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あとがきたちよみ
『ナッジ・行動インサイト ガイドブック』

 
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白岩祐子・池本忠弘・荒川歩・森祐介 編著
『ナッジ・行動インサイト ガイドブック エビデンスを踏まえた公共政策』

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まえがき
 
 ナッジには抗えない魅力がある。すぐれたナッジ[1]には,小さな力で身体の大きな相手を倒す柔道の技で例えられるように(Thaler & Sunstein, 2008),少しの働きかけでそれまで梃子でも動かなかったものを鮮やかに動かしてみせる躍動感と爽快感がある。とくに人々の弱点を逆手にとるタイプのナッジには,行動や習慣の改善策に関する従来の固定観念を覆す力すらある(那須・橋本,2020)。そうしたナッジが政策に実装されたならば,各個人の利益に加えて公共の利益という大きな実りを与えてくれるだろう。
 すぐれたナッジ・行動インサイトには,課税や助成金,法的制限といったこれまでの政策手段と適切に組み合わせることで,それらを補完したり,それらの効果をいっそう強めたりする力もある。こうした働きかけは,人々をとりまく環境を変え,さらには決定や行動パターンを変容させることを通じて,人々の生活や社会をよりよいものにしてくれるだろう。日本の行政がナッジ・行動インサイトを取りいれる動きは,今後も加速度的に進んでいくことが見込まれる。
 しかし,ナッジ・行動インサイト,およびevidence-based policy making(EBPM)の急激な進展と普及に伴い,これらの比較的新しい考え方や手法に戸惑う現場の行政官は少なくないものと考えられる。ナッジ・行動インサイトの政策応用やEBPM に携わる行政官の戸惑い,疑問に応答し方向性を示すこと,これが本書における第一の目的である。ナッジ・行動インサイトとEBPM をめぐる現在の潮流を一過性のものとして終わらせるのではなく,社会からの理解と支持に裏打ちされた行政手段とするためには,ナッジ・行動インサイトやEBPM の基本的な考え方や背景を,なにより行政官自身がよく理解したうえで進めていくことが不可欠である。
 ナッジ・行動インサイトやEBPM を進めるにあたっては,少し遅れて,現時点では顕在化していない各種の問題や懸念も次第に明らかになってくるだろう。すでに顕在化している諸問題に加えて,それらの論点と現時点で考えうる対応を示すことが本書の第二の目的である。ナッジが多岐にわたる利点をもつことは明らかであるが,他の政策手段とは異なる固有の特徴をもつゆえに,配慮すべき独特のポイントがあることもまた事実である。
 第一のポイントとして挙げられるのは,新しい政策手段であるために,まずは組織的な認知や支持を得ることから着手する必要があるということである。その意味では,府省庁・自治体にかかわらず,各組織からの理解と支持に裏打ちされたなんらかの体制を確立することが,はじめに推進者に課せられる任務となるかもしれない。第二に,これまでの政策手段と比べて,ナッジは人々の決定や行動に対して働きかける強度がより強いということである。他者の行動変容を目的として従来よりも練られた手段が用いられる,といってもいいかもしれない。それゆえに,本文で詳しくみていくようにナッジはしばしば「操作」だと批判され,そのことから必然的に,「介入の倫理」という新しい論点が出現することになる。第三のポイントは,予測どおりの結果を得ることの一般的な難しさに鑑みて,推進者はその理由を理解し,また周囲や社会の理解を得ることが不可欠ということである。ナッジを効果検証することへの要請,とりわけ結果を出すことへの強い期待が立ち上がる一方で,人間と環境とのダイナミクスはもとより一様ではなく,いつも期待どおりの結果が得られるとは限らない。この点について周囲や社会の理解を得ることは,ナッジ・行動インサイトの持続的な取り組みを左右するポイントのひとつになってくるだろう。
 本書の第二の目的は,以上の点について,先行する諸外国や国内の歩み,すでに交わされている議論や学術的な視点を提供することにある。今後,確実に直面するであろう上記した諸課題や懸念をあらかじめ認識しておくことは,先んじて対策を講じて問題を回避したり,問題が生起したとき適切に対処したりすることを助けてくれるだろう。
 本書はさらに,心理学,経済学,生物学などの行動科学を専攻する学生も主たる読者として想定している。これらの学生に向けて行動科学の展開や応用可能性を伝えることが,本書における第三の目的である。筆者が所属する大学では近年,公務員をめざす学生の減少傾向がみられる。公務員は概して激務であり,未曽有の事態にはワーク・ライフバランスを投げうって最前線に立ち,なにか問題が起きればとかく批判の矢面に立つ存在である。そのような苦労をせずとも,条件的に恵まれた仕事ならばほかにいくらでもある。このような就職環境において公務員が不人気となるのは必然なのかもしれない。しかし,公務員というのは元来,政策・施策の策定や実施・運用というインフラ面から国や自治体を支える基幹人材である。これは筆者の個人的信念にすぎないが,知性や環境に恵まれた者には,自身の幸福だけでなく社会全体や次世代の幸福を追求する志と気概をもち,国や国民の生活を支える重要な役割を担ってほしいという思いが打ち消しがたくある。
 幸い日本の行政でも,学部や大学院で獲得した行動科学のリテラシーをさらに深めて実践的に活用できる環境が整いつつある。実際,本書の編著者のうち二人は大学院で行動科学を学んだ官僚である。彼らは行動インサイトやEBPM の先進国でその息吹,活力に触れ,強みと弱みを理解し,日本にもちかえって日本ならではのスタイルで府省庁や自治体に根づかせようとしている。
 このような人々は多数派ではないが現在確実に増えつつある。行動科学を学ぶ,意欲ある学生には,彼らに続き,彼らがいま切り拓きつつある道をひろげ,確かなものとしてもらいたい。人間の実態をふまえたより効果的な政策を推進する流れに続いてもらいたい。大学で身につけた行動科学のリテラシーはそうした局面で必ず役に立つだろう。その意味で本書は,行動科学を専攻する学生に向けたメッセージでもある。
 
 本書は,上記の理念を共有する研究者と官僚が協同し,すでに取り組みを進めている,あるいはこれから進めようとしている府省庁や自治体の行政官,さらには未来の行政官に向けて書き下ろしたガイドブックである。構成は以下のような三部制となっている。
 「第一部 基本編」では,EBPM,ナッジ・行動インサイトについての基本的な知識,歴史的背景,先行する国や日本における動向がコンパクトにまとめられている。初学者はもとより,これらの知識をすでにもっている人が情報を整理するうえでも役に立つだろう。また,政策に応用できそうな心理学の知見の一端も紹介される。行動インサイトにはまだ多くのポテンシャルがあることが伝わるだろう。
 「第二部 失敗編」では,EBPM やエビデンスに対するよくある誤解,ナッジに加えられてきた批判と反論・対応,倫理の問題,そして府省庁や自治体におけるプロジェクトの立ち上げ方の実例などが解説される。とくに,見落とされがちな倫理的問題に紙数の多くが割かれている。学術的なものであろうと政策的なものであろうと,人間を対象に行われる介入には一定の配慮すべきポイントがある。遠からず直面しうるこれら諸課題に対し,見通しと指針をもって備えていただきたいと思う。第二部は順不同で,気になるテーマから読み進めてもらって構わない。すべて読了する頃には,潜在的・顕在的な各種の問題や配慮すべき事柄についての知識がひととおりインプットされているだろう。
 「第三部 外部との協同編」では,先行事例をどのように探すか,政策を実行に移す過程で立法者である政治家とどのように連携可能か,信頼できる研究者をどう探せばいいか,などが具体的に解説・例示される。これらはすでに,ナッジ・行動インサイトの活用やEBPM を進める中で顕在化している論点かもしれない。最後に,協力者へのフィードバックや,成果の記録と共有の必要性についても,現時点で望ましいと考えられる方向性が論じられる。これらの内容がこの先,府省庁や自治体の枠組みを超えて大きなシナジーを得るための組織横断的な議論,そのアウトラインになることを願っている。
 
 つまるところ本書が伝えたいのは,元警察・防衛官僚であり危機管理の実務家(佐々,1991)が遺した言葉,「悲観的に準備し,楽観的に対処せよ」の一点に尽きる。ナッジ・行動インサイトやEBPM を進めていく過程には確かに困難が横たわっているが,幸いにして我々は,先行する取り組みの成果やそれらから導出された示唆・提言を手にしている。ここから教訓を引きだし,あらかじめ問題や懸念に備えることで,本来の豊かな実りを手にすることができるはずである。
 行動科学は実証を通した人間へのまなざしであり,人間という少し癖のある,しかし驚嘆すべき存在への洞察と敬意に満ちている。政策が行動科学の知見にもとづいて適切に策定・実施され,評価されることにより,人々の暮らしやすさは向上し,社会にはさらなる安寧がもたらされるだろう。本書が,府省庁や自治体でそのような取り組みを進める人のそばに常にあり,少し先の道行きを伝える道標として活用されたならば望外の喜びである。
 
 最後になるが,勁草書房の永田悠一氏には企画の段階から大変お世話になった。ここに記して感謝申し上げる。
 
2020 年11 月吉日
白岩祐子・荒川 歩
 
[1]ナッジは非意識的に人々の決定や行動に影響を及ぼす働きかけ,と理解されることが多い。しかし,これはナッジの特徴の一部に過ぎず,必ずしも正確な理解とはいえない。また近年では,意識的であるか非意識的であるかにかかわらず,人間の心理や実態に対するより広範囲な知見・洞察を意味する「行動インサイト」という概念が登場している。本書は名称にナッジを冠してはいるが,より本質的には,上記の行動インサイトという広義かつ包括的な概念に焦点をあてている。
 
引用文献
那須耕介・橋本努(2020).ナッジ!? 自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム 勁草書房
佐々淳行(1991).完本 危機管理のノウハウ 文藝春秋
Thaler, R. H. & Sunstein, C. R. (2008). Nudge: Improving decisions about health, wealth, and happiness. Yale University Press.(セイラー,R. & サンスティーン,C. 遠藤真美(訳)(2009).実践行動経済学:健康,富,幸福への聡明な選択 日経BP)
 
 
あとがき
 
 2017 年にセイラーがノーベル経済学賞を受賞したことで,ナッジがとみに注目を集めるようになった。関連する学術書やビジネス書が書店に次々と並ぶようになり,テレビや新聞,雑誌でも特集が組まれるようになった。それまでも時折話題になることはあったが,ここまでのことはなかったように思う。それが一過性の流行かと問われれば,環境省による日本版ナッジ・ユニット(BEST)の設立(セイラーの受賞前のことだが)に端を発し,地方公共団体で相次いでナッジを政策活用する体制が構築され,そして受賞から3 年が経過した現在でもナッジの活用事例の蓄積は止まらず,国会でも取り上げられ続けている現状に鑑みれば,答えはNo であろう。さらに,新型コロナウイルス感染症対策で行動変容が声高に言われるようになったことが,ナッジの認知度の向上や実践に拍車を掛けたと思われる。とはいえ,まだまだナッジは一般には耳慣れない用語であることは否めないし,行動に起因する社会課題の解決に当たっては政策オプションの1 つとしてナッジをはじめとする行動インサイトの活用を検討するのが国際的な潮流であるにも関わらず(検討の結果,行動インサイトを用いないという結論は当然あり得る),日本の政策の現場では中央省庁も地方公共団体もそこまでの段階には至っていないのが現状である。
 世界に目を転じると,行動インサイトを公共政策に活用する組織の数は,今や全世界で200 を超えている。ナッジ・ユニット第1 号はEBPM 先進国のイギリスで誕生し,頑健な方法により効果を検証する実証的アプローチを採用した。ナッジとEBPM は親和性が高いと言われることがある(小倉, 2020)。その理由としては主に2 点ある。第一に,ナッジがその定義上,規制を変更したり,補助金や税などとは異なって経済的なインセンティブを大きく変えたりするものではなく,往々にしてちょっとした仕掛けであるからである。このため,実証実験を通じてナッジの有効性に関するエビデンスを創ろうとする際に,ナッジをする介入群に加えてナッジをしない対照群を設けやすい(事後的に対照群にもナッジをするなど,ナッジの有無で差別的な待遇とならないようにする留意は必要である)。対照群の設定は,ナッジとその効果の間の因果関係を推測するにあたり核となる。これが従来の伝統的な政策手法であるとなかなか難しい。国民の半分だけに無作為に規制をかけたり,補助金を配ったり,税を課したりするのは現実的ではないからだ(だからといってこれらの政策手法で因果関係の推定や効果検証ができないというわけではないし,しなくてもよいということにはならない)。第二に,行動インサイトが行動科学から得られた人間についての洞察全般を意味するものであり,行動に関する科学的知見の集合体であるからである。行動インサイトを活用する際には,解決したい社会課題に適用可能であるかを,その行動インサイトが得られた背景や条件に立ち返って吟味する必要があり,必然的に科学的な根拠に基づいて検討することになる。もちろん,EBPM を実践すべきなのは行動インサイトを活用する場合に限られるわけではないが,ナッジを政策に実装する際には(好むと好まざるとにかかわらず)EBPM の考え方に整合的なものになる(遺憾ながらそうなっていない事案も散見される)。
 本書は,こうした背景事情を踏まえ,日本の政策の現場への実装が試みられているナッジとEBPM に焦点を当てたものである。基本的な周辺情報を整理した「基本編」,これまでの日本でのナッジ・EBPM の実践事例から見えてきた留意点を抽出した「失敗編」,そして事例の収集や外部との連携など実務家がナッジを政策活用しようとする際の参考になる事項を取り上げた「外部との協同編」の三部構成となっている。類書は多いが,よく見かける行動経済学の観点からの議論のみならず,社会心理学の観点を含めて議論したものである。また,ナッジにとどまらず行動インサイト全般まで射程を広げており,日本の政策の現場でまだ活用されていない理論や知見も取り上げている。執筆陣の構成もユニークである。社会心理学や公共政策を専門とする研究者と,中央省庁や地方公共団体で実際にナッジの政策活用を検討し,実践している実務家の連携によるものである。なお,本書で述べられている見解は編著者個人のものであり,所属する組織としての見解を示すものではないことを申し添える。
 
 編著者の1 人である池本は,人事院長期在外研究員制度によりハーバード大学で学んでいるときに,まず公衆衛生の現場で,次いで公共政策全般で,行動インサイトが至る所に実装されているのを目の当たりにした。現在実施している環境省事業のヒントとなる環境分野での活用事例も学んだ。そして大学の企画で開催されたMisbehaving(Thaler, 2015)の出版記念セミナーでセイラーと対面し,付箋だらけのNudge(Thaler & Sunstein, 2008)と購入したてのMisbehavingに,かの有名な「Nudge for good」のサインをしてもらうのを口実に,言葉を交わす機会を得た(このときの縁もあり,彼がノーベル賞を受賞したときにお祝いのメールをするとそのお返しでBEST の初めての連絡会議で祝辞をもらい,2018 年に彼が来日した際にデロイトトーマツコンサルティング合同会社の仲介で対談をするに至る)。2015 年に帰国した際には,留学の成果をきちんと社会に還元し,人々のより良い決断を後押しできるようになろうと,環境省内でプラチナを作り,2017 年にBEST を発足したのは1-2-4 で述べたとおりである。
 このように書くと,留学先でナッジばかりを学んできたかのように思われるかもしれない。普段一緒に仕事をしている人や,そうでない初対面の人からも,「ナッジの人ですよね」と言われることはしばしばであるし,小泉進次郎環境大臣からも,「環境省の中にはミスターナッジという池本君という職員がいます」(環境省,2020)と記者会見の場で言われるほどであるので,実際にそう思われているのであろう。しかしながら,ナッジが行動インサイトの一部であるように,ナッジは学んだことの一部に過ぎず,リーダーシップ論や交渉術に始まり,ブースト(boost:ぐっと後押しする)または教育的ナッジと呼ばれる主体性に重きを置いた行動変容策(OECD, 2017)や,市民の力を結集し自分たちで社会の仕組みを変えていく手法であるコミュニティオーガナイジング(日本版ナッジ・ユニット,2018; 鎌田,2020),私たちが変化を拒んでしまうメカニズムを解明し,大人になってからでも成長が可能だとする成人発達理論(Kegan & Lahey, 2009)など,社会課題の解決に向けて行動変容を起こすための様々なアプローチを学んだ。これらの一部はすでに日本版ナッジ・ユニット連絡会議で紹介しており,そうでないものも今後取り扱う予定でいるが,一度に取り入れて消化不良にならないよう,話題にするタイミングを見計らっているところである。日本に導入することが適当であるかは一つひとつ見定める必要があるが,自然・人文・社会科学すべてにまたがる行動科学の学際性を活かし,そこから得られる知見を総動員して行動に起因する社会課題が解決されていくことが望まれる(本書の執筆の相談を受けたのは,まさに日本での行動インサイトの議論の中で行動経済学以外の学問領域のインプットが控え目だと感じていた矢先のことであった)。
 
 時と場所は変わって2015 年9 月,留学先のハーバード大学での初めての講義で,別の編著者である森は衝撃を受けた。「宿題をしなければと思いながら先延ばししてしまう。どうせやらなければならないのは変わらないのに」「100万円のお買い物をするのに100 円の価格差は全く気にならないが200 円のものが100 円で売っていたら相当お得に感じる。差は同じ100 円なのに」。ハーバードケネディスクールBriggite Madrian 教授(現ブリガムヤング大学ビジネススクール学長)による行動経済学の授業は,こうした日常の不思議が普遍的であることや,実験的に説明可能であることを教えてくれた。人間は必ずしも経済「合理性」を持って意思決定しているわけではない。そして,その「非合理的」と思われる判断は,行動バイアスと呼ばれる人間のくせによるものである。このときには,「面白い学問分野があるもんだなあ,帰国して役所に復帰したらちょっとは使えるかな」程度にしか思っておらず(特段この授業の成績も振るわなかったこともあるが……),自分で学びを深めることもなく,リーダーシップ論や交渉術などケネディスクール「お得意」の授業を履修し,修了した。しかしながら,筆者の行動インサイトに対する認識は次の一年で大きく変わることになる。
 森は博士課程時代の合成生物学の研究や,文部科学省での科学技術行政の経験を通じて,行政実務での倫理面での知見の蓄積と検討は,これまでのライフサイエンス分野に留まらず,AI やロボティクス等の分野の進展に伴って必要不可欠になると感じていた。こうした思いのもと,応用倫理学や道徳論の基礎を学ぶべく,ハーバードメディカルスクール生命倫理学修士課程に進学したのだが,ここでも行動インサイトの基本的な考え方――ナッジや,カーネマンの「速い思考」と「遅い思考」(Kahneman, 2012)――が講義の中にふんだんに用いられていたのである。すなわち,医療現場においては医療従事者や患者・家族は非常に限られた時間と情報の中で意思決定を行わなければならず,常に「合理的」と「思われる」判断ができるわけではないこと,また,何をもって「合理的」かの認識は個人によって大きくことなること,さらに,政策立案など時間的制約がそれほどない場合でも,人は直感的に下した判断を優先してそれに後づけ的な理由の補強を行う傾向があること,こうしたことが常に話題の中心にあった。
 
 池本と森はちょうど入れ違いのタイミングで留学したが,池本の在学中に森がキャンパス訪問したときに2 人は出会い,帰国後も,それぞれ内閣府への併任または出向により科学技術イノベーションに関して同じフロアで勤務するなど,ただならぬ縁を感じている。BEST ではナッジの活用を推進する一方で,倫理面での配慮が必須であるとの認識の下で議論が行われてきた。しかしながら,日本でナッジないし行動インサイトを活用するにあたり,倫理面で何をどのように気をつければ良いのかを整理したものがなかった。ないのであれば自分たちで作ろうと,ハーバードメディカルスクールで生命倫理学を学んだ森に池本が声をかけ,BEST の下に「ナッジ倫理委員会」が設置される運びとなった。委員会での審議の結果により生まれたのが,2-6-2 でも紹介した「ナッジ等の行動インサイトの活用に関わる倫理チェックリスト」である。
 
 これまで見てきたように,ナッジは法令,予算,税制といった伝統的な政策手法では困難だった人の行動変容を喚起する力を持つ一方で,市民が不快感・不信感を持つことのないよう,また,市民の自由が損なわれることのないよう,計画段階,実行段階,評価段階いずれのステップにおいても倫理的な検証が必要である。近年,ナッジという言葉がある種のブームとして取り上げられ,それはそれで認知度の向上や適切な活用につながる分には良いことであるのだが,ナッジとは到底呼べない雑な設計になっているものや,倫理的に問題があるような事案も散見されるようになってきた。本書では,こうした動向に警鐘を鳴らすべく,随所で一歩立ち止まって再確認することを推奨している。様々な角度から論点を挙げているが,まずは相手の立場になって,自分自身が対象となったときのことを考えてみるということに尽きる。人々の生活に介入し,行動様式に影響を及ぼすことがあるという点では従来の政策手法と何ら変わるものではなく,実施にあたっては説明責任と透明性が求められるものであることを肝に銘じる必要がある。
 これまでナッジの取り組みを進めてこられたのは多くの方々のご指導・ご鞭撻の賜物である。紙面の都合上,一人ひとりのお名前を挙げることができないが,この場を借りて厚く御礼を申し上げる。本書が読者の方々の政策立案・運営や学習の一助となり,「良いナッジ」の事例が着実に蓄積され,ひいてはより多くの人の,より豊かな生活につながっていけばこれ以上喜ばしいことはない。
 
2020 年11 月吉日
池本忠弘・森 祐介
 
引用文献
Kahneman, D.( 2012). Thinking, Fast and Slow. Penguin.
鎌田華乃子(2020).コミュニティ・オーガナイジング:ほしい未来をみんなで創る5 つのステップ 英治出版
環境省ウェブサイト 小泉大臣記者会見録(2020 年4 月24 日) http://www.env.go.jp/annai/kaiken/r2/0424.html
Kegan, R. & Lahey, L. L.( 2009). Immunity to Change: How to Overcome It and Unlock the Potential in Yourself and Your Organization. Harvard Business Review Press.(池村千秋(訳)(2013).なぜ人と組織は変われないのか――ハーバード流 自己変革の理論と実践 英治出版)
日本版ナッジ・ユニット (2018). 第5 回日本版ナッジ・ユニット連絡会議 資料5  http://www.env.go.jp/earth/ondanka/nudge/renrakukai05/mat05.pdf
OECD (2017). Behavioural Insights and Public Policy: Lessons from Around the World. OECD Publishing.(経済協力開発機構(OECD) 齋藤長行(監訳)濱田久美子(訳)(2018).世界の行動インサイト:公共ナッジが導く政策実践 明石書店)
小倉將信( 2020).EBPM(エビデンス(証拠・根拠)に基づく政策立案)とは何か:令和の新たな政策形成 中央公論事業出版
Thaler, R. H. (2015). Misbehaving: The Making of Behavioral Economics. W. W. Norton & Co Inc.(セイラー,R. H. 遠藤真美(訳)(2016).行動経済学の逆襲 早川書房)
Thaler, R. H. & Sunstein, C. R. (2008). Nudge: Improving decisions about health, wealth, and happiness. Yale University Press.(セイラー,R. & サンスティーン,C. 遠藤真美(訳)(2009).実践行動経済学:健康,富,幸福への聡明な選択 日経BP)
 
 
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