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『ジェンダー秩序 新装版』

 
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江原由美子 著
『ジェンダー秩序 新装版』

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新装版への序文
 
1 新装版刊行にあたって
 この度、ほぼ二〇年ぶりに、『ジェンダー秩序』が新たな装丁で刊行されることになった。大変うれしく思っている。どんな本も、最初の出版から二〇年もたつと、時代に合わない箇所がかなり出てくる。本書の主題は、幸い、あまり時代の変化に左右されないジェンダー社会理論であるが、それでも手直しが必要な部分がかなりあった。特に後半部分の「ジェンダー体制」に関するところでは、もともとデータに基づいて論じているために、新しいデータを付加することが不可欠であり、補注を追加した。その過程で、この二〇年の変化にいろいろ気付くことができた(変化は論旨に影響が出ない範囲だと判断した)。実は、読み直してみると、その他の箇所にも、直したほうが良いのではと思うところも、多々見受けられたのだが、手をつけ始めると収拾がつかなくなるのではないかという恐れから、基本的に、二〇年前の版をそのまま残すことにした。
 直した方が良いのではないかと考えたいくつかの箇所の中で、最も大きな問題を感じたのは、本書の最初の部分である。本文の記述においては、本書の主題が現実的な「ジェンダー平等実現」などの社会問題に対して、どのような意義を持っているのかが、伝えきれていないのではないかと感じたのである。
 本書の主題は、第一章末尾において明確に述べているように、「ジェンダーは、それ自体権力を内包している」ことを明らかにすることである。ここでジェンダーとは、当該社会である程度共有されている性別に関する社会通念や行為規範等を意味しており、権力とは、行為者個人の行為能力の差異を指している。このような定義をもとに再度「ジェンダーは、それ自体権力を内包している」ということの意味を確認するなら、それは、「男らしさ」や「女らしさ」等のジェンダーが、行為者の意志にかかわらず、何ができ何ができないかを定める側面があることを意味し、結果的に、男女の行為能力の差異をもたらす可能性があるということを、意味している。最初にこの主題を示しておくことで、社会理論上の意義だけでなく、ジェンダー平等の実現など、現実的な社会問題に対する意義も、十分伝わると考えていたのだと思う。しかし今回新装版のために読み直してみると、本書の主題をこのような書き方で提示しただけでは、本書の主題が、現実の「女性問題」や「ジェンダー平等実現」等とどう関連するのかを伝えられるまでには至っていないのではないかと、思うようになった。
 無論、理論的意義と現実の社会問題にとっての意義を明確に区別することは難しい。例えば先にあげた主題には、「性差」と「ジェンダー」に対する様々な疑問を明らかにするという理論的意義もある。けれど、「『ジェンダー』という語を使用することは、生物学的性差の存在を否定することだ」というようなバックラッシュ派の攻撃が盛んだった時には、この疑問を明らかにすることは、バックラッシュ派の攻撃に対して反論するという実践的意義もあっただろう。また社会構築主義的な方法論の理解に対する混乱から、「性支配」や「性差別」等の現象を解明しようとする理論的営みが少なくなってしまっていたとするなら、そうした理論的試みを行うことは、現実の社会問題を解明する上でも重要である。だから、本書の主題が、社会問題に対する意義を欠いているとは思わない。
 けれども、本書では、最初に本書の主題を示した後、「Ⅰ 基本的枠組みの検討」において、現実的なジェンダー問題との関わりがわかりにくい考察が、延々と続いてしまっている。本書を手に取ってくださる方のほとんどは、現実的な問題に関心を持っている方だろうと思うが、その方々には、大変不親切な書き方になってしまったのではないか。この本を書いた当時は、自分のこのような理論的関心をうまくまとめられるかどうか自信がなく、そのことだけに「夢中になって」おり、それ以外のことに注意する余裕がなかったのだと思う。また、この本をうまく書けるかどうかはひとえに、最初の出だしにかかっていると考えていた結果、最初の部分が長くなってしまったのだ。こんな風に、こんな書き方になった言い訳はいくつも思いつくのだが、いくら言い訳してもわかりにくさが変わるわけではない。何とかしなければと考えたのだが、下手に手を付けると、書き直しに近い作業になる可能性があり、断念せざるを得なかった。
 その代わり(になるかどうかもあやしいのだが)この新装版への序文で、このような理論的課題の現実的な社会問題に対して持つ意義を、読んでくださる方にも伝わるよう書いてみたいと思う。実のところこの試みがうまくいくか、自信はない。でも以下では、できるだけ簡潔に述べてみたいと思う。
 
2 「支配」とは「強制する─される」関係?
 まず、「性支配」をめぐる論点から。本書で展開する「性支配」論の特徴は、「強制する―される」という関係に「支配」を見る見方とは、異なっている。このような「支配」の理論化を試みたのは、次のような理由からである。
 私は長い間、女性個人の「生き方」の是非を論じてそれで事足れりとするようなジェンダー論に、不満を持っていた。確かにほとんどのジェンダー論は、「ジェンダーが男女間の不平等な関係や性支配を生み出している」と論じている。けれどもその多くは、その原因を、ジェンダーを内面化した女性自身に求めがちである。あたかも、性差別的な社会構造が維持されているのは、多くの女性が自分の意志を持たず「主体性」を欠いているせいであるかのように。「生き方」を論じるのは構わない。しかし、あたかも「女性の生き方」こそが「ジェンダー平等実現」の鍵を握っているかのような言い方は、いかがなものか。あまりにも女性に責任を負わせすぎではないか。結局のところ、犠牲者を責めるという、支配者が良くやるやり方に、似ているのではないか。しかも、このような論じ方には、かなり嘘がある。日常生活で出会う女性たちの多くは、人の言いなりになるような、自分の意志を持たない人では全くない。むしろ女性たちの多くに、十分な社会認識の上で、自分にとって少しでも良いと思える生き方を非常に賢く選んでいると、感心させられる。また歴史を少し学ぶだけでも、男女平等が認められていなかった時代の女性たちも、「主体的に」たくましく戦略的に生きていたことがよくわかる。
 ではなぜジェンダー論は、現代社会の「ジェンダー不平等」な状況を論じる時に、女性があたかも「非主体的」であるかのように描いてしまいがちになるのだろうか。私見ではおそらくここには、「支配に関する暗黙の社会理論」が関与しているのだ。それは、もしそこに「支配」関係が成立するとするなら、「強制する―される」という関係がなければならないという、多くの人が暗黙に持っている「ものの考え方」だ(多くの人が暗黙に持っている人間関係に関する「ものの考え方」を、「暗黙の社会理論」と呼んでおこう)。論じている本人は明確には意識していないかもしれないが、このような「暗黙の社会理論」を持っていると、女性の「非主体性」を強調することになりがちになる。女性が「主体的」に社会に参加していると記述すると、現代社会において女性が子育てを多く負担したりより条件の悪い職についたりしている「ジェンダー不平等」な状態について、女性自身が自ら選択していると言ってしまうことになりはしないか、つまり「性支配」(家父長制でもよいが)が存在しているという主張と矛盾してしまうのではないかと、恐れてしまうからだ。その結果、女性の行為を「非主体的」な行為であるかのような論述に陥ってしまいがちになる。また「性支配」を「強制する―される」という枠組で把握すれば、「性支配」の原因を「女性の非主体性」においてしまうことになるので、逆に「主体的に生きている女性」を「性支配を打ち破る素晴らしい女性」等と評価することにもなる。結果として「ジェンダー平等」のために「女性の生き方」の是非を論じ、素晴らしい生き方をする女性を増やすことこそ重要であるかのような論述を、とってしまいがちになる。
 私見では、この「支配に関する暗黙の社会理論」がもたらす「女性の生き方の是非を言上げする傾向」は、ジェンダー論やフェミニズムにかなり強いマイナスの影響を与えている。ジェンダー論嫌いの女性の中には、「ジェンダー論が女性の生き方の成績簿や勤務評定であるかの如くふるまう」(実際には多くのジェンダー論はそうではないので、誤解であるといってよいと思うが)ことを理由として挙げる人がいる。もしジェンダー論がそういうものだとしたら、その反感には、私も共感する。そうでなくても女性が生きるのは結構大変なことだ。そのうえ勝手な視点から「勤務評定」されたりしたら、腹を立てて当然だろう。
 ジェンダー論が女性の生き方の是非を論じるような議論の仕方になってしまう一つの理由が、「支配についての暗黙の社会理論」にあるとするなら、問題なのは、そうした「暗黙の社会理論」を打破することであるはずだ。それなら、それとは違う「ジェンダーと性支配」の関連性を描き出せばよいではないか。『ジェンダー秩序』を書くにあたって根底にあったのは、既存のジェンダー論に対するこんな不満であった。
 
3 「主体的に」行為していても「性支配」は成立する
 他方、女性が自由にものを考え、自分自身の判断で行為していることを強調する論の多くは、「だからもう性差別なんかない」かのような議論の仕方を行いがちになる。「強制」を要件とする「支配」論では、自分自身の考えに基づいて行為するのであれば、「支配」されていないということになるからである。けれどもそうだろうか? 私たちの社会的実践は、他者からの認証や承認・支援なしにはうまくいかないことが多い。女性だからという理由で、発言しても無視されたり、依頼しても拒否されたりすることが多ければ、女性は男性に比較して、「できる」ことが限られてくる。そこから「支配」も生まれるのではないか。本書の第四章「ジェンダー秩序」では、「性別分業」と「異性愛」からなる「ジェンダー秩序」が、ほぼ自動的に様々な領域で、「性支配」を産出していくということを、論じている。(以下、本文つづく)
 
 
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