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あとがきたちよみ
『間違った医療』

 
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ローレンス・J・シュナイダーマン、ナンシー・S・ジェッカー 著
林 令奈・赤林 朗 監訳
『間違った医療 医学的無益性とは何か』

「第1章 これは医師がなすべきことになっているのか?」(1~3節)(pdfファイルへのリンク)〉
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第1 章 これは医師がなすべきことになっているのか?
 
 永続的に意識不明となったテリー・シャイボが、ケーブルテレビのやまないバカ騒ぎの中で一躍主役になってから20 年以上が経ち、永続的無意識状態となった別の若い女性の苦痛が、日刊新聞の見出しを飾ることになった。そしてそれは、アメリカ合衆国最高裁判所による画期的な「死ぬ権利(Right to die)」の決定を促した。彼女の名前はナンシー・クルーザン。1983 年1 月初旬のある朝、チーズ加工工場での仕事から車で帰宅する途中、ミズーリ州に住む25歳の女性は田舎道を外れ、溝に向かって横転した。最初にその現場に到着したのは州警察官だった。彼はその若い女性をよく調べ、亡くなっていると結論づけた。救命救急士は事故の約15 分後に到着し、彼女の呼吸と心拍を取り戻そうと準備し始め、10 分後には心肺蘇生が行われた。しかし女性は一度も意識を取り戻さなかった。そのときまでに、彼女の大脳皮質、つまり、ナンシー・クルーザンという女性の特性をつかさどる脳の部分─彼女の思い、感情、行動、記憶、経験やコミュニケーションする能力、言い換えれば、彼女を唯一無二の生きている人間としうるすべての活動性─は不可逆に破壊されていたのだ。ただ、脳幹として知られるより原始的な部分─心拍、呼吸、嚥下、〔消化管の〕蠕動をつかさどる部分─は、心肺蘇生(CPR)の前に持続した酸素の欠乏がそれほどでもなかったために生きながらえた。それゆえ、ナンシー・クルーザンは7 年以上意識不明の状態が続き、この状態は、今では永続的植物状態と呼ばれている。
 最初の頃、ナンシー・クルーザンの家族は、その中には頭部外傷のサポートグループにおいて活躍したメンバーもいるが、担当医に彼女を生かしておくためにできるすべてのこと─これには、外科的に栄養チューブを彼女の胃に挿入することも含む─をするよう主張した。しかし3 年後、このような患者に発生するグロテスクな身体的変化、たとえば顔が膨張したり、腕や足が固く拘縮したりする姿を見て、彼らは医師に栄養チューブを抜いて、安らかに亡くなることができるようにしてほしいと願い出た。ジョー・クルーザンは板金工だったが、娘が動物や子ども、休日やアウトドアを愛する、キラキラした独立心のある、明るく活発な女性であることを思い出していた。「ナンシーはこんな風に生きていたいと思わないだろう」、そう彼は嘆願した。そして彼女が「今の自分の状態を見ればぞっとするだろう」と付け加えた。
 しかし医師と病院は、裁判所の指示がない限り栄養チューブを抜くことは拒否するとし、その後、クルーザン対ミズーリ州厚生局は、面倒なアメリカ合衆国最高裁判所への道へ進ませられるのである。クルーザン家族の望みをかなえるのに最も大きな障害は、ミズーリ州の最高裁判所であった。この裁判所は、こう宣告した。「州は命に関心があるのであり、その関心は無条件に認められる」。このことは、ナンシー・クルーザンの身体が呼吸と心拍を維持している限り、治療を続けるよう指示するものであった。裁判所は、彼女が永続的な植物状態─若くて快活な20 代の女性にとっては言うまでもなく、ほとんどの人にとって想像を超えた偶発事である─では生きていたくないと思っていたという、「明確で説得力のある」証拠が与えられている場合に限り、チューブを外すことは許されるとした。
 決定が大々的に公表される中で、アメリカ合衆国最高裁判所はナンシー・クルーザンの望みという証拠に「明確で説得力のある」基準を適用するミズーリ州の権利を支持した。当時、この基準はどんな法律の教科書や法令にも定義されていなかった。むしろ、それは「事実審裁判所の有効な裁量権に任されて」いたのである。しかし、娘は治療中止を希望していたという両親の証言から、事実審裁判所はそれを確信していたにもかかわらず、事実審裁判所の決定は州の最高裁判所によって覆された。
 ナンシー・クルーザンに関しては、アメリカ合衆国最高裁判所の決定ののちに、この問題に対するミズーリ州の見解に注目すべき変化が起こった。彼女の友人が、早い時期の裁判所のヒアリングにおいては何も証言しなかったのだが、のちにナンシーは医療機器に繋がれて「植物のようには」絶対に生きていたくないと言っていたと報告したのである。この追加情報は、差し戻し中に、家族によって提出された。皮肉なことに、ナンシーの友人の証言は、彼女の両親による声明文よりも、州司法長官に強い印象を与えることになった。しかしそれまでに多くの人々は、ミズーリ州が、痛ましい悲劇に対する国民の怒りに当惑してこの事例から撤退するための言い訳を探し、結局のところそうだったのだが、最終的に「明確で説得力のある」証拠が挙がったとした事実審裁判所に同意し、家族の請願が支持されることを認めたのだろう、と信じていた。しかし、必ずしもそれで終わりではなかった。ナンシー・クルーザンの栄養チューブが実際に抜去されてからでさえも、数台の車に乗り込んだ狂信者たちが病院を急襲し、駐車場でキャンプを張り、寝ずに祈りを捧げ、無理やりチューブを再装着するよう訴えた。しかし、クルーザンの家族は、ナンシーはすでに1983 年に亡くなっている、と何度も繰り返した。「彼女のためにできる最後のことは、彼女を自由にしてやることです」。彼らは最終的に7 年後にそれを成し遂げた。
 法学教授であるジョージ・アナスは、当時の多くの生命倫理学者の懸念について述べた。「ナンシー・クルーザンの事例は私たちに、公的な警告をもたらす。それは、私たちの命に関する支配権を私たちがすでにどのくらい州に委譲してしまっているのかについて、また、州が「正常化」しようとしたり、支配しようとする「命」の再定義にあたって、いったい州がどのくらい行き過ぎてしまったのかについて、である」。
 医療は、どうしてあんなにも滑稽な、クルーザン一家にとって情け深い癒しのプロセスではなく、むしろ、弱まることのない災難のようなものになってしまったのだろう? 実際、ナンシー・クルーザンの状態は、遷延性植物状態(これは1972 年まで臨床診断名として認識されていなかった)であって、医療それ自体によって引き起こされた状態と見なしてもよいものだった。彼女の植物状態は、もちろん脳損傷の結果であったが、彼女の遷延性植物状態に関しては、継続されていた治療なしにはありえなかっただろう。正確なデータは不足しているが、アメリカの病院や介護施設では9000 から3 万5000 人の永続的無意識状態の患者が生命維持されているという推計がある。1970 年代から80 年代までは、このような患者が長い期間生き続けていることはまれであった。何がこの違いを説明するのだろう? それは以前の医療にはそのような技術がなかったからという理由ではない─皮肉にも、心臓、肺、消化器官、腎が正常に機能していたナンシー・クルーザンの事例では、必要なのは栄養チューブと、褥瘡と感染を防ぐために古くからおこなわれてきた看護ケアだけだった。70 年代と80 年代に、経済的なインセンティブや訴訟への恐れが突然変化したのだろうか? おそらく、これらは要因の一つであり、後の章でそれらを探索していくつもりである。しかし、最も重要な理由は、永続的無意識状態の患者の生命を維持することは、以前の社会や医師にとって、医療の適切なゴールであると見なされていなかったということである。医師はそのようなことをする存在であるとは想定されていなかった。
 
1.なぜ医師はそのようなことをするのだろう?
 病院というのは、医師や看護師が用心深く見守る中で、患者を苦しめるあらゆるものからの回復を、患者が受動的に待っているような静かな病室といったものからは、もはや成り立っていない。むしろ病院は、騒がしくて、高度な技術があふれる専門職たちで混雑しているような場所である。患者は始終ずっと動かされ、積極的に治癒の道を探るほうへ進ませられ、入念に装備された部屋に追いやられたり追い出されたりしながら、超音波検査、血管造影、胃カメラ、シンチグラフィー、CT、MRI、臓器移植、体外式膜型人工肺療法(ECMO)、ラミナエアフローなどが提供される。そして、人工呼吸器に繋がれ、心臓ペースメーカーが挿入されて、さまざまな電子モニターと繋がっている、今では旧式の集中治療室(ICU)に、患者はいるのである。すべてのこのような技術の影響は、技術革新そのものを優に超えて広がっている。それどころか、それらの最も重要な影響は、医師の考え方におけるものかもしれない。技術的規範というのは、このような新しい考え方を説明するのに最もよく使われる用語である─もし「考える」がぴったりな語だとしたら。つまり、手段や道具や薬が患者の体に効果を及ぼしうるものとして存在するならば、医療はそれを使わなければならないということである。要するに、患者よりも技術としての道具のほうが、医学が注目するものになっているのである。
 技術的な進歩は、議論の余地のない利益をもたらしてきたが、それは医学教育や医療の実践における基礎科学や専門細分化の影響の増大も同時にもたらす。残念なことに、このことは医師たちのそれぞれの医療におけるゴールの捉え方を分断する原因となっており、全体としての成功よりも個々の部分のアウトカムを強調することにつながっている。
 対照的に、これまでずっと医学的な注意が向けられてきたのは、いつも患者が対象であった。たとえどちらかといえば不器用だとしても、医療は、健康を回復するか、無効なケアに成り下がるか、完全に患者を失うことになるかのいずれかであった。しかし、医師のゴールは、最低でも患者をある一定の意識覚醒レベルに戻し、人間らしいコミュニティへの参画─仕事をする、愛する人と暮らす、友達に会う、食事をシェアする、子どもや孫が遊ぶのを見る、噂話をする、議論をする、冗談を言う、愛し合う─を取り戻すことだった。しかし今日、健康と死の間にはとても多くの中間状態が存在し、患者を死の淵から生へと連れ戻す多くの方法があり、ときには単に臓器─特に最も繊細な臓器である脳─の一部のみを回復させる、ということが行われている。これこそが40~50 年前には想像もしえなかった医療のゴールに関する、今私たちが直面する倫理的問題である。現在患者は、参画どころか、最も最低限の人間としての活動すら経験できないという状態で生かされ続けている。
 また別の医療に関する新しい現実としては、医療がもはや患者、家族、医師という小さなグループだけを含んだプライベートな問題ではないということがある。今日、このグループはその領域を広げ、多くの目撃者、参加者、邪魔者さえもがいる場になっている。クルーザン一家は、親しい関係の家族の中で苦しい話し合いをしたのちに、医療は娘を連れ戻すことにもはや失敗した、という結論に達した。家族と医師が得ようと努力したゴールは達成されなかった。それゆえに家族は治療を中止することを決断した。しかし、結局のところ、決断は家族だけに委ねられなかった。医師、看護師、病院管理者、倫理学者、法学者、判事、第三者支払人─全員が発言を要求した。全国のメディアはこの物語を取り上げ、倫理学者のナンシー・ダブラーの言う「さまよえる部外者たち」や、道徳的あるいは政治的協議事項に仕立て上げたいという目的でこのような事例を探している活動家が、クルーザンのプライベートな苦悩を公衆の見世物に変えてしまった。
 だから、ナンシー・クルーザンの治療を疑問に思うとき、医師はこのようなことを本来行わなければならないことになっているのだろうか、という疑問が生じる。私たちは再び、古くからある疑問、すなわち医療のゴールとは何であるのか? ということを問うている。否が応でも、この疑問を考えることによって他の疑問が生まれる。治療が医療のゴールを達成できないときに、社会として私たちはそのことに同意できるのだろうか? 私たちが医療に対して設定したゴールを治療が達成できないときに、医師は何をなすべきで、何をなすべきではないのか? これらは医学的無益性の基本的な疑問である。これらに応えるために、現代における医師患者関係を吟味することにしたい。
 私たちの見解では、医学的なゴールについて思いを巡らせることができず、医療のゴールが今も、そしてこれまでも無益な治療を提供することではなかったということに考えが及ばない医師や看護師、それにその他の医療の意思決定参加者によって、医療の伝統や基準は毎日のように破られている。私たちは「医療のゴール」という語を、規範的な意味で使用していることを強調する。医師が求める結末と、医師が求めるべき結末の間にはしばしばギャップが存在する。(ここで私たちは、結末(the end)という語の重層的な意味合いを引き出している。この言葉は単にゴールや目的だけではなく、限界や終結といった意味も示す。)
 要するに、医療にとって適切な結末に関する見通しを復興し、臨床実践を改善したいという希望が本書の原動力である。私たちが主に重点を置いているのは医師に対する倫理的な基準を再び主張することであるが、私たちの議論は、その他のヘルスケアの専門職や多くのヘルスケア分野に重要な示唆をもたらすと考える。そして、専門職としての医療は社会に対して責任があるため、こうした見通しを復興することは、学識ある社会の積極的な関与を必要とするだろうと主張する。したがって、本書は医療専門職と特別な聴衆に対して書かれたものではなく、すべての医療従事者と同様に一般市民も対象としている。
 
2.歴史的見地から見た医学的無益性
 私たちがここで示している医療と医学的無益性のゴールに関する見解は、医療専門職の長い伝統に由来する。古代ギリシャやローマにおける医師は、彼らの努力を、健康を回復するために人間本来の力(Physis)を助けることであると見なしていた。ヒポクラテス全集の「アート(The Art)」と名づけられた論文では、医師には3 つの役割があるとされる。それは、病気における苦痛を緩和すること、病の激しさを減ずること、「病気に圧倒された、医療の力が及ばないことがわかっている」患者の治療を拒むことである。延命は医療のゴールとして考えられてはいなかったことも書き添えておく。
 細胞病理学や分子生物学の分野が発見されるよりずっと前、当時の科学者は病気の自然な経過を見定めるために、患者のサインや症状に対し、慎重で驚くほど正確な観察を行っていた。食事と運動、ハーブと抽出物、道具と添え木などを使った経験主義的な実験によって、医師は自らの力が自然を超えた力ではなく、自然な力と結びついているものと考えていた。実際、報酬目当ての貪欲な人やいんちきな人からの告訴から自分たちを守るために、彼らはあっさりと、自分たちの技術と義務の限界を認めていた。ヒポクラテス派の医師たちは、「アート」の中で次のように警告した。「利用可能な治療法に対して病気があまりに手強いときは常に、医師はそれを医療によって乗り越えられるなどと、間違っても期待してはならない」。ヒポクラテス派の著者によれば、医師は、「技術に対して技術に属さないものの力を、自然に対して自然に属さないものの力を」要求するべきではないと忠告し、さらに、そのような無知は「狂気と結びついている」とした。医療の限界を知っていることは、医学の技術と自然の力を統合することにおいて、医師の技量を測る重要な尺度とされていた。このように、これらの古代の医師たちは、経験からして無益であることがわかっている治療を避け、不健康な状態を継続して苦しみながら患者を生かすことは害のある非常に骨の折れる努力だと見なしていた。
 何世紀も後になってから、中世後期に中世ヨーロッパでのキリスト教の隆盛に伴って、医療行為は宗教によって広く支配され始めた。この時期、医療は「祈祷、按手、悪霊払い、神聖に彫られたお守り、聖油、聖人の遺品、超自然主義や迷信の構成要素など」を扱うようになった。同時に、カトリック教会は、中絶、自殺、安楽死を罪と考え、医療の新しいゴールを導入した。それが延命である。
 この新しい、より拡張された医療の目的は、17 世紀の科学革命の間に強化された。たとえばフランシス・ベーコンが、科学のゴールを、「自然のプロセスを超えたゆるやかなガイダンスを指し示す」だけではなく、「それを制圧し鎮圧するための力を持つ」ものとして定義した頃である。言い換えれば、科学者は科学を自然に対抗するような力を持つものと見なし始めたのだ。しかし、私たちは次のことを覚えておかなければならない。神学者も、科学者も、さらに言えば近代以前の人は誰であれ、今日起こっているような多くの状態で人が生きていることを想像しえなかったということである。それは、現代医療の成果として存在する、健康と死の間にある多くの状態─たとえば、ナンシー・クルーザン(そしてテリー・シャイボ)のような状態、つまり永続的植物状態のことだ。
 古典学者のダレル・アマンドセンは、この展開をまとめ、鋭いコメントを残している。

現代医療が出現するかなり前、医師は、患者が治るためにできることをすべてすべきだとか、死に臨んだ(in extremis)患者を見捨ててはならないという期待を押しつけられていた。それゆえ、中世後期の初めには、医師は、何もできないが、ただそこにいなければならない、死刑執行室のうしろのほうに延々といつづける人として描かれてきた。その後、病気を治し延命するための医療専門職の能力の向上や、医師は奇跡を起こせる存在であるべきだという社会の非現実的な期待の中で、重要な変化が起こってきた。これはある意味、自然というものの見方が変化してきた結果の一部である。たしかに、ヒポクラテスとプラトンの時代以来、病気の治療において、医師は自然にそって治療するべきか自然に反して治療するべきかという疑問が、断続的に議論に上ってきた。フランシス・ベーコンは、おそらく治らない状態に対する何らかの治療法を見つけながら、医師は延命を追い求めるべきであるという弁明をしているが、このことは、そのような戦いの中で、「自然に反する人」─人間の知恵で自然の意図を妨害するような病気の「征服者」─としての態度へと発展していった。

 のちに、19 世紀において、医療は科学的発見の成功から著しく利益を上げ始めるようになり、治療に対してより積極的なアプローチを追い求め始めることは特に驚くべきことではなかった。今日、この宗教と科学的な衝動との融合は、たとえば「命は神聖である」とか「あらゆる代償を払っても命を保護する」というような、何気なく発せられた主張の中に存在し続けている─医療行為に広くいきわたるようになったこの仰々しいフレーズは、医師に対してたとえ最も無益な治療であっても追い求めるように要請する。しかし、医学的無益性とはいったいどういう意味なのだろうか?
 
3.医学的無益性を定義する
 まず、医学的無益性ではないものについて記述することで、医療の目的についての議論を始める。医学的無益性とは、患者の状態、一般的な意味での治療、または病を抱える人の全体に言及しているわけではない。それよりも、ある特定の場合に、特定の患者に適用される特定の治療に対して、この用語は言及する。また、治療、療法、ケアという用語を区別する重要性についても注意してもらいたい。ある種の治療(treatment, 「取り組むこと(to deal with)」、文字通りには「取り扱うこと(to handle)」という語源に由来する)は、療法(therapy, 「治すこと(to heal)」という語源に由来する)に失敗しているという理由で無益なものになりうる。ケア(Care, 「誰かを憐れむ(to feel compassion for)」という語源に由来する)という行為は、決して無益ではない。
 医療のゴールは明確にその人の利益になること─回復させること、癒すこと(「完全にする(make whole)」)─である。それゆえ、そのゴールに達することができない治療、すなわち無益な治療を提案することは医療のゴールに含まれない。本章の残りの部分を、医学的無益性の定義を提示し主張することに費やすことにしよう。
 なぜ医学的無益性の定義に倫理的な議論が必要なのかについて、最初に説明することはとても重要である。科学的な用語、たとえばエネルギーや塊といった、特定の科学理論を受け入れている科学者の議論の一部であるようなものを定義するのとは異なり、医学的無益性の定義は科学的な(あるいはほかの)理論には包含されない。それよりも、特定の倫理的な選択─価値や行動といったもの─を具現化するような社会的コンセンサスの上にあるべきである。「脳幹を含む脳のすべての機能が完全に停止すること」という言葉による近代の死の定義が、ちょうど人の命の意味についての社会の意識を反映しているように、社会が選択する医学的無益性のどのような定義もまた、医療における倫理的な結末や目的というものの社会的な概念を反映することになる。批判家は時に、私たちの立場のことを「別のグループの権利よりも、あるグループの権利の優越性」を支持していると描写してきたが、むしろそれどころか、私たちはあるグループ(医師)の権限が別のグループ(患者と家族)の権限を優越する、ということすら支持していない。代わりに、私たちはコンセンサスプロセス、つまり医師だけではなく、すべての医療従事者やより広い社会を含むプロセスを反映した無益性の定義を支持する。個々の医師の行為は専門職としてのケアの基準に基づいていなければならないし、社会的な価値とも一貫していなければならない。
 医学的無益性という観念の全体はつかみどころがなさすぎて定義できないと主張する人もいる。この言葉を、医学辞書から消すべきであると主張する人もいる。しかし、前大統領生命倫理協議会議長のエドモンド・ペレグリーノは、次のように指摘する。「概念を放棄しろと要求する人は、ほかに提案する代替案を持たない。彼らは、多かれ少なかれ、違った定義にしろというだけである。死や障害が医学の力を凌駕するときが、いずれすべての人間にとって訪れるという常識的な認識は否定できない。つまり、「もう十分だ」ということが必要なときに、決定をするためのいくつかの効果的な方法が必要だということを意味する。私たちがいつか必ず亡くなるということは、私たちが死すべき運命にある人間であるという証である。どんな違う名前で呼んだとしても、私たちそれぞれにとって、無益性について何らかの決定をすることはいずれ現実になるのだ」。
 ナンシー・クルーザンの例に戻ると、ミズーリ州に従えば、彼女の栄養チューブは彼女の身体を生かしているという理由で無益ではなかった。そのため私たちは、こう質問することからスタートしなくてはならない。医療のゴールというのは─どんな状態であっても、身体を生かしていくことなのだろうか?私たちが命(Life)という語を使うときに心に呼び起こされるものとは─不可逆的に意識のない体のことなのだろうか? 身体(a body)ではなくて人間(a person)を想像するとき、私たちはむしろ外界への意識がある人を、細胞と体液が一体となったものとしてではなく、感覚や思考、感情を持つある特定の人間存在として外界に触れる人を想定しないだろうか? ナンシー・クルーザンの身体が生きていたことに疑いはない。それは呼吸し、血液を拍出し、食べ物を消化し、排せつしていた。しかしその身体は、人間ナンシー・クルーザンだったのだろうか? 彼女独自の人生を経験できる人としての能力を持っていたのだろうか? つまり、彼女は人として、彼女が受けていた介入、たとえばチューブから体に運ばれてくる人工栄養と補液から、何らかの利益を得ていたのだろうか?
 注目すべきことに、無益性という概念を、より機械論的で生物学的で断片的なレベルにまで切り詰めようと試みてきた人がいる。医学というものが、身体のあらゆる部分、たとえば肺や心臓や腎臓に対して生理学的な効果を与えられる以上、心肺蘇生を試みるといった治療は無益ではない、と主張するのである。それであるならば、医療のゴールというのは─臓器系を維持し続けることなのだろうか? 単に空気や血や尿の流れを維持するためだけの治療が、医療における最後の望みとして私たちを満足させるのだろうか? 多くの研究は、圧倒的に、人々が違う考えを持つことを示している─生活の質(quality of life:QOL)が低下しつつある過去のある時点で、単に臓器を維持している状態よりもずっと前の段階で、死ぬのを許されたほうが良いと考えている。
 患者の自律という観点から無益性を見る立場の人は、治療が患者の望むことを達成している限り、その治療は無益ではないと主張する。一見したところ、これは無益性の立派な定義であるように見える。しかし、もし患者がいらない耳や指、乳房を外科的に除去してほしいと要求したら? あるいは、虫垂炎に関連するようなたまにしか起こらない腹痛をこれ以上心配したくないという理由で、正常な虫垂を除去してほしいという要求があったら? あるいは、死んだ肉を生きているものに回復させたいというまったくの空想的な望みから、死体を低温保存してほしいと要求されたら? 医療が患者に負うものに制限はないのだろうか? 明らかに、制限はある。医療は健康回復に利益があるかどうかにかかわらず、オーダーしたものがすべて患者のもとに出てくる自動販売機ではない。医師には、たとえばウイルス性感染症に対する抗生物質や、がんに対するレートリルといった役に立たない治療を、患者の要求に応じて提供する倫理的な義務はない。そして、治療が役に立たないものではないとしても、医師は自分たちが提供してよいものについてさらに制限されている。もし患者のゴールがステロイドの助けを得てボディビルダーの世界チャンピオンになることであったとして、医師がボディビルダーの要求に従うことは倫理的な義務でもなければ法的に許されることでもない。特に重要な制限は、毎週放映されるテレビ映画のように、この時代において、医師は患者に奇跡を起こす義務を持ち合わせてはいないということである。
 倫理学者の中には、無益性は、単に患者に有益ではない治療だけではなく、患者にとって最終的に利益よりも害を多く引き起こすような治療に言及すべきだと主張する人もいる。医師であり倫理学者のホワード・ブロディは、たとえば、同化作用のあるステロイドは野心的なボディビルダーに投与すべきではないとする。なぜなら、10 年くらいの間は、彼らは優れた身体能力を著しく増強させることができるかもしれないが、最終的にはそのことによって死に至るほどの状態悪化につながるからである。そのような医療を無益と呼ぶことによって、医師は自らの専門職としての誠実さと、患者への害を回避するという倫理的な基準を損なわないでいられると、ブロディは主張する。そしてそうすることで、たとえ有名なアスリート組織が彼らの基準によって害のあるステロイドの使用は許容できると表明したとしても、医師は自分たちの専門職としての基準に基づいてそのような要求を拒否することができる。
 私たちはこの無益性の定義について、その必要条件があまりに弱いという点において、問題を抱えている。つまり、この定義によれば、あまりに多くの治療が無益であることになる。私たちは、倫理的な決定において有意な医学的利益と害とを比較検討することが必要なときには、責任能力のある成人患者が、治療に関する意思決定を自分で行うことが許されるべきであると考える。患者が特定の介入から有意な医学的利益をまったく得られない場合にのみ、その治療を提案しないこと、そして必要に応じて、そのような治療は提案されないことがあると患者に伝えることが、医師の責務となる。
 そもそも、同化作用のあるステロイドは、患者にいずれ害を与えるからだけではなく、患者にまったく医学的利益を提供しないから無益なのである。結局のところ、運動選手の優れた能力を強化することは医療のゴールではない。むしろ、医療は健康を回復させ、患者を癒すことに関わる。運動選手に大量のステロイドを与えることは、明らかに病気の患者をよくすることでも、障害のある人を通常の機能レベルまでリハビリすることでもない。最近の歴史の中には、ナチスの医師が優れた特質を持つと思われる人間を選択的に繁殖させ、その特質が欠落していると思われる人間を根絶することによって、優れた人種を作ることを目指した悪名高い時期がある。しかしこのようなゴールは、すべての患者に対して利益をもたらすという基本的な義務に背くものであり、倫理的な医療の歴史的な伝統の一部には決してなりえない。また現在も、倫理的な医療の実践において、そのようなゴールは容認されない。
 医療のゴールと医学的無益性についての上記のような定義は不十分なものであるということをはっきりさせるべきである。私たちが直面している課題は、患者のベッドサイドで提示されるだけでなく、広く社会に受け入れられるような、有益で説得力のある別の定義を提供することだ。教養のある積極的な人々が十分に情報を与えられた上で理解することがなければ、無益な医学的介入の使用は、相も変わらない不合理と苦痛に満ちた費用のかかる慣習とともに、弱まることなく続くかもしれない。
 単純に無益であることの説明や事例を示すより、医学的無益性の定義を提案することによって、私たちは医学的無益性という用語に該当する医学的介入に対する必要十分条件を提示したい。よくあることだが、医学的状況において、無益性について日々理解していることは曖昧であるし、無益性というものをはっきりと決めることにも問題がある。無益性という用語の今の使用法が曖昧であると言うことによって、私たちはこの用語を使う多くの人たちがその意味について十分に考え抜いたことはないということを意味している。しかし曖昧な用語であっても、より詳細に記述されるときには、よりはっきりと焦点が合うようになる。たとえば、わいせつという用語はときに曖昧である。しかしながら、最高裁判所が特定のレコードアルバムにはわいせつな歌詞が含まれていると決定する場合に、その意味はより明確になるわけで、このようにしてある用語の意味についての実質的な情報が提供されることになる。これに類比的な形で、私たちは無益性の定義の規定を推し進めたいと思っている。しかしながら、わいせつの法的な定義とは違って、私たちが提案する無益性の定義は、医療従事者と広く一般市民の価値観と完全に一致するものでなければならない。
 まずは、医学的無益性の予備的で一般的な定義から始める。医学的無益性とは、患者に利益を与えようとしても失敗する可能性が高いあらゆる試みのことで、そのまれな例外〔成功すること〕が体系的に発生することはありえないものである。最初に注意しておきたいのは、この定義には量的な要素(「失敗する可能性が高い」)と質的な要素(「患者への利益」)が含まれているということである。また、医学的無益性について考えるとき、議論の中心は患者(Patient,ラテン語の「苦しむこと」に由来する)であり、臓器や身体的機能や身体物質のことではないということにも注意したい。患者というのは、単に移り気な欲求を持つ人ではなく、特定の種類の人、つまり、苦しみを和らげたり防いだりするために、医師による医学的技術や判断を特別に必要としている人である。治療は単なる効果でなく、利益を与えるべきものであることも考慮すべきである。ここには重要な違いがある。医療には、かつては想像もできなかったようなとても広範囲の効果をもたらす能力がある─身体中の化学物質を増やしたり取り去ったり、循環する血液細胞を増減したり、がん細胞を破壊したり、心拍を再開させたり、臓器を取り替えたり、バクテリアを殺したり、ウイルスやカビを抑制したりなど、挙げればきりがない。しかしこのような効果は患者がそのことによって恩恵を受けることができなければ患者にとって何の利益もない。悲しいことに、事実、治療は意識のないナンシー・クルーザンに対して多数の効果をもたらすことはできたが、彼女はそのことから恩恵を受けることはできなかった。したがって、これから論じるように、ナンシー・クルーザンに向けられたすべての治療は、いずれも何の利益ももたらさなかったため、無益であったし、医療従事者はそのような治療を試みる理由はなかった。
 クルーザンの事例を再検討する際、ナンシー・クルーザンのような患者に対して生命維持治療を提供することが無益であるという私たちの判断の根底にある理由を明らかにすることが重要である。永続的植物状態のような、完全に永続的無意識状態のすべての患者は、人間であるということに必要な特性を欠いている。人間であることについての幅広い多様な概念にもかかわらず、ほとんどの人は、人間であることには意識的に覚醒しているという能力または潜在能力が必要であるということに同意する。人間であることについて最も保守的な立場をとる人であっても、自己や自分の周囲への意識的な覚醒のような属性に対する潜在能力や、痛みや喜びを経験できる能力、他の人と相互作用できる能力を、最低限必要とする。
 たとえば、中絶に関する議論に対して保守的な考えの人は、受胎したその瞬間から、受精卵は道徳的に重要な特性を発展させる潜在的な力を持つと主張する。その対極にあるのはリベラルな考え方であり、たとえばシンガーの功利主義哲学では、痛みや喜びを経験するための個々の能力に重きを置く。多くのヒト(や多くの動物)は、痛みや喜びを経験する能力を持っているのに対して、永続的無意識状態の人は、痛みや喜び、その他の意識状態を経験することができないばかりか、将来的にそうできるようになる可能性も持たない。
 最も保守的な評価において、たとえ永続的植物状態にある人が人間としての特性を持たないとしても、私たちがそのような人を尊厳と敬意をもって扱う義務があると感じるのはなぜだろうか? おそらくこのことは、ナンシー・クルーザンとその他の永続的植物状態にある人たちは過去に人間であったという事実を反映している。このように、人々がクルーザンさんに対して持つ感情的愛着は急に消えることはない。実際、彼女は過去に人間であったので、人間であることを失い、それに引き続いて死んでしまったあとでさえ、私たちに彼女を思い出させるような人生の物語を持っている。対照的に、中絶の文脈において起こってくる人間であることについての議論は、胎児が受胎前は人間ではなかったという理由でこの問題を引き起こさない。
 もし永続的無意識状態の患者が人間ではないとしたら、医療従事者は彼らを生物学的に生かし続けるための治療を試みる義務はないことになる。というのも、倫理的な義務の対象は生物学的な身体ではなく、苦しんでいる患者だからである。患者の尊厳を尊重することや家族への思いやりなど、他の倫理的な考慮によって、医師はその他の治療、たとえば抗けいれん薬や衛生的なケアを提供するべきだと判断するかもしれないが、生命維持治療を提供する義務があるということにはならない。実際、本書の後の章において、医師は無益な治療を提供する義務がないだけではなく、無益な治療を提供するべきではないと主張する予定である。
 さて、永続的無意識状態の人は、私たち人類の「生きている」メンバーであるという単なる事実があれば、その人が「人間」であり、それゆえ医療の対象にふさわしいことを示すに十分だ、と誤って主張されることがあるかもしれない。しかしながら、道徳的な意味合いがある「人間(person)」と、記述的生物学的意味において使用される「ヒト(human being)」とを、注意深く区別することが重要である。哲学者がこの用語を使うときには、person という語は、潜在的にはあらゆる種において、生きる権利を含む基本的な道徳的権利を持つのに必要かつ十分とされるような特性を持っている存在のことを指す。よって、もし永続的無意識状態の患者が人間でないとしたら、定義からすれば彼らは生きる権利がなく、生き続けるために必要な医療的手段を受け取る必要はないということになる。もう一度、指摘しておきたい。延命を唱道する中世後期の神学者も、17 世紀の科学者も、この先意識を回復する能力を失った状態で生きている人間(たとえひどい障害であっても)には詳しくなかった。さらに、彼らは、現代のテクノロジーによって不調和な状態で維持されうるような「生命」の観念について想像すらしなかっただろう。
 永続的植物状態にあるヒトは、生きる権利を持つ道徳的な人間として評価されるために必要な道徳的特性を失っているということに同意する人が、あらゆる形の人の命(人格を持っていようと持っていなかろうと)は本質的価値を持つと主張するだろうことは、注目に値する。彼らにとっては、たとえ人格を持たない人の命の形であっても特別な価値(あるいは、宗教的な用語で「尊厳(Sanctity)」または「神聖さ(sacredness)」)を持ち、それゆえに彼らを生かしておくことに価値があることになる。
 この議論の背景にある人間としての衝動には共感するが、たとえどんな形にせよ人の命には本質的に価値があると考えていたとしても、どんな形の人の命でも維持し続けようとすることが医療の仕事であることにはならないと応じたい。医療の焦点がそのような生物学的な有機体であったことはこれまで決してなく(今後もそうなるべきではないと私たちは主張する)、苦しんでいる人間(たとえば患者)を対象としてきた。したがって、たとえ医師に─受胎の初期段階から脳死まで─尊厳と敬意をもって人の命を扱う責任があるのだとしても、唯一〔人格を持つ〕人間だけが、生命を維持するための医学的介入の厳密な対象である。
 類推を行おう。ほぼすべての人が「脳死」の人(たとえば、全脳死基準によって死亡しているとされる人)はかつて〔人格を持つ〕人間だったということに同意するし、身体として残されたものは敬意をもって扱われるべきであることに同意する。しかし、「脳死」の人は、患者あるいは生命を維持する医学的な治療の適切な対象としてはもはや見なされない。言い換えれば、たとえ「脳死」の人はまだ生きている人体細胞を持ち続けているかもしれないけれども、生きている人間ではない。これは、医療者がこのことをどのように考えているかについての重大なターニングポイントを示す。一度、患者が全脳死基準による死亡の基準を満たせば、たとえば、呼吸器や人工脳脊髄液や補液といった医療器具は中止される。同様に、永続的植物状態の人はかつて人間であり、生物学的に残されたものは尊厳と敬意をもって扱われるべきであると私たちは主張する。しかしながら、無意識の人の生理学的な過程を要求に応じて延々と維持するために、使える手段を自由に使うことは、医療の役割ではありえない。
(以下、本文つづく。注と傍点は割愛しました。)
 
 
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