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中山康雄 著
『共に社会を生きる人間 社会の哲学と倫理学』
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まえがき
サブタイトルの「社会の哲学と倫理学」にも現れているように、本書では〈社会の哲学〉と倫理学の両方を含んだ領域での哲学的考察を展開する。また本書では、この「〈社会の哲学〉と倫理学を含んだ領域」のことを「実践哲学」と略して呼ぶことにする。この実践哲学の領域では、古代ギリシャから現代にいたるまで活発な研究がなされてきた。言い換えると、哲学では倫理学よりも広い視野の中で、人間の実践的活動の哲学的基盤について考察してきた。本書のアプローチは、このような流れと連続的である。
本書を貫く三つの問いがある。それらは、「人間とは何者か」、「社会組織はどのように構築され、安定するのか」、「私たちはどのように生きればいいのか」という問いである。本書ではこれら三つの問いに対して、私なりの回答を試みたい。そして、これら三つの問いに対する私の回答は、相互に関連性を持ったものとなる。言い換えると、社会を構築できるような人間のモデルを提案することが本書の目論見のひとつとなる。そして本書で提案される人間モデルは、標準的論理学を基盤にして精確に分析可能なモデルである。
本書で中心になる問題のひとつに〈よく生きること〉の問題がある。そして本書では、〈よく生きること〉の問題を〈共によく生きる〉ことの分析を通して明らかにしようと試みる。つまり本書では、共同体の中に生きている個人とそれらの個人から構成される共同体について考察する。
これまで私自身は、倫理学の問題を扱うことはほとんどなかった。拙著『規範とゲーム──社会の哲学入門』(2011)で私は、社会的規範や法的規範の問題を扱った。しかしそこで、道徳的規範の問題について深く考察することはなかった。本書では、私が倫理の問題についてどのように考えているかも示していきたい。しかし私はそれだけでなく、生きることの問題についても同時に考察したい。
〈よく生きること〉の問題は正義の次元だけでは十分に論じきれないと私は思っている。正しく生きることは、本人にとって必ずしも〈よく生きること〉を意味しない。実際、正しく生きることに生きることの意味を見出せない人もいるかもしれない。例えば、ある種の芸術家にとっては、優れた作品を生み出す方に意味があり、それが正しく生きることと結びついていない場合もある。だから本書では、〈正しく生きる〉ことではなく、〈共によく生きる〉ことを私たちが目指すことを提案する。そして、〈共によく生きる〉ことを実現していく過程で〈正しく生きる〉ことも間接的に実現されていくだろう。
〈共によく生きる〉ことは、人類がその誕生以来目指してきたことである。生物種には種を存続させるためのさまざまな戦略があるが、人類がとった戦略は〈共によく生きる〉ことで共同体を維持し、文化や技術を継承し、子孫を育てていくことだった。石器時代の人々は、石器を作る技法を伝承し、協力して狩りをし、食物を分け合って共同生活をおくっていた。このことに見られるように、人類は共同体の中で共に生き、それぞれの役割分担をし、助け合って生きる存在者である。つまり、〈共によく生きる〉ことは生物種としての人類に特有な能力のひとつである。
本書は、拙著『規範とゲーム』と深く関わっている。この著書の中で、法体系などを定式化できる規範体系論理学という枠組みを私は提案した。その後の研究で、この体系に新情報を信念として追加できる動的規範体系論理学を私は提案し、その中でゲームの展開が記述できることを確かめることができた。さらに私は、信念と規範だけでなく欲求も扱うことができる動的〈信念・欲求・義務〉論理学を提案した。このような論理学の枠組みを用いて、複数の人が協力してひとつのゲームをすることを描写できるような行為者モデルを構築できることが最近わかってきた。本書での考察は、これらの研究成果に基づいている。
本書では、この動的〈信念・欲求・義務〉論理学の枠組みを基盤にして行為者モデルを構築するために、自由意志を新たに導入した。『規範とゲーム』ですでに述べたように、信念と義務の範囲が定まれば規範体系が定まり、行為タイプの許容空間が一意に定まる。許容空間は、与えられた状況でどのような行為タイプが許されているかを表す行為タイプの集合である。そして自由意志は、ひとつの行為タイプを選択する能力である。従順な人の自由意志は、与えられた規範体系が定める許容空間中にある行為タイプの中からひとつを選択する。だからこの従順な人のモデルでは、それぞれの状況のもとで許容空間の中から自由意志に基づいてひとつの行為タイプを選択し、それを実行に移すというように行為遂行が記述される。
さらに本書では、これまでの私の研究に基づいて、社会組織や集団的行為の定式化も行われる。集団の中では、規範体系が共有され、役割分担がなされる。集団的行為では、通常、ある目的をなしとげたいという欲求も共有される。こうして合意された役割分担に従ってその集団の構成員たちにそれぞれの義務が発生し、その義務を各構成員がはたしていくことで集団的行為は実行される。また、社会組織の維持には管理システムというその組織の部分システムが重要な役割をはたすことが本書では示される。管理システムは、野球などのゲームにおいても審判団や記録係としてゲームの厳密な遂行を支援するシステムとして現れている。
本書の立場では、行為主体は自由意志に従って行為選択をする主体である。理想的状況では、集団的行為が〈共によく生きる〉という共有された欲求を充たすだけでなく、それぞれの行為主体の実存的充足にもつながる。だから、〈共によく生きる〉ことが成り立つ場面では、個人と共同体の両方の側面から良好な状態が実現されねばならない。本書の見解では、ある規範体系を共同体の構成員たちが受け入れるための根拠は彼らがその共同体で〈共によく生きる〉ことを集団的に欲することにある。つまり、その共同体で受容される規範体系は、共同体の構成員たちが〈共によく生きる〉ことを可能にするようなものでなければならない。
それでは、本書の内容について説明しておこう。本書は2部構成となっている。第Ⅰ部「実践哲学史粗描」では実践哲学の歴史を私の観点から描いていく。そして、第Ⅱ部「行為と社会と規範と自由」では、第Ⅰ部を踏まえたうえで私が構想する〈共生の実践哲学〉を提案する。
第Ⅰ部では、古代ギリシャから現代にいたる実践哲学の展開を粗描する。このとき、倫理学的視点を超えて社会の成り立ちについての考察も重視する。そしてここでも、「人間とは何者か」、「社会組織はどのように構築され、安定するのか」、「私たちはどのように生きればいいのか」という三つの問いを軸にそれぞれの思想を描写していく。この思想紹介にあたっては、それぞれの思想家の著作に寄り添ってなるべく忠実に要点を取り出すという方法をとることにする。つまり、その思想家の考えを解釈するというよりも、彼の発言の意味について私の視点から考えるための材料をまとめておくという手法をとる。第Ⅰ部はあくまで、第Ⅱ部の考察を深めるための準備なのである。
第一章「古代ギリシャの倫理思想」では、ソクラテス、プラトン、アリストテレスというギリシャ哲学の巨匠たちの実践哲学を見ていく。ソクラテスは、正義の実在を主張したが、初期対話篇では登場する論者たちと真剣な論争を繰り広げている。またプラトンは代表作『国家』で、いくつかの国家モデルとそれと対応した人間類型を提案している。そこでプラトンは、人間と国家に関して複数の可能な発展形態について分析している。そしてアリストテレスは『ニコマコス倫理学』で〈抑制のなさ〉の問題を詳細に検討している。この問題は、人間モデルの構造と深く関わり合っており、現実生活で私たちが直面する苦悩と深く関係している。
第二章「近世の社会契約説」では、ホッブズ、ロック、ルソーらによって唱えられた社会契約説を紹介する。社会契約説によれば、平穏な生活の保証を条件に個人が自由の制限を相互に認め、個人に要請される義務を受け入れることによって、国家が成立する。社会契約説は、国家の必要を正当化する代表的な理論のひとつである。この章では、この三人の思想家が提案した社会契約説の間の違いが描き出される。
第三章「近代倫理思想」では、現代においても影響力のある代表的倫理理論の歴史的源泉をたどることになる。そこでは、ヒュームとアダム・スミスの感情倫理学、ベンサムとミルの功利主義、カントの義務論が紹介される。これらはいずれも、倫理思想の古典とみなされている思想である。
第四章「実存主義と共同的主体の倫理学」では、実存主義的傾向のある一九世紀半ばから二〇世紀前半の倫理思想を中心に紹介する。まず、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガー、サルトルなどによる生きることについての考察が紹介される。そして、ミルトン・メイヤロフのケアの倫理学、和辻哲郎の共同存在を軸にした倫理学が紹介される。そこでは、個人主義的実存主義から発展したものとして、共同存在を軸にした実存的思想を描く試みがなされている。
そして第五章「現代哲学とその周辺」では、哲学以外の視点から描かれる人間モデルを中心にいくつかのアプローチを取り上げる。フロイトの自我論は、エスと自我と超自我の関わりの中で人間の内面を描こうとしたものである。本書との関連では、外部からの規範と内面的欲求との葛藤の問題を捉えている点でこの自我モデルは示唆に富んでいる。また、生物学的視点から考察した場合の人間モデルや脳科学を基盤にした人間モデルや行動経済学からの人間モデルも紹介する。このように人間については多様な視点から考察できるが、第Ⅱ部の人間モデルの提案ではこの章で議論される多様な視点も視野に入れることを試みたい。
第Ⅱ部では、まず「人間とは何者か」という問いに行為主体の動的モデルを構築することで答えたい。このとき、事実に関する信念と欲求と規範に関する信念を持つ主体として行為者を捉えるとともに、情報を得ることによって信念や欲求が更新されていくという動的モデルを提案する。また、複数の行為者たちは信念や欲求を共有できるとする。そしてこのような行為者モデルを用いて、二人ゲームやチームゲームの発展を精確に記述できることを示していく。さらに、このチームゲームをする能力が、国家や会社などの社会組織の中で集団的行為を遂行しながら生きていくことを可能にする能力でもあることが論じられる。それでは、各章の内容を紹介しておこう。
第六章「行為主体のモデル」では、共同体の中で生きる能力を持つような行為主体のモデルを提案する。そのような行為主体は、事実に関する信念と欲求と規範に関する信念を持ち、自由意志によって行為を選択し実行できるような主体である。また共同体の中では、一部の信念や欲求が共有される。そして、共同体の中で共有される規範が社会的規範ということになる。
第七章「行為主体の動的モデルとゲーム」では、複数の人とゲームを行うことができるような行為主体のモデルが提案される。このような行為主体は、信念や欲求を更新できるような主体となる。そして行為主体は、それぞれの状況で許された行為タイプの集合から自分が勝つ見込みのあるような行為タイプを選択してそれを実行に移していくことになる。また、このような動的行為主体モデルはヴィトゲンシュタインが導入した言語ゲームを実行できる主体のモデルともなる。
第八章「行為主体にとっての情報の顕在化」では、欲求間での矛盾、欲求と規範体系の間での矛盾、複数の規範体系間の矛盾に対する対処の仕方がテーマとなる。またこの章では、アリストテレスが指摘した意志の弱さの問題が議論される。これらの問題を解くための私の提案は、情報には潜在的なものと顕在的なものがあるとすることである。こうして、心的葛藤の状況下では一部の情報が顕在化しないことで行為遂行に影響をおよぼさないことになる。この第六章、第七章、第八章では、「人間とは何者か」という問いに答えることを試みている。
第九章「社会的事実と社会組織」では、社会的事実、集団的行為、社会組織、国家などの概念の説明が試みられる。また、サールの社会存在論の紹介とこの理論への批判が私の立場からなされることになる。そして、社会組織の構築や持続を記述するために、権利、役割、権限という三つの概念を取り出し、これらを規定する。さらに、社会組織存続において管理システムが重要な役割をはたしていることを示していく。この第九章では、「社会組織はどのように構築され、安定するのか」という問いに答えることを試みている。
そして第十章「共生の実践哲学」では、〈よく生きる〉ことが〈共によく生きる〉ことを目指すことで間接的に実現されるという考えが説明される。ここでは、〈共によく生きる〉ことを目指すことが倫理思想の基盤となりうることを指摘することになる。この第十章では、「私たちはどのように生きればいいのか」という問いに答えることを試みている。
なお本書では、厳密性よりもわかりやすさと統一性を重視した。厳密な記述に興味のある方は、文献表にあげられている私の研究論文を参考にしていただきたい。