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『移民をどう考えるか 』

 
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カリド・コーザー 著
是川 夕 監訳
平井和也 訳
『移民をどう考えるか グローバルに学ぶ入門書』

「目次」「第1章 なぜ移民が問題なのか」(冒頭)(pdfファイルへのリンク)〉
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第1章 なぜ移民が問題なのか
 
 本書の初版が〔二〇〇七年に〕出版されて以来、国際移民の重要性は増すばかりだ。国際移民の数は〔それから原著第二版が刊行された二〇一六年までの間に〕二〇パーセント増加し、非正規移民の数はおそらくもっと増えているものと思われる。また、世界の難民の数は同期間に倍増した。移民の本国への送金額はかつてないほど増えており、現在、国連は国際送金を開発と貧困削減に対する最も重要な貢献の一つとして認めている。移民が定住国で新しい富を生み出し続けている一方で、彼らの社会的統合[訳注1]という課題も深刻な問題となっている。人道危機や自然災害が増加し、また多くの国で排外主義と反移民感情が高まった結果、移民が政治的なアジェンダ(議題)の上位に上がっている。また、このように移民は世界的な現象である一方、近年、とりわけオーストラリアとヨーロッパで注目されている。
 第二版となる本書は多くの点でアップデートされており、移民に関する最新のデータを盛り込んでいる。本書は移民問題について、最も興味深く、そして関連性の強い、新しい研究内容のいくつかを紹介すると同時に、世界金融危機やアラブの春、シリア紛争、エボラ危機、イラク・レバントのイスラム国(ISIL[訳注2])の台頭といった、移民のパターンやプロセスに影響を及ぼした近年のグローバルな出来事を取り上げている。
 しかし、本書の三つの基本原則は初版から一貫しており、しかも過去十年間に起こった変化によってその重要性は増している。第一に、移民に関する定義と概念を明確にし、最新のエビデンス(証拠)を示すことによって、移民に関するさまざまな議論について情報を提供するよう努めることが重要だということだ。つまり、移民とは誰のことなのか、庇護希求者と難民の違いとは何か、移民の数をどうやって数えるのか、移民はあまりに多すぎると言えるのか、といった議論がそれである。
 第二に、グローバルな視点がきわめて重要だ。世界の難民のほとんどは貧しい国に住んでいる。南から北へ移動する移民だけでなく、南半球の国々を移動する移民も数多くいる。ヨーロッパやオーストラリアに住んでいる人たちは、世界の他の地域の人々も、流入する移民の規模の拡大や、それによって生じる課題により大きく直面していることをいとも簡単に忘れがちだ。大部分の移民が世界のメディアに無視されているのである。
 第三に、移民に関するバランスのとれた視点が必要だ。移民に対するアプローチはますます二極化し、より厳しく、より議論の余地のないものになっている。おおざっぱな話も多い。しかし、本書は初版と同様に、客観的な視点を提示することに努めた。移民は概してポジティブ(良い)ものだが、時にネガティブ(悪い)な結果を招くこともある。大抵の移民は高い勤労意欲を持っているが、中にはちょっとずるをしたいと思う移民もいるだろう。ある特定の状況下では、移民はリスクを生む可能性を秘めているが、むしろ潜在的には良い結果をもたらす可能性のほうが高い。移民の命や権利が、諸国家の安全よりも危険にさらされていることも多いが、必ずしもいつもそうだというわけでもない。
 
国際移民の歴史の概略
 
 移民の歴史は、人類の起源、つまり原人(ホモ・エレクトゥス)と現生人類(ホモ・サピエンス)が紀元前約一五〇万年から五〇〇〇年の間に東部アフリカ大地溝帯から最初はヨーロッパへ、そして後に他の大陸へと広がっていったことに端を発している。古代の世界においても、ギリシャの植民地建設とローマ帝国の拡張は人々の移住に依存していたし、ヨーロッパ以外の地域でも、大規模な人の移動がメソポタミア、インカ、インダス、周(中国)の各帝国の成立や繁栄と関連していた。人類の歴史の始めに見られたその他の重要な人口移動には、バイキングや聖地を目指す十字軍戦士のそれが含まれている。
 移民の歴史家であるロビン・コーエンによると、近年になっても大規模な移住の時代やそれに関連する出来事を見ることができるという。おそらく十八世紀から十九世紀にかけて見られた移民に関する最も大きな出来事は、奴隷の強制的な移住だろう。推定一二〇〇万人の人々が主に西アフリカから新世界〔アメリカ大陸〕に強制的に移住させられ、さらにこれよりは数は少ないものの、インド洋と地中海を渡って移住を強いられた人たちもいる。規模以外の面でも、この出来事が非常に重要な意味を持っている理由の一つとして、それが今でも奴隷の子孫、とりわけアフリカ系アメリカ人の間でその痕跡が残っているということが挙げられる。この奴隷制が崩壊した後には、ヨーロッパ列強の植民地プランテーション(大農園)経営を続けるために数多くの年季奉公労働者が、中国、インド、日本から――インドだけからでも一五〇万人にのぼる――ほかの土地に移住している。
 ヨーロッパ諸国の勢力の拡大は、ヨーロッパからの自発的移住、とりわけ植民地、領地、および南北アメリカへの大規模な移住を引き起こした。イギリス、オランダ、スペイン、フランスといった重商主義国はいずれも労働者や小作農民、反体制派の兵士、罪人、孤児だけでなく、あらゆる種類の自国民の国外への定住を推し進めた。こうしたヨーロッパの勢力拡大に伴う移住は、十九世紀末に始まった反植民地運動の高まりと共に大部分が終わりを迎え、実際、それから約五〇年の間に、フランスに帰還するいわゆるピエ・ノワール[訳注3]のような、ヨーロッパへ帰還する人々の大規模な逆流現象が起こった。
 その後見られた国際移住が活発な時代は、アメリカ合衆国の工業国としての台頭によって特徴づけられるものであった。アイルランドの飢饉を逃れようという人々は言うまでもなく、北欧、南欧および東欧の経済的後進地域や抑圧的な政治体制から逃れようとする何百万人もの労働者たちが、一八五〇年代から一九三〇年代の大恐慌時代にかけてアメリカに移住したのだった。実際、約一二〇〇万人もの移民がニューヨーク港のエリス島に上陸して、入国審査を受けた。
 さらに第二次世界大戦後には、新たな大規模な移民の動きがあった。この時代には、ヨーロッパ、北米、オーストラリアを中心に戦後の好景気を支えるための労働力が必要とされていた。この時代、多くのトルコ人が移住労働者としてドイツに移住したし、たとえばフランスやベルギーには北アフリカの人々が移住した。また、同時期に、約百万人のイギリス人がいわゆる「十ポンドの新入植者[訳注4]」としてオーストラリアに移住した。(以下、本文つづく)
 
訳注1 社会的統合とは、移民の経済的・社会的な平等が実現され、労働市場や社会生活への参加が可能とされ、かつ文化的差異を理由とする排除や隔離がなされないこと。
訳注2 二〇一四年六月二九日、「イスラム国」への名称変更を宣言。
訳注3 ピエ・ノワールとは、一八三〇年のフランス侵攻から一九六二年のアルジェリア戦争終結に伴うアルジェリア独立までのフランス領アルジェリアで生まれたヨーロッパ人のこと。『ピエ・ノワール列伝』(大嶋えり子著、パブリブ刊)では、チュニジアとモロッコで生まれたヨーロッパ人も含めている。
訳注4 十ポンドの新入植者とは、第二次世界大戦後にオーストラリア政府とニュージーランド政府が実施した移民計画に基づいてオーストラリアとニュージーランドに移住したイギリス人を表わす口語表現。通行料として十ポンド払えば、政府補助によるチャーター船とチャーター機でオーストラリアを含めた英連邦諸国へ移住できたことから、十ポンドの新入植者と呼ばれた。
 
 
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