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『社会科学の哲学入門』

 
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吉田 敬 著
『社会科学の哲学入門』

「序章 社会科学の哲学を学ぶとはどういうことか」(pdfファイルへのリンク)〉「推薦の言葉」
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【推薦の言葉】
 長く待ち望まれていた、社会科学の哲学の本格的入門書がようやく登場した。著者は日本においてほぼ唯一と言っても差し支えない、社会科学の哲学のエキスパートであり、こうした入門書を書く上では最適の人選といっていいだろう。
 本書は社会科学の哲学の主要なテーマを6つ選び、バランスよく論じている。個人と別に社会が存在すると考えるのかという問題、人間を対象とした科学のあるべき方法論の問題、社会科学の理論を単なる便利な道具と理解できるかという問題、文化相対主義の問題、社会科学は価値自由でありうるかという問題、社会科学は自然科学へ還元されるかという問題などが順に論じられる。いずれも社会科学の研究実践に直結するような問題であるばかりでなく、現実の社会問題ともリンクする話題であることを示すため、さまざまな具体例と結びつけながら議論がすすめられている。著者自身の立場がポパーやヴェーバーに影響を受けていることは論述から見て取れるものの、それ以外の立場の利点や欠点も非常にフェアに紹介され、バランスがとれた記述となっている。
 日本のみならず、欧米においても科学哲学者の興味は物理学や生物学といった自然系の科学に向きがちで、社会科学の哲学はつねにマイナーな研究領域としておしやられて来ていた。しかし、社会科学の研究者たちは、上記のような科学哲学的なテーマについて、自然科学の研究者たちよりも日常的に議論しており、そうした議論の基礎となるべき社会科学の哲学の潜在的需要は自然科学の哲学以上に大きいはずである。それなのに、これまで社会科学の哲学については、本書のような本格的入門書はおろか、科学哲学の入門書の一章というような形ですら、ほとんど日本語で読めるものは存在していなかった。その大きな空隙を埋めることになる本書は、社会科学の哲学の研究を目指すものだけでなく、哲学・社会科学双方の広い分野の人たちが読んで参考にすべき内容が多くふくまれているはずである。――伊勢田哲治(京都大学)

 

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序章 社会科学の哲学を学ぶとはどういうことか
 
1. 社会科学の哲学とは何か
 『社会科学の哲学入門』という題名のこの本を開かれた読者はどのような方だろうか。社会科学の哲学とはどのようなものかを知っている、数少ない専門家だろうか。名前は聞いたことはあるけれど、どんな分野なのか知らなかったので開いてみたという他分野の専門家、あるいは一般の方だろうか。それとも、大学の授業で教科書として指定されていたので、いやいやながらも買わざるをえなかった学部生だろうか。
 筆者が読者として想定しているのは基本的には三番目の学部生である。しかし、読者がどのような方であるにしても、この本の目的は、英語圏を中心として国際的に研究が進められている、社会科学の哲学という分野がどのようなものであり、どのような議論が行われているのかを紹介することである。何が重要な話題なのか、あるいは誰が重要な論者なのかなどについては専門家の間でも意見が分かれる。しかも、筆者の見解は分野の多数派であるわけでもないし、筆者の能力の限界もある。したがって、この本は完全に中立的なものではないし、執筆する上で様々な取捨選択を行わなければならない以上、そもそも完全に中立的な入門書や教科書が存在しうるのかも疑わしい。そのため、読者の方にはくれぐれもこの本の記述を鵜呑みにすることなく、批判的に、つまり徹底的に吟味するつもりで読まれることをお願いしたい。
 社会科学の哲学という用語から想像されるのは、どのような分野だろうか。筆者が経験した事例で多いのは、社会哲学との同一視である。そうしたとき、筆者は「いえ、そうではなくて」と言いたくなることも多い。しかし、いちいち説明することが面倒になってしまい、そのまま流してしまうこともよくある。もちろん、社会哲学という用語の使い方そのものが人によって異なるのは否定できない。ただ、筆者は英語圏で学んだこともあり、社会哲学を政治哲学のほぼ同義語として理解している。つまり、筆者が考える社会哲学とは社会に関する、かなり規範的な考察を行う分野である。社会科学の哲学においても規範的な議論が行われるので社会哲学と無関係ではないものの、まったく同じものではない。
 筆者が社会科学の哲学によって意味するのは、社会科学を対象とした科学哲学である。科学哲学については、日本語でも入門書や教科書が無数に存在するので、いちいち説明するのも不要ではないかと思われるけれども、科学に関する哲学的な考察を行う分野である。科学哲学における問いには様々なものがある。ここでは科学哲学者の伊勢田哲治(1968−)の整理にしたがって見ていこう。伊勢田によれば、哲学の問題領域は論理学、認識論、形而上学、そして倫理学の四つに分けられる。論理学においては、前提から結論を導き出す推論などが問題となる。二番目の認識論においては、知識とはどのようなものか、あるいは知識を得る方法にはどのようなものがあるのかといった問題が考察される。三番目の形而上学において検討されるのは、事物が存在するとはどういうことなのかなどの問題である。そして、最後の倫理学においては、価値や倫理が問題となる。この四つの分類を科学哲学に当てはめると、科学の論理学においては、観察された事実から一般法則を導き出す帰納的推論は論理的に正当化できるのかといったことが問題となる。科学の認識論において問われるのは、科学的知識とは何なのか、あるいは科学的知識を得る方法にはどのようなものがあるのかなどである。科学の形而上学においては、科学理論において存在すると考えられている電子などの対象は本当に存在するのかなどが検討される。そして、科学の倫理学においては、科学的であることはどのような価値があるのか、あるいは私たちの社会は科学をどのように位置づけるべきなのかなどが問われている(伊勢田 2003, 2−4)。
 社会科学の哲学はこうした哲学的な問題を特に社会科学に注目して考察する。社会科学の哲学において、長年にわたり論じられてきた固有の問題としては、社会現象はそもそもどのようなものなのか、社会現象を研究するにあたって、社会科学者は個人と社会のどちらに注目すべきなのか、社会科学の目的や方法と自然科学の目的や方法には違いがあるのか、違いがあるとしたら、社会科学の目的や方法はどのようなものか、あるいは社会科学者の価値観と研究はどのように関係しているのかなどが挙げられる(吉田 2008, 3−4)。このような説明に対して、社会科学方法論とは何が違うのかと思う読者もいるかもしれない。その疑問については、二点答えることができるだろう。第一に、方法論的な問題が社会科学の哲学において中心的に論じられてきたことは言うまでもない。しかし、こうした問題は哲学の問題領域で言えば、論理学や認識論に関係しており、社会科学の哲学で扱われる問題は方法論に限られているわけではない。その意味では、科学方法論が科学哲学の一部であるように、社会科学方法論は社会科学の哲学の一部である。第二に、社会科学方法論という用語は近年、哲学的な問題の考察ではなく、統計的手法やインタビューなどの研究手法の解説という意味で用いられているという事情がある。しかし社会科学の哲学においては、実際に用いられている研究手法の解説を必ずしもしているわけではない。個人的には、社会科学方法論という名称の授業を担当していることもあり、その名称に特に抵抗はない。ただ、以上のような理由から社会科学方法論よりは社会科学の哲学の方がこの本の内容を言い表すにはより適切であると思われる。
 さて、科学哲学においては様々な問題が考察されてきた。その際、具体的な事例として考察対象となる科学は、物理学や生物学などの自然科学が中心であることが多い。これは後ほど述べるけれども、物理学が科学の典型例であるとみなされてきた歴史的背景を無視することはできない。しかし、社会科学の哲学は科学の典型例であるとは必ずしもみなされてこなかった社会科学をあえてその研究対象とする。
(中略)
 
4. 社会科学と社会科学の哲学はどのような関係にあるのか
 ここまで読み進めてきた読者の中には、社会科学も立派な科学であるならば、社会科学そのものを研究してみてはどうかと思う人もいるかもしれない。社会科学に関する哲学的考察がどうして必要なのかという疑問である。これは確かにもっともな疑問である。しかし、社会科学と社会科学の哲学は異なる役割を担っており、後者の役割も前者を行う上で重要である。
 筆者は科学と科学哲学の関係について説明する際にマンション建設を好んで使うので、ここでもそれを踏襲したい(吉田 2017)。筆者の考えでは、社会科学をはじめとする科学の仕事がマンションを建てることであるならば、科学哲学の仕事はそこから一歩引いて、マンションの構造に問題がないかを分析したり、より良いマンションの建て方がないかを検討することである。この類比によって言いたいのは、科学の仕事が既存の知識を前進させようとすることなのに対し、科学哲学の仕事の一部はそもそも知識が前進したとどうして言えるのか、あるいはその進め方にそもそも問題はないのかを検討することである。
 このように考えると、科学哲学が科学者からあまり良く思われない理由が理解できる。科学哲学は科学者から自分の研究を進めるのに役に立たないなどと批判されることも少なくない。科学者が科学哲学に求めているのは自分の研究を前進させるための手助けでもあるにもかかわらず、足を止めさせようとしたり、むしろ逆戻りさせようとすれば、反撥を受けるのは当然のことかもしれない。こうした科学者にしてみれば、科学哲学者が行っていることは素人の余計な口出しでしかない。
 しかし、本当にそうだろうか。筆者が授業でしばしば強調するのは、自らが自分自身を一番理解しているわけではないことである。例えば、筆者は授業を行うにあたってそれなりの時間をかけて準備をし、できる限り質の良い授業を行おうと心がけている。しかし、授業アンケートなどを見る限り、学生の評価は高いとは言えない。筆者はその結果にがっかりすることもある。それでは、筆者と学生のどちらが正しいのだろうか。もし筆者が自分の見解にこだわり、学生はまったく分かっていないなどと言えば、それは筆者の思い上がりでしかない。もちろん、筆者は何をどのように教えるべきなのかという観点から授業を構成している以上、学生の評価が全てであるわけでもない。つまり、どちらの見解にも見るべきものがあり、どちらか一方がまったく間違っているとは言えない。筆者が教員としての観点から自分の授業を評価する一方で、学生は学生としての観点から筆者の授業を評価している。同じようなことが科学者と科学哲学者の関係にも言える。科学者は実際に研究する立場から自分や他人の研究を理解しているのに対し、科学哲学者はそれとは異なる観点から科学的研究を検討している。そうだとすれば、学生からのフィードバックが筆者の授業改善に資することがあるように、科学哲学者の議論が科学者の研究改善に資することもあるのではないだろうか。科学者は研究を進めなければならない以上、後ろを振り返って反省ばかりしてはいられないのは当然のことである。しかし、まったく振り返ることがなければ、杭が地盤にまで届いていないマンションを建設してしまうかもしれない。その意味では、科学哲学者の仕事は杭が地盤に届いているのかを調べ、届いていなければ指摘するようなものである。したがって、科学哲学は科学者の研究に直結しないかもしれないけれども、時々振り返り、検討することが科学者には必要ではないかと思われる。
 
5. この本が必要なのはなぜか
 ここまで、社会科学の哲学について述べてきたけれども、どうしてこの本が必要なのかと思う読者もいるかもしれない。それは社会科学の哲学が日本において必ずしも認知されておらず、その結果として国際的な議論に参加できていないという状況が大きい。筆者は、かつてはジャーナルアシスタントとして、現在は編者の一人として、学術誌『社会科学の哲学』に関わってきたけれども、日本を含めたアジアからの投稿論文掲載が少ないという状況が続いている。英語での哲学論文執筆が非英語圏の研究者にとって難しいことは言うまでもない。しかし、それだけではなく、社会科学の哲学が日本に十分に紹介されていないことがその一因であると考えられる。
 もちろん、社会科学の哲学が日本にまったく紹介されなかったわけではない。アメリカの科学哲学者リチャード・ラドナー(1921−1979)の入門書『社会科学の哲学』は、原書出版後まもなく翻訳されている(ラドナー[1966]1968)。また、第4章で紹介する合理性論争については、何人かの研究者が論文を執筆し、文献の翻訳もなされている(小林 1984; 松本 1991; ウィンチ[1970]1992; ジャービィー[1972]1992)。ただ残念ながら、社会科学の哲学の普及にはつながらなかった。これは日本においてはそもそも科学哲学者の層が薄く、社会科学の哲学を研究しようという雰囲気が生み出されなかったという事情を反映していると思われる。
 それでは、日本において社会科学に関する哲学的問題がまったく議論されていないのかと言えば、そうではない。社会科学の哲学とは銘打ってはいないものの、日本人による社会科学論や社会科学方法論も存在する(富永[1984]1993; 丸山 1985; 山脇 1993; 山脇 1999; 保城 2015; 野村 2017)。こうした著作を網羅し、一つ一つ論評することはできないけれども、これらのほとんどはこの本が紹介する議論や論者を必ずしも押さえていない。その理由としては、刊行からかなりの月日が経過している、ヨーロッパにおける現象学や解釈学の伝統に基づいている、扱われている題材やアプローチが限定的である、あるいは実際の研究手法についての解説が中心であるなどの点が挙げられる。その意味で、社会科学の哲学が十分に紹介されているとは残念ながら言えない。
 こうした状況を踏まえ、この本は社会科学の哲学についてどのような議論がなされてきたのかを紹介していく。筆者の知る限り、この本は日本人によるはじめての社会科学の哲学入門書である。
 日本人研究者が国際的な議論に参加できていないのならば、専門書を書くべきではないかと思う読者もいるかもしれない。確かに、そうした考えもありうる。しかし、分野の発展を長期的な観点から考えた場合、裾野を広げ、より多くの人々に社会科学の哲学に関心を持ってもらうことが重要である。その意味で、この本は単に日本で十分に紹介されていない分野を紹介することにとどまらず、未開墾の土地を開墾し種を蒔くことを目指している。近い将来に多くの花が咲き、実をつけることが筆者の願いである。
 
6. この本の構成
 哲学は問いから始まるという見解に基づき、この本は六つの問いを検討する形で構成されている。専門家によっても重視するものは異なるかもしれないけれども、この本で論じられる問いは英語で出版されている、社会科学の哲学の入門書においても標準的である。この本は社会科学の哲学のガイドブックであることを意図しており、この本を読み進めれば、読者は社会科学の哲学について大まかな展望を得ることができるはずである。つまり、六つの問いは社会科学の哲学という旅における観光名所である。観光名所以外に興味を惹かれた場所、つまり個々の議論や論者について、さらに知りたい場合には、読書案内で挙げられている文献を読むことをお勧めする。
 この本においては多少図式的ではあるものの、一つの問いに対して異なる立場を対立させ、検討することで、哲学的な問題点を明示することが意図されている。それぞれの立場を検討していく中で、筆者自身の見解を提示する場合もある。それをそのまま受け入れるのではなく、筆者が提示した見解に問題がないかを検討しながら、読み進めてもらいたい。この本で扱われている議論や論者それぞれの細かな立場の違いが気になったときには、次の段階に進むサインだと考えてもらいたい。
 第1章の問いは、「社会科学は社会現象をどのように捉えようとするのか」である。社会科学が社会現象を研究する際に問題となるのが、社会現象を研究するには個人に注目すれば十分なのか、それとも個人だけでは不十分なので社会全体にも注意を払う必要があるのかということである。前者の立場は方法論的個人主義、後者の立場は方法論的集団主義とそれぞれ呼ばれており、両者の対立は長年議論されてきた。この章では、両者を比較検討し、それらに代わる第三の立場として制度論的個人主義について論じる。
 第2章においては、「社会科学の方法と目的はどのようなものか」という問いを扱う。ここで検討されるのは、社会科学の方法に関する自然主義と解釈主義の論争である。社会現象を研究するにあたって、社会科学も自然科学の方法を用いるべきであるという自然主義に対して、社会科学は自然科学の方法とは異なる方法を必要とすると解釈主義は主張してきた。この章では、両者に不十分な点があることを指摘し、それに代わる立場を検討する。
 第3章で扱われるのは、「社会科学の理論は何のためにあるのか」という問いである。実在論と道具主義の対立がここでの争点である。科学理論は客観的真理を捉えようとするという実在論に対して、科学理論は予測や説明のための便利な道具にすぎないと道具主義は論じてきた。標準的経済学においては合理的経済人という仮定が用いられてきた。その仮定は非現実的であるという批判がなされてきたものの、その仮定の使用は道具主義的に擁護されてきた。この章では、行動経済学や神経経済学という新しい分野がこうした非現実的な仮定の使用についてどのように論じているのかを紹介し、それを実在論と道具主義の対立という観点から考察する。
 第4章で検討されるのは、「社会科学はものの見方の一つにすぎないのか」という問いである。この問いに関連して論じられるのは、普遍主義と文化相対主義の対立である。社会科学は科学である以上、普遍性を志向していると考えられている。ところが、社会科学の起源はヨーロッパにある。そうだとすると、社会科学は自文化中心主義に陥ることなく、どのような形で普遍的でありうるのかが問題となる。この章では、事例を用いながら、自文化中心主義や文化相対主義とは異なる形での普遍的な社会科学の可能性を考察する。
 第5章においては、「社会科学において認識と価値はどのような関係にあるのか」という問いを論じる。そこで扱われるのは、社会科学の客観性の問題である。社会科学者は社会現象を研究しているけれども、人間である以上その研究には何らかの価値観が入り込む可能性がある。それでは、社会科学上の認識と社会科学者の価値観にはどのような関係があるのだろうか。この点については、両者を分けるべきであるとする立場と分けられないという立場が提示され、論争が行われてきた。この章では、両者の議論を紹介し、客観的な社会科学の可能性を検討する。
 第6章では、「社会科学と自然科学の関係はどのようなものか」という最後の問いを論じる。この問いを通して考えることになるのは、還元主義と非還元主義の対立である。社会科学を自然科学に還元することは様々な形で試みられてきた。その際に還元先として考えられてきたのは物理学や生物学である。こうした還元主義に対して、社会科学の非還元可能性を擁護する議論が提示されてきた。この章では、両者の比較検討を通して、自然科学に還元されない社会科学の可能性を考察する。
 以上がこの本の構成である。この本を読む順番としては、章のつながりを多少考えているので、第1章から読むことをお勧めする。特に、第1章と第2章は学説史的に構成されているので、予備知識のない読者には知識を補う意味でもお勧めしたい。ただ、各章の内容はそれなりに独立しているので、興味のある章から読んでも特に支障はないはずである。読者の中には、授業で使うことを検討している大学教員もいるのではないかと思う。その場合には、各章を二回に分けて授業計画を立てると、分量的にも適切なはずである。
 
読書案内
 本文でも述べた通り、科学哲学に関する入門書や教科書は無数に存在する。日本語で読めるものとしては、オカーシャ([2002]2008)『科学哲学』、伊勢田(2003)『疑似科学と科学の哲学』、そして戸田山(2005)『科学哲学の冒険』辺りから読み始めるのが良いのではないかと思われる。筆者自身のように、科学哲学史的なものを好み、英語を苦にしない読者には、Godfrey-Smith (2003) Theory and Realityがお勧めである。この本は科学哲学の入門書において、あまり言及されることのないフェミニスト科学哲学について紹介している点でも評価に値する。社会科学の哲学について、最新の状況を押さえた入門書は残念ながら日本語では存在しない。筆者の知る限り、保城(2015)『歴史から理論を創造する方法』は例外的に科学哲学の議論を踏まえているものの、歴史学と社会科学を統合するという観点に限定された紹介にとどまっている。ただ、この本においては歴史学に関する問題を必ずしも中心的に扱っていないので、保城の著作はそれを補うことができる。英語で書かれた入門書については、筆者自身の好みはFay (1996) Contemporary Philosophy of Social Science である。ただ、流石に古くなってしまったので、最新の文献で補う必要がある。その意味では、McIntyre and Rosenberg (2017) The Routledge Companion to Philosophy of Social Scienceは最近の研究動向を網羅的に、各章10ページ程度で簡潔に紹介しており、有益である。ただ、第1部の歴史的・哲学的文脈ではマックス・ヴェーバーについて章が割かれていないなどの点で多少問題がある。編者の一人アレクサンダー・ローゼンバーグ(1946−)は社会科学の哲学の入門書Rosenberg ([1988] 2016) Philosophy of Social Scienceを執筆しており、版を重ねている。しかし第6章第4節でも検討するように、ローゼンバーグは社会科学の無効化を主張しているので、個人的には勧めにくい。しかも、各章末に文献案内はあるものの、本文中で出典が示されていないので、本文の議論がどの文献に依拠しているのかが分かりづらいのが難点である。また、近年出版された入門書としては、Risjord (2014) Philosophy of Social Scienceがある。ただ、行為論のように、社会科学の哲学の話題とは必ずしも言えないものも含まれているので、注意が必要である。哲学と社会科学に特化した事典としては、Kaldis (2013) Encyclopedia of Philosophy and the Social Sciencesがある。社会科学という用語の歴史については、Baker (1964)“ The Early History of the Term ‘Social Science’”が必読である。この論文は50年以上前に出版されたけれども、その説は筆者の知る限り、現時点でも退けられていない。日本語で読めるものとしては、市野川(2006)『社会』と隠岐(2018)『文系と理系はなぜ分かれたのか』がある。学問上の区分に関する、ポパーの議論については、ポパー([1963]1980)「哲学的諸問題の性格と科学におけるその根源」を参照されたい。ハイエクの科学主義批判については、ハイエク([1952]2011)『科学による反革命』が参考になるだろう。
 
 
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