずしも一般的なものとしては受け入れられていない。さらに、教育をめぐっての教会と学校の争いを通して世俗教育の宗教性をも分析するアプローチに比べると、近代医療や病院を宗教とライシテの歴史に組み込むような研究は――医学が死という宗教的な問題と近い位置にあるにもかかわらず――案外少ないのである。
 これは、一筋縄ではいかない宗教と世俗の関係が、教育の領域にもまして、医療の領域においてなおいっそう錯綜としていることと関係しているかもしれない。たとえば、世俗的価値観が支配的な時代には、科学は真実を探求するのに対し、宗教は人びとを惑わすというのが通り相場かもしれない。しかし、本書にもあるように、実際には反教権主義的な医師のほうが長いあいだ患者に甘美な「嘘」をつき、むしろカトリックの医師が患者に「真実」を告げようとしていた逆説が見られた。
 また、患者の世話をする役割を宛てがわれていた女性と医師の関係も複雑である。一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけて、ブルヌヴィルのように、修道女を世俗の看護婦に換えることを唱えた医師もいれば、デプレのように、本人は自由思想家でありながら、修道女のほうが世俗の看護婦よりも能力が高いと見て有効活用を主張した医師もいる。いずれにせよ、これは世俗の時代の医学が、宗教の時代から男性中心主義を受け継ぎ、女性に対して優位に立つ構図を背景にしている。しかしながら、女性の社会進出がかぎられていた当時、看護職に就く女性たちは一般に自立心が強い面もあり、必ずしも医師に従順であったわけではない。いずれにせよ、女性医師の数は長いあいだ少なかった。
 さらに、終末期の意思決定についても、宗教と医療の関係は錯綜としている。フランスは、安楽死や医師幇助自殺の合法化や脱犯罪化が比較的早くから進んだベネルクスやスイスと地理的には近く、社会党のオランド政権では法整備を進める兆候も見られたが、現在でもなおいわゆる安楽死は認められていない(一定の条件下での「持続的な深い鎮静」は二〇一六年以来容認されている)。法制化の推進派と消極派の対立を、理性と宗教の対立と考えたくなるかもしれないが、事はそう単純ではない。ここには、患者の意思よりも延命を重んじる医療教権主義の名残という面も認められるように思われる。
 誠実さをめぐる医療倫理にせよ、医療とジェンダーにせよ、終末期の意思決定にせよ、これらの問題にはしばしば逆説や転移や屈折が見られる。本書は、これらの複雑で大きな問題を網羅的に扱う重厚な研究書というより、宗教と世俗の歴史という枠組みのなかに医療を置いたときに見えてくる興味深い点を拾いあげていく学術エッセイ風のところがある。歴史学的にはなお検証が必要という部分もあるかもしれないが、一本太い理論的なテーゼがあるとすれば、それはやはりフランスでは近代において強力な医療教権主義が見られ、それが現在では部分的に相対化されているという点に帰着してくることになるだろう。
 宗教と正面から闘ったがゆえに科学や理性や共和国が威信を獲得し、それが今日揺らいでいるという図式は、フランスの宗教社会学系の議論においては比較的お馴染みのものだが、その重要性は強調してもしすぎることはない。というのも、本書は医療教権主義の負の側面を認める一方で、現在の野放図な新自由主義的なグローバル化の論理に抵抗できるような著者たちなりの共和国モデルを開発し、擁護する姿勢を示しているという点においても、存在感を放っているからである。
 特に後半のリオジエの執筆担当箇所において議論されているように、現在のフランスは産業社会からポスト産業社会への移行を遂げつつも、旧来の論理と新しい論理は互いに矛盾しながら浸透し合っていて、社会とそこに置かれている医療のあり方はしばしば引き裂かれている。巨大機構としての病院は、新しい社会に適応し切れず旧態依然とした医療教権主義に引き籠ろうとする面と、大手を振って改革を唱えるガバナンスの論理に巻き込まれて効率重視の市場経済競争に晒されている面とがある。このようななかで、本書は一見非効率的に見えることの効能を説いたり、共和国モデルのなかに見出すことのできる理念を掲げたりしている。また、消費社会において個人が世界とつながる感覚――これをリオジエは「個人世界主義」(individuo-globalisme)と呼ぶ――が、経済的に裕福な西洋人のライフスタイルと親和的であることから、差別を助長する論理になるおそれもあることを指摘しながら、より理想的な社会の実現に寄与する可能性もあると示唆する。
 かつて神聖化された医療とそれを取り巻く環境に正負両面があったように、今や脱神聖化された医療とそれを取り巻く環境にも正負両面があると言うべきだ。そして、それを相対的にマシな方向に向けるための認識論的・実践的努力の余地が私たちには残されている――そういうメッセージを本書は放っているように訳者には思われるのである。
 二〇一〇年に原書が刊行された本書では、何度か二〇〇三年の猛暑が「近頃」の出来事として言及されている。本訳書刊行時点である現在から振り返ると、二〇年近くが経過しているわけで、もはやさすがに「近頃」とは言えないが、二〇一〇年代に入って、ヨーロッパでも日本でも、異常気象が常態化し、さまざまな災害が起きるたびに、医療や現代社会や地球環境の問題が浮き彫りになっている。また、折からの新型コロナウイルスの流行もあり、私たちは現代社会と病や生死の関係を改めて問い直している。そうしたなかで、本書の放つメッセージには、アクチュアリティを失わないものがある。
 日本語版が出るので、本書を踏まえて現時点で何をどのように考えているかを書いてほしいと著者の二人に依頼したところ、それぞれ補論を寄せてくださった。リオジエの補論は、コロナ禍が露わにしたものを本書の議論の延長線上で論じている。ボベロの補論は、認知症を生きる夫人の介護者にして研究者という立場から、現代医療に興味深い眼差しを注いでいる。
 
 翻訳に当たっては、田中が最初に訳したものに伊達が手を入れ、フィードバックするという作業を章ごとに何度か繰り返した。文章は原文に忠実にをモットーにしたが、日本語として意味がわからない部分はなくすように努めた。不明な点や誤りと思われる箇所は著者に尋ね、その回答を訳文にも反映させている。章のタイトルや節に当たる見出しについては、必ずしも直訳ではなく、文意を汲んで日本語でわかりやすくしたところがある。また、原文にはない見出しをつけたり、原文とは異なる改行を別途設けたりした箇所がある。原書の文献リストには若干の欠落が見られ、もはや著者にも捜索不可能というものがあった。これらについては訳者のほうで可能なかぎり補った。引用文献のうち、すでに日本語訳があるものは適宜参照したが、一部改訳したものも含まれる。
 勁草書房の関戸詳子さんは、ライシテと医療という問題設定のこの本を日本語で翻訳出版することの意義を認めて、訳者の二人を支援してくださった。心よりお礼申しあげたい。ありがとうございました。
 
訳者を代表して 伊達聖伸
(傍点は省略しました)
 
 
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