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エリオット・ソーバー 著
森元良太 訳
『オッカムのかみそり 最節約性と統計学の哲学』
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はじめに
ここまで異なる建築物はないというくらいに異なる2 つの傑作がバルセロナにはある。しかも、互いの距離はわずか数キロ。かたやアントニ・ガウディ(1852-1926)設計のサグラダファミリア、かたやミース・ファン・デル・ローエ(1866-1969)建築のバルセロナ万国博覧会会場のドイツ館だ。ガウディのサグラダファミリアはフランボワイヤン様式で、複雑で不規則。ミースのドイツ館は簡素かつ単純で、直線的。ミニマリスト建築の唱道者ミースは、「少なさこそ豊かさ(less is more)」を謳い、自身の道を究めた。対するガウディは「多さこそ豊かさ」と言いはしなかったが、その建築物を見れば彼がそう考えたであろうことが伝わってくる。
このミースとガウディの対比について、すべての芸術はどうあるべきかという信念を表明すべきだという反応がある。芸術はすべからく単純であるべきか、あるいは複雑であるべきかの二択であれば、話は簡単である。しかし、私はこの一元論的な規範のどちらも受け入れない。私は芸術の単純さと複雑さのどちらにも価値を見出しているので、多元論者である。確かに、度を超えた極端なものはあるかもしれない。だが、人はあまりに複雑すぎる芸術を遠ざけ、あまりに単純すぎる芸術にうんざりする。この両極のあいだに莫大な可能性が存在しているのだ。時代や場所が異なれば、芸術家によって目標も異なっていた。芸術家の仕事は、すべての芸術作品に備わるべき唯一正しい複雑さの度合いを発見しようとすることではない。そのような時間を超越した理想など存在しないのである。
ではあるものの、大半の科学者にしたがうと、科学では状況が異なる。アインシュタイン(Einstein 1933)の発言は、科学者たちを代弁した。曰く、「すべての理論の究極目標は、ただ1 つの経験データももれなく適切に表現し、還元不可能な基本要素をできる限り単純かつ最小限にすることだ、というのはまず否定できない」。この影響力のある見解では、単純な理論を追い求めるのは選択の余地がないからではなく、むしろ科学事業からの要請による。理論があまりに複雑になると、科学者はその複雑さを刈り取るためにオッカムのかみそり、すなわち最節約性の原理に手をのばす。仮定する対象、過程、原因の数の少ない理論は、数が多い理論よりもよい。ただし、より単純な理論が〔複雑な理論と同じく〕観察結果と両立する場合に限る。最節約性の原理のこの定式化はいわばたたき台であり、本文で調整を加えていく。たとえば、「よりよい」とはどういう意味だろうか。
最節約性原理の長い歴史は、そのような実用的な原理が1 つだけでなく、いくつか存在したことを明らかにしてくれる。これが本書の題名〔原題はOckham’s Razors〕を複数形にした理由である。つまり、当面の主題は複数のオッカムのかみそりである。思想家によって最節約性は異なる事柄を意味し、また最節約性の原理に異なる正当化が与えられてきた。本書の目標は、この多様性を説明し、最節約性が重要な意味をもつときともたないときを定めることにある。明らかに、単純な理論は美しく、覚えやすく、理解しやすい。難しいのは、ある理論が他の理論よりも単純だというだけの事実が、なぜ世界のあり方について語ることがあるのかを説明する問題である。
オッカムのかみそりは、科学史上顕著な役割を担ってきたが、現在の科学においても依然として重要である。かつてはコペルニクスの天文学を擁護するために用いられ、いまでは進化生物学や認知心理学で役割を担っている。科学者、哲学者、統計学者はみな、オッカムのかみそりに別々の洞察を与えてきた。そこで、本書ではまずその基礎について言及する。アリストテレスは〔現代の統計学者〕赤池弘次と力を合わせることになり、ニュートンとダーウィンはそれぞれ自分の意見をもつようになる。ところが、オッカムのかみそりの用法は科学での用法だけではない。非科学者が非科学的な問いについての推理をするときにも、最節約性の原理は利用される。これは、科学的な推論様式が日常で使用される推理形式とひと続きになっていれば、何も驚くことではない。それ以上に困惑させられる最節約性の非科学的な用法が他にもある。哲学者も哲学の学説を評価するときにオッカムのかみそりに訴えることがある。芸術と科学で単純性に与える地位が異なるなら、哲学はどこに位置するだろうか。最節約性に付与する価値に関して、哲学は芸術に近いだろうか、科学に近いだろうか。
本書の内容は単純ではないが、章立ては単純である。第1 章では、最節約性がなぜ意味をなすのかに関する1900 年以前に発展した多様な考え方の歴史を簡潔に紹介する。第2 章では、確率論の基本事項を導入し、その基本事項を利用できるようにする。具体的には、確率を用いてオッカムのかみそりの解明や正当化を試みた20 世紀の失敗例のいくつかを説明したあとで、2 つの「最節約性パラダイム」を説明し、それにより最節約性の原理の正当化を明示する。第3 章では生物学における系統学的推論について、第4 章では心理学における心を読むチンパンジーについて扱う。どちらの事例においても科学者は最節約性の原理に訴えており、しかも最節約性の重要な意味をめぐる科学的論争が繰り広げられてきた。第5 章では、哲学におけるオッカムのかみそりの用法を検討する。
最節約性論証には、ある理論が他の理論よりも節約的であるという事実に基づいて、世界のあり方に関する結論を引き出すものがいくつかある。それらの論証は互いに2 つのレベルで異なる。第一に、うまくいく論証もあれば、うまくいかない論証もある。第二に、うまくいく論証はそれぞれの理由でうまくいき、うまくいかない論証はそれぞれのやり方で失敗する。幸い、この第二のレベルでの違いは無数にあるわけではない。つまり、うまくいく論証のあいだに見られる多様性とうまくいかない論証のあいだに見られる多様性に秩序をもたらす、繰り返しのパターンが存在する。私は、最節約性を理解するための単純な哲学の枠組みを見出そうとしてきた。だが、その枠組みは、単純すぎてはならないという考えに導かれてきた。つまり、その枠組みは現象を捉えられるほどに複雑でなければならない。哲学者として私は、ミースやアインシュタインの側に立っている。
(注と訳注は割愛しました。pdfファイルでご覧ください)
訳者あとがき
本書は、エリオット・ソーバー(Elliott Sober)の著書Ockham’s Razors: A User’s Mannual, Cambridge University Press, 2015 の全訳である。オッカムのかみそりは単純性を美徳とする原理である。単純な理論は複雑な理論よりもよい。この原理は古代から現代まで絶えず人々を魅了してきた。本書はその使い方マニュアルである。なぜ単純な理論のほうがよいのか、複雑さはどのように測るのかを究明する。そのために統計学の知見が駆使されており、本書は統計学の哲学の本でもある。
著者のエリオット・ソーバーは、ウィスコンシン大学のハンス・ライヘンバッハ教授職ならびにウィリアム・F・ヴァイラス教授職にある。これまで、アメリカ科学哲学会会長やアメリカ哲学会会長、国際科学史・科学基礎論連合会長などを務めた、科学哲学界の重鎮である。翻訳に『過去を復元する』、『進化論の射程』、『科学と証拠』の3 冊が刊行されており、日本でもおなじみの哲学者である。ソーバーの紹介については、これらの邦訳書が詳しいのでそちらに譲ることにする。生物学の哲学者としての印象が強いソーバーであるが、統計学の哲学に関する研究にも注力してきた。2012 年出版の『科学と証拠』(原著は2008 年出版)は、統計学の哲学の教科書であり、頻度主義統計学からベイズ統計学、モデル選択の理論まで広く深く掘り下げて、手堅い議論を展開している。本書とあわせて読むことをお勧めする。
最節約性という本書のテーマにソーバーは古くから関心を寄せていた。彼の処女作Simplicity. Oxford University Press, 1975 のタイトルはまさに本書のテーマそのものである。この本でも単純性の正当化や歴史的事例が解説され、単純性の考え方が音韻論や知覚の問題など当時の議論に適用されている。確率を使った議論は登場するが、本書のような統計学を駆使した議論はなく、内容の重複はほとんどない。ソーバーが統計学で特に注目するのは日本人の統計学者赤池弘次が証明した赤池情報量規準(AIC)であり、これがオッカムのかみそりに新たな正当化を与えると考える。1994 年にマルコム・フォスターとの共著論文“How to Tell When Simpler, More Unified, or Less Ad Hoc Theories Will Provide more Accurate Predictions” は、最節約性をAIC と結びつけて論じた画期的な論考である。曲線当てはめや統一性の問題、ベイズ主義の話題など、本書で論じられている議論の下地が随所に見られる。このように、本書はソーバーの長年の研究の集大成と言っても過言ではない。
オッカムのかみそりという道具は哲学、統計学、物理学、生物学、心理学といった多岐にわたる分野で使用されるため、本書を読み解くには多様な種類の知識が必要となり、骨の折れる作業となるだろう。一方で、それぞれの領域に収まらない内容が多分にあるため、どの分野の読者にも有益な情報が得られるはずである。そこで少し長めの道標を補足と合わせて示しておこう。
本書は大きく2 つのパートに分けられる。前半の第1 章と第2 章はオッカムのかみそりの正当化が詳説される。第1 章では20 世紀以前の正当化の歴史、第2 章では20 世紀以降の正当化の試みが扱われている。20 世紀の大きな変化は確率論的転回であり、これが大きな変革をもたらした。20 世紀まで、オッカムのかみそりは主に自然が単純だという存在論的な原理とされていたのに対し、20 世紀以降は確率論と統計学に基づく原理として精緻化される。本書後半は、この新たに正当化されたオッカムのかみそりを振るって科学や哲学における議論を削ぎ落とす。第3 章では生物学における系統学的推論、第4 章では心理学における他者の心を読む仮説が取り上げられる。そして第5 章では、哲学の伝統的な議論に新たなオッカムのかみそりを当てる。オッカムのかみそりの適用範囲は多岐にわたるが、これほどまで詳細に分析し、かつ横断的に検討する著者の論考は、本書を比類なきものとしている。
各章をさらにみてみよう。まず第1 章では、古代から20 世紀まで、アリストテレスに始まり、オッカム、コペルニクス、デカルト、ライプニッツ、ニュートン、ヒューム、カント、ヒューウェル、ミル、マクスウェル、モーガンまでのオッカムのかみそりの正当化が歴史的な順番で検討される。アリストテレスは、自身の目的論を表すために「自然は無駄なことを一切しない」という原理を打ち立てた。この原理の正当化の論拠として、偶然にみえる現象の説明を可能にすることや、この原理が機能している観察事例をあげるが、彼の正当化はうまくいかない。アリストテレス以降、この原理は目的論を置き去りにし、必要がなければ最小限で済ますべきという最小原理として用いられる。オッカム本人は事物の変化を説明するのに病気や健康といった質的事物を仮定する必要がないことを示したり、天界の運動と地上の運動が同じ法則にしたがうことを正当化したりするのに、自身のかみそりを使用した。後者の事例はその後の物理学に大きな影響を与える。オッカムは「沈黙のかみそり」と「否定のかみそり」の2 種類のかみそりを振るっていた。節約的でない仮説を不可知として沈黙するか、誤りとして否定するかの違いである。ソーバーはこの区別を以降の議論の整理に利用する。
オッカム以降、物理学でオッカムのかみそりが大きな武器となる。コペルニクスは太陽中心説を擁護して地球中心説を批判するのにかみそりを用いた。当時、この2 つの仮説に勝敗をつける観察データはなく、単純性が優劣をつける鍵となった。観察データだけで理論に白黒つけられないから、オッカムのかみそりという道具に頼ることになったのである。だがソーバーは、コペルニクスの勝利の鍵はオッカムのかみそりではなく、適合と予測の違いにあるとする。適合は手持ちのデータに当てはめることであり、予測は手持ちのデータ以上のことを示す。太陽中心説は適合だけでなく予測もできるので、地球中心説より優れていた。適合と予測の違いやオッカムのかみそりとの関係は第2 章で解説される。
その後、デカルト、ライプニッツ、ニュートンらは自然法則の単純性を神と関連づけて論じた。デカルトは神の本性、ライプニッツは神の目的から自然の単純性が導き出せると考える。ニュートンは、3 つの推理規則を提示し、最節約性の原理が真の理論を発見する指針だとし、また自然法則の単純性を神の完全性に訴えた。
一方、ヒュームは神に頼らず最節約性の原理を検討する。ヒュームが提起した帰納の問題によると、あらゆる帰納的推論は自然の斉一性原理を前提としている。自然の斉一性原理は未来が過去に似ているという自然の単純性を表しているが、この原理は正当化できない。そのため、この原理を前提とする帰納的推論は正当化できない。ヒュームにとって、自然が単純だと思えるのは人の習慣によるものであり、自然の単純性は正当化できない。カントは自然の斉一性原理がすべての帰納の前提になっているというヒュームの考えに同意するが、この原理は自然には統一性があるという原理の一部だと考える。だが、自然が単純で統一されていることを人は知りえず、理性がそうであることを仮定するよう命じていると主張する。
ヒューウェルは科学的推論に目を向けて、帰納の統合を提唱する。一方、ミルは科学的方法論としての最節約性の原理を掲げる。ミルは最節約性原理が存在論的な理論だという考えに反対し、その原理から自然に関する理論は引き出せないとする。最節約性の原理は証拠によって正当化されるべきで、証拠がなければこの原理を信じるべきではないと考えた。電気学と磁気学を統一したマクスウェルは、統一理論への探究と神を結びつけた。自然法則が単純である事実は神の存在の証拠となるとした。最後に、20 世紀の心理学に影響を与えることになるモーガンの公準が紹介される。この公準は、ある行為を低次の能力の結果として解釈できるならば、高次の能力の結果として解釈すべきでないという原理であり、最節約性の原理とみなされているが、モーガン自身の考えは多少異なることが指摘されている。モーガンの公準は、第3 章と第4 章の議論の鍵となる。
このように、20 世紀までオッカムのかみそりは自然の単純性や統一性という形而上学的テーゼと結びつけられることが多かった。第1 章の「結び」で、単純な理論が複雑な理論よりも単純だという事実が何の正当化に役立つかについて3 つの問いを区別している。つまり、仮説が真である確率の高さ、観察結果による仮説の支持、未来についての正確な予測のどの主張の正当化に役立つのだろうか。これらはそれぞれ統計学の哲学におけるベイズ主義、尤度主義、頻度主義(AIC)の考え方に対応する。これについては第2 章で論じられる。
第2 章は、20 世紀以降の飛躍的に発展した統計学の知見を土台としたオッカムのかみそりの正当化が取り上げられ、これが本書の中核を担う。この章で紹介される道具立てが、第3 章以降で具体的な事例に適用されていく。道具は大きくベイズ主義と頻度主義の2 つのパラダイムに大別される。ただし、もう1 つ尤度主義のパラダイムもあるが、本書ではベイズ主義として扱われている。3 つのパラダイムについては『科学と証拠』で詳しく論じられているので、ぜひ参照されたい。ちなみに、本書では尤度主義をあまり表に出さないが、ソーバーはこの立場を基本的に支持している。尤度主義は、ベイズ主義の経験に基づかない一番手の事前確率を受け入れず(経験に基づく客観的な非一番手の事前確率は認める)、またキャッチ・オール問題を回避するために仮説の否定(notH)への確率付与を認めない。尤度主義はベイズ主義の一部を取り除いた残りであり、ソーバーは弱められたベイズ主義とも言っている。
ベイズ主義と頻度主義を区別するうえで、意味論と認識論の違いに注意が必要である。ここでの意味論は、確率が何を意味するかという確率概念の解釈に関するものである。ベイズ主義では確率が仮説の確からしさの合理的な度合いを意味するのに対し、頻度主義では確率を頻度によって定義する。
だが、両者は意味論だけでなく、科学の目的に関する認識論も異なる。むしろこの認識論が統計学の哲学では重要である。認識論は私たち人間がどのように知識を得るのかを究明する分野である。観察結果から仮説についてどのように推論して何が言えるかという問題も認識論の課題の一部である。ベイズ主義はベイズの定理を用いて推論し、仮説が真である確率を事後確率(分布)として表す。頻度主義は、フィッシャー流の有意性検定理論、ネイマン・ピアソン流の仮説検定理論、モデル選択理論などがあり、一括りにすることが困難であるが、本書では最後のモデル選択理論のAIC を主に取り上げる(2 つの検定理論については本書で取り上げられていないが、『科学と証拠』で詳しく検討されている)。AIC を用いると、既存のデータとの適合と過剰当てはめによるペナルティが考慮された、未来のデータが正確に予測される。尤度主義は、尤度の法則に基づいて観察結果による仮説の支持を表す。これら3 つの主義は第1 章の最後で触れられた3 つの問いに対応する。
さて、第2 章の流れは、まず確率論の基本事項が解説され、次にベイズ主義のオッカムのかみそり、そして頻度主義のオッカムのかみそりの議論へと進み、最後に2 つの相違点と共通点が分析される。確率論の基本事項については本文を参照していただくことにして、ベイズ主義に関する議論の道筋を抑えておこう。(以下、本文つづく)